身体 - みる会図書館


検索対象: 「心」はあるのか
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1. 「心」はあるのか

キリスト教 ( カトリック ) には告解の制度というものがあります。教会に行くと告解室 といって、小さな箱のようなところに入り、まん中が仕切られた反対側には神父さんがい て、この一週間、どんな悪いことをしたか告白するわけです。そこで告白すると神様が聞 もてくださったことになる、そういう制度です。 そうすると、自由意志があり、神様にそむいている私というものがあることになります。 告白を義務づけられることで、今週は何を告白しようかといろいろ考え、その結果、主体 性というものが本人に意識され、近代的な主体が形成されたのではないか、というのがフ ーコーの考えです。 告白の内容は、自分の罪です。罪とはどのようなものか。人間が自由意志を持っている から罪が生まれる。なぜ人間は自由意志をもつのか。人間は身体を持ち、手や足は神様に コントロ 1 ルされるのではなく、自分の自由意志に基づいて動くからです。自由意志に基 づいて自分の身体を動かした結果、どういう罪を犯すかというと、性に関する罪を犯しま す。告白の内容は性的なものです。性は自分だけに開かれた秘密の場所である、というの がフ 1 コ 1 の考えた仮説です。 ここから、個人という主体は「心」を備えた実体としてあるわけではない。それは、告 148

2. 「心」はあるのか

「心」 ( というか、霊魂 ) があるとした。それは身体とどうつながるかという疑問が起こり ますから、脳下垂体があり、そこで身体と心はつながっているんたという、今日からみれ ば奇妙な学説を出したりしたわけです。 」こ弓、立場です。身体と心のどちらが本当かとか、二元的なものが 心身二元論は、批ー弓も 両方あったとしたら、肉体が減んだ後も「心」がなくならないはずではないかとか、そう した批判に耐えることができにくいかと思うのですが、キリスト教に遠慮している時代の 哲学では、どちらかと言えば主流の立場だった。しかし最近の哲学は、心身二元論はとり ません。一元論的です。そうすると、「心」だけあると言うわけにはいきませんから、身 体だけがあると言うことになり、身体一元論になってしまいます。私もどちらかと言うと、 て そういう立場です。 れ もうひとつ、「心」にあたる英語は、もしかしたらないのかもしれないという問題があい ど ります。 英語には「、 ート heart 」という語があり、「スビリ【 ノト spirit 」という語があり、「マ インド mind 」という語があります。辞書を引くとどれにも「心」やそのほかの訳語がっ もています。大体こういうときには、「む」という語に相当する単語がないということな

3. 「心」はあるのか

これは、性 ( セックス ) とは違った関係で、間接的な身体間の関係です。 さらに、人間が大勢集まることにより、お互いを拘東しあうという権力の関係がありま す。権力は、言語の関係とはまた違ったもので、大勢の人びとのあいだに秩序をもたらす ことができます。 性 / 言語 / 権力ーーーとりあえずこの三つの関係の。ハターンを用意しておくと、社会で何 が起こるかをとらえることができ、社会理論として基礎づけることができるのではないか、 というのが私の仮説です。 なかでも根本的なのが形式、すなわち言語です。言語は身体を構造化し、身体と身体の 関係を構造化し、社会を構造化する。構造化というのは、形式がなかったところに形式を 持ちこみ、分節化し、それを意味あるまとまりとする働きのことです。言語があることに よって人間の身体は、人間の身体らしいものになる。意味をもつ。身体が先にあるわけで はない。たんなる生理的身体という意味では、人間と動物はほとんど違いません。言葉や ル 1 ルがあることによって、身体が意味をもち始めるのだと思います。 人間はこういうふうに、既にできあがっている ( 構造化されている ) 社会のなかに生ま れます。人間が生まれ落ちたときには、その社会には既に「意味」があります。文化があ 070

4. 「心」はあるのか

」カフて、つ、、 ー、カない。 < が本当だどしても、それを誰か確かめたのか。確かめない うちは、 < の文末におのおの、「 : ・らしい」ど付け加えておくのが、正確どいうもの だろう。つまり、 < 全体が私の憶測、どいうこどてある。そこて、 < にもかかわ、らす、 cn 〕他者たちは、私のなかて生きている。この世界にしても私が捉えた、私のなかの オかいなくなったら、私の知っている他者たちも、世 世界てある。なぜならば、ム、、 界も、なにもかも壊滅してしまうのだから。 と宀一口、つこどかて医、る たかここても、話は終わらない 牙力いなくなったら」どい、つかそれを見どどけ るのは誰か。私は確実に「いなくなる」のか。その辺がはっきりしない以上、も ・らしい」の域を超えないてはないか。たまたま死ぬ当人か、のようなこどを思 そ、つ っているだけて、実は物理的空間のなかの、ある身体が滅んだだけなのだ。 こ議論を回収する余地がある。 035 2 なぜ「心」があると思うのか

5. 「心」はあるのか

話を元に戻せば、すべての社会は他者を殺してはいけないのですが、それは自分と他者 を同等に尊重するという原則から出発しているからです。人間は身体をもって生きている。 身体があるから行為をし、行為には意味があるから言葉を使うことができる。他者の身体 を保全し、行為や言葉を理解しあう。これが社会の根本原則です。 「心」も、そうしたところに結ばれる像のひとつです。相手を尊重する、ひとつの言い方 です。そうした社会的文脈から切り離して、「心」だけを単独で取りだし、考えようとし ても、空回りしてしまうと思います。 す性・言語・権力 さて、私の理解では、人間の相互関係には三つの様式があると思います。 まず、人間は身体をもっているので、身体と身体の直接の関係があります。これを性 人間は他の人間の身体から生まれるしかありません。 ( セックス ) の関係と言っていし これも性 ( セックス ) の関係です。そうやってすべての人間が存在しています。 次は、人間と人間の身体のあいだに形式、ルールを媒介にしてつながる場合があります。 これが、言語の関係です。言葉を話し、意味を共有するという人間的な知性のあり方です。 069 4 人間はどのような存在か

6. 「心」はあるのか

んても、そんなこどにおかまいなく、相変わらす社会は続いていくだろう。社会は誰の にもかかわらす、私や他の人びどがめいめい生きて 生き死にからも、超然どしている。 いるどいう個別の事実の、総和以上のどころに社会があるはすもない。 こういう奇妙な事態は、さしあたり受け入れる以外にないものなのかもしれない私 は、この奇妙な社会の成り立ちを、″空間〃ど形容するのが相応しいど思った。 「社会は空間てある」とは、どういういみだろうか 空間どいっても、物理的空間どか、ユークリッド空間のこどてはない。 < 〕私は、身体があるから、生きている。そしてその身体は、物理的空間のなかにあ る。他の人びとの身体も、やはり同様だ。私の身体も、他の人びとの身体も区別 なしに、同じひどっの空間のなかに並列している。 これて話がすめば、簡単だ。 こ、つい、つこど 034

7. 「心」はあるのか

愛情にせよ、意図や意志にせよ、「心」の内面にあるとされているものは、むしろそれ を表現するふるまいにおいてある。これが、愛情についての一 = ロ語ゲーム的な理解です。 すワイセッ感覚の由来を考える 愛と性は切っても切れない関係にあるので、身体や性の話をします。 性も社会の根本的な問題なので、私は昔から考えてきました。 私の考えでは、人間と人間はお互いに身体としてあり、身体を通してつながることで社 会を作ります。そのつながり方には何通りかあります。言語派社会学では物事をなるべく 単純に考え、人間同士が、身体で無媒介に直接つながる場合と、そこに何か媒介が入る場 合を区別します。そして無媒介な場合を「性」と名づけ、何かの形式を間に挟んでいる場 合を「言語」と名づけたのです ( 六九頁参照 ) 。 性のなかで根源的なのは、人間が人間から生まれるという関係です。これは言葉と関係 がありません。誰もがそうやって生まれてきます。どうやって生まれてきたかといえば、 その前にいろいろなプロセスがあり、ふつうは結婚というかたちをとります。セックスも 身体と身体の直接的な関係です。 14 。

8. 「心」はあるのか

ります。そこで、言葉をまず覚える。言葉を覚えた段階で、新しい人間として社会に受け 入れられる。そこではすべてが与えられているから、はじめはとにかくそれを学習してい きます。理解していきます。意味がある、大事なことがある、人を殺してはいけない、物 を盗んではいけない、などということを、とにかく吸収していきますが、そうするうちに だんだん、こんどは自分が主体的に生きていく。そういうことをし始めます。そして、一 ーになって、社会の意味をもう一度とらえ直し、考え直し、自分の生きてい 人前のメンバ く意味を考え直し、それを続け、結論は出ないままかもしれませんが、一生を終えていく。 人間とは、こうした存在なの 人間はこういうふうにしてきたんだな、と理解しつつ。 ではないでしようか 在 存 す言語は公共財である の 社会は、身体の交代にかかわらず不変である。誰が生まれても、誰が死んでも、社会は ど 根本的には変わりません。ちょっと悲しいことではあるけれど、自分が死んでもこの社会邯 は続いていきます。そういう意味で、一人ひとりと離れたレベルで存在するのが社会です。 この意味で社会は、客観的に実在すると考えられる。そういう特別な、個々人からしてみ

9. 「心」はあるのか

「意識」は「心」のことなのかなと考えてみたのですが、結局、そうではないと思いまし た。少し似てはいますが、違うものです。日本人の考える「心」とは違うような気がしま す。「意識」は、何についての意識かということがはっきりしていなければならず、レン ガのようにいくつも組み合わさって、人間の「精神」を構成します。それに対して「心」 は、もっともやもやしていて、つかみどころがない。 それから哲学でよく話題になるのは、「心身二元論」という問題です。 心身二元論では「心」があり、「身体」があり、そのつながりはどうなっているのかと 考える。ですからこの議論では、「心」があるのは当たり前になっています。 しかし、「心身二元論」は私の直観で言うと、キリスト教から哲学が分かれ、分かれた けれどもキリスト教に遠慮がある、という時代の産物のような気がします。哲学は、無神 論ではありません、と最初のうち言い訳をしていたわけですが、「心」があるというのは その言い訳です。本当は神などはないし、霊魂もないし、「心」もないかもしれない。 そのいい例がデカルトです。デカルトは機械論者ですね。人間はぜんまい仕掛けの機械 のようなものであり、動物ももちろん機械であり、その意味では動物の身体も人間の身体 も同じ機械である、そう考えていたわけです。でも言い訳として人間の場合、どこかに 022

10. 「心」はあるのか

< どとの関係が、複雑なこどになっているのかわかる。 ます、 < ( 物理的空間 ) に着地しようどすると、尻抜けになってに移行してしまう。 も、 < どそっくりの物理的空間にみえる。ただそれは、私の身体の内側にある ( 空 間の外縁まてか私の身体てある ) のて、 < ど同じどいうわけにはい、よ いたたび < のなかに、 そのものかご ここて、に完結しようどしても、安定しない。 繰り込まれてしまう。つまり、 < のなかの誰かか頭のなかに思い描いた世界、と解釈さ れるのだ。 : ど、どこまても反転が続く。その結果、空間は幾重にも 結局、 < ↓↓ < ↓↓ : 繰り込みあって、複雑に折りたたまれてい この連鎖を、「 : : ↓ < 」のどころて断ち切ったものを、「唯物論的リアリティ」どい 、つ 0 土从」、「・ : ↓」のどころて断ち切ったものを、「現家学的リアリティ」どいう。 近代哲学は、このふたつの様相を研ぎすますこどに懸命だった。たしかに社会は、こう 、。だから両方 した様相を含んているのだか、とちらももう片方なしには完結てきな、 ( ニ重のリアリティ ) を内蔵する連鎖それ自体のこどを、社会だど考えるはうかい、 「社会は空間てある」のなかみは、こういうこどなのだ。 ( 以下略 ) 036