136 私は言った。胸が奥底の方からどきどきしはじめたのがわかった。きちんといすにすわ ったままで、食べる手を止めもせずに哲生は言った。 「しゃあ俺は、大学受かったら家を出るよ。」 私は黙った。 「少し遠めの大学に行けばいいわけだ。必然的に家を出ることになるだろう。いろいろ面 倒になるけど、時間をかけてやっていこうよ。それでいいと思うだろう ? 」 今までやってきたことの全部、そこから得たものの全部を込めて、哲生は私に気持ちを ぶつけて来ているのがわかった。そんなふうにされたら、気の迷いよ、とあしらえなくな ってしまう。そのことを彼は知っている。今まで彼は何もかもを手に入れて来たのたから、 ごうまん 自分が本気で何かを言う時、人がそれをはずせないやり方を心得ている。その傲慢さが生 まれてはじめて私に向けられた時、心の中の幾層もの思いの中でたったひとつの、姉より も女よりも深い何かが反応した。 それは慈悲、ということに近かったのかもしれない。何だか、かわいそうだった。 何だか、痛ましかった。あんなに両親に愛されて育ったのに私なんか好きになっちゃっ て。私はテー・フルの上にある哲生の手を取った。哲生は少し驚いて私の手を見ていた。思 わず、そうしてしまった。彼の手は子供の頃と同じように固く、あたたかかった。
と哲生が言い、 「おいしいです。」 と正彦くんが言った。知らない人にすぐなじむのは、哲生の特技だった。つまり他人な んてどうでも、 しいと思っているのだ。カレーをもぐもぐ食べながら、すぐに哲生は図々し い質問をした。 「スポーツをやっていたとしか思えない肉体、しつかりした顔立ち、育ちの良い服装。不 思議に思うんだが、正彦くんならかたぎのお嬢さんにいくらでももてるんだろうに、なん であのゆきのおばさんなんた ? どうも今ひとつよくわからないんだよね。あの人の魅力 っていうのが。」 時々、彼はこういう無邪気な態度になる。よく親戚の集まりなんかでも恐ろしい発言を してみんなを凍らせたものだった。そんなの適当に受け流せばいいのに、まじめな正彦く んは、うーん、と考えて答えた。 感 野「あの人は、ものすごくいさぎよいんだ。曲げられない自分っていうものを持っている。 哀どんなにつらい思いをしても、迷っても、決して自分を変えられない。その不器用さが何 1 だか痛ましいけれど、ものすごく魅力的なんだ。それに、授業が面白い。」 「音楽の授業がフ
そして、ふいに知った。おばはここについさっきまで立っていたにちがいない。それは、 夕方、陽がほとんど暮れた紺色の空が木々のシルエットを不思議なモザイクに浮かび上が らせる頃のことだ。おばはひとりここに立って、明かりもつけずに外を眺めていた。私に は、手に取るようにわかった。そして、もうここにいよ、。。 とこへ行ったかはわからない が、もういない。部屋に満ちてくる澄んだ夜の匂いの中で、私はそう確信してしまった。 ああ、いったいどこへ行ってしまったのか。もしかしたら、そんなに意地になって捜さな くてもよいのかもしれなかった。でも今は、私の方から彼女を見つけなくてはいけない時 なのだ。そういう、大切なゲームなのだ。そう思えてならなかった。 やがて哲生がどたどたと階段を降りてくる音で、私は現実に戻った。明かりをつけると、 廊下の向こうから彼がやってきて、 「いないんだけど、ほら。」 と言って私の方へ、 1 枚の紙を差し出した。 「これが、 2 階の居間のガラステーブルの上にあった。」 し と哲生は言った。私はその紙を受け取って、見てみた。そこには走り書きのような汚な 哀 い字で、
たじゃないか。 2 、 3 年前のことだったかな、おまえが 3 日くらい帰ってこなかった時、 ゆきのおばさんとこに。」 つられて私まで笑ってしまった。想像するだにおかしかった。 「何かすごくどきどきしてさ、なんでだかそう思い込んで、どうしようどうしよう、つい にばれたんだ、もう戻ることはないかもしれない、 とか真剣に悩んじゃってさ。それで、 電話してさ、ゆきのおばさんに『弥生、いますか ? 』って言った。心臓が爆発しそうだっ た。これから大変なことが始まるそっていう意気込みでね。そしたら、おばさんが『 : どうして ? 』って言うの、すごくおかしかったなあ、恥ずかしかったしな。自分の早とち りだってことがわかって、もう、何も一言えなくなった俺に、あの人がくすくす笑ってじゃ あね、って切った時、もう全部ばれたっていう気がした。ゆきのおばさんってそういう何 でも見透しちゃうようなところあるよな。 : : : 実際に起こってみると、心構えができてい たせいか、こんなの何てことないものなんだな。悩んで損した。」 感 っしょに一何 野「軽井沢に行かなかったら。」一一一一〕葉が口をついて出た。「だめだったと思う。 し 哀かなかったら。」 「 : : : そうだね。何もかもが上手に回って、何だか勢いのいい夢を見ていたようなんだ。」 哲生が言った。細めた瞳が優しかった。私は哲生と、それから私の目の前にあるオレン
コピー地獄、職場旅行、会議中の睡魔・ : 。立派な 酒井順子会社員になるのはムズカシイ卩三年間の生 会社人間失格 " 活をもとに綴る、本音の会社ェッセイー・ 「この人って私と別の人種だわ」と内心思いなが アナタとわたしは違う人酒井順子らも、なぜか器用に共存する女たち。ならば二種 類に分類してみましよう ! 痛快・面白ェッセイ。 耳の聞こえない晃次を、紘子は手話を習い、ひた 一フ愛していると言っ 悦吏子むきに愛するが : ・。豊川悦司主演で大ヒットした、 セてくれ せつない恋愛ドラマの決定版、完全ノベライズ。 ウィーン少年合唱団の追っかけオバサン、宝クジ ス信仰の現場 ナンシー関狂、福袋マニア : ・。世間の価値基準とズレた人々が マニア・パラダイス 、にヨロシク、 、すっとこどっこし べ 集う謎の異世界に潜入リ爆笑ルボ・エッセイ。 庫 女優として、母として、妻として、何より一人の 三田佳子女として、愛する人に囲まれ生きてきた。笑顔も 文てとテと手 泣き顔もすべて詰め込んだ本音のエッセイ。 角 病棟には幾多の生と死があり、人間ドラマが生ま 宮内美沙子れていく。よりよい看護を考えて、現役の看護婦 看護病棟日記 が綴った、現場からの生の声。 深夜のナースステーションに響く、ナースコ 1 ル。 宮内美沙子一瞬の緊迫の中、看護婦たちの闘いが始まる。よ 看護病棟時 りよいケアを求めて、現役の看護婦が綴った一冊。
のろ ないの。ずっと、呪いや祝福のように、体から抜けないのよ。」 ゆっくりと、語るその瞳の向こうに映るその家族の光景に私は思いをはせた。何も思い 出せやしないのに、私の胸は痛んだ。 思い出を持ち続けるおばがうらやましかったのかもしれない。 可の夢も見なかった。ただ、「わから 酔ってべッドに人ったので眠りは妙に浅く、私はー ない」という不安から解放されて、淡い光に満ちた眠りだった。あたたかい陽射しの中、 遠くの雲間に太陽が見えかくれするのを眺めているような、優しく心地良い気分を、久し ぶりに味わう気がした。ずっと、あまりよく寝られなかったのだ。そして、私は眠りの中 で。ヒアノの音を聞いた。あまりに美しく響くので、夢の中で私は熱い涙をこ・ほした。旋律 はくりかえし夢を満たし、胸の奥底へきらきらと消えていった。
「いいよ、私が出ても。」 その時、私は本気だった。それもいいかな、と思った。おばの家に移り住み、おばと暮 らすこと、暗い廊下のことや、夜をわたってゆく風や木々の音のこと。あの、甘い横顔、 ビアノの音色、にじむ月、緑の香る朝の光のこと : : : 私にはそんな未来の様子がばあっと 浮かび、それを心から肯定した。それはそれでなかなかいい未来だった。そうやっておば といる私の、その時、その気分さえもあたりまえのことのようにとてもよくわかった。多 かいま 分それは、もうこの世にいる可能性がなくなってしまったもうひとりの私が垣間見たひと ときの夢だったのだろう。その証拠に、哲生に言われてしまった。 「ちがう、逃げるな。」 どきりとして彼を見つめると、哲生は悲しそうな瞳をしていた。 「それとこれをいっしょにするんじゃない。俺が家を出るのと、おまえが出るのとじやわ けがちがうんだ。」 感 野「わかる。」 哀私は言った。彼はおびえている、そのことがよくわかった。哲生はグラスの水をごくご く飲んで、言った。 「今回おまえが家出した時、気が気じゃなかった。もちろん親父もおふくろもそうだった
本当にどこに寝てもいいらしく、寝人ってしまった場所におばがそっと毛布をかけてくれ るのだ。 電話が鳴っているのは、眠りの中でも何となく気づいていた。それはゆるやかに鈍い意 識の中、遠くの窓で鳴る風鈴のように響いた。少しずつ、ゆっくりと目が覚めていった私 は、おばの細い手が「はい。」と受話器をとったのを薄目で見ていた。 うん。 の。かまわない。 : あ、ええ、そう。うん、ずっといるわ。いい その電話の相手が母であることがわかった瞬間、私はまた強固に寝たふりに入っていっ た。おばが私をちらりと見る気配がした。そして、電話は続いた。 いちど ちがう、別にそんなつもりはないの。わかってよ、そんなことではないわ。 くらい、こういう時間があってもいいでしよう。ちゃんと本人が戻りたくなったら、すぐ に帰すつもりだわ。もう子供じゃないんだからいいじゃない。そんなバカみたいに心配し なくたって。そんなつもりがあるはずないでしよう。わかっているくせに。 耳元にかすかに届いてくるささやくようなおばの声は、とてもはかなかった。夜の電話 うつつ はいつも少し淋しい。真実はわかればいつも切ない。夢と現のはざまで、子供のような気 持ちでぼんやり聞いていた。 私を育ててくれた父と母のこと、哲生の腕の形、それから、あの、ほんのしばらく思い
と哲生は言い、また、木を切ることに熱中しはじめた。 「大は小をかねるって言うしね。」 私が笑うと、 「頭いいな、弥生。」 ひざ と彼は顔も上げずに笑って言った。陽射しに照らされた哲生の手元を、かがんでしばら く見ていた。 私はこの弟を本当に大好きだった。もっとも、彼を嫌いになれる人はそんなにはいない。 哲生はそういう子だった。私達はずっと、男女の姉弟としては信じられないくらい、仲良 く育った。私は彼をかなりずさんに扱ってきたが、心の底ではその物事に対する無垢な熱 心さを尊敬していた。彼は生まれつき、自分の内面の弱さを人にさらさないだけの強さや 明るさを持っていて、何にでも怖れを知らずにまっすぐぶつかってゆくことができた。今 は高 3 で受験生だが、誰も心配なんかしていなかった。楽しそうに問題集を山ほど買って 手きて、片つばしからゲームのように解いてゆく彼にとって、自分の学力にきちんと合った し 大学に。ハスすることは、あたり前のように見えた。悩んでいるひまに手を動かせるこの子 哀 が、すっと、うらやましかった。 , ~ 。 彼こま単純でバカな部分もあったが、特別な少年だった。 親も親類も口をそろえて言う。もしも人に、もともとの魂が美しいということがあるなら、 おそ
と言った。彼女はたくさん氷を入れたグラスにウイスキーをどんどん注ぎ込んた。それ を映す床の上の影が、触れ合う氷のかちかちいう音と共にゆっくり満ちてゆくのをくりか えし見ていた。〃 この人も決して危うくないわけではないのだ、ひとりきりで、決してこ こで面白おかしく暮らしているわけではない ? そして私が来て、乱されているんだ〃とい うことがそれを見ていてわかってきた。 「あの子、弥生のこと好きなのね。」 と言って、おばは少し微笑んだ。投げ出した足の、爪の形を見ていた。 「あの子って、哲生 ? 」 私は言った。 「そう、血のつながってない弟。」おばは平然と言った。 もう、隠されているものは何も残っていなかった。その瞬間、ライトが照らす具合や、 窓の外の夜の色が、一滴すっ落ちる貴重な時のしずくと共にとても光って見えた。 今た、と思った。今しかない。 哀私は静かにたすねた。 「私達のお父さんとお母さんは、どんな人達だったの ? 」 おばはすらりと口にした。今までも別に、隠してなんかいなかったみたいに。