確か - みる会図書館


検索対象: 哀しい予感
38件見つかりました。

1. 哀しい予感

が近づいてきて、おばの輪郭をあいまいにした。それでも今、私の姉は確かにここにいて、 私と同しく、心の中でこの美しい光景に向かって手を合わせていた。 「長かったね。」 。ほっりとおばが言った。 そうた、今、やっと何かがひとっ終わったのだと私は思っていた。心が洗われたように 澄みわたっていた。 「来てくれてありがとう。あなたの行動力を私は称える。」おばは言った。伏せたまっ毛 で岸に満ちる水を見ていた。私とそっくりな形をした指で、前髪をかき上げた。「気にし ていないようで、あなたのことをずいぶんと気にしていたのがわかるわ。思い出してくれ て、嬉しかった。」 「なんだか、ずっとおばさんといたみたいよ、ここのところずっと。」 私は言った。おばは細めた瞳で私を見てふふ、と笑い 感 吁「うそおっしゃい、弟といたくせに。」 し 哀 と言った。そうた、哲生ともいた。長い夢から覚めたように、 「うん。」私はうなすいた。「短いけれど、不思議な日々だったな。」 もう、 2 度とない、貴重な。 1 度きりの。 たた いっしょに旅をした。

2. 哀しい予感

私は昔からよく家出をした。集中して考えごとをしたい時、家にいたくなくなるのだ。 夕食や朝のあいさつや家族の気配のない所に行くだけで気が休まる。 しかし自分でも知っていたのは、それが子供の遊びのようなものたと言うことで、なぜ なら、目先を変えてゆっくり考えごとをしておそるおそる家に帰れば、両親がはじめはむ っと怒っていても、やがて笑ってくれることをいつでも知っていたからだ。ほんとうに、 家出とは、帰るところのある人がするものなのだ : ・ : と、今回初めて、胸の底からしみし みと思った。 今回は、何だか、違う気がした。何度もためらった。旅行用のポストイハッグに荷物を つめる手を何度も止めた。今度はもう、戻ってきてもすべてを取り戻すことはできないだ ろう、この家出は何か大きいことにつながっている。 それは確言だっこ。 家は確かにここにあり、いつものように何日か家を空けて帰ってきてみれば、表面的に は何もかもがもと通りだろう。ただ、なぜかそう思った。思う度に父の大きな背中や、母 の笑顔がきりきりと胸に響いて突きささり、つめかけた荷物を前に考え込んでしまうのだ っこ 0 哲生は、もっとつらい存在だった。

3. 哀しい予感

「犬小屋置くっていうから、庭木も全部配置替えしているのよ。」 と一一一口った。 「家が新しくなると、庭も新しく見えるわね。」 と私は言った。 それほど強くない、透明な陽が、新しい家屋の塗り替えられたべージュの壁を照らし出 していた。母が手を入れてゆくと、庭の木々もまるで魔法のように場所を得て息づき始め るようだった。鉢から取り出した木の根からていねいに土を払って、手も顔も泥だらけに なって働く母の白いほほが明るかった。私は雑草を抜きながら、遠く家の中で犬小屋を作 っている哲生をガラス越しに見ていた。すごい真剣さで作ってるなあ、と私は思った。 「あの子、朝の 7 時からああやって小屋作っているのよ。」 と、そんな私を見て母が言った。 「まだ犬もいないのにねえ。」 と私が笑うと、 「確かに来てからじゃ遅いけどねえ。」 と母も笑った。庭から 2 人が眺めているのも知らずに、哲生は熱心に木を切り、釘を打 っていた。音が聞こえてこない分、それは絵のような良い光景で、私と母はしばらく新し

4. 哀しい予感

の疲れ : : : すべてのバランスが奇跡のように整っている。 「僕って、めかけの子なんです。」 正彦くんが言った。あんまり唐突だったので、私と哲生はただびつくりして黙った。 2 人が彼をただじろじろ見ているのを感じると、正彦くんは苦笑して話を続けた。妙に堂々 としたふるまいで、実に感しがよかった。 「母が死んでからは、父の方にひきとられてごく普通に生きてきましたから、どちらにし ても子供の頃のことで、今は何も問題はないんだけれどね。ただの幸福な・ほん・ほんです。 自分が言ってるんだから、間違いはない。それでね、年頃になってからずっと、当然のよ うに何て言うかな、はきはきしたタイ。フとばかりつき合ってきたんだ。わかるだろ ? 彼が哲生を見た。哲生は笑って、 「わかるわかる。見るからにそうだ。」 と一一一一口った。 感 野「多分、おおもとのところでゆきのさんが不安に思っていたのはそこではないか、と今は 哀そんな結論が出ている。前はわからなくて、ただふられたつもりでいたけれどね。確かに 僕の中の一部は、はきはきしていて、率直で、年相応のいいところがたくさんあって、涙 もろくて、きちんとしている、そういうのが女の子なんだっていつも思ってる。誰もがそ

5. 哀しい予感

タオルでごしごし髪をふいたり、あくびやくしやみをした。私はソファーから、確かに映 画も見ていたが、画面の中の断末魔の叫びとおばのそういう動きのコントラストの方がよ つ。ほど面白かった。 おばの家に来てから、もうずいぶんたっていた。時間は完全にストップし、私は学校に 行く他はほとんどその家の中にいた。そうして毎日いっしょにいるうちに、動くおばをよ まゆ く見ているうちに、その額を出した時の眉のかんじゃ、きびしい瞳の横顔や、ちょっとし た顔の伏せ方がどこか、あの日私が見た過去のヴィジョンの中にいた少女によく似ている のに、私は本気で気づきはじめていた。 〃違う、自分をごまかしても仕方ない。知っていたからここに来た。来たものの、どうし ていいかわからなくなった。そういうことだ〃そのことを認めるのに少し時間がかカ おばはあまりにも自然で、だからこそ私はどうでもよくなっていた。どんな事情で、何 があって今、私達が別々になっているのかはわからなかったが、かすかな響きでふいに訪 し れるそんな記憶の断片を、少しでも長い間そのままあたためていたかった。 哀 おばと映画とを見ながら、私はそのままソファーでうとうとし始めていた。ここに来て からはよくそんな感しのまま夜明けまで寝入ってしまうことが多かった。この家の中では

6. 哀しい予感

てしまった後、突然いろいろなことが視えてしまったのかもしれない。そして、どうして おそれざん も行きたくなって : : : ガイドブックの「恐山」のところに印があった。それはとても古い 本で、多分、私とおばの父親のものだったのだろう。大人の筆跡で宿の電話番号や、 1 日 でたどるコースなどが細かくメモしてあった。かすれた万年筆の文字を食い人るように見 つめ、紙の匂いのするその本をそっとなでた。「お父さん」だ、と私は思った。お父さん の字だ。確かにこの世にいたことのある人の残した痕跡だ。 そして、本を大切に抱えて部屋を出た。今度こそいける、と確信した。この通りのコー スを行き、宿を訪ねれば必ず会える。そして、荷物を引っぱり出し、階下へ降りていった ら、電話が鳴っていた。 誰からのものにしても、重要に違いなかった。私はあわてて台所に走り、鳴り響く受話 器をつかみ取った。すると、 「もしもし。」 感 予 と、母の声がした。私はとたん、大泣きしそうになった。理性や事情を超えて、私の疲 哀れた頭にその声はしみてきた。初めて外泊した時も、受験に落っこちた冬の日も、受話器 の向こうにあった声だった。瞬間、母の声が無条件によみがえらせたのだ。 「お母さん ? 」

7. 哀しい予感

心のどこか一部分だけが「待っ」淋しさだった。哲生の長い手足や、足音や、後姿、そう いうちょっとした風景が家の中にないと、つまらなかった。普通に笑ったり、電話をかけ たり、を見ていても不思議と心は玄関に向いているのだ。ことに何か悲しい事があっ トの中で寝つかれずにいると、哲生が帰ってきてドアを開け、 た日など、真夜中に 1 人べッ あんど 階段を上ってくる音が響くと、私は安堵した。部屋から出ておかえりと言うでもなく、私 は哲生のたてる物音を子守歌のように頼もしく感じて眠りについた。 私は自分がどうしてこんなに淋しがり屋なのか、きちんと考えたことはなかったが、夜 ひとりでいると、時折ものすごい、郷愁としかいいようのない淋しさにかられることがあ った。そして、哲生だけが確かにそれを埋めてくれる存在だった。哲生が近くにいる時は、 とりあえずどんなに悲しくなっても、危うくなることはなかった。しかし時折そうして、 何かを本当に思い出しそうになる度、私は危うくなることがあった。まるで遠くから来た 旅人のように、また今いる場所にずっといられるような安心を感じることができなくなっ あの夜、哲生にかかってきたのは悪い電話だった。受話器を取ったのは私で、相手は聞 彼の通う学校は き覚えのない男の声だった。ははあ、これは呼び出しね、と私は思った。 , やたらと不良やもめごとが多いことで近所でも有名だった。

8. 哀しい予感

110 しまっていた。父は言った。 「あんまりたくさんありすぎるものを見ると、人間は不思議と悲しくなっちゃうんだよ。」 よく覚えている。あの時、ぎゅっとつないだ父の手の感触さえ、よみがえる。育ての父、 の。あの、乾いた大きな手のひら。 ひとまわりして、そろそろ帰路につこうとしていた。目がなれて、林の木々がまるで夢 幻のように・ほんやりと光って見えた。坂道をまっすぐ下ってゆけば、私達の別荘だった。 正彦くんがまだ起きているのだろう、遠くに見える窓に。ほっんと明かりがついていた。そ の星のような白を目指して、小枝や乾いた土を踏んでゆけばすぐ着いてしまう。そう思う と、林の夜気が心の細胞をひとつひとっ夜に染めてゆくような寒い気分になった。 「おまえ明日、どうするの、弥生。」 ふいに哲生が言った。私は立ち止まった。私はまだ家の中に戻りたくなかったのかもし れない。星を見上げた。幾度見ても、信しられないくらい冴えた夜空だった。 「どうするのって : : : 私。」それはあまり、今、この場では考えたくないことだった。「何 とかして捜しあてたいな。このままじゃ何だかくやしいし。でもとりあえずいったん戻っ てみようかな、おばさんちに。ここに戻ってくる可能性は低いものね。」 何も本質に触れていない答え方だった。何も確かなことがない。果てしない水底をのそ

9. 哀しい予感

それは確かに異常なことだった。でも日常に溶けてしまう程度の異常さだから、たいて い人は未来に向かっているからいっしか考えることもなくなっていた。 私には父と、母と、年子の弟の哲生がいる。私の家族のあり方は、スビルスーグの映画 に出てくる幸福な中流家庭のような明るい世界た。父は企業内で医者をやっていて、看護 婦だった母にめぐり合い、結婚した。家の中にはいつも節度のある陽気さが満ち、テーブ ルには花が絶えず、手作りのジャムや漬物や、アイロンのかかった衣類や、ゴルフセット や、上等の酒があった。じっとしていられないまめな母が常に楽しげに家の中を整え、私 と哲生を育ててきた。そして健康な心でそれを誠実に守ってきた父がいた。私はずっと、 ただ幸福な娘で、それなのにどうしてか時折、無性に思ったのだ。 「私は子供時代の記憶というだけでなく、重大な何かを忘れてしまっているんだ。」 夕食を食べながら、を見ながら、よく、ふいに幼い頃の話になることがあった。私 と哲生両方の、楽しい思い出話 : : : 初めて動物園でライオンを見た時のこと、ころんで唇 を切りたくさん血が出て泣いたこと、私が哲生を泣かせてばかりいたこと : : : 父と母のロ 調はよどみなく、笑顔には一点の曇りもなく、私は哲生といっしょに大笑いしながらそれ を聞く。 でも、心の中で何かがちかちか光る。何かが欠けている、まだ何かがある、そう思う。 てつお

10. 哀しい予感

ろしている。窓の外をただずっと何時間もぼんやりと見つめていたり、廊下にごろりと寝 ころんたまま眠ってしまったりする。読んだ本は開きっ放し、洗濯物は乾燥機に人れっ放 しで、食べたい時に食べ、眠い時に寝る。自分の部屋と台所以外は何年も掃除すらしてい ないらしく、私はついたとたん、自分が泊まる部屋の恐ろしく汚ない様相を整えるのにや むをえすひと晩中、まっ黒になって働いた。そんな時もおばは悪びれる事もなく、「お客 様が来たから。」と言って真夜中なのに何時間もかけてひとり、大きなケーキを焼いてく れた。万事がそのようにトンチンカンだった。掃除がすっかり終わり、 2 人でそれを食べ たのは夜明けで、空が明るかった。万事がそんなふうで、そこには生活の秩序というもの が何ひとっ存在していなかった。 それにしても多分、おばが美しいからそういうことのすべてが妙に美点としてうつるの だろうと私は思った。確かに彼女はつくりがきれいだった。しかしそういう意味で言った うつ らおばより美しい人はいくらでもいる。私にとって美と映ったのは彼女の生活とか、動作 とか、何かするときのかすかな表情の反応にまでびっしりとはりめぐらされたある「ムー 以ド」だった。それはがんこなまでに統一され、この世の終わりまで少しも乱されることが 彼女の発する ないように思えた。だからおばは、何をしていても不思議と美しく見えた。 , 5 うつ 空ろで、しかし明るい光はまわりの空間を満たしていた。長いまっ毛をふせて眠そうに目