128 たの、ってそればかりたからね。内心、心配していましたが、もう安心しました。こんな 所まで追ってきてくれるんだから、あの人はちゃんと愛されているんですね。」 「うん、もちろんそうよ。」 私は言った。 「どこまででも追っていくし、いつまででも待つわよ。」 「僕もですよ。」 と彼は笑った。卑屈なところが何もない笑顔だった。このところこの人や、哲生や、お ばといると私は子供の頃からずっと、漠然と感じていた正体のわからなかったある後ろめ たさから解放されるような気がした。新しい事実と共に、新しい自分がやっと普通に呼吸 しているような気持ちのいい感じだった。だから私は彼がもういちど、上手なタイミング いいな、と思った。いつのまにかたってし でおばにめぐり合って、きちんと話ができると まった時間が、ただでさえ彼には気を許しているおばの心を溶かしたかもしれない。それ ならば何もかも問題なしで、 2 人は幸せになれるかもしれない。 いつの日か彼はあの恐ろしい家に手を入れ、粗大ゴミのトラックにあのゴミの山を持っ て行かせ、窓や門は修理される。あの家は、新居として生まれ変わるのだ。そこでおばと しいように、好き勝手に楽しく生きている。庭木は 正彦くんは共に暮らす。お互いのやり、
その前夜、通夜の席で、私はおばに会っていた。おばの様子はやはり少し周囲と。ヒント がずれているように思えた。大勢いる母のきようだいのうち、ひとり。ほっんと若く、ひと り無ロなおばは、終始たた立っているたけだった。そして、ひとり、息をのむほど美しく 見えた。多分、彼女にとってそれは一張羅の喪服だったのだろう。そして私はおばがそう いうきちんとした服装でいるところをはじめて見た。黒いワン。ヒースのすそのところにク リーニング札がついたままなのを母が取ってやっても彼女は照れもせず、にこりともしな かった。代わりに悲痛なゆっくりさでかすかに頭を下げた。 家族といっしょにただ立ちつくして、やってくる人々の列を見ていた私は、おばから目 が離せなくなってしまった。 , 彼女は目の下に隈をつくり、まっ白い唇をして、目に映る白 と黒のコントラストの中、幽霊のように透明に見えた。門外の受付のところでは巨大なス トープがたかれ、暗い闇に熱風をはき出していた。凍えそうな夜の中、ごうごう音をたて て燃える炎のその勢いのいい赤に、おばのほほが鮮やかに照らされていた。皆があいさっ 感 を交わしたり、 ハンカチで目を押さえたりして、暗いあわただしさをたたえていたその夜 予 いの中で、おばたけがびたりと、まるで闇の一部になってしまったように静止していた。真 哀 ひとみ 珠のネックレス 1 つで、手には何も持っていず、瞳だけが火を映してきらきらと強く光っ て見えた。 くま
せつかく女の子に生まれたのだから、楽しまなく お年頃 酒井順子ては損。肩の力を抜いて、平凡さに胸をはりまし 乙女の開花前線 よ。女の子生活全開お愉しみェッセイー 飽くことのない食べ物への好奇心。食べている時 酒井順子にこそ、女の成熟度が現れる。食事にまつわる四 食欲の奴隷 十二の事柄が、貴女を大人の女に変えるー 外食、ストレス、おっき合い : ・おいしく幸せな食 ラ丸の内の空腹 酒井順子事のための、と「食」とダイエットの関係。 お食事物語 元丸の内の著者が彼女達の生態を鋭く描くー キャリアと美意識のせめぎ合い、会社員ファッシ ス ムエ社員で打こ、つー・酒井順子ョン : ・。全ての女性部下を持つ上司と若きビジネ べ スマンやに捧げる、会社生活必勝ェッセイ ! 庫 意外な学歴・身長の芸能人。ドラマやで思わ 文テレビってやつは酒井順子ずチ一ネを変えたくなる瞬間。クイズ番組で の人間模様・ : 。テレビフリーク必見のエッセイ ! 角 ″特別みに憧れながら〃普通″を抜け出せなかっ 東 ~ 星小ノ女 ~ 成時記酒井順子た少女。普通の女子高生がコラムを雑誌に投稿し、 社会人になるまでの自伝的ェッセイ集。 ・、ダイエット、ファ 、ジャマパ マーガレット酒井の リセエンヌ 酒井順子ッション : ・マーガレット酒井先生が女子高生の本 女子高生の面接時間 音に迫る、おしゃべりエッセイー
150 「明日、青森に行くんだよ。持ってゆくものがあったら、このリ、ツクに入れていいよ。」 か細い手で姉が赤いリ、ツクを差し出す。私は、旅行が楽しみでないわけではなかった。 それでも、あんなに悲しいタ方はなかった。今、思ってもそっとするような深い悲しみだ った。私はとにかく心もとなくて、淋しくて、髪をとかす母にまつわりついていた。何も かもをその小さな手の中に握っていたかった。後から後から湧いてくる悲しい気持ちを食 い止めようがなかった。 わかりました。弥生に編んでもらうわね。」 と母は笑った。そう、ゆっくりと話す人だった。その低い声の深い響きを、背中に耳を つけて聞いていた。甘い香りのする長い髪を、不器用な子供の手で三つ編みにした。母は 鏡の中で嬉しそうににこにこしていた。 「お父さんは ? 」 ☆
とおばは一一一一口った。 おそるおそる、私は言った。 「きっと、いると思ったの。」 ただそれを伝えることで精一杯だった。 「上がって。お母さんには、内緒よ。」 彼女は白い。ハジャマを着ていた。ひとりでそこを訪ね と言っておばはちょっと笑った。 , さび るのは初めてだった私にとって、その荒れた室内はとても淋しげで、寒く思えた。 ストーブのあるのが多分、その部屋だけなのだろう、私はその時、 2 階にあるおばの部 屋に通された。大きな黒い。ヒアノがあった。いろんなものを足で押しのけてクッションを 置いたおばは、 「何か飲み物持ってくるから、そこにすわってて。」 と言って階下へ降りていった。窓の外はみそれに変わり、ばらばらとガラスに氷のぶつ かる音がした。おばの家のあたりの夜があまりに暗くひっそりと訪れるので驚いていた。 そんなところにずっと、ひとりで住んでいるなんて私には想像もっかず、何となく居心地 が悪かった。正直言って早く家に帰りたかった。ただ 「弥生ってカルビス嫌い ? 」
「はじめは、だらしない高校教師と年上好きの青年というありふれた話かと思っていたけ ど何だか、君の話を聞いてたら、ゆきのおばさんのことがほんの少しわかってきたような 気がするよ。」 正彦くんは心からの笑顔を見せて、 「そうかな。」 と言った。それはとてもいい場面だった。 そうだ、私が今、こんな遠いところにやってきているのも、おばが私の姉だからだけで はなく、黙っていなくなってしまったからでもない。それはおばの背負っている、女とし ての暗黒の魔力だ。あの髪や甘く響く声や、ピアノを弾く細い指のその向こうに彼女は何 かとほうもなく巨大ななっかしさを隠している。それが、失われた子供時代を持つ人には きっと特別よくわかるのだ。夜よりも深く、永遠よりも長い、はるかな何か。 その大変な重みに少しも曲がらない、しなやかな自我の切なさに、私達は想いをはせる。 感 予 っしょに食事を そして、ますます魅かれて、こんな星の降る林の中で出会ってしまう。い 哀する。 そういうことなのだ。
感じがした。話しながら、ゆっくりと静かに 2 人は歩いた。まるで、夜の底を歩いている ようこ。 駅前のマクドナルドに入ってみたものの、私はサイフを持っていないことに気づいて、 哲生が全部払った。そして、 2 人でいろんなものを頼み、思い切り食べた。何だか異様に 楽しくて、いつまでもそうして遊んでいたくなった。 店を出て哲生が笑いながら言った。 「なんで俺、いやな目にあった上に人におごらなきゃいけないの。ふんだりけったりだ。」 「家に帰ったら、払うわよ。」 私も笑った。 「でも満腹になったら、あと味の悪いのが消えた。」哲生は空を見上けてそう言い、 「よかったわね。」 と私が言った。同じ家に帰ってゆくことをとても甘く感じた。遠くを渡ってゆく風に、 触れることができそうなくらいに、視界がはっきりしていた。駅前にはもう人はまばらで、 祭りのあとのように、ところどころの店の明かりが夜をふちどっていた。 子供の頃から何か大きなことがおこる度、例えば家族で植えた木が台風でみんな根こそ ぎやられた時とか、身内が死んだ時とか、そういう時に 2 人が分かちあったものによく似
174 「哀しい予感」が書かれたのは、 19 8 8 年の夏から秋にかけてたった。そのころ、吉本 ばなながこう言ったことがあった。 「若いうちはエネルギーのあるものに魅かれていくのは当然だと思う」 なんの脈絡で彼女がそう言ったのかは覚えていない。けれど、どこかの通りを彼女の友 がれき そび 人とともに三人で歩いているときだった。見ればビルの瓦礫があり、空にクレーン車が聳 えているところでそう言ったのが妙にびったりきて記憶しているのである。 この作品の文庫化のために再度小説を読み返しているうちに、当時の彼女の精神状態が 彼女は作家として作品に疾走感をもとめていたはずだ。「キッチン」 よく伝わってきた。 , を発表し、「うたかた」「サンクチュアリ」を書き、マリ・クレール誌に「 —」の連載を開始し、そして「哀しい予感」と書きつづけていたところで、自作の亜流を 書くことをはなっから拒んでいた。だから、エネルギーあるものに強烈な関心を持ち、疾 走感を手に人れる手掛かりを求めて目を見開いていた。別に年齢でエクスキーズする気 もないが、幻歳・吉本ばななの当時の五感が手にいれたすべてのことを投影させようとす うかが る企みが本作品からよく窺える。 たとえば、「哀しい予感」の冒頭はこうだ。
124 らい恋をして老け込んでしまったからなのか、私は初めから彼をものすごく年上の人のよ うに感じていた。 「うん、得意分野です。」 彼は笑った。 「じゃあ、これお願いします。」 と私はみそ汁に入れるさやえんどうを、透明なざるに人れて渡した。彼はにつこり笑っ て受け取り、床にすわりこんで一心不乱にすじを取りはじめた。何にでもひたむきになる たちらしい彼が、大きな手で少年のように床にあぐらをかいてすじを取っているのを、何 となく微笑ましい気持ちで見ていた。 「母親が、もう死んでしまったんですけれど、ものすごく病弱だったんですよ。それで小 学生の頃は僕が晩ごはんを作ってたんですよね。子供心にも少しでも母が丈夫になるよう にと栄養の。ハランスを考えたりしてね、べテランですよ。」 「なあんだ、しゃあこれもお願いしちゃおう。適当に切って下さい。」 私はだしを取りながら、予備のまな板と包丁を出して、ビニール袋ごとこんにやくを渡 した。とっくにすじを取り終わってしまった彼は、それはそれは嬉しそうに包丁を持った。 しばらくして見ると、彼は細く切ったこんにやくに切れ目を入れて、きれいにねじってく
きちんとすべてが定位置に落ち着き、息をひそめているように思える。台所の流しには昨 夜のグラスやお皿がそっと水につかって放ってあった。私は水音さえも強く響く静けさの 中で、それらを洗った。冷たい水が手に心地良かった。窓からはまっ白な光がたくさん入 って床の一部を照らしていた。私は、まるで真夏の海岸のように陽にさらされた窓辺で。 ( ンをかじり、オレンジジースを飲み、余っていたアメリカン・チェリーをつまんだ。ま ぶしくてビクニックのようだった。ひんやりした床がざらざらしているのを、足の裏で感 じていた。窓の外の世界は光と影にくつきりと分かれ、初夏の木々の織りなす透かし模様 がちらちらと揺れていた。午後に向かって陽が強くなる。私はそうして、夏がもうすぐそ こまで来ている気配を全身で受けとめていた。 少しおかしい、と気づいたのは午後になってからだった。 いつまでたってもおばは戻ってこなかった。そして私は、今さらながら自分がおばの私 生活を何も知らなかったことを知った。彼女には今、恋人がいるのか、長居できる友人は いるのか、買物はどこの街へ行くのか、さつばり、見当もっかなかった。おばの生活には そういうことがかもし出すはすの「気配」がまるでないのだ。