するとしないでは何もかもが 180 度違うことがこの世にはある。そのキスがそれだっ 私達はそれから無言で立ち上がり、土を払い、別荘に向かって歩いた。そして少し笑っ て「おやすみ。」を言い、別々の部屋に別れていった。 そして私は、眠れなかった。 まるで足元をすくわれたようだ。闇の中を遠ざかってゆく船をひとり見送っているよう だ。それでも心は暗く切なくときめいていた。甘い味のする闇だった。気づくと心はいっ 感 の間にかくりかえし哲生の唇をおもっている。すべりこませた胸の、ほほに触れる感じを し 哀思い出す。 それほど確かなことはこの世のどこにもなく、そのために私は何もかもを投げ出しても しいと思った。それなのに今はまるで宇宙の闇を見ているように孤独なのだ。 2 人には行 ☆
148 もりおか 盛岡に向かう新幹線は、鈍い光の中に広がる見なれぬ風景をどんどん追いこしていった。 あまりにも肉体が疲れきっていて、私はほとんど眠っていた。何度目覚めても少しも目 的地に近づいていないように思えた。 今度こそおばに会える。 そう信じていた。何もかもを押しのけて、私は今、おばに向かっている。眠い体のすべ ての感覚が開いているようで妙に心地よかった。 先は見えなかった。今はただ、甘かった。それでいいと思った。いかりは上がり、帆を ふくらませたばかりなのだから、しばらくはたた美しい波や空を見て幸福でいよう。それ は許されることだ。 家に帰れば、私の好物をそろえたタ食の席に、父は会社を早退してでも帰ってくるだろ う。それから、母にはきっと部屋の掃除をさせられる。そしていなかった間に咲いた花の ☆
朝はどんよりと曇っていて、霧のように細かい冷気がゆっくり流れてゆくしんとした林 を窓から見ていた。 私は結局、ろくに眠れなかった。 シーツもふとん力、、ハーも新しくて、さらさらしているふとんの中から、ごろりと横にな ったまま見る高原の曇り空はとてもきれいだった。どうせもう眠れそうになかった私は、 ふすまを開けて廊下に出た。まるで夢の中で見る日本家屋のようにひっそりしている。私 は台所へ行った。朝から残りもののカレーでは空しいので何か作って食べようと思ったの 感 野ど。ひどく・ほんやりしていた。ここのところ、あまりにも 1 日ずつが長すぎて、いろいろ 哀なことがありすぎて、何もかもがビンとこない。 私は冷んやりした床にはだしで立ち、びつくりするほど冷たい水をやかんに入れて火に かけた。何があるんだろ、と冷蔵庫を開けていたら、 ☆
149 哀しい予感 解説を聞かされるだろう。そしてすべてがもと通りに回り出すまでにそれほどの時間はか からない。私の中で起こったこの変質は年齢を重ねてゆくことに吸いこまれてゆくだろう。 ああ、ほんとうに、わからないままでいいことなんてひとつもないのだ。 : ほっとしていた。何もかもやっと、なんとかなるという気がした。自分の手で何と かできるという気分はここのところの手さぐりの日々のうちにはまるでない感覚だったの た。今、私はすっかりそれを取り戻していた。北に近づいてゆく車窓は、夢のように・ほん やりと光って見えた。シートに沈み込んだ体が動かない。すいた車内にかすかに響くレー ルの音と、乗客の声が耳の奥に同じトーンで流れ続けていた。ずっと、電車の中にいるわ : と思っていた。揺れが体にしみこんでしまいそうだ : : : 眠っていたのかもしれないし、 くつきりと見ていたのかもしれない。昔のことばかり思いすごしたこのところの日々のせ いで、そしてさっき「父」の文字を見て、 私は、本当に思い出しはしめていた。
75 哀しい予感 何といっても、家の中の様子が違っていた。いつもは時の濃度が濃く感じられるこの家 の中が、今は全く空虚だった。ほこりだらけの家中を見回して私は、すべて夢たったのか もしれないとさえ思った。 おばの部屋のドアを開けてみた。 いつみても、えらく汚ない部屋たった。何もかもが出しっ放し、引き出しも開けっ放し で、まるでどろ。ほうの人った後のような状態で部屋中に衣類が散らかっていた。机の上も まるでバッグの中身をぶちまけたかのように小物が散乱していた。窓のさんにはほこりが つもり、壁の鏡はまるでさっき出土されたもののようにどんより曇っている。ここからあ かっこう のきちんとした恰好をして出勤するなんてサギだわ、と私は思って部屋を出て来た。そし てドアを後手で閉めた時、別に何の決め手もないというのに私は、おばはしばらく戻らな いつもりなのかもしれない、 とふと思った。
たことがわかっちゃうのね。それに両親があまり好きでない人達から電話がかかってきた りすると、火がついたように泣くの。お父さんとお母さんの気持ちがわかるのかしらって ・くらい みんなで笑ったわ。あなた、けっこう面白かったわよ。一家に一台あると便利・ : にしか思っていなかったけれど。」 おばは微笑んだ。あんまりにもそれがどうかしたの ? という感じだったので、私はそ の瞬間ここしばらくの不安だった自分をごく自然に忘れた。それからしばらく、彼女は昔 のことを編むための美しい糸をたぐりよせるような遠い瞳で窓の外を見つめていた。遠い 空で月が小さく光っていた。そして、何ごとか大変なことのようにすべてをとらえていた 私にとって、おばがもう何もかもから離れているのを知ったのはかすかにショックだった。 彼女にとってすべてがもうとうに終わってしまったことだった。だから、私まで何もかも を何てことのないように感じられるような気がした。 「おばさん、にも。」今まで通りに私は呼んだ。「そんな変な能力があったの ? 」 「ないわよ。」 し おばはあっさりそう言った。そして細い指でアメリカン・チェリーをいくつかっかんで 手の平に載せた。 「お酒のつまみに果物っていけないんだっけ ? 」
っちりと分類してビンにつめて、ラベルを貼っているのを見て切なかった。このやり方は きっと、私が昔住んでいたという家と同じなのだろう。ラベルにはおばの可愛らしい文字 が並んでいた。カップを温め、ポットに正確な分量の葉を入れて、私はやたらていねいに お茶を人れた。 ここまで来たら哲生に何もかもぶちまけて、この出来事にまきこんでしまおうかという 衝動が、今や止められないほどの勢いで頭の中をぐるぐる回っていた。それを鎮めようと して、ていねいにお茶を人れた。 そんなことをしたら、一生後悔してしまう。 私は、ただ黙って哲生にお茶を出した。 「砂糖は。」哲生が言い、 「どこにあるのかわかんない。」と私が言った。 「ひどい暮らしをしているなあ。」哲生は言ってお茶を飲んだ。そして、部屋を見まわし て言った。「この家、長いこと人が住んでないような気配だな。」 れ私はその言葉でふいに悲しい錯覚にとらわれた。おばなんてもともといなくて、事故の 時みんな死んでいて、私だけがここをたずね、残りの 3 人がそういう私をどこかから見つ めていたのかもしれない。
もういちど静かに、私はたずねた。 この家に部屋が余ってるのを知っているでしよう ? 「いいわよう、決まってるじゃない。 好きなだけいらっしゃいよ。」 おばはきよとん、とした瞳の後に、明るい口調でそう言った。 「さあ、お入りなさい。雨に濡れるわ。」 そして、私を奥へ招き入れた。 あの夜の低い雨の音、沈む闇の濃さ。入ったとたんに閉ざされたドアの中の、静かな空 間。きしむ廊下を歩いて、台所へ行った。古びた大きなレンジでお湯をわかして、熱い紅 茶を入れてくれたおばの、白いパジャマの後姿が大きな影を壁に映していた。おばは何も 聞かす、お茶の香りが部屋中に満ち、テーブルにひじをついて私は、「私は単にもう 1 回、 ここに来たかったんた」と突然にそう思った。何もかもがわかったような確信が勝手にや ってきた。嬉しさに高揚して涙が出そうなくらいで、そんな自分が不思議だった。ここに 来るだけでよかったのだ。 し 哀 それから私は、おばが。ヒアノを弾くのを本当に久々に耳にした。昔と全く変わらない、 ぬ
158 どうしてこんな所を家族でおとすれようと思ったのだろう。すべてが不思議な光景だっ た。異世界へ迷い込んだようだ。果てしない立体にそびえる丘には、たくさんの地蔵が立 そとば ち、甘い青をしたタ空にくつきりと浮かびあがっていた。無数の卒塔婆が揺れ、カラスが 舞い、荒涼とした白い溶岩の草もない地面に、イオウの匂いが強く漂っていた。 ふいにめぐりあえたおばが横にいることが、まだ信じられなかった。ただ私達は歩き、 無数の像に出会った。人はまばらで、遠くをゆく人影は岩にまぎれておもちゃのように小 しくつものお堂が、広大な荒れた大地に影を落としていた。道にかがみこむ さく見えた。、 ようにしてある地蔵には、たくさんの色とりどりのポロきれのようなものが巻いてあり、 人間のように見えた。あちこちに不自然な形で小石が積まれて、すべてが妙にしんとして いる。何もかもが夢の中のようだ。振り向くと背には緑の山々がそびえていた。あちこち に蒸気が吹き出す、灰色のごっごっした岩の中を登っていった。景色は登るにつれて開け、 ☆
154 のヘじ 東北本線の野辺地に降り立ち、恐山へ向かうタクシーに乗った時は、もう夜が近かった。 私は 1 日のうちにあまりたくさんの距離を移動したので何だかすべてが麻痺してしまい、 目に映る何もかもが車窓の中に移りゆくのを、映画のようにただ眺めていた。車は初夏の 山道をどんどん登っていき、深く暮れゆく空の色がとてもきれいに見えた。透明で明るく、 はるかに遠い緑の山々の向こうに果てしなく続いていた。 とにかくおばを捜さなくてはという気持ちのあせりが、風景の中に静かに溶けてゆくの を感じていた。いくつものカーブを曲がり、どんどん奥まってゆく山の登り坂に傾きなが ら、確信はますます近づいていた。必ずいる、もう、すぐ近くにいる。それでも心は不思 議と安らいでいた。沈んでゆこうとしている陽の光が、タクシーの窓から手足に降り、何 もかもが何だかとても透明だった。 その時、運転手の鳴らした小さなクラクションの音に、ふと前を見ると、少し先の方の ☆ まひ