これを知った曹操軍は勢いづき、反転して攻撃にかかり、つ いに陽平関を陥落させること がてきた。 このとき、張魯は曹操に全面降伏しようとしたが、参謀の閻圃が、「今、追いつめられ た状態て、降伏したのと、抵抗てきるだけ抵抗したあとて、曹操に臣礼をとるのとては、 一一「イかち力います」と、思いとどまらせたのて、張魯はいったん本拠地の南鄭を脱出し、 はちゅう 巴中方面に逃げ延びることにした。 南鄭脱出のさい、張魯の側近の者たちは、「五斗米道」教国の財宝をことごとく焼き払 ってしまおうとしたが、張魯はそれをおしとどめて、「わしはもともと国家に帰順したい と願っていたカ、それが遂げられないうちに戦さとなったのだ。今、逃亡するのも、矛先 をかわすためて、悪意はないのだ。財宝はすべて国家のものだ」といった。かくして南鄭 の財宝庫を封印して立ち去っている。これもまた張魯に幸いした。 曹操は南鄭に入城して、蔵が封印されて、そのまま財宝が手つかずてあることにすっか り感心してしまった。これて、張魯が本来善良な心をもっていて、帰順の意思があると、 曹操は判断した。さっそく、曹操は巴中の張魯のもとに使者を送り、帰順するように慰撫 説得につとめた。 ちんなん 張魯は家族全員をともなって、曹操のもとに出頭した。曹操は張魯に鎮南将軍の位を授 なんてい 172
閻圃の考えはこうてあった。ーーー漢中の住民は十万戸を超え、財カ豊かてあり、肥沃な 土壌は四方堅固な地勢て守られている。この力を背景にすれば、うまく いくと天子を助け かんこう て斉の桓公のような覇者になることがてきるし、そのため、早まって王と自称して災厄を 受けるはめにならないようにとい - フのてある。これが、のちに張魯にとって幸いしご。 けんあん さんかん 建安二十年 ( 二一五 ) に、華北を統一し終えた曹操は、張魯を征討すべく、散関の関所 ぶと ようへいかん より武都に出て、漢中に向かった。曹操の大軍が陽平関まておし寄せてきたとき、張魯は ちょうえい 降伏しようとしたが、弟の張衛が数万の軍勢を率いて陽平関を防御し、頑強に抵抗した。 曹操は、漢中攻略はたやすいという情報を得ていた。陽平関の城下は南北ともに、山か ら遠く離れた平野にあり、張魯軍がそれを守りきることはとうてい不可能たとし - ところが、陽平関の現場に臨んてみると、聞いていたのとはおおいにちがっていた。曹操 が、これは容易てはないぞと思ったとおり、山上にある陽平関の守りは堅く、攻めても攻 めても、なかなか落とせないうえに負傷者が続出した。 さすがの曹操も士気をそがれ、山上からの追撃路を断って、軍の引き暢げを決定した。 ところか 6 ったく思し力。オし 、 : 、ナよ、異変が起きた。最後に撤退した前衛軍が、夜中になっ て道に迷い、誤って敵の陣営のなかに飛び込んてしまったのだ。驚いたのは、飛び込まれ た張魯軍のほうて、すわ敵襲かと、あわてふためいて、ちりぢりに逃げ失せてしまった。 ひょく タオに生きた人々 171
ろうちゅうこう 賓客の礼をもって処遇した。さらにあらためて闃中侯に取り立て、一万戸の領主に 封じた。彼の五人の子とともに、 参謀の閻圃も諸侯に列せられた そ、つほ、っそ げんこうおくりな その後、曹操は張魯の娘をわが子の曹彭祖の嫁に迎えた。張魯は、死没後、原侯と謚さ ちょうふ れ、その子の張富が跡を継い 漢中の地方に築かれた「五斗米道」教国こそは、「黄巾の乱」を引き起こした後漢末の ュートピアの実現てあった。「黄巾の乱」に敗れた民衆 民衆たちがひたすら求めつづけた 。建安十六年、張魯を討つべく曹 たちのなかには、再起してここにたどり着者 ちょうあん かんちゅう ばちょう 操が征西したとき、長安以西の関中に割拠していた馬超らの諸軍閥が反乱を起こしたが、 このとき戦さに巻き込まれるのを恐れた関中の住民のうち、数万の家族が保護を求めて、 し′」こく 子午谷を通って張魯のもとに逃げ込んだといわれている。それほどに、漢中の、「五斗米 道」教国は民衆にとって、夢にも似た楽土てあったにちがいない。 一八四年に黄巾の反乱が起こってから、「五斗米道」教国が、曹操の討伐て壊滅し、張 魯が曹操のもとに吸収される二一五年まて、三十年の長きにわたって、この民衆のユー ビアは、後漢の朝廷てさえ、うかつに手を出しかねるほどに、不動の一大政治勢力を形成 しつづけたのてある。中国史上ても、まことに稀有なてきごとてあった。 17 ろ タオに生きた人々
をかけた。これが、「黄巾の乱」の実態てあった。 一時は、朝廷があわてふためくほどの 勢いてあったが、張角とその兄弟が殺されると、一年足らずて鎮圧されている。 その後も、二十余年の長きにわたって、黄巾の残党による小規模な反乱は、とく一 一帯てくり返され、ついに漢帝国の崩壊を招くことになる。 、そ、っそう この黄巾の反乱鎮圧に力を発揮したのが、のちに「三国志」の英雄となる、魏の曹操、 そんけんしよくりゅうびげんとく 呉の係権、蜀の劉備玄徳てあった。とりわけ山東の巨大な黄巾の賊を相手にしなければな らなかった曹操は、彼らに定着てきる土地と信仰の自由を保証し、その大部分を取り込 ちゅうげん み、その精悍な農民兵を曹操軍団に吸収して、中原支配におおいに役立てることになる。 五斗米道教団とは こうして中絶した「太平道」に少し遅れて成立した、同じく道教の宗教的集団がある。 ごとぺいどう ちょうりよう あんき 「五斗米道」がそれてある。この開祖は張陵といし 、現在の安徽省沛県の出身て、若いこ た、いカノ、 こくめいざん ろは都の太学 ( 国立大学 ) て儒教を学んだが、長命術に関心をいだくようになり、鵠鳴山 きんたん ( 四川省 ) という山に籠って、懸命に修行を重ねた。やがて神仙養生のための薬・金丹をつ くることに成功したといわれている。 ちょうろ この「五斗米道」の信仰集団の本格的な組織者は、張陵の孫の張魯てあった。 166
タオの哲学者ーー・岱康 「竹林の七賢」の一人 そうそう ぎまっしんしょ 魏末晋初と呼ばれる時代がある。三国時代、曹操が築いた王朝を魏というが、これも長 しばちゅうたっ くはつづかなかった。曹操の懐刀というべき知謀の将軍に司馬仲達という権謀術策にす ぐれたマキアベリストカいた , 彼が魏王朝の政治を専断するようになり、ついに彼の一族 が魏から国を譲り受けるかたちて晋という王朝をつくることになる。事実上は簒奪てあっ た。この時期を魏末晋初というが、血を血て洗う虚々実々の権力闘争が行なわれた時代て ある。 ちくりんしちけん 世に「竹林の七賢」といわれる七人の賢者が生きたのは、この魏末晋初の時代てあっ けいこうあざなしゆくや しゆく あんき 。七賢の筆頭に名があがるのは、康、字を叔夜という。現在の安徽省宿県の西南地 こうしょ 方てとれた。生まれたのは魏の黄初四年 (一三 lll) てある。 『康別伝』に描かれた彼の風貌姿勢はたいへん魅力的てあった。岱康は自分の肉体をま るて土や木のごとく、 無頓着に扱い、飾り立てたり、 磨きをかけたりすることはなかっ ふところがたな 、し 178
これす 駆馬棄之去馬を駆りて之を棄てて去る 不忍聴此言此の言を聴くに忍びざればなり はりよう 南登覇陵岸南のかた覇陵の岸に登り こうべめぐ 廻首望長安首を廻らして長安を望む さとか かせん 悟彼下泉人 悟る彼の下泉の人を きぜん しんかん 喟然傷心肝 喟然として心肝を傷ましむ この詩は、親戚や朋友と別れて、長安城の門外に出たとたん、平原にころがる白骨、飢 えた母が赤子を草間に棄て去ってゆく異様な場面に出会った詩人が、それを実にリアルに みち 描き取っている。象 ( 道理 ) のすたれた都をあとにして、南に進むと、詩人は覇陵にたど りつき、その高台に登ってみた。すると、覇陵に眠る文帝の平和な御世がしのばれ、善政 を慕ってやまなかった人の心がしみじみと伝わってきたと、詩人は歌うのてある。 ぎそうそう 王粲は、のちに魏の曹操に召されてその側近となるが、文学好きてあった曹操のもと しちし て、「建安の七子」と呼ばれる文学集団の領袖となって活躍する。 とうし 文帝没後の後日譚ていえば、文帝の皇后てあった竇氏のことについて書いておこう。 か いた 146
老荘以外の諸子の説があったが、そのなかからとくに『老子』『荘子』の二書を取り出し、 それを共通性をもっ思想的傾向にあるとみなして、老荘、あるいは老荘の学と呼ぶように なったのは、「竹林の七賢」が出現した魏末晋初以後てある。 むいしぜん もとより、『老子』と『荘子』は無為自然を説いて思想を共有するところがあるが、両 者のちがいは歴然としている。『老子』が宇宙全体の立場から個別を把握し、そのあり方 に説き及ぶの ( こたいして、『荘子』は個別の立場から宇宙全体に言及する。『老子』は柔弱 謙下の処世哲学を説いて順応の徳を説くが、『荘子』は個々の人間が自分の個性や才能を 発揮しながら生命を全うする道を求めて、隠遁主義、独善主義に流れる傾向がある。 魏晋時代はどちらかといえば『荘子』の哲学てもって『老子』を解する傾きが強く、そ おうひっ れは魏末の王弼の『老子』注にもあらわれている。青年康も人一倍、このような時代の てんせいかよく 思潮に敏感てあったのてあろう。とりわけ「形骸を土木とし、飾厲を加えず」「恬静寡欲 ( 淡々としてもの静かて、欲のない ) 」 ( 『晋書』岱康伝 ) な生格は、世間的な名誉を卑しみ、質朴を 守って天真を全うすることを志す老荘の思想と、相通ずるものがあったのてあろう。 ちょうらくていしゅ ちゅうさんたいふ 康は、魏の曹操の孫娘にあたる長楽亭主という皇女と結婚し、中散大夫 ( 朝廷の審議 官 ) となるが、政権抗争のただなかにあって、曹氏魏室の一員として、反司馬氏の旗幟を 鮮明にするか、あるいは方外の士として隠棲して生きるか、いずれかの選択を迫られた。 180
ぎしょ でんよ そうそう 「三国志』魏書列伝第一一十六にみえる田豫てある。田豫は曹操に仕えて、将軍として行政 しんい へいしゅうしし 官として抜群の功績をあげ、振威将軍兼井州刺史となった人物。のちに衛尉となったと き、しばしば上書して地位を他者こ譲り ( たいと申し出たが、なかなか許可カ出ない。 しばせんおう て、時の権力者てあった司馬宣王に返書したなかて、田豫は、「年七十を過ぎて以って位 たと みずどけい に居るは、譬えば、猶お鐘鳴り漏尽きて、夜行して休まざるがごとく、罪人なり」と語 っている。 名誉と生命は、どちらが大切か。生命と財産は、どちらが重要か。得ると失うとは、 どちらが苦痛か。名誉に執着すれば、かならず生命をすり減らし、財産を蓄えすぎれ はずか かならずごっそり失ってしま - フ。なにごとも控え目にしておけば、辱しめを受け ないなにごとにもとどまることをむ得ていれば、危険はなく、 しつまても安らかに 暮らすことがてきる。 いず か 名と身とは孰れが親しきか。身と貨とは孰れが多なるか。得ると失うと孰れが病なる うしな ゆえた か。甚だ愛すれば、必ず大いに費え、多く蔵すれば、必ず厚く亡う。故に足るを知れ とど はずか あや ば辱しめられず、止まるを知れば殆うからず。以って長久なるべし。 ちか ぞう 100
そうそう の魏の武帝曹操がそうてあったように、神仙になって、いつまても生きながらえる養生の 術が本気て真剣に信じられていた時代てあったのてある。 この謎につつまれた老子に、子孫が存在していたことも、また不思議だが、老子の子孫 と称する人々がいたのは確実てある。司馬遷は老子列伝の最終段階て、さも確信ありげに その子孫の系譜と所在について、つぎのように伝えている。 ちゅう きゅう そう だんかん 魏の将軍となり、段干に封ぜらる。宗の子は注、注の子は宮、宮 「老子の子は宗といし こうたいふ こ、っせい こうぶんてい の玄孫は假、假は漢の孝文帝に仕え、その子の解は膠西王卯の太傅となって、斉に住ん 四代目の宮の玄孫が假てあるとすれば、假の子の解は九代目の子孫となる。解が漢の膠 りゅうこ、つ 西王の劉卯 ( 紀元前一五四年没 ) に、太傅、つまりそのご教育係として仕え、斉、今の山東 こうえん 省の西北部の高苑に住んだということは、確かなことてあろう。膠西王の劉印は、漢の景 りんし こうと、つ ごそ しせん 帝の三年、呉楚七国の乱に加担して、膠東、蕾川の二王とともに、漢の斉都臨潘を攻撃し たか、その年のうちに鎮圧されて、諸王とともに自殺に追い込まれている。司馬遷の伝え る老子の子孫の消息が、解のところて途絶えているのは、このとき、おそらくは、太傅と いう責任の重い地位にあった解の一族は、膠西王印とともに反逆罪に間われて粛清されて しまったためてあろうか。たしかに老子の子孫と称するに足る伝承史料が残っていたの
こうそりゅうほう けつき 何てあった。二人は、沛公、のちの漢の高祖劉邦が反秦打倒に蹶起したとき、その傘下 に馳せ参じた。これ以来、曹参は劉邦の片腕となって、各地に転戦して多くの軍功をあげ さじようしよう た。劉邦が天下をとると、曹参は左丞相となり、のちに斉国の丞相から、蕭何の後を受 ナカそれから三年その職をつとめて死んている。 けるかたちて、漢王朝の丞相となっ ' 驀、 当時、人民は、蕭何と曹参をたたえて、つぎのように歌っている。『史記』曹相国世家 これ ひやくせい の記事をそのまま引くと、「百姓、之を歌って日く」とあって、 しようか 蕭何為法蕭何は法を為り いちえが あきらか なること一を画くが若し 額若画一 そうしんこれ 曹参代之曹参は之に代わり しつな 守而勿失守りて失勿し そせいじよういただ 其の清浄を戴きて 戴其清浄 たみも やすらか 民は以って寧一なり 民以寧一 と民歌が引用されている。 曹参は歴戦の勇将てあり、いわば成り上がり者てあったが、宰相の位にまてのばって、 ごと 1 う 8