正彦 - みる会図書館


検索対象: 哀しい予感
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1. 哀しい予感

と哲生が言い、 「おいしいです。」 と正彦くんが言った。知らない人にすぐなじむのは、哲生の特技だった。つまり他人な んてどうでも、 しいと思っているのだ。カレーをもぐもぐ食べながら、すぐに哲生は図々し い質問をした。 「スポーツをやっていたとしか思えない肉体、しつかりした顔立ち、育ちの良い服装。不 思議に思うんだが、正彦くんならかたぎのお嬢さんにいくらでももてるんだろうに、なん であのゆきのおばさんなんた ? どうも今ひとつよくわからないんだよね。あの人の魅力 っていうのが。」 時々、彼はこういう無邪気な態度になる。よく親戚の集まりなんかでも恐ろしい発言を してみんなを凍らせたものだった。そんなの適当に受け流せばいいのに、まじめな正彦く んは、うーん、と考えて答えた。 感 野「あの人は、ものすごくいさぎよいんだ。曲げられない自分っていうものを持っている。 哀どんなにつらい思いをしても、迷っても、決して自分を変えられない。その不器用さが何 1 だか痛ましいけれど、ものすごく魅力的なんだ。それに、授業が面白い。」 「音楽の授業がフ

2. 哀しい予感

99 哀しい予感 ただいまあー、と帰って来た哲生は正彦くんを見てびつくりしていた。私がかんたんに いきさつを説明すると、哲生はぎちんと自己紹介をした後に私にだけ聞こえるくらいの小 さな声で、 「しかし、彼女をめぐってまるで推理物のように人が増えていくなあ、殺人事件がおきそ うだな。」 とつぶやいた。私はおかしくて、正彦くんに聞こえないようにこっそり笑った。

3. 哀しい予感

しいんだ。迷惑はかけない、頼む、そうしてくれないか。もう、君達以外に手がかりがな いんだ。」 正彦くんが言った。この件に関しては一応部外者である哲生は、しばらく黙り込んた。 ほんの少し触れている足のぬくもりが、そのためらいを私に伝えた。哲生は責任の取れそ うもないことは決して引き受けない。 「いいよ、そうしてやる。」哲生は言った。「住所を教えな。」 正彦くんは黒く美しい手帳にさらさらとメモを書きつけ、破って哲生に渡した。 「大丈夫だよ。ゆきのおばさんもバカじゃないから、きっと近々、ちゃんと会ってくれる ようになるよ。うん、そう思うな。」 哲生が笑った。正彦くんは明るい瞳を哲生に向け、 「君が言うと、何だか本当にそうなりそうだ。」 と一一一口った。 感 予 走る窓の外はずっと、濃淡がくつきりと分かれた田畑が続いていた。さっきからちょう 哀ど私の顔が向いている空の、変わらない位置に太陽が見えかくれして光る雲に鮮やかにと けるようなのを、私は薄目を開けて見つめていた。

4. 哀しい予感

130 朝食時に顔を合わせたとたん、反射的に私も哲生も姉弟の精神状態を胸の奥から同時に するりと引っぱり出した。そっちの方が長年築きあげてきた顔でよっぽどゆるぎないもの だったので、少しも照れもしなかったし、気まずくもなかった。どんな不倫なんかよりも 完璧に自然だった。おかげで私は同じように知らんぶりしている自分を棚に上げて、内心 少し不機嫌になってしまったくらいだ。 帰りの列車で私は乗ったとたんにシートに沈み込み、ロを開けてひたすら眠ってしまっ た。駅に止まってもいちいち目も覚めやしなかったが、途中、 1 度だけうっすら起きた。 その時、哲生と正彦くんが小声で話していた。私の隣りに哲生がいて、正彦くんは向か い側の席にいた。私は窓に頭をもたれさせて半分眠ったまま、 2 人の話を・ほんやり聞いて 「もし僕より先に彼女と連絡がとれたなら、本人が教えるなと言っても、僕に知らせてほ ☆

5. 哀しい予感

「ごめんなさい。」 とまっすぐな声で言った。待てよ、と私は思った。彼が知っているということはおばか ら聞いたということではないか。それは驚異的なことだった。私は笑顔を作って言った。 「ううん、 いいんです。それより、そのことをどうして知っているんですか ? 」 「ゆきのさんが言っていたんです。」正彦くんははっきり言った。「妹がいるが、い には住めないんだって。どこに ? といくらたずねても、山の向こうに、とかこの世のど くりかえしく こかに、とか言うだけで相手にしてくれなかったんです、ずっと。でもね、 りかえし言うんです。そして、もっとたくさんのことを話しそうになる度、はっとして口 をつぐんでしまった。そのことはずっと気にはかけていたんですが、昨日、弥生さんにお 会いした時、ひと目でわかりました。この人がゆきのさんの妹なんだなって。」 「そうですか。」 私はしみじみとして言った。正彦くんは、そのまっ黒な大きい瞳に明るい表情をたたえ 感 予 て言った。 哀「くわしい事情は何も知らないんですが、僕があの家にしよっちゅう顔を出していた頃、 その、妹、というひとと交流している形跡がまるでないでしよう。それにあの人、家族の ことを何も話さないんです。両親は死んだ、妹がひとり、昔、庭に池のある家に住んでい

6. 哀しい予感

の疲れ : : : すべてのバランスが奇跡のように整っている。 「僕って、めかけの子なんです。」 正彦くんが言った。あんまり唐突だったので、私と哲生はただびつくりして黙った。 2 人が彼をただじろじろ見ているのを感じると、正彦くんは苦笑して話を続けた。妙に堂々 としたふるまいで、実に感しがよかった。 「母が死んでからは、父の方にひきとられてごく普通に生きてきましたから、どちらにし ても子供の頃のことで、今は何も問題はないんだけれどね。ただの幸福な・ほん・ほんです。 自分が言ってるんだから、間違いはない。それでね、年頃になってからずっと、当然のよ うに何て言うかな、はきはきしたタイ。フとばかりつき合ってきたんだ。わかるだろ ? 彼が哲生を見た。哲生は笑って、 「わかるわかる。見るからにそうだ。」 と一一一一口った。 感 野「多分、おおもとのところでゆきのさんが不安に思っていたのはそこではないか、と今は 哀そんな結論が出ている。前はわからなくて、ただふられたつもりでいたけれどね。確かに 僕の中の一部は、はきはきしていて、率直で、年相応のいいところがたくさんあって、涙 もろくて、きちんとしている、そういうのが女の子なんだっていつも思ってる。誰もがそ

7. 哀しい予感

「何か作ってくれるんですか。」 もしかしておばに〃なかったことみにされてしまったのかもしれない正彦くんが居間か ら大声で言った。野菜を洗う水音と共に、 「そうですね、朝ごはんを。」 と私は答えた。 「何か手伝いましよう。」 と彼は立ち上がってやってきた。 感 吁「お世話になりっ放しですから。」 哀「けっこうですよ、やります。 : : : お料理できるんですか ? 」 私は苦笑した。同い年の男に向かってどうしてか敬語で話しているのがおかしかったの だ。しかし彼にはどこか、人の襟を正させる感じがあった。元々がこういう人なのか、つ ☆

8. 哀しい予感

129 哀しい予感 整えられ、陽が射すべランダには子供もごろごろいる。もしも、私と哲生が姉弟としてで はなくそこをたずねてゆけたなら、そこだけでは、私とおばは当然のように姉妹として話 をすることができたなら : : : それは何だかあまりに遠すぎて、あまりにも障害が多すぎて、 : もちろん、ものごとは明るけ まるで楽園のようにはるかに光ったイメージに思えた。 、というものではないけれど、その光景はあまりにもありえなそうにまぶしすぎて、 ればいし 佃だか祈りのようだった。一瞬、私はつよく思った。それは許されることだ、そういう日 、まずだと。 は来てもいしを 「分もしたらご飯がたけるから、そうしたら朝食だからね。」 私は言って、台所を出た。何だか頭がはっきりしないので、もうしばらくふとんにもぐ り込んでいたかったのだ。 「はい、仕度しときましよう。」 と正彦くんは笑った。

9. 哀しい予感

100 高原にやって来ると、どうしても食べたくなってしまうものがあった。それは、母の作 るフルーッカレーだった。昔、父の運転する車でここにやってくると、ますみんなで家中 の掃除をした。そしていつも 1 泊目は母が、キウイやパイナツ。フルの人った甘いカレーを 作るのだ。 今夜はそれを私は作ることになった。 私と哲生は、今日中に東京にひきかえすつもりでいた。しかし正彦くんが、「僕に住所 を告げたのだから、彼女は戻ってくるかもしれない。」と苦しそうに言った。私も哲生も ・。」と思っていたが、疲れ果てている彼があまりにも不憫で、 内心、「それはない線たな・ : っしょに泊まってやることにした。どうせ動きようがないから、別に急ぐことはないの た。そして、私達はそのおかしな組み合わせでテーブルを囲んだ。 「うん、なっかしい味だ、おふくろと同じ味だ。」 ☆ ふびん

10. 哀しい予感

あの人は、特別なんだ。それは僕が高 3 の時で、あの日から何となく、好きになっちゃっ たんですね。」 恋する男はみんな相手を特別なものと思うものだが、この人の言っていることはよくわ かる気がした。 「なるほど。」と哲生は言った。「あのおばさん、授業がものすごいいいかげんそうだもの な。見るからに、すごそうた。」 「すごいもんですよ。」 正彦くんは何となく誇らしげに笑って言った。 「雨が降ると、学校を休んじゃうんだ、先生のくせに。授業だって、平気で間分遅れてき たり、早く帰ったり、毎日何だかわくわくしたよ。 1 度なんか、授業中に。ヒアノの音がび たり、と止まっちゃったから教室中がざわざわしてさ、のそきこんでみたら眠っていたこ とがあった。」 感 「すごいわ。」 哀と私は言った。 「試験前には、必ず問題を黒板に全部書いてくれた。『ないしょですが : : : 。』とか言って ね、おかげでクラス中いつもほとんど満点でしたからね。実技のテストだって、人に歌わ