現を多用したのてある。 既成の価値観を否定し、その価値観を転倒させてみせることて、人間が今まて忘れ去っ ていたものに、新しい価値を見出させるための逆説てあった。具体的にいえば、「信実」 「質朴」「訥」「無知」「無欲」「慈」「柔弱」は、人間の進化を促進する人間の欲望文化の方 向とは逆向きの価値てはあるが、それは人間本来の自然のありように根ざした価値てあ り、それをもう一度人間は取り戻し、人間を見直してみる必要があると、老子は考えたの てある。欲望文化のなかて、人間が忘れ去っていた自然という心と力に、新しい価値を見 出すことて、人間が失いかけていた人間らしさを回復し、そこから人間社会のあり方を再 構築しようとしたのが、老子のタオ哲学の展開てあった。 老子の「無為」の哲学は、「無為にして為さざるは莫し」にあるといわれる。その表現 自体が逆説的てあるが、「無為」は作為の否定概念てある。老子は、人間があらゆること に作為的てなくなったとき、人間はいろんな場面て自然にむをはたらかせることがてきる と考える。人間が自然にむをはたらかせることがてきるから、その精神の動きに、とらわ かったっ れることのない自在さと闊達さをみせることがてきる。それが、心の「為さざるは莫き」 状態てある。 老子の逆説は、つねに否定的発想から始まっている。世間て「有為」だと考えられてい 128
万物を潤し、利することがてきるならば、その人間の生き方は、老子のタオにかなってい る。老子の水の比喩は、それが逆説として語られているだけに、 かえって人間論として人 生論として深い意義を含み、しぶとい説得力をそなえているといえるだろう。 老子は水が高きより低きに流れるように自然てあり、物と先を争わない様態を重視し、 万物を潤して生育させるのに役立ちながら、その功を誇らずに、かえってその身を低湿の 地に置いていく謙譲な生き方をたたえている。老子は人間にも同じことがいえるとみる。 人間がどんなにすぐれた知恵をもっていたとしても、それを誇るようてあってはならぬ し、むしろ英智の光を内につつんてやわらげ、世の中に和していく心構えが必要だとい わこうどうじん う。老子の名言の一つてある「和光同塵」というのが、それてある。 やわら ちりおな 老子の書ては、「其の光を和げて、其の塵を同じうす」となっているのを、四字句につ づめたものてある。その光、つまりその人がそなえている英智や聡明さを内につつんてや わらげ、その塵、世塵のなかに生きている俗人大衆のなかにとけこみ、人々と苦楽をとも にすることをすすめることばてある。 屈原と漢の文帝 しばせん くっげん 「和光同塵」て思い浮かぶのが、漢の時代に司馬遷が著わした『史記』の屈原伝てある。 けんじよう かん
春と夏に、万物の活動を衰えさせ、秋と冬に、万物の活動を活発にさせるように、自 太陽が朝に出 然のいとなみを逆転させようとしても、それはてきることてはない。 て、タに没するのは、人間が求めて得られるものてはなく、天道の自然のはたらきて ある。 この自然のいとなみ、春夏秋冬、太陽の出没、昼夜の交替、四季のうつろいと万物の生 成と枯死のいとなみこそが、老子のタオがおのずからそうさせているものてある。この自 然のいとなみ、天道のはたらきは、人間が求めて得られるものてはなく、むしろ人間はそ のいとなみ、そのはたらきのなかから、おのずと生死にかかわる知恵を汲み取るべきだと するのが、老子の思想てある。司馬遷の「素王妙論」はその基本をしつかりおさえた発一言 てあった。 げ・いもんるいじゅう 『芸文類聚』に収める司馬遷の「士の不遇を悲しむの賦」を見ると、老子の道の哲学が、 そのまま彼の人生観として語られている。 わざわ はじ ふくさきな 禍いの始めに触るるなく、これを自然に委せ、ついに 福の先を造すなく、 ふ うた まか いっき 一に帰せん。 タオに生きた人々 1 5 ろ
儒家の虚偽性を論難 かんりんろん りじゅう 比較的多くの論を残している。晋の李充の『翰林論』 康は老子の田 5 想にもとづい まことり と、つと は、秕山康の議論文について、論という散文の一様式の典型をみて、「論は允の理を貴びて、 しり ろんごと 支離を求めず。秕山康の論の若きなり」と評している。 ろん しぜんこうがく 彼の「自然好学を難するの論」を見てみよう。 ちょうしゆくりよう この論は、同時代人の張叔遼の「自然好学論」を批判したものてある。張叔遼は儒家 まよろこ がくじ 的立場から、孔子の「学びて時に之を習う。亦た説ばしからずや」 ( 『論語』学而篇 ) を金科 玉条として、人間という者は生まれながらにして自然に学間を好むようにてきているもの だと論じている。たとえば、人間は暗室のなかにあって燭光を求めていくように、あるい は長夜ののちに太陽を望もうとするように、人間が学問を好むというのはまったく自然に 行なわれるものだと説いている。 それにたいして、康はこう反駁する。もし人間が何もしないて飯が食えるのなら、ぶ らぶら遊んていて学間などしたがらないのが本音のところだろう。もし今の人が学問を好 むとすれば、それは単なる習慣と飯を食うためのやむをえぬ手段によるものだと。儒家の 経典てある六経の教えるところは、抑制てあり、束縛てある。本来、それを嫌悪するのが なん は , ル洋く これ 18 ろ タオに生きた人々
る。老子がこういう社会てあったら理想的てあるがと考えて、描いてみせたのが、この章 句の内容てある。 富めるものが、貧しい者をさらなる利欲 力強きものが、カ弱き者をねじ伏せ痛めつけ、 とうた を満たすために淘汰している社会、大国が小国を攻伐して領土を兼併している乱世の様相 がいたん を目撃していた老子が、それを深く慨嘆して描いた理想郷が、「小国寡民」てあった。そ てんたん れは原始共同体的な村落国家てあった。国が小さく、人口も少ないが、人々は無欲活淡と して純朴に生活している。そのような小国家群がたくさん分かれて存在し、それぞれの小 国が自給自足し、おた力い ( こ干渉しないて自立していて、そのすべてが、天下を構成す しか 0 その る。こうした天下社会の仕組みを、老子は「天下」と考えていたとみてよい と、つと 天下の治者たるべき者は、みずから簡素を尚び、無為自然を統治哲学として、てきるだけ 人為的な法律や制度をもうけて人間を縛ったり統制したりすることを避け、それぞれの小 国が自給自足の経済て成り立つようにつとめるのてある。 老子がこの章て、隣りの国の犬や鶏の鳴き声が聞こえてくるというのは、国というより ま落こ近い いっさいの利便性を排して素朴な生活と気風になじみ、老いて死ぬまて他郷 りくちょう に移り住む民はいないというのは、原始の村落共同体に近い。それは、のちに、六朝時 とうえんめい と , っげ・んきよう トピア、「桃源郷」の世界てもある。 代の詩人・陶淵明が描いたユー けんべい タオのことば 121
老子は、もちろん空の理論家てはない。 これは老子だけの話てはない。 戦国時代の諸子 百家は、自分の学説が実際に中国各地に勢力を張っている諸王侯国において活用されるこ とを願っていた。春秋末期の孔子がいうように、 ただぶら下がったままの瓜ては困る、や はり食用に供されて、人の腹の足しになる学間てなければならないと考えていた。 む しぜん もうしじゅんし 無為自然をとなえ、ほとんど弟子らしい弟子をもたなかった老子は、孟子や荀子、ある かんびし そんし いは韓非子、孫子などの諸子百家と多少はちがい、現実参加の姿勢を異にするが、いたず かくらん らに虚空の理論を弄して、人々の心を攪乱しようとしたのてはない。タオのおのずからな る万物創造の原理を活かして、人間いかにあるべきかを問いカけ、人間がてきるだけ ' 驀 しに争わないて、平和に暮らしていけるように、心から願望し、ことばを尽くして、道を = = いたのてある この章ては、『老子』のことばの面白さと、その逆説の説得力に光をあてながら、老子 の田 5 想の核むにふれてゆくことにする。 こうかいよひやくこくおうた 〇海は能く百谷の王為り ( 第六十六章 ) 0 8
たいげんそく る。まことに経済活動こそは、自然の法則の人間における、みごとな体現則てはなか わ、フか 経済の流通は、誰彼の規制て行なわれるのてはなく、おのずからしかるべきかたちて流 通するものてあるというのが、司馬遷が老子から学んだ経済認識てある。 うまてもなく、老子のタオの国家観にもとづいて 司馬遷の小国寡民の国家経営観は、い いる。『史記』の「貨殖列伝」を見ると、司馬遷はのつけから、老子の理想とする国家観 を引き合いに出しなから、つぎのように語っている。 老子は、「至治の極は、鶏狗の声相い聞こえ、民おのおの其の食を甘いとし、その服 を美しいとし、その俗に安んじ、その業を楽しみて、老死するにいたるまて、 ネーし / 来せず」といっている。もし、これを目指して努力するとしても、最近の世の風潮か らすれば、このように民衆の欲望をおさえることは、ほとんど不可能てあろう。そこ て私はこう考える。神農より以前のことはおくとして、『詩経』『書経』の伝えるとこ ろによれば、虞・夏の時代から以降、人間の欲望はつのる一方て、耳目の美声美色を きわめようとし、ロは牛羊の美味をきわめようとし、身の逸楽に安んじて、むは権 タオに生きた人々 1 5 5
権を競って中国全土が戦場と化した時代てある。 『老子』の思想の中核的な要素が、老子という人物によって著述されたことは間違いない が、その書全体が老子一人の作になるとは考えられぬ。老子の説を信奉する人々の手が一 時代を超えて加わっているとみるのが自然てある。 老子は春秋時代の人とも戦国時代の人ともいわれているが、やはりこの書物が形成され た戦国時代の思想家て、諸子百家の一人とみてよいのてはないか。春秋・戦国のいずれの 時代にしても、時は乱世てある。この乱世のなかて、老子はいかなる生涯をすごしたの か、どのような契機があって、彼独特の否定と逆説に満ちた思想をあみ出したのか、その 手がかりをつかむ史料は何も残っていない。 も これお しかしながら、「戦いに勝つも、喪礼を以って之に処る」、戦さは、たとえ勝利しても、 いたましい不幸をもたらすだけだといった、短いかそれだけに鋭い逆説的な警句を吐け どんらん るのは、おそらくこざかしい人間の知恵や貪婪な欲望がたがいに衝突して、限りなく抗争 を生み出していく人間模様の思かしさに、ほとほとあきれ、絶望した者のさめた心のいと なみとしか考えられないてあろう。 かかる絶望者のさめた心をとらえて離さなかったものがあるとすれば、それは時空を超 えて、限りなく万物を生成させている大自然の霊妙ないとなみ以外にはなかったてあろ 今なぜタオーーー老子なのか
ここて、漁父のいう「世間の流れとともに生きて、清濁に超然としている聖人」のあり 方こそ、老子流のタオの会得者てあり、「和光同塵」の心構えを体認した者の境地てあっ 屈原はそうてはなかった。彼は清らかな自分の心が世間の汚れをこうむるよりは、みず からの命を絶っほうがましだという気持ちが強くはたらいていた。それを知った魚父は自 分の舟を漕ぎ出しながら、屈原に歌いかけている。 も そうろう す わえいあら 滄浪の水清まば、以って吾が纓を濯うべし 滄浪の水濁らば「以って吾が足を濯うべし 「纓」は役人の冠についている結びひもを指すが、この歌の大意は、ものにこだわらず、 世の清濁の推移とともに生きてはどうか、そのなかてはじめてあなたの清らかな心が、さ めた心が生かされるのてはないかと、重ねて「和光同塵」の生き方を示唆して、屈原に翻 意をうながしたのぞある。 ーし力に生きるべきかという人生論として提起されてし ここて滄浪の水の比喩は、人間よ、、 るが、老子はさらに水の比喩を使って、政治論にまて展開させている。老子はまず大河と ほん
そうてん して供給されているが、それがいったん武器として装填されたとき、人間の生命とその環 境を徹底的に破壊し尽くす、恐るべき存在と化する。 小さな携帯電話のもたらす今日的な利便性は、すてに疑う余地のないところてあるが、 その利用のされ方しだいによっては、人間の心を貧しくもするし、人間を不幸のどん底に 落としかねない危険生さえはらんている。 地球の温暖化ひとっ取り上げても、人間の厭くことのない利便性の追求が、結果として もたらした自然環境の破壊は、将来、人間の正常な暮らしのいとなみが、おびやかされか ねないところまて進んているといえるだろう。 人間が手に入れた富は、人間の暮らしぶりをはなやかにし、夬適にもしたが、同時に先 を争って利欲にはしる人間のあさましさを露呈してみせた。利欲心は人を人と思わず、平 気て人を傷つけ、あざむき、陥れた。人間が欲望の泥沼にひきずりこまれて、心を荒廃さ ルに踊ったことの思かしさに気づき、そのつけ しか、ハフ せる例は、今日も数限りない。 の大きさにおののいているのが、現状てある。 いに口 - んる一し」は、 それては、今なぜ老子の道、タオが問い直されているのか。その それても、いわゆる老子のタオについて、基本的に、しかも確実 それほど容易てはない。 にい、んるこし J か亠のる 今なせ・タオーー老子なのか