していた時代は、貴族趣味の濃厚な美麗て修辞性の強い文学が好まれていたこともあり、 平淡て素朴な味わいのある陶淵明の詩風には、どちらかといえばあまり高い評価が与えら れなかったというのが、実状てあった。 りよう しようこう しひん 陶淵明没後百年あまりたった梁の時代の詩論家に鍾嶸がいて、彼は『詩品』と題する じようぼん 詩論集をのこしている。歴代の詩人たちを上品、中品、下品と分けて品評したものだが、 そのなかて、陶淵明は中品の詩人として扱われている。これは高い評価とはいえないカ ただその詩論のなかて、鍾嶸は陶淵明を、「古今隠逸詩人の宗」と評している。この評語 は印象的てある。宗とは宗家というほどの意味て、陶淵明がこの時代から隠逸詩人として 特殊視されていたことをこの詩論は知らせている。 『宋書』隠逸伝の陶淵明像を読むと、田園の隠居農夫というより、どちらかといえば高雅 な逸民としての風格がそなわっていて、酒亭ては無弦琴を撫し、自由奔放にふるまってい ごと云えている せん しか たくわ 潜 ( 淵明の名 ) は音声を解せざるに、而も素琴一張を蓄う。弦無し。酒に適ぐことあ ごと も ろう いた る毎に、すなわち撫弄して以ってその意を寄す。貴賤のこれに造る者あれば、酒有れ もう っ せん ば、すなわち設く。潜はもし先に酔わば、すなわち客に語ぐ。「われ酔いて眠らんと 0 くつろ GS 200
いんいっ の暮らしを楽しみながら、六十三歳の生涯を閉じている。その間、陶淵明は隠逸詩人とし ても心静かに田園の生活の喜びを積極的に享受して、それを折にふれ時につれ、素朴なタ ッチて趣き深く詩歌のなかに詠み込んている。 ぎき かっての同僚てあった劉裕は、淵明五十四歳の義熙十四年 ( 四一八 ) に、東晋王室簒奪 の野心をあらわにし、ます安帝をしめ殺し、その賢明な弟を帝位にすえた。この新天子 きようてい 恭帝も、一年たっと、劉裕に譲位の署名を求められて、拒否てきすに退位。劉裕はさっ そく国号を宋と改めて第一代の天子武帝となる。ついて恭帝のもとに私兵をつかわし、父 孝武帝と同じように蒲団蒸しにして絶命させている。 こうしたかっての同僚が進行させた残忍な政変劇を、淵明はどう受け取ったのか定かて ーないか、劉裕が天下を奪って以後の彼がつくった詩に、その制作年を書き入れるとき は、新しい宋の年号を用いず、十干十二支て記しているところをみると、これが陶淵明に てきた、せめてもの抵抗の意思表示てあったかもしれない。 古今隠逸詩人の宗 さて陶淵明の詩人としての評価が定まるのは、唐代に李白・白楽天があらわれて、彼の 詩を高く評価し、彼の詩風にならって詩をつくるようになってからてある。陶淵明の当面 ぶてい 199 タオに生きた人々
も そ そ ともがら かくのごと ず」と。其の言を極むるに、茲れ、若きの人の儔か。酣觴して詩を賦し、以って其 かってんし むかいしたみ の志を楽しましむ。無懐氏の民か、葛天氏の民か。 りくちょう しようとうしようめいたいし もんぜん 『文選』の編者てある。蕭統は「陶淵明伝」 六朝時代の梁の蕭統は昭明太子ともいし みずかたと を書いて、「嘗て五柳先生伝を著わして、自ら況う。時人、これを実録と謂う」と語って いるのて、その昔から「五柳先生伝」は、陶淵明の実録的自叙伝とみなされてきた。無懐 氏、葛天氏はいすれも上古の伝説上の帝王てある。自分をその上古の民かとはぐらかして いるところをみると、これも劉裕の簒奪後につくられて、暗に彼の新王朝宋に仕えざる意 を寄せたものとみてよい ( ささか間題があ一る。 これを実録とみなすことには、、 しかしながら、従来のよ - フに、 「五柳先生伝」は、陶淵明がかくありたいと願って書いた虚構の自伝てある。実生活者と しての淵明は、隠者として田園に汗する農夫てあり、時には乞食にも似た飢えと貧しさに 直面していた。虚構の自伝というかたちを借りて、かくありたいと願う陶淵明の志がつら い暮らしのなかてつむがれていたからこそ、「五柳先生伝」は香り高く生み出されてきた のてある。 匐闢月の自伝と確実に重なり合う部分がいくつかある。それは、彼が 「五柳先生伝」かド、冫日 かっ きわ かんしよう 202
あ - と・か当加 参考文献 タオの哲学者ーーー岱康 「竹林の七賢」の一人 / 儒家の虚偽性を論難 / 「声に哀楽無きの論」 / 道士・ 孫登の予言 / 岱康の「養生論」 / 顔之推による批判 国タオの詩人ー陶淵明明 「飲酒」に詠まれた境地 / 陶淵明の生涯 / 古今隠逸詩人の宗 / 老子に触発され て書いた「桃花源記」 211
「超然と出世間的に利害損得の汗を流し去った心持」は、「小私」「小我」を捨てて、天地 の大自然のいとなみのなかに身をゆだねる「則天去私」の人生観につながっている。「則 のっと 天去私」、天 に則り、私を去るとは、老子哲学の中核的な思想てある。 陶淵明の生涯 とうしん ド、冫明が生きた東晋末の時代は、ひどい政治的季節てあった。測水の戦いのあった三八 三年には、淵明は十九歳になっていた。この時期まての東晋王朝は、まだ無事だった。測 こうなん しゃあんしやげん 水の戦いて北方異民族の圧力を防ぎ止めた英雄・謝安や謝玄が政治の中枢にいて、江南の 漢民族の安全確保につとめていたからてある。 きか この戦さののちいくばくもなくして、彼らがあいついて世を去ると、謝玄の麾下にしオ りゅうろうし 軍閥の劉牢之が、晋室の虎の子の軍団北府軍を掌握するようになり、東晋王室につなが 衰微の一路をたどってゆく る門閥貴族の政治力がしだいに たいしゅ とうかん 淵明の曽祖父は、東晋の名将とうたわれた陶侃てあったし、母方の祖父は地方の太守を っとめていたが、淵明の父については名さえも知られていない。彼の幼時期に死設したと され、その時期から陶家はカのない士族として没落していったと思われる。 こうぶてい 東晋の第九代の天子の孝武帝は酒好きのうえに女が好きてあった。政治のことは人まか 0 ひすい 196
ちょう アンソロジー ちくりんしちけんとうえんめい もんぜん 朝時代の文学てある。竹林の七賢、陶淵明、それに詞華集ていえば『文選』を思い起こ ろうそう していたたけよい。 この時代の文学に大きな影響を与えたのは、なんといっても老荘の 思想てある。にもかかわらず、私にとって、とりわけ『老子』の書は、竹林の七賢の思想 と文学、陶淵明の詩文等を読みとくために、必要に応じてひもとく古典にすぎなかった。 その『老子』を人生の書として本格的に読み込んてみようと思い立ったのは、そう遠い 日のこしてはたい。 還暦の坂を越してからてある。中国中世の読書人の心のなかに、『老 子』の哲学がこうもどっしりと根を下ろすようになったのはなぜか、その理由をたずねた いと思ったからてある。 この『老子』のタオについての私の小さな覚え書きは、もちろんその理由について明ら かにするにはいたっていない。 これしきの内容てあるが、『老子』が現代のわれわれに何 を語りかけているのかという命題に、少しても私なりにこたえることがてきたとすれば、 それてよしとせねばなるまい 老子がくり返し説く人生のありようとは、ひとことていえば、てきるだけシンプルに生 0 きよとい - フこととみたかしか力なものてあろ - フ 二〇〇二年秋 林田愼之助識 GS 210
国タオの詩人ー陶淵明 「飲酒」に詠まれた境地 り . は′、 はくらくてん とうえんめい 陶淵明は中国の詩人のなかても、李白・杜甫・白楽天とともに、わが国てもたいへん親 しまれている詩人てある。たとえば、つぎにあげる彼の「飲酒」と題する一首のごとき は、多少とも漢詩になじみのある人なら、誰もが一度は朗読した経験のある詩てあろう。 じんきようあ いおり 結廬在人境廬を結びて人境に在り な かまびす 而も車馬の喧しき無し 而無車馬喧 よ しか 君何能爾君に問う何ぞ能く爾るか おのずかへん 心遠くして地自ら偏なり 心遠地自偏 と もと と、つり 菊を采る東籬の下 采菊東籬下 悠然として南山を見る 悠然見南山 さんきにっせきか 山気日夕佳山気日夕に佳にして しか タオに生きた人々 195
とは昔から指摘されているが、やはり、それを含めて、陶淵明のなかに、老子がいたした 理想的な村落共同体の田 5 想にたいして、深く共鳴するところのものがあって、この「桃花 、し一三ロ」という作品が描き出されたのてあろう。 タオに生きた人々 207
ごと 欲す。卿去るべし」。その真率なることかくの如し。 ふき ぎしんしたいふ ちくりんしちけん ここには、「竹林の七賢」以来、魏晋の士大夫が大事にした高尚な精神の貴族、不羈奔 放な風格が陶淵明像のなかに結ばれている。これは理由なしとしない。淵明自身が「五 りゅう 柳先生伝」のなかに、そのような自画像を描き取っているからてある。 い・こ つまびら 先生は何許の人なるかを知らざるなり。亦た姓字を詳かにせず。宅辺に五柳樹有り。 した 因って以って号と為す。閑静にして言少なく、栄利を慕わず。書を読むことを好めど ごと きんぜん 甚しくは解することを求めず、意に会するもの有る毎に、便ち欣然として喜びの あた たしな あまり、食を忘る。生として酒を嗜むも、家貧にして得ること能わず。親旧、其の此 すなわっ いた ′」と の如くなるを知り、或いは置酒して、之を招く。造れば飲み、輒ち尽くし、期するこ かんとしようぜん きよりゅうおし かっ すで とは必ず酔うに在り。既に酔いて退き、曽て情を去留に吝まず。環堵蕭然 ( 屋敷内 おお たんかっせんけっ 結び合わせ は狭苦しくひっそり ) として、風日を蔽わず。短褐穿結 ( 短い着物は穴があいたり あら たの あんじよ たんびようしば むな たり ) して、簟瓢屡しば空しきも、晏如 ( 平然 ) たり。常に文章を著わして自ら娯し さんい みずか いささ み、頗か己が志を示す。懐いは得失 ( 世間的な利害 ) を忘れ、以って自ら終う。賛に日 せきせき けんろう 黔婁 ( 春秋時代の隠士 ) の妻は言える有り。「貧賤に戚戚たらす、富貴に汲汲たら はなはだ きみさ ある かんせい しんそっ これ タオに生きた人々 201
気持ちを起こさせない。たとえ舟や車があっても乗ろうとはしない。 武器や甲胄があ っても、これを戦いに使うことはない。 民は文字を使わずに、太古さながら縄を結ん て意志をあらわし、衣食はとれるだけて満足し、習慣に安んじて生きる。隣りの国は ( しナる 望めるような近距離にあって、鶏や犬の鳴き声も聞こえてくるが、民は老死一 まて、往来することはない。 これは、老子の描いた理想的国家というよりも、 理想郷、あるいは桃源郷といったもの に近い。国家論としてみても、天下国家の最小単位としての理想的なありようが説かれて いる。この最小単位としての村落共同体的細胞が無数に存在して、それが集積して最大単 位の天下国家を形成てきればと、老子は考えている。そうした国家形成が可能てあれば、 無為の治が成立すると、老子はみていたのてある。 陶淵明の作品のなかに、有名な「桃花源記」がある。おそらく、この「小国寡民」を説 た老子の文章を読み、それに触発されて、書かれたものてあることは、ほば間違いない ところてあろ - フ。 しんたいげん りよう 晋の太元年間、武陵に一人の漁人が住んていた。ある日のこと、上流に舟を進めてい 204