問題 - みる会図書館


検索対象: 「心」はあるのか
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1. 「心」はあるのか

考えているからでしよ、つ。 けれども、同時に、つぎのように考えてみてもよ、 日常が生きづらかったり、自分が本当の自分でないように感じられたりしたとして、そ れは、はたして「心」の問題だろうか。私の感じでは、たぶん、かなりの部分は「心」の 問題ではなくて、政治や経済や社会や、哲学や宗教や、もっと幅ひろい関心のなかで考え たほうがよい問題なのだと思う。それを無理に「心」の問題という枠に押し込めてしまう と、かえって解決から遠のいてしまうかもしれません。 私が学生だった頃、「心」の問題はあまり重要と考えられていなくて、誰もが政治や経 済や社会の矛盾を好んで話題にしました。ベトナム戦争や日米安保条約や、経済効率優先 の大企業や公害や核実験や : この世界を台なしにし、われわれを生きにくくしている ものは沢山あった。これらの問題を順番に考え、抗議や反対の運動を続けて行けば、自分 の問題も解決すると信じられていた。 これはこれで、行き過ぎでしよう。 186

2. 「心」はあるのか

なせ「心」が問題となるのか いま、子どもたちの多くは一〇年以上にわたって、 学校という画一的な空間の中に閉しこめられている。 これが「自分とは何者か」という問いを生み、 「心」への問いとして社会に広まったのではないだろうか

3. 「心」はあるのか

いう問いを生む、そしてその問いが社会に拡大したという話をしました。 「心」は非対称なので、「心」を取り出すと自分の独自性が言えたような気になりますが、 実はそれだけでは無内容です。それは誰でも、同じようにできるからです。「心」とは、 「心」そのものとしては答えられないのではないか。むしろ、そういう問いを生み出した 刎のも ( たとえば、社会学 ) のなかに 社会的文脈や社会的背景を理解していくときに、」、 回収して答えられるしかないのではないか、というのが私の予想であり、提案です。 185 12 なせ「心」が問題となるのか

4. 「心」はあるのか

のです。それが有意義な思考です。 「 4 思考とは、有意義な命題である」 世界の中に対象物を持たない言葉にとらわれ、たとえば神がいるのかいないのかと悩む のは心の病気です。それは、世界とは無関係の空虚な命題ですから、哲学の問題ではない とい、つのがヴィトゲンシタインの考え。 「 5 すべての命題は、要素命題の真理関数である」 簡単に言うと、なにか複雑なことが主張されているとき、それが正しいかどうかは、そ の主張 ( 命題 ) をばらばらにして要素命題にし、その一つひとつの真偽を確かめれば、そ こから計算して、関数のかたちで決定できるということです。真理関数は、ヴィトゲンシ タインのオリジナルなアイデアで、記号論理学になくてはならないものになりました。 「 6 真理関数の一般形は、〔 p, N ( き〕である。 これは、命題 5 を、記号のかたちに言いかえたものだと考えてください : などの命題がたくさん続いています。けれども、最 命題 6 のうしろにも、 6 ・ 01 : 後の命題 7 だけは、後ろに何もなく、たった一行で終わってしまいます。 「 7 語りえぬことについては、沈黙しなければならぬ」 092

5. 「心」はあるのか

税 十 9 0 円 9 0 0 8 0 8 6 6 0 4 \ 格 2 4 0 体 0 Z 1 本 2 m 2 9 c-0 0 価 定 9 「心」はあるのか橋爪大一一郎 橋爪大三郎 心はあるのか シリーズ・人問学① 自分の気持ちが理解してもらえない、相手が何を考えてい るのか分からない。そんな悩みを抱えている人は少なくな これらの悩みはみな、「む」の問題だと思われがちだが、そ の大半は、政治や経済、社会など、もっと広がりのある問題と して考えるべきではないか。そもそも「心」という概念を、根本 から問い直す必要があるのではないか。本書は、こうした問題 意識から、これまで当然と思われてきた「心」の存在を多角的に 検証し、私たちの常識を鮮やかに覆す。明晰かっスリリングな、 社会学の試みだ。 好評既刊日本人は「やさしい」のかーー日本精神史人門竹内整一 戦後の思想空間大澤真幸 人はなぜ「美しい」かわかるのか橋本治 日本人はなぜ無宗教なのか阿満利麿 デモクラシーの論じ方ー論争の政治杉田敦 魔法のメ一蓍ア桜井哲夫 大人への条件小浜逸郎、 橋爪大三郎 ( はしづめ・だいさぶろう ) 1948 年神奈川県生まれ。東京 大学大学院社会学研究科博士 課程修了。現在、東京工業大 学大学院社会理工学研究科価 値システム専攻教授。専門は 社会学。著書に、矗語ゲーム と社会理論』「仏教の言説戦略』 似上、勁草書房 ) 、「はじめて の構造主ん ( 講談社現代新書 ) 、 「冒険としての社会科学』 ( 毎日 新聞社 ) 、『民主主義は最高の 政治制度であを ( 現代書館 ) 、 にんなに困った北朝鮮』 ( メタ ローグ ) 、「言語派社会学の原 理」 ( 洋泉社 ) 、「世界がわかる 宗教社会学入門』 ( 筑摩書房 ) 、 「幸福のつくりかた」 ( ポット出 版 ) 、「政治の教室」 ( PHP 新書 ) ほか多数。 CHIKUMA SHINSH 〇 ・日常が生きづらかったとして、それは、はたして「心」の問題だろうか。たぶん、 かなりの部分は「心」の問題ではなくて、もっと幅広い関心のなかで考えたほうがよ い問題なのだと思う。それを無理に「心」の問題という枠に押し込めてしまうと、かえ って解決から遠のいてしまうかもしれません。 015 く ま 新 591 680 + 税 ちくま新書 5 9 1

6. 「心」はあるのか

まず言語は分析可能かと言うと、分析可能ではありません。なぜなら、これ以上ばらば らに分解できない要素的な命題というものは存在しないようだと気がついたのです。 彼が要素的な命題として考えたのは、たとえば、「このバラは赤い」という文です ( バ ラはトゲや蕾に分解できるかもしれませんが、まあそのことはおきましよう ) 。要素的な 命題とは、世界のなかのお互いに独立した出来事を表すはずのものです。ところが、もし 「この、、ハラは赤い」なら、「この。ハラは白い」ではないはずなので、前者から後者の否定が 演繹できてしまう。ということは、「このバラは白い」という命題も「このバラは赤い」 という命題も、互いに独立ではなく、従ってヴィトゲンシタインが考えたような意味で は要素的でなかったということになります。 これは一例ですが、こうした問題がつぎつぎに現れ、最初のアイデアが破綻してしまっ て頭を抱えてしまうんですね。 そこで彼は、別なアイデアを試してみようとした。 たとえば「これは机」と、ここにあるこの机を指して、言葉と実物を対応させてみたら どうか ( このような定義のやり方を、直示的定義といいます ) 。 しかし、これはうまくいかない。「机」というものが何なのか、あらかじめわかっても つばみ 096

7. 「心」はあるのか

らないから、学校教育の中で自己認識するのはなかなか難しい。趣味の世界であれば、マ イナーな趣味に突っ走ればなんとなく自己認識できるところがありますが、それが許され ないのが学校教育です。 学校教育は画一的な社会なので、そのなかで「個的な差異、それもわずかな差異として ある自分はなんだろうか」という問いを生んでしまいます。これは、ほば全員に抱かれる 疑問ではないかと思います。そしてその答えは学校の中では与えられない。社会に出るま では与えられません。特に、まだ進学すべき上の学校があって、進学成績ばかりを学校が 気にするようでは、社会とのつながりがますます稀薄になる。生徒も、この問いを突き詰 めないで、次の学校までお預けにする傾向が強くなります。 ーセントにものばり、ほば全員が高校に進学している。 現在、高校への進学率は九六。ハ そして専門学校、大学など、多くの人が青年期を学校で過ごします。そうすると、「個的 な差異としてある自分は何か」という問いが、二〇代の若者のあいだに蔓延してしまう。 高校全入時代に、「私は誰 ? 」というこれまで先送りされてきた「心」の問いが、大きな 問いとして思春期の人びとをとらえ、社会を満たすことになったのではないか。 179 12 なぜ「心」が問題となるのか

8. 「心」はあるのか

る行動、耳に聞こえるものです。そこでもう一人のさんが「わかった」と言った。他の 人が理解した << さんらしさは、ここにあるのではないか。さんの「心」は、決して <t さ んの内側にあるのではない。内側にあるように見えるのは、私たちが外から見て、 << さん の内側にあるように見えるという話です。ということは、「む」は、見えない場所に隠さ れているのではなく、むしろ目で見たり、耳で聞いたり、触って感じられたりする場所に あるのではないかと思います。 そして、もうひとつ大事なこと。さんに「心」があるかどうかが問題になる場合には、 実はそれを問題にしている誰か、たとえば私に「心」があるということが前提になってい る。私に「心」があるから、 << さんの「心」が問題となるのです。ところがよく考えてみ ると、その反対も一一 = ロえて、私にある「心」はさんにとっても問題になっている、どっち もどっちなのです。 さて、「心」があるとは、「心」がそれとして理解でき、共感できる場合です。そして、 理解したり共感したりする権利があるのは、もうひとつの「心」である。結局、このプロ セスには出発点がない。互いが互いを「心」として認めあうネットワ 1 クのなかで、「心」 が実在しているようにみえるというだけなのです。むしろ、そうした言葉や行為のやりと 12 なぜ「心」が問題となるのか

9. 「心」はあるのか

王様は王様らしくしなければいけないわけだから、身分に適応させることが教育の主題に なります。家業がある場合は、その職業に適応すること、職能に適応することです。 ところが現代では、世襲的な職能というものがありません。労働の実態は、どんどん変 化していきます。ワープロが出てきたら和文タイプは駆逐され、その他にもいろいろな職 種がどんどんなくなっていきます。かわりに、新しい職種が次々と生まれるから、 もいような、共通の基 い何を学べばよいのか分からない。そこで、どんな職業になっても、 礎知識や技術を学んでおきましよう、 学校で一律に勉強しましよう、ということで学校教 育が主軸になる。これが近代社会です。近代教育は、産業組織に適応するための教育なの です。 す自己認識を難しくする学校教育 そこで今度は、学校教育と「心」の問題を見ていきます。 学校教育は、汎用性の高い思考と行動様式を獲得する場です。汎用性が高いわけですか 具体 ら、運転手も大工さんも銀行員も弁護士もみんな必要となることしか教えていない。 したいこれ 的なことは教えられないのです。したがって職業とは対応していないので、 176

10. 「心」はあるのか

「意識」は「心」のことなのかなと考えてみたのですが、結局、そうではないと思いまし た。少し似てはいますが、違うものです。日本人の考える「心」とは違うような気がしま す。「意識」は、何についての意識かということがはっきりしていなければならず、レン ガのようにいくつも組み合わさって、人間の「精神」を構成します。それに対して「心」 は、もっともやもやしていて、つかみどころがない。 それから哲学でよく話題になるのは、「心身二元論」という問題です。 心身二元論では「心」があり、「身体」があり、そのつながりはどうなっているのかと 考える。ですからこの議論では、「心」があるのは当たり前になっています。 しかし、「心身二元論」は私の直観で言うと、キリスト教から哲学が分かれ、分かれた けれどもキリスト教に遠慮がある、という時代の産物のような気がします。哲学は、無神 論ではありません、と最初のうち言い訳をしていたわけですが、「心」があるというのは その言い訳です。本当は神などはないし、霊魂もないし、「心」もないかもしれない。 そのいい例がデカルトです。デカルトは機械論者ですね。人間はぜんまい仕掛けの機械 のようなものであり、動物ももちろん機械であり、その意味では動物の身体も人間の身体 も同じ機械である、そう考えていたわけです。でも言い訳として人間の場合、どこかに 022