こういう背景を考えてみますと、愛情とは単なる「心」の状態ではなく、一連の行動、 文化の一種であり、そういう行動を人間は習得するわけです。その反作用として、自分の 「心」の中に愛情というものができてくると感じられる。そういう順序になっているので はないかと考えたわけです。 す性別は社会の基本となる言語ゲームだ もうひとつ「心」の中にあるのは、男女の性別です。みんな誰でも自分は男だとか女だ とか、性別を意識しています。いっから意識したかと言うと、たぶん思い出せないと思い ます。人間が自分のことを自分だと意識するのとほば同時に、自分を男だとか女だとか意 識している。ですから、いつ自分の性別を意識したかと考えても、記憶していないんです ね。それほど人格の深い根本的なところに、性別はある。 る え これにはいくつか証拠があります。人格が解体していく、精神病というものがあります。考 いろいろな精神のはたらきが解体していくのですが、男女の性別が解体していくという例と は、私が見た限りではありません。ですから人格にとって、非常に深くて古いものではな 生まれてきた子どもが、家族のなかで自分を理解す いかと思います。なぜなんでしよう。
す感覚それ自体は比較できない さて、言語ゲームが、人間の外形的なふるまい ( 行為 ) をつかさどる秩序だとすると、 それと人間の内面 ( 感覚や心 ) との関係はどうなっているのでしよう。 人間は、外界を感覚器官で受け止め、外界に対応した「感じ」を持ちます。感覚そのも のは外からは見えません。誰かが私をナイフで刺したとします。「刺した」ということと ナイフは見えますが、「痛い」ということ ( 私の痛さ ) は外から見えません。 個々人の感覚は、互いに見えないのです。見えないということは、確かめられないとい うこと。それなのに、なぜ、一人ひとりに感覚があるということにな「ているのか。 感覚にはいろいろありますが、ここでは色覚について考えてみます。 たとえばさん ( お母さん ) は、。、 ホストを見ると赤く見えます。空を見ると青く見えま す。さん ( その子ども ) はその反対にポストが青く見えます。空が赤く見えます。さ ん ( お母さん ) は、。、 ホストは「赤」、空は「青」と名前をつけました。「ポストは赤です よ」とお母さん。「うん、分かった」と子ども。けれども子どもにはポストの「青」が見 えています。「空は、ポストとは違う色で、青ですよ」「うん」と言っていますが、こんど
+ ・言語ケームの渦巻き 「社会はさまざまな言語ゲームの渦巻きである」 『一 = ロ語ゲームと社会理論』で私は、言語ゲームのアイデアによると、社会をこのように理 解できるとのべました。 一 = ロ語ゲームをあえて定義するならば、「あるルール ( 規則 ) に従った、人びとの行為の 秩序ある集まりである」となります。ヴィトゲンシタインはサッカーを見ていて、この 一 = ロ語ゲームのアイデアを思いついたと言われています。大勢のプレ 1 ャーがグラウンドを 走り回っていて、そこにはルールがある。ゴールキ ー。ハ 1 以外は足でボールをけり、手を 使ってはいけない。頭は使ってよろしい。ボールが。 コールに入ったら得点になる。いろい ろあります。数えあげるといろいろですが、でも四、五歳の子でも遊べます。言葉でルー ルを教わらなくとも、しばらく見ているとできるよ、つになる。ヴィトゲンシュタインは、 サッカーを見ていて、世の中はサッカーが複雑になっただけではないかと思いついたのか もしれません。 私はそのアイデアにヒントを得て、宗教を言語ゲームと考えてみて、『仏教の言説戦略』 10 2
: というように、言葉の数だけ感情が出てきます。 お腹がすいた、うれしい、幸せ、 さまざまな感情が、人びとめいめいにとって開かれてある、私一人にも開かれてある。内 面は見えないけれども、言葉で伝え合えば、見えるようになります。そのときお互いに見 えるようになった自分だけのもの、それを「心」と言うのではないか。「心」は言葉のな かで作られているものである、というのが私の立場です。 062
子供はいろいろなこどを考える。 になっているこどにとか付いた。こ、つい、つ ある日私は、なぜか自分が世界の″中心〃 ろしい専実に』付いて、当求 ~ しなかった、らと、つかしている。と、つい、つこどなんた、こ れは 自分以外の人間はみな、私てない。 それなら世界は、私のために存在するどしか考え られない。 当然、他の人間たちも、私のために存在する。私の前て何喰わぬ顔をしてい ても、実は連絡をどりあって、私だけのための演技をしている。たどえばあの、通りす かりのおばさんも、わざわざどこからか派遣されてきたのだ。私が下校したあと、クラ スては早速みなが、日 月くる日誰が私に話しかけるかなどど、段取りを打ち合わせている 、 0 し力し 急に私が教室にどって返したら、あるいは、こっそり家族の内緒話を立ち聞きしたら、 そう思ってやってみたけれども、もちろん尻尾はっ 現場か押さえられるかもしれない。 かめない。 そうか、こんなに大がかりな計画なら、私の一挙一動などのこらす相手に筒 抜けになっているのだな。 031 2 なぜ「心」があると思うのか
す言葉はただ端的にわかる このよ、つに考えると、一 = ロ葉 「人間」であるとは、互いに人間と認め合うことである。 が通じるということこそが、人間にとって、最も重要だと考えられます。なぜなら、人間 が互いを人間と認めあうのは、言葉が通じることを手がかりとしているからです。 というわけで、言葉について、ここでは考えてみます。 言葉は、意味があるから言葉です。意味のないものは言葉とは言いません。 けれども、ほんと、つに一一 = ロ葉に思味があると一 = ロえるのか。 たとえば前衛詩なんていうものがあります。何かよく分からないことが、行を変えて書 かれている。「透明 / な憂鬱が / 歩い / ていく」なんて書いてあったりして、私から見る とまったく分からない。「透明」も「憂鬱」も辞書に載っていますが、はじめて見るよう なやり方で使われていたりする。ワープロの上を猫が歩き、それを詩だということにして プリントしたりすると、けっこう新しかったりすると思いませんか。猫は前衛詩人か ? 猫は何か考えているのだろうか ? 昔、絵画でも似たようなことが問題となりました。アメリカの前衛絵画展がソ連で開か 048
る行動、耳に聞こえるものです。そこでもう一人のさんが「わかった」と言った。他の 人が理解した << さんらしさは、ここにあるのではないか。さんの「心」は、決して <t さ んの内側にあるのではない。内側にあるように見えるのは、私たちが外から見て、 << さん の内側にあるように見えるという話です。ということは、「む」は、見えない場所に隠さ れているのではなく、むしろ目で見たり、耳で聞いたり、触って感じられたりする場所に あるのではないかと思います。 そして、もうひとつ大事なこと。さんに「心」があるかどうかが問題になる場合には、 実はそれを問題にしている誰か、たとえば私に「心」があるということが前提になってい る。私に「心」があるから、 << さんの「心」が問題となるのです。ところがよく考えてみ ると、その反対も一一 = ロえて、私にある「心」はさんにとっても問題になっている、どっち もどっちなのです。 さて、「心」があるとは、「心」がそれとして理解でき、共感できる場合です。そして、 理解したり共感したりする権利があるのは、もうひとつの「心」である。結局、このプロ セスには出発点がない。互いが互いを「心」として認めあうネットワ 1 クのなかで、「心」 が実在しているようにみえるというだけなのです。むしろ、そうした言葉や行為のやりと 12 なぜ「心」が問題となるのか
とやっていくと、あるところで、なんだわかった、という感覚になります。なぜわかった のかは説明できません。一番単純なことほど説明できない。一番単純なことほど、単に わかった、と言うほかなくなる。右に並んでいる机を、最初から順番に詳しくしらべて行 ったとしても、 ったい何が「わかった」のか、抽出して記述しようとしてもできないの です。子どもが言葉を覚えるときも、たぶん同じことだと思います。最初に定義を覚えた 単に、言葉を使っているう り、言葉と世界が対応していると考えたりするわけではない。、 ちに覚えていく。そこで、それをモデルに言語の意味を考えてゆけばよいではないかとい うアイデアになったのではないかと思います。言葉の意味は用法であるというのは、そう うわけです。 『哲学探究』に出てくるいちばん有名な例は、石工と助手の言語ゲームです。 石工が何かを叫ぶ。建物を建てているところなのですが、使用する石に違いがあるらし く、たとえば大理石とレンガみたいな区別があって、石工が「レンガ」と言ったとき助手 は、あやまたずにその「レンガ」を持ってくる。それを観察している私は、何をやってい るのか最初はわからないのですが、しばらく見ていると、レンガというのはこういうもの で大理石というのはこういうものだとわかってくる。そして、石工が命令すると助手がそ 098
るときに、母親や父親との関係の中で理解していく。そのときに性別も習得してしまうの ではないか。 どんな社会でも性別が混乱しないように、男っぽい服とか女っぽ、服、男つぼい言葉と か , 女つぼい一 = ロ禾とい、つよ、つに、 ことさら性別を強調した目印がある。普通、どんな人間を 見かけても、男女の別が一秒以内に識別できないということはないですね。識別できない と混乱し、その人をよく見たりしませんか。 性別を識別する能力を私たちはそなえています。それはどうしてか。以下、私の考えで す。 まず女性。女性には子どもを産むという生理的機能があります。 生理的機能と別に、精神のはたらき、「心」のあり方に、男女の別はあるか。「心」の面 での男性、女性に、どのような違いがあるかと考えてみますと、女性とは″母親と同性〃 男性とは″人間のうち女性でないもの〃、このように定義すればいいのではないかと思い ます。女性のほうが基本なのです。 なぜどんな社会も性別をきちんと組織して、服を着せたり、行動を区別したりするのか というと、相手が将来、子どもを産むか産まないか、そのことに応じてどういう役割を行 146
最初に心理学史の講義があり、心理学の先生が言うには、世界で最初に心理学研究室を 作ったのはドイツのプントという人で、その人が民族心理学の研究をし、それが現代心理 学の始まりであるということでした。 ブントは、椅子に座って目を閉じ、自分の心をじ「と眺め、お腹が空いてきたとか、昨 日の夕食はおいしか「たなあとか、思いつくまま自分の心のなかみをどんどん記述してい 「た。他人のむは、見ることも触ることもできないが、自分の心は知ることができる。心 理学が「心」を研究する学問だとすれば、まず、自分の心を研究すればい、 もと考えたんで すね。 これを「内観法」と言います。ブントは、こんなことばかりやっていたわけではないの ですが、これですっかり有名になってしまった。 しかし、こんなものは学問でないと批判されました。特にアメリカの心理学者たちは猛 反対し、科学であるためには心理学も物理学の真似をしなければならないと主張しました。 物理学は、「物」を研究する学問ですが、「物」は観察でき、操作できる。たとえば「質 量」は、簡単に一一一口えば重さですが、測ることができる。距離と時間とか電圧とかを、測定 し、観察し、実験して物の性質を調べていく。こうやって物理学という学問ができてきた 017 1 「心」はどう論じられてきたか