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検索対象: 哀しい予感
159件見つかりました。

1. 哀しい予感

110 しまっていた。父は言った。 「あんまりたくさんありすぎるものを見ると、人間は不思議と悲しくなっちゃうんだよ。」 よく覚えている。あの時、ぎゅっとつないだ父の手の感触さえ、よみがえる。育ての父、 の。あの、乾いた大きな手のひら。 ひとまわりして、そろそろ帰路につこうとしていた。目がなれて、林の木々がまるで夢 幻のように・ほんやりと光って見えた。坂道をまっすぐ下ってゆけば、私達の別荘だった。 正彦くんがまだ起きているのだろう、遠くに見える窓に。ほっんと明かりがついていた。そ の星のような白を目指して、小枝や乾いた土を踏んでゆけばすぐ着いてしまう。そう思う と、林の夜気が心の細胞をひとつひとっ夜に染めてゆくような寒い気分になった。 「おまえ明日、どうするの、弥生。」 ふいに哲生が言った。私は立ち止まった。私はまだ家の中に戻りたくなかったのかもし れない。星を見上げた。幾度見ても、信しられないくらい冴えた夜空だった。 「どうするのって : : : 私。」それはあまり、今、この場では考えたくないことだった。「何 とかして捜しあてたいな。このままじゃ何だかくやしいし。でもとりあえずいったん戻っ てみようかな、おばさんちに。ここに戻ってくる可能性は低いものね。」 何も本質に触れていない答え方だった。何も確かなことがない。果てしない水底をのそ

2. 哀しい予感

が近づいてきて、おばの輪郭をあいまいにした。それでも今、私の姉は確かにここにいて、 私と同しく、心の中でこの美しい光景に向かって手を合わせていた。 「長かったね。」 。ほっりとおばが言った。 そうた、今、やっと何かがひとっ終わったのだと私は思っていた。心が洗われたように 澄みわたっていた。 「来てくれてありがとう。あなたの行動力を私は称える。」おばは言った。伏せたまっ毛 で岸に満ちる水を見ていた。私とそっくりな形をした指で、前髪をかき上げた。「気にし ていないようで、あなたのことをずいぶんと気にしていたのがわかるわ。思い出してくれ て、嬉しかった。」 「なんだか、ずっとおばさんといたみたいよ、ここのところずっと。」 私は言った。おばは細めた瞳で私を見てふふ、と笑い 感 吁「うそおっしゃい、弟といたくせに。」 し 哀 と言った。そうた、哲生ともいた。長い夢から覚めたように、 「うん。」私はうなすいた。「短いけれど、不思議な日々だったな。」 もう、 2 度とない、貴重な。 1 度きりの。 たた いっしょに旅をした。

3. 哀しい予感

の疲れ : : : すべてのバランスが奇跡のように整っている。 「僕って、めかけの子なんです。」 正彦くんが言った。あんまり唐突だったので、私と哲生はただびつくりして黙った。 2 人が彼をただじろじろ見ているのを感じると、正彦くんは苦笑して話を続けた。妙に堂々 としたふるまいで、実に感しがよかった。 「母が死んでからは、父の方にひきとられてごく普通に生きてきましたから、どちらにし ても子供の頃のことで、今は何も問題はないんだけれどね。ただの幸福な・ほん・ほんです。 自分が言ってるんだから、間違いはない。それでね、年頃になってからずっと、当然のよ うに何て言うかな、はきはきしたタイ。フとばかりつき合ってきたんだ。わかるだろ ? 彼が哲生を見た。哲生は笑って、 「わかるわかる。見るからにそうだ。」 と一一一一口った。 感 野「多分、おおもとのところでゆきのさんが不安に思っていたのはそこではないか、と今は 哀そんな結論が出ている。前はわからなくて、ただふられたつもりでいたけれどね。確かに 僕の中の一部は、はきはきしていて、率直で、年相応のいいところがたくさんあって、涙 もろくて、きちんとしている、そういうのが女の子なんだっていつも思ってる。誰もがそ

4. 哀しい予感

「ビアノの練習していたの ? 」 私は言った。 「ううん。」譜面台を見ておばは微笑んだ。「単に出しつばなしにしてあるだけ、ほら、ほ こりがつもってる。」 そして、そっと立ち上がり、ビアノの方へ歩いていった。黒いふたのほこりを手の平で さっさっと払うと、ふたを開けて、いすにすわった。 「何か、弾こうか。」 夜近い部屋の中は永遠のように静かだった。私がうん、とうなずくと、おばは譜面を見 ずに静かな曲を弾き始めた。ビアノを弾く時ばかりはおばの背すじもびんと伸び、横顔は 健やかに指を追っていた。風とみそれの音と、音色が混ざりあって、まるで知らない国に いるような不思議な世界が生まれた。夢の中にいるようなひとときだった。私は祖父が死 んだことも、おばの悲しみのこともしばらく忘れて、ただその空間に耳を澄ませていた。 曲が終わるとおばはため息をつき、 「久しぶりにビアノ弾いちゃった。」 と言って、ふたを閉じ、私に微笑みかけた。 なか 「お腹減った ? 何かとろうか ? 」 ほほえ

5. 哀しい予感

いているような気分だった。 「なあ。」哲生はため息をついて、よりかかっていた木の幹からそのままずるするとすわ りこんだ。「おまえ、肉親と暮らしたい ? 今さら。」 私はロが。ほかんと開いてしまった。あんまり驚いて星空が回るように思えた。 「哲生は、知ってたの ? いっから ? 」 私は言った。哲生は私を見ず、闇を見つめて言った。 「 : : : とっくに知っていたよ。知らないのはおまえだけだと思うな。もちろん親父とおふ : これからは、ゆきのおばさんと暮 くろは、俺が知っているとは思っていないけどな。 らすの ? 」 「ううん。」私は哲生の前にかがみ込んで、彼をのそきこんだ。「私は、育った家しか戻る ところはないと思ってる。私もおばさんもそんなにロマンチストではないもの。 私、すっと忘れていたことをせつかく思い出して、彼女は私の姉で、いっぺんにすべてが 感 予 がらっと変わったことをよく味わいたいの。今、私がこうしてじたばたしても、まわりに 哀迷惑かけてるだけだっていうのはよくわかっているの。それでも、どうしてもじっとして 1 いられないの。おばさんが私に追ってきてほしいなら、そうしたかった。そういうつまん : わか ないことこそが、今の、今までの 2 人にとって何よりも重要な気がしちゃうの。

6. 哀しい予感

「ううん、内緒で来たから、もう帰らなくちゃいけないの。」 と私は言った。 「そうね。」 おばはうなすいた。 「駅までの道、わかる ? 私、ねまきだから出られない。」 「うん、大丈夫。」 私は立ち上がった。廊下に出て、階段を降りてゆくと冷気はあまりにもきびしく、体に 食いこんでくるようだった。 と私は靴をはいた。本当よ云えこ、 をイナしことがたくさんあったはずなのに、いざ、やつばり 家にいたひとりきりのおばを前にしてみたら何も一一一一口えなかったことがひどく悲しく思えた。 でもその時、私にはそれが精一杯だったのだ。 玄関を 1 歩出た時、おばが私を呼び止めた。 し「弥生。」 静かな声だった。余韻があった。私は振り向き、おばを見た。これからまた暗い部屋へ 戻って夜を明かすのだろう。自分が来たせいで、その後の時間をかえってひとり・ほっちに

7. 哀しい予感

118 「おはようございます。」 と正彦くんが人ってきた。朝も早いというのにもうすっかり身仕度を整えてすっきりし た顔をしている。 「おはよう。出かけていたの ? と私は言った。 「うん、散歩に行っていました。」 と彼は笑って、居間のソファーに腰かけた。はたから見れば微笑ましいという程度のこ 彼女は単に教師 の生活態度の違いが、おばにとって恐怖だったろうことはよくわかった。 , としてのモラルや年齢差におびえたのではなく、彼の健全さを異星人のように嫌悪したに ちがいない。ずっと守り続けてきた自分の小さな、だらしない暮らしが変わることにおび えたのだ。私にはその気持ちが、とてもよくわかる気がした。若気の至りという言葉の通 りに、恋の嵐が過ぎ去れば彼はまた元の日々へかえってゆくかもしれないことの、その率 はあまりに高い。どう考えてもおばは、きちんとっきあう恋人にするには変わりすぎてい る。 おばの人としての弱さをはじめてちらりと見たような気がして、少しつらくなった。こ わいものや、いやなものや、自分を傷つけそうなものから目をそらすのが、おばのやり方

8. 哀しい予感

「玄関はどういうんだっけ : : : 。」 「普通の玄関だったよな。」 「門は ? 表札出てた ? 」 「うーん : : : そうだ、。、 ホストが特別だった。」哲生が言った。「何だかかっこいい緑色のポ ストが庭先に立っていたろ。」 「ああ ! 」さっきからお・ほろにたどる記憶の中で、その家の中の流しの形や、 2 階の古び た居間から見える窓の外や、ソファーの色や : : : そういう断片にまじってそのポストがふ いに出てきた。「わかった、雑誌に出てくるようなかわいいやつね ! お父さんがアメリ カからわざわざ取り寄せたという、雨に濡れたらすぐさびちゃった鉄のポストね。」 「そうそう、よし、わかった。ちょっとここを動かずに待ってな。」 と言って哲生はすたすたと坂を登っていった。私は自分のポストンの上に腰を降ろし、 押してくるような闇と木々の影を見上げた。そのすき間から妙に寒く冴えて輝く月星と、 横切ってゆく雲の光る白さを見た。そして森の快い匂い。森林浴がはやるずっと前から、 私はこの香りと眺めが好きだった。木々の枝がみな私を見降ろしているようで、こんな暗 い夜の中でも私は嬉しかった。私がこんなに大きくなっても、子供の頃と同じように木々 はまだまだ高く、そのことは私をとてもいい気分にした。

9. 哀しい予感

そして母がいくらかけ直しても、もう出なかった。葬式はおば抜きで行われ、その後、何 度母が電話をかけても留守だった。何日も連絡が取れず、母はあきらめて「きっと、どこ か遠くに行っているのね、また少ししてからかけてみましよう。」としんみりと言った。 葬式の翌日、私は、どうしてもおばがいる気がして、ひとりおばの家を訪ねた。まだ間 にも満たないくせに、よく行動に移したものだ。しかし、母が呼び出し音を聞き続け、た め息をついて受話器を置く度に私は強く思った。〃きっといる、ただ出ないだけだわ〃そ れを確かめたかったのだ。 ランドセルを背おったまま、電車に乗っていった。小雪がちらっき、ひどく寒いタ方だ った。胸がどきどきした。それでもとにかく会いにいった。たどり着いたおばの家はうす 闇の中、まっ黒にそびえ、やはり出かけているんだろうかと不安になりながら、私はチャ イムを押した。祈るように、何度も、何度も押した。やがて、ドアの向こうにかすかな物 音が聞こえ、おばがやってきてドアの手前で息をひそめているのがわかった。私は言った。 咸 5 やよい 「弥生です。」 し ガチャリ、とドアが開き、やつれ切ったおばは信しがたい、 という瞳で私を見た。きっ 哀 とうす暗い部屋の中でずっと泣いていたのだろう、赤い、はれた目をしていた。 「どうして ? 」

10. 哀しい予感

集金やセールスマンだったら無視しようと思って、私はそっと窓から玄関をのそいた。 繁る緑の濃さにまぎれて・人の頭が見えた。その白いシャツの肩の感じも、つむじの形も よく知っていたので私は驚いた。 「哲生 ! 」 と私は上から呼んだ。なっかしい弟の顔がゆっくりと私を見上げた。その明るいまなざ しと見つめあった瞬間、ほんの 1 週間なのにずいぶんと長い間会っていない人のように思 「いい身分だなあ、まだ寝てたのか。」 と言って哲生は笑った。木々に埋もれて、元気そうにこちらを見ていた。私の心は急速 に彼に集中していった。すべての雑音が消え、風や光さえも遠のいてゆくように思えた。 「どうしたの ? 上がってきてよ。」 私はにこにこして一一一口った。 「おばさんは ? 」 「さあ、出かけてるみたい。」 「今、学校行くところだからさ、ちょっと寄ってみたんだよ。時間がないんだ。」 「・ : ・ : そう。つまらないわね。」