やがて哲生がダッシで戻ってきて、 「あった、あったよ。」 と一一一一口った。 「たのもしい子。」 と思わず私はロに出して言った。心からそう思った。 「日頃、きたえているからな。」 と哲生は笑った。そう言えばよく彼はひとりで山や川に出かけて、何日も帰ってこなか ったものだ。彼は人生の基本をスポーツから学んでいるから、どんな時でも現実に対して 強くてしなやかだった。おばが彼のことを「自分で知っていると思っているよりもっと多 くのことを知っている。」という言い方をしていたが、よくわかる。そして、それを思い 冫いたはずのおばにたまらなく会いたくなった。 出した時、昨日の夜までいっしょこ 哲生についてゆくと、今にもくずれ落ちそうな垣根の向こうに、さびた鉄のポストがほ つん、と立っていた。言われてみれば、確かにこれが家の関係の別荘だった。家の中は真 し暗だった。 「いないのかしら。」 と私は言った。
い匂いのする芝生に立って彼を見ていた。 「何だか変なお天気ねえ、晴れてるんだか曇っているんだか。」 空を見上げて母は言った。確かにその午後の空は不思議な色をしていた。光る雲が幾層 にも重なり、降りそそぐ黄金色の光が時折さあっと翳り、芝生を暗い緑に見せた。 「梅雨だからね。」 と言って私は作業に戻った。家を空けていた間にはびこった雑草が、果てしなくあった。 そういう単純作業には人間、熱中するものだ。やがて、明るい手元に突然、ばらばらと雨 が落ちてきた。 「あらあら、お父さんかさも持たすに出たけど、大丈夫かしら。」 少し向こうで植え替えを続けていた母が立ち上がった。光の中に降り注ぐ大粒の雨が、 母の表情をとても不安げに見せた。 「すぐ止むわよ。」 私は言った。 し 「ちょっとこっちへ来て雨やどりしなさい、濡れちゃうわよ。」 哀 母は低く繁った木の下にしやがんで、私を手まねきした。確かに雨は激しくなり始め、 にわかに空もどんより暗い灰色に覆われてきた。私は母のとなりに走った。まるでタ立の こがねいろ
するとしないでは何もかもが 180 度違うことがこの世にはある。そのキスがそれだっ 私達はそれから無言で立ち上がり、土を払い、別荘に向かって歩いた。そして少し笑っ て「おやすみ。」を言い、別々の部屋に別れていった。 そして私は、眠れなかった。 まるで足元をすくわれたようだ。闇の中を遠ざかってゆく船をひとり見送っているよう だ。それでも心は暗く切なくときめいていた。甘い味のする闇だった。気づくと心はいっ 感 の間にかくりかえし哲生の唇をおもっている。すべりこませた胸の、ほほに触れる感じを し 哀思い出す。 それほど確かなことはこの世のどこにもなく、そのために私は何もかもを投げ出しても しいと思った。それなのに今はまるで宇宙の闇を見ているように孤独なのだ。 2 人には行 ☆
哲生が部屋を出てゆき、ドアがばたん、と閉まった瞬間、まるで化学反応みたいにきっ ちりと不安がこみあげてきた。べランダから立ち上がり、追いかけていって哲生の部屋に 一丁き、話を聞いてほしいと思った。 でも、やつばりそうしなかった。 私はすわったまま、夜空を見上げていた。 そして、翌日の雨の夜、私は家出を決行した。 ている何かをその時、私達は何となく共有していた。 「何か、今日って夜がすごくきれいじゃないか ? 明かりの感じとかさ、いつもと違わな ふいに哲生が言った。私もそう思いながら歩いていた。空は真に黒く、外気はまるでよ く磨き込まれた鏡のように街を映していた。 「うん、そう思うわ。」と、あの時確かに私は言った。「きっと、空気が澄んでいるからよ、 今夜は。」
私は母に初めてその体験をすべて語った。その出来事に私はずっと口をつぐんでい たのた。天気雨は続き、空を見上げる度に目がちかちかした。話している最中も、自分で は何か上すべりな気がした。本当のこととは思えないし、自分でもできれば忘れたかった。 「でも、本当にそれは、夢に過ぎないっていうことはないの ? 事実っていう気がす る ? 」 母は真顔で言った。昔から、どんな時でも子供の話をきちんと聞いてくれる人たった。 「うん、だって私、調べたもの。」 私は言った。自分でもこわいくらい落ち着いた声だった。 「大家さんの所に行って話を聞いたの。それから図書館に行って新聞のコ。ヒーを撮ったわ。 確かにあったの、そういう事件があの家で。若いホステスが夫に逃げられて、少し頭が変 になって赤ん坊を殺しちゃったんですって。日付は夢の中と同じ夏よ、 8 月だったわ。」 ☆
入れたら、取り出せなくなってしまうからね。昔はかさを人れていたの。確かにね。それ で、弥生のかさがどうかしたの ? 」 おばは寝・ほけた声で髪の毛を前にたらして、つぶやくように言った。 「びっしりかびよー、すごいの。」 私はさわいだ。おばはしばらく、うーん、と口をへの字にして窓を次々流れる透きとお った雨の粒を見つめていたがやがて、 「わかった、なかったことにしましよう。」 と一一一一口った。 「何それー。」 と私は言った。 「そのつ・ほをかさごと、家の裏に持っていって、。ほいっと置いとけばいい。 んだから、外に出なければいいの、今日 1 日くらいは。」 感 予 そう言っておばはふとんにもぐりこんでしまった。 哀私はあきらめて、言われた通りにその重いつ。ほを持って家の裏に回った。ひざまで来る 濡れた雑草をかきわけ、はじめてあの廃屋のような家の反対側をきちんと見た。ひどいも のだった。おまけに裏にはおばが今まで「なかったことにした」ものがそっとするほどた それで、雨な
おばが家を出た時の、バタンと閉まるドアの音を、私は確かに聞いた。私は窓の外を見 た。夜が明けはじめていて、朝焼けが見えた。そして、。ヒンクの不思議な空の中に、おば が歩いてゆく靴音が響きわたっていった。私が眠っている 2 階の部屋の、真下が玄関なの でとてもよく聞こえた。私はかなりはっきりとその、遠ざかってゆく足音をお・ほえている。 どこへ行くんだろうと、うとうと思いながら、私はまたぐっすり眠ってしまった。 次に目覚めたのは川時過ぎだった。あまりにも気だるくて、私は起き上がれなかった。 黙って寝ころんだまま、窓の外を見上げていた。晴れた空は薄く光る雲にうっすらと覆わ 手れていて、・ほんやりと爽やかな木々の香りが遠くから風に乗って香ってきていた。私は涼 れやかな眠りに誘われて、またゆったりと目を閉じた。まぶたに光が淡く射しているのがわ かる。 その時、ドアチャイムが鳴った。 ☆ さわ
157 哀しい予感 「そう。そして結局、たどり着けなかった。」 おばは言った。髪に隠れた横顔の、唇だけがその悲しい言葉を発音するのを見ていた。 私にはもう、想像ができた。こうして走る車の中に、家族 4 人が確かにいた。前のシート には父と母が、後ろには私達が。山道をぐんぐん登ってゆく振動の中で、最後の楽しい会 話を寸前まで交わしていたに違いない。今ははっきりと浮かぶ。父、のおだやかな深い瞳 も、母、の肩の線の柔らかだったことも。 「ほら、この辺が事故現場よ。何か、感じる ? 」 おばは笑った。車は数秒でそこを通り過ぎ、 「何も感しない。」 と言って私も笑った。実際、何も感じなかった。ただ、西空の山々の縁がかすかに輝き、 空に淡いビンク色の影が残っているのを見た。きれいだった。 湖のほとりにある赤い橋のところにタクシーを待たせて、私とおばは恐山の門に向かっ て歩いていった。
あの夜、大きな荷物を抱えた私を哀れに思ってむかえてくれた姉の霊。 あたたかい家族の幽霊達。 「俺さあ、あそこだと思うんだけど。ほら。」 哲生が言った。私が毒にも薬にもならない妄想にふけって目の前を真暗にしているうち に、彼はちゃんと考えていた。 「うちの親戚すじの、別 ~ 士。ほら、あの、平屋の西武があるとこ。」 哲生は言った。 「なに ? 「ほら、マーケットみたいに、山の中にいきなり平屋の西武が : かるいぎわ 「ああ、軽井沢 ? 」 私は言った。 「そうそう、ゆきのおばさんはあそこがとても好きで、よく利用するっていう話を俺、誰 かに聞いたよ。あそこなら思しナオ 、、こっこらすぐに行ける距離だしさ。」 「そうかもしれない。」 私は突然、希望を感じた。おばは確かにそこにいる、そんな気がした。私も子供の頃何 度か行ったことがある、山奥の別荘。行ってみよう、と私は心に決めた。しかし、哲生は せいぶ どこだっけか。」
それは私の全くの思い込みなのかもしれなかった。幼い頃の記憶なんて、たいがいの人が ごく普通に忘れ去ってしまうものだ。それでもーーー月がとても明るく光る夜なんかに外に いると、いてもたってもいられなくなることがあった。遠い空を仰いで風に吹かれている と、とてつもなくなっかしいことを思い出せそうになった。それは確かにそこにあるのに、 もっと考えようとするといつの間にか姿を消してしまう。ずっと、そうだった。そしてこ の疑問は、改築のためにしばらく住んだ借家で起こったちょっとした事件の後、ますます 強く胸をしめつけていた : 「弥生 ! 起きろ、もう昼になるそ。」 階下から父の声がして、仕方なく私はべッドから起き上がって階段を降りていった。父 は玄関のたたきでサンダルをスニーカーにはき替えていた。 「何よ、自分が逃げ出したいものだから、交代要員を無理やり起こしたのね。」 私は言った。 「無理やりも何も、もう昼だよ。俺はもう、ひと仕事手伝わされたんだそ。後は頼む。」 れ父は笑った。前髪をおろしているせいか、日曜日の彼はいつも若く見えた。 「散歩 ? 「うん、ちょっと逃げ出してくる。」 おれ