一、江州日吉御神事相随申楽三座② 山階下坂比叡 一、伊勢、主司、二座③ 一、法勝寺御修正参勤申楽三座④ 新座本座法成寺 此三座、同、賀茂・住吉御神事にも相随 は私に付す ) 。これらの多くは、鎌倉初期ま と列挙してあるのは、世阿弥の時代 ( 十四世紀末 ) に存した有力な諸座と考えられる ( ①② : : : たは中期から存続してきたものであろう。以下、若干の注を加えておく。④の三座は、法勝寺・賀茂神社・住吉神社に参勤しており、 大和から観阿弥が京都へ進出して来るまでは、京都を中心に有力な地歩を占めていたのであろう。根拠地の名から、新座は榎並座 ( 摂津 ) 、本座は矢田座 ( 丹波 ) ともよばれた。③の「主司」は「呪師」の当て字。②は近江猿楽。近江にはこれら「上三座」のほかに : 一うど ゅうざき さかど とび みまじ 「下三座」として、敏満寺・大森・酒人の三座があった ( 『申楽談儀』 ) 。①は大和猿楽。「外山」は宝生座、「結崎」は観世座、「坂戸」は えんまんい 金剛座、「円満井」は金春座、この大和猿楽四座の流れが現在の能である。これらのうち、興福寺との関係が古くから存したのは円 満井であり、外山・結崎はもとは多武峯、坂戸はもとは法隆寺に属していた。勢力の強大な興福寺にこれらは集約されたのである。 当時の座は、ただ芸能者の集団というにとどまらず、一種の特権を有するものであった。すなわち、寺社に奉仕することと引き替 えに、その寺社の勢力下にある各地の末寺末社における興行権を得ていた。それゆえ、有力な寺社のもとに諸座が結集したのである。 貞和の田楽観阿弥は元弘三 ( 一 = = = ) 年に生まれ、至徳元 ( 一 = 0 年、五十二歳で没した。鎌倉幕府の滅亡した年に生まれて、南北朝期を 能・猿楽能通して生きていたことになる。彼によって今日の能は事実上創始されたといってよいのであるが、彼の活躍する以前、 ほんざ 芸能界の主流は、田楽であった。本座の一忠は、観阿弥・大王とともに、世阿弥によって「舞歌幽玄を本風として、三体相応の達人 解説
一※以下のアイのせりふ、およびワ キと応対のせりふは、山本東本によ る。 ワキ方の流儀によっては、ワキが アイを呼び出す。 ニ油断して失敗すること。 三有様。 , 狂言方の流儀によっては、盛久の 命はこの後五百八十年はめでたいで あろうということも述べる。 四※このアイと応対のワキのせりふ は、下掛宝生流による。 五※現行観世流では、次に「御前に て候」と入る。それゆえ鎌倉殿 ( 頼 朝 ) の前に出た形で、シテは正面を 向く。 六鎌倉殿 ( 頼朝 ) をさす。 七ありのままに。包み隠さすに。 ^ 阿弥陀如来が法蔵比丘といってい 謡曲集 かまくらどの り、鎌倉殿に参りけり ( 後見座へ行く ) 。 〔物着〕 ( シテは後見座で梨打鳥帽子・直垂の上をつけ 盛久は、鎌倉殿に参上した、鎌倉殿のも とへ参上したのであった。 盛久は御前へ出るため鳥帽子・直垂 る ) をつける。 げにん げにん 土屋の下人が、土屋を相手に問答し、盛 〔物着〕の間に、アイの下人が出て常座に立ち、せりふを述べ 久の観音を深く信じたがゆえに起こった た後、中央に着座してワキに声をかける。ワキの命を受けたア 奇跡を語り合う。そして、盛久に御前へ イは、常座で後見座のシテに声をかけた後、切戸口より退場す 出るようにと呼びかける。 る。 アイ「 ( 常座に立って ) さてもさても、ただいま盛久の有様、目を驚かしたる事にて候。その子細は、太刀取 ニふかく の不覚にてもなく、取り落したる太刀を見れば段々に折れたると申す。まことや盛久は、清水の観世 おん / 音を信仰致され、常に歩みを運び、このほども御経怠らざるよし承りて候。もしさやうのしるしにて もござあるかと存じ候。いや言はれざる独り言を申さずとも、ただいま盛久の様体申さばやと存ずる。 アイ「 ( 中央に着座して ) いかに申し候。ただいま盛久の様体、目を驚かしたる事にて候ふが、何とお・ほしめ し候ふそ。 四※ ワキ「げにげに盛久の御事、なんぼう奇特なる事にて候。盛久はこの年月、清水の観世音を信じ給ひ、と えはしひたたれ りわきこのほど御経怠らず読誦し給ふにより、かやうの子細と存じ候。また盛久に、烏帽子直垂を召 され候はば、御前へ御参りあれと申し候へ。 アイ「畏って候。 アイ「 ( 常座で後見座のシテヘ向いて ) いかに盛久へ申し候。烏帽子直垂を召されたらば、疾う疾う御前へ御 参り候へや。 ′」かもん シテが常座に出ると、ワキは声をかける。シテは着座して問答 頼朝の前へ出た盛久は、御下問に応じて となる。〈クリ〉となると、シテは中央へ行き、着座する。着 夢の様子を物語る。それは、清水あたり 座のまま〈サシ〉〈クセ〉と続く。 から来た老僧が、盛久の信心を嘉したま うて、「われ汝が命に代るべし」と仰せ あかっき ワキ「いかに盛久、 ( シテは正面へ両手をつく ) 君この暁ふしぎなる られたという夢なのであった。 なしうちえほし ま ) ど ~ 、 ひたたれかみ おんきゃう おどろ としつき 三ゃうだい たちどり くわんゼ よみ ひたたれ
三※下掛系は「あらねども」。 謡曲集 , 子方・ワキが常座に立ってツレを 見つめている演出もある。 ってわが子を思う心なのである。 立ち添ひながらも、げに逢はぬ事そ悲しき ( ツレ・子方・ワキ 梅若「かねてより『親子は一世』と定められ はシオリをする。子方・ワキは一ノ松へ行く ) 。 ている、そのこの世においてさえ、とも に暮らすこともできなかったわれら親子 〈ロンギ〉でツレ・本間は立ち、ツレは中央へ行き、そのうし の仲であるから : ・ ろに輿舁・本間・従者と立つ。ツレの謡があって、子方は謡い つつ舞台へ入り、大小前に立つ。ワキも常座に立つ。掛合いの 資朝「ましてや後の世は : : : 。 謡に合わせて、一同は道行の態を示して舞台をまわった後、子資朝「後の世の契りも望みなく、さそかし逢 方・ワキは後見座にうしろを向いて着座し、輿舁は切戸口より うこともないであろうと、ともどもに泣 退場し、従者は狂言座に退く。本間は地謡座前に立つ。ツレが き、涙によって目もかき曇り、 中央へ出て着座すると、本間は脇座へ行き着座する。 地謡「姿を互いに見たり見られたりできない けふ・こさいご 親と子、雲霞が間を隔てているように、 一※下掛系は「今日御最期と定まれ地謡气〈ロンギ〉今日御最期に定まれば ( 本間はツレヘ向く ) 、今日 ば」。繰返しも同じ。 そばに一緒に立っていながらも逢うこと 御最期に定まれば ( ツレ・本間は立 3 、 いたはしながらカなく、 ができないとは、まことに悲しいことで もののふこし うはの ニ※ ある。 ニ※下掛系は「急ぎけり」。 武士輿に乗せ申し、浜の上野に急ぐなり ( ツレ・輿界・本間・ 処刑の日となり、資朝は浜の上野へ護送 従者は立ち並ぶ ) 。 される。梅若・帥の阿闍梨も付きしたが う。資朝は定めの座につき、敷皮の上に ツレ气かねて期したる事なれば、惜しき命にあらざれど、さ 直る。 けしき 地「今日がご最期の日ときまったので、 すが最期の道なれば、心すごき気色かな。 今日が資朝ののご最期の日と定められ ンめわかちち まろ たので、いたわしいことながらしかたの 子方气梅若父の御最期と、聞くより目眩れ肝消え、起きっ転 ないことで、武士どもは輿にお乗せ申し びつ泣く泣く、お輿の跡につきて行く ( 子方はシオリをしつつ大て、浜の上野へと急ぐのである。 資朝「かねてより覚悟していたことであるか 小前へ行く。ワキも常座に入る ) 。 ら、いまさら惜しい命ではないけれど、 地謡气お輿を早め行くほどに、浜の上野も近くなる ( 一同正面〈それでもやはり死に臨むことなので、心 がぐっと引きしまる思いのする様子であ 一歩出る ) 、 ること。 あ 三※
謡曲集 ている水においては、 一まるい鏡、の意か。なお現行観世澄鏡 ( 鏡台を正面先へ置く ) 、もしも姿を見るやと ( 中央へ下がる ) 、 流は「鏡に向って泣きゐたり」。繰返 地謡「塵がかかって曇る常の鏡とは違 ( はくどう ) しも同じ。 ゑんとんに向って泣きゐたり ( 鏡台に寄り、鏡を見つめる ) 、ゑん って、花が散りかかることを曇るという 十シテが退場し、アイの所の者が昭 べきであろうか。花にたとえられる娘昭 君のことを語るが、このような現行 とんに向って泣きゐたり ( 中央へ下がり、着座してシオリをする ) 。 の演出は本来ではなかろう。文意か 君は、散りかかっていてそれで水鏡が曇 らすれば、かっては、シテはツレと るのであろうか。思いはいよいよ増すが、 ワキは、常座へ出て膝をついたアイの所の者に、シテを連れて ともにこのまま舞台に残り、所の者 行くように命ずる。アイは、シテのうしろへまわり、シテを立 もしも鏡に映る姿を見ることがでぎるか の場面はなく、すぐ次の場に接続し たせて、揚幕へ送り込む。ワキは切戸口より退場し、ツレは脇 ていたのであろう。その際は、もち と、まるい鏡に向かって泣いていた、鏡 ろん、韓邪将は別の役者が演するこ 座へ行き、着座する。アイは常座にもどった後、立ったままで に相対して泣いていたのであった。 とになる。 昭君のことを語り、老人をいたわるようにと触れて、狂言座に マワキがアイに命ずることなく、ア はくどうは退場し、所の者が昭君のこと 退く。 はやし イはすぐにシテのうしろへ行き、シ を語り、夫婦の者へのいたわりの気持を 二声〕の囃子で昭君の亡霊が登場し、一ノ松に立って謡い出 しようぎ テを送り込む演出もある。 述べる。 す。地謡となると舞台に入り、笛座前で床几に腰をかける。 流儀によっては、シテは一人で立 昭君の亡霊の姿が鏡に映る。 って中入する。その後にアイが常座 に出て、昭君のことを語る。 昭君の亡霊「わたくしは胡国に移された、王 流儀によっては、アイが登場せす、 三※ 昭君の亡霊である。さて、父母がわたく ニ※ わうせうくんばうこん シテが退場すると、〔一声〕になる。 昭君 ( ツレ ) 气〈サシ〉これは胡国に移されし、王昭君が亡魂なり。 しとの別れを悲しみ、春の柳の木の下で , 昭君を子方が演する演出もある。 ちちはワ 昭君が、一ノ松で〈サシ〉を謡って 泣き沈んでいらっしやるのはおいたわし さても父母別れを悲しみ、春の柳の木のもとに、泣き沈み から、〔アシライ〕の囃子で常座に入 いこと。急いで鏡に姿を映して、父母に 五※ り、〈一セイ〉を謡いつつ大小前へ行 ぎ、地謡で鏡に面を映した後、床几給ふいたはしさよ。急ぎ鏡に影を映し、父母に姿を見え申姿をお見せ申そう。 昭君「春の夜の朧月のように・ほんやりとした に腰をかける演出もある。 流儀によっては、昭君は常座で謡さん。 姿をして、 い出す。 おぼろづきょ七※ 地「曇った状態ながらも鏡に姿を見せる ( 昭君 ) ニ※下掛系は「これは王昭君が幽霊な昭君气〈一セイ〉春の夜の、朧月夜に身をなして、 ことにしよう。 り。さてもみづからが父母、わらは かんやしよう が別れを悲しみて、春の柳の = ・」と地謡气曇りながらも影見えん ( 笛座前へ行き、床几に腰をかける ) 。 続いて胡国の大将韓邪将の亡霊も姿を現 なる。三※現行観世流は「王昭君の わす。その鬼のような姿に王母は恐れを かんやしよう 幽魂なり」。四※現行観世流は「悲 〔早笛〕の囃子で後シテの韓邪将の亡霊が登場し、中央に着座 なす。韓邪将は自分の姿を鏡に映して見 しみ給ふいたはしさよ」。五※下掛 する。シテ・ツレ ( 王母 ) の掛合いの謡があって、シテは立ち、 て、恐れられるのももっともと、みずか 系は、以下「見え申さん」まで、なし。 六「照りもせす曇りも果てぬ春の夜 らわが姿を恥じて立ち帰る。 鏡に姿を映す。続いてシテは地謡と掛合いつつ舞う。 ちちはワ あいたい
はずゑ 十五の巻名「螢」を織り込む。九「光地謡气もとあらざりし身となりて、葉末の露と消えもせば ( ま御息所「今こうしてわたくしの恨みを受ける る源氏の君」のこと。一 0 『源氏物 のは、葵上よ、あなたのかっての行いの 語』の巻十五の巻名「蓬生」を織り込わ 0 て大小前へ行く ) 、それさへことに艮めしゃ。夢にだに ( 足 報いなのだ、 む。「蓬生の」は「もと」の序。参考「た づねてもわれこそとはめ道もなく深拍子を踏む ) 、返らぬものをわが契り ( 正面先〈出る ) 、昔語にな〈青女房〉「わたくしの激しい怒りは火と燃え きよもぎのもとのこころを」 ( 源氏・ ますかがみ 蓬生 ) 。 りぬれば ( 扇を後見座へ投げ、常座へ行く ) 、なほも思ひは真澄鏡御息所「われとわが身を焦がす。 , 流儀によっては、「わらはは蓬生 〈青女房〉「これでも思い知らぬのか、 の」で、シテはユウケン扇をする。 = 以前の、光源氏と契りを結ばな ( 小袖を見つめる ) 、その面影も恥かしゃ ( 面を伏せる ) 、枕に立て御息所「もう思い知ったがよいぞ。 かったころの身。三「葉」は「蓬」の、 「末」は「もと」の縁語。参考「蓬生の る破れ車 ( 小袖を見「め、唐織の内より襟を「かみ、引き抜く ) 、うち ( 御息所 ) 「恨めしいのはあなたの心、ああ恨 めしいあなたの心。人の恨みを深く受け 末葉の露の消えかへりなほこの世に て、つらい思いに声を上げてお泣きなさ と待たむものかは」 ( 秋篠月清集藤乗せ隠れ行かうよ、うち乗せ隠れ行かうよ ( 唐織をかずいて小 原良経 ) 。一三「 ( 思ひは ) 増す」と掛 るとしても、あなたは生きてこの世にい ほたる 詞。「真澄鏡」は澄みきった鏡の意で、袖へ寄り、身を伏せて後見座へ行く ) 。 らっしやるのなら、水暗い沢辺に飛ぶ螢 ここでは、鏡に映る「面影」、と続く。 の光よりももっと輝かしい、光る君とず 流儀によっては、シテは、「その面 ワキツレはアイの従者を呼び出して命ずる。アイは一ノ松へ行 影も恥かしや」と扇で面を隠してか っと契るのであろう。 き、ワキを呼び出す。ワキは三ノ松へ出て、アイと問答の後、 ら、扇を捨てる。 御息所「それに対してわたくしは、蓬生のも 舞台へ入る。アイはワキツレヘワキのことを伝えて退場する。 シテは後見座で、面を般若に変え、 とで、 ワキは常座に立ち、地謡座前に立っワキツレと問答の後、大小 鬘を乱す。 前に膝をついて扇を胸に插し、祈りの準備をする。ワキツレは 《空之祈 2 》《無明之祈》の場 地、謡「以前の、光る君となんのかかわり 合は、シテは中入し、後シテは緋長 笛座前に着座する。 もなかったころのような身となって、葉 袴をつけて登場する。 たれ 末に宿る露のように消えることになるの 一四※以下のアイのせりふ、およびワキツレ「いかに誰かある。 ワキ・ワキツレと応対のせりふは、 なら、そのことまでもことさら恨めしい 一四※ 山本東本による。一五比叡山延暦寺 アイ「 ( 大小前へ出て膝をつぎ ) 御前に候。 こと。夢の中でさえ、もはや返らぬもの の、東塔・西塔と並ぶ三塔の一。 なんちよかは こひじり おんかぢ となったわが契り、昔語りになったので、 一六『源氏物語』にこの名はみえない。 ワキツレ「汝は横川に登り小聖へ参り、御加持のためにてある それでなおも思いは増すことだ。鏡に映 その葵巻には、「山の座主、何くれ やむごとなき僧ども」とある。 るわが衰えた面影も恥ずかしいこと、枕 急ぎ御参りあれと申し候へ。 一七密教において、印を結び陀羅尼 もとに立ておいてあるわたくしの破れ車 をとなえて、病気・災難の除去など アイ「畏って候。 ( アイは立って常座へ行く ) に葵上を乗せて、隠れながら連れて行こ を祈ること。 あふひのうへおんもののけ アイ「やれやれなかなかの事かな。葵上の御物怪、一段よいと承う、ひそかに連れて行くことにしよう。 かしこまッ よ・も、ら・
さい、と、 地謡「西に向かって手を合わせ、西方極楽浄 なむあみだぶ 土に向かって手を合わせ、南無阿弥陀仏 と声高らかにおとなえになったところ、 おんくび はかなくも御首は前に落ちた、資朝の卿 の御首は前に落ちたのであった。 ワキは常座へ出る。本間はワキに声をかけ問答となる。問答が みす すむと、本間は地謡座前に着座する。ワキは後見座へ行き、水 本間の許しを得て、帥の阿闍梨は資朝の ) 」ろも むじのしめ 衣の肩を上げる。後見は無地熨斗目を正面先に出す。ワキは静 遺骸を弔う。本間は私宅へ帰って休む。 かに立って熨斗目の前へ行き、膝をついて熨斗目を見わたし、 本間「もうし、山伏へ申しあげます。資朝の 掛絡を取って見入り、熨斗目の袖で掛絡を包み、裾を折り返し 卿のことは、囚人でございましたのでな た後、その熨斗目を両手でかかえ持って立ち、後見座へ行く。 んともいたし方ないことでありました。 本間は立ち、常座へ出た従者に命じて退場する。従者は常座で 梅若子のことは、資朝の卿のご遺言のと 触れた後、退場する。 おりに、明日お舟を用意するよう申しつ めシうと すけとも け、都へお送り申すことにいたします。 + 『太平記』では、僧によって葬礼が本間「いかに客僧へ申し候。資朝の卿の御事は、囚人にて御座 ご安心くださいますよう。 形のごとく営まれた後に、遺骨が阿 ンめわかご ごゆいごん 新に渡され、阿新は、中間にこれを候ふ間力なき事にて候。梅若子の御事は、御遺言のごとく阿闍梨「ご懇切なおぼしめしをうかがい、あ 持たせて先に都へ帰し、みずからは みやうにちおんふね おんこころやす りがたいことであります。明日都へお送 しばらく本間の館に留まる。そして 明日御舟を申し付け、都へ送り申し候ふべし。御心安く りくださるようよろしくお頼み申します。 敵討ちの行なわれるのは、四五日後 となっている。 また資朝の卿の御死骸をくださいませ。 おぼしめされ候へ。 お弔い申したいのであります。 おん / く 本間「それはもとよりのこと、どうそお心静 ワキ「ねんごろに承りありがたう候。明日都へ御送り頼み申し かにご供養なさいませ。わたくしは自宅 おんしがい けうやう 三亡ぎ親を弔うこと。転じて、一般候。また御死骸を賜り候へ孝養申したく候。 に帰ることにいたします。梅若子をお連 に死者の後世を弔うこと。 ごけうやう したく れになって、やがておいでなされますよ 0 本間「なかなかの事御心静かに御孝養候へ。われらは私宅に帰 おんニ 阿闍梨「心得申しました。 り候ふべし。梅若子を御供あって、やがて御出であらうず 阿闍梨は資朝の卿の遺骸を丁重に扱 るにて候。 って処理をすませる。 三五五 太刀をおさめた本間が脇座に着座 する演出もある。 , 流儀によっては、本間がワキへ声 をかける前に熨斗目を正面先へ出す。 檀風 くび 首は前に落ちにけり、御首は前に落ちにけり ( ツレは掛絡をま るめて前に置き、切戸口より退場する。本間は太刀をおさめて地謡座前に 立 3 。 ンめわかご ッ すそ
謡曲集 もののふぜんご 一鳥の声は暁方に男女の別れを告げワキ武士前後を囲みつつ ( 輿舁・従者はシテのうしろに立 3 、これ盛久「かねて覚悟していたことなので、左手 ねんず 知らせるものとされている。ここは には金泥のお経、右手には念珠を持ち、 この世からの別れであるが、これも も別れの鳥の声、 この命も今が限りであるから、これこそ 同じく「別れの鳥の声」である、の意。 - こオ しののめ 現行観世流は「これぞ別れの鳥の声」。 この世からの旅立ちの場であると、処刑 シテ气鐘も聞ふる東雲に、 ニ暁の鐘の音も、「別れ」を知らせる の場へと弱々しい足取りで出かけて行く。 らう ものであった。 土屋「武士どもが盛久の前後を囲んで、男女 ワキ气牢より牢の輿に乗せ ( ワキはシテヘ向いて数歩出る ) 、 三動詞「聞ゅ」は、当時、ハ行下一一段 活用とも考えられていた。「聞ふる」 みぎは の別れを告げるのではないが、この世と シテ气由比の汀に、 はその連体形。 の別れを知らせるのだからこの鳥の声も 四鎌倉の海岸由比が浜。鎌倉幕府の 『別れの鳥の声』であり、 処刑場であった。 ワキ气急ぎけり ( ワキは笛座前へ行く ) 。 盛久「島の声ばかりか鐘の音も聞こえて来 ゅめち あけぼの る夜明け方に、 地謡气〈次第〉夢路を出づる曙や、夢路を出づる曙や ( シテ・輿舁 ろう 土屋「牢の中から引き出して、盛久を牢輿に かどで は常座へ行く ) 、後の世の門出なるらん ( ワキは脇座に立ち、従者は 乗せ、 盛久「由比が浜にと、 地謡座前に着座する。シテは常座に立つ。輿舁は切戸口より退場する ) 。 土屋「急いだのであった。 すみ 地謡 ( 盛久 ) 「夢から覚め出ると明け方であった、 ワキの謡があって、シテは角へ行き、着座して経巻を開く。従 たち そしてこの夢から覚め出た明け方が、後 者は謡いながらシテのうしろへまわり、太刀を振りあげ、その 太刀をシテの前に投げ捨て、切戸口より退場する。掛合いの謡 の世へ向かうための門出なのであろう。 があって、地謡に続く。地謡の終りに、シテは立って後見座へ 由比が浜で、いざ処刑という時、太刀取 行き〔物着〕となる。 りの持っ刀は二つに折れてしまった。ま ざしき しきがはし ねびかんのんりきとうじんだん さしく、観音経の「念彼観音力、刀尋段 ワキ气さて由比の汀に着きしかば、座敷を定め敷皮敷かせ、 だんね 五※ 段壊」が具現したのだ。このことが伝わ はやはやなほ 五※下掛系は「直り給へ」。 ( シテヘ向いて ) 早々直らせ給ふべし。 、鎌倉殿頼朝公よりお召しがあり、盛 久は参上した。 流儀によ「ては、「盛久やがて」で、シテ「盛久やがて座に直り ( 角〈行き着座する ) 、清水の方はそなた シテは中央へ行き着座する。 土屋「さて由比が浜に着いたので、座を定め くわんノん て敷皮を敷かせた後、『さあ早くおすわ そと、西に向ひて観音の、御名を唱へて待ちければ ( 経巻を りなさいませ』と言えば : ・・ : 。 開く ) 、 盛久「盛久はすぐに着座して、清水寺の方角 のち カこ こし こしかき こんで
ニ考えることがあるから。 一「オシャル」と発音する。あなたが おっしやるように。 三※現行観世流は「消えぬべし」。繰 返しも同様。 四※現行観世流は「鐘の供養に参ら ん」。 道成寺 能力乙「おしやる通り、見事な事ちゃ。 能力甲「急いでこのよし申し上げう。 能力乙「それがよからう。 ( 能力乙は狂言座に行き、着座する ) 能力は鐘をつったことを住僧に報告し、 能力甲は鐘をつったことを報告し、ワキの命を受けて、常座に によにんきんい その命によって、鐘の供養の場には女人 立ち、鐘の供養と女人禁制のことを触れて、笛座前に着座する。 きんぜい 禁制であると触れる。 能力甲「 ( 中央で膝をつき ) いかに申し候。鐘を鐘楼へ上げ申して候。 能力甲「申しあげます。鐘を鐘楼にお上げ申 ワキ「何と鐘を鐘楼へ上げたると申すか。 しました。 能力甲「なかなかの事。 住僧「なに、鐘を鐘楼へ上げたと申すのか。 くやう 能力甲「さようでございます。 ワキ「同じく供養をなさうずるにて候。また存ずる子細のある によにん きんい 住僧「同時に供養をしようと思います。また 供養の場へ、女人かたく禁制と相触れ候へ。 かしこまッ 考えていることがあるので、供養の場へ、 能力甲「畏って候。 きンうだうじゃうじ 女性の入ることはかたく禁止すると、皆 吊州道成寺において、鐘の供 能力甲「 ( 常座に立ち ) 皆々承り候へ。 皆に触れなさい。 こころざし 養の候ふ間、志の方々は参られ候へまた、何とおぼしめし能力甲「かしこまりました。 候ふ御事やらん供養の場へ、女人かたく禁制と仰せ出されて能力甲「皆々お聞きなさい。紀州道成寺にお いて、鐘の供養がありますので、志のあ 候ふ間、皆々その分心得候へ、相心得候へや。 ( 能力甲は笛座 さんけい るお方はご参詣ください。また、どのよ 前に着座する ) うなお考えかしら、供養の場へ、女性の 〔習ノ次第〕の難子でシテの白拍子登場。常座に立ち、鏡板へ 入ることはかたく禁止するとのお達しで 向いて〈次第〉を謡った後、正面を向いて〈名ノリ〉を述べる。 ありますので、皆々そのことをご承知に 続いて〈上歌〉を謡う。〈上歌〉の末尾で歩行の態を示した後、 なってください、心得ていてください。 正面を向き、〈着キゼリフ〉を述べる。 しらびようし 白拍子の女が鐘の供養を拝もうと道成寺 〔習ノ次第〕 へ急ぎ、日の暮れぬうちに到着する。 、白拍子「この鐘の供養によって、今まで作っ シテ〈次第〉作りし罪も消えぬべき、作りし罪も消えぬべき た罪もきっと消えるであろう、これまで 四※ に作った数々の罪も消えるにきまってい 鐘のお供養拝まん。 なに をが まやし 三※ しらびようし あび あひふ しゅろう によにん
謡曲集 から、ふたたび出現するのをここで待つように」という、ワキに対する返事である。おそらく、一般にそのようなものであったので あろう。それなら、五分とかからず、一、二分ですますことも可能である。 あらしやま 禅鳳・長小次郎信光以後の能作者として金春禅鳳言喬 ~ 一 0 ? ) ・観世弥次郎長俊 ( 一哭八 ~ 一 l) がある。前者は禅竹の孫、「嵐山」「生 たあつもり いっかくせんにん しようぞん 田敦盛」「一角仙人」などの作品がある。後者は小次郎信光の子、「輪蔵」「正尊」などの作品がある。その作品は、両者と も、概して小次郎信光と同じ傾向であって、時代を反映して、人数の多い、作リ物を用いる、見た目にはなやかなものである。 おおむらゆうこ 両人の没後、十六世紀半ばからは、知られている作者はいない。もっとも、豊臣秀吉が大村由己に命じてみずからの事績を「明智 討」などの能に作らせ、みずから演じたというようなことはある。織豊期から江戸初期にかけて、依然、能は作られていたと思う。 また、謡曲として作られ、能としての上演を見なか 0 たものは多数にのばるであろう。ただ、今日現行曲とされているものの大半は、 室町時代末期までには作られていたものと考えてよかろう。 やまとさるがく 江戸時代江戸時代にな。て、大和猿楽四座は徳川幕府の保護を受けるようになる。室町期に存した他の猿楽座や田楽座は、これに 以後 ともなって四座に吸収されるか、廃絶への道をたどった。観世・金春・宝生・金剛の四座、および元和年間に一流として 取り立てられた喜多流の能役者は、幕府直属の者、諸大名召抱えの者の別はあったが、俸禄を受けて技芸に専念し、既存の作品を各 流ほば二百曲に限って、これを保守して伝存することに努めた。新作は行なわれなかったが、技芸の鍛練や演出の整備により、この 時代こ 冫ム月かいっそう充実したものになづたことは疑いのないところである。 明治維新によって役者は扶持を離れ、能は一時廃絶の危機に見舞われたが、やがて明治政府の要人などの保護を受けるようになり、 しだいに立ち直った。ただこの機会に座の制度はなくなり、シテ・ワキ・狂言・囃子 ( 笛・小鼓・大鼓・太鼓 ) の各役の流儀制度だけが 残って今日に至っている。 江戸時代以後については、紙面も尽きたので省筆にしたがった。 ぜんぼう りんぞう ながとし あけち
謡曲集 はやしもの どをも風流と称した。歌や拍子物を伴った風流踊は、現在も各地に民俗芸能として伝存しているし、かの「永長の大田楽」が風流の 田楽とよばれたのもこのゆえである。延年の大風流・小風流の「風流」という名辞も、ここから出ている。それは、装束の美麗、故 けんゅうしよくじよ せいおうば 事の再現、古人・神仙の登場、作リ物、歌や拍子物、いずれの点でも風流であった。牽牛織女の二星や西王母、竹林の七賢などを、 それらしい装いで登場させることは、当時の人々にとって興趣深いことであった。 延年の大風流・小風流と能とが類似点をもっているからとて、これらを直線的に能に結びつけることは無理があろう。しかし、 ような「風流」は能にも多分に存する。能の装東は、美しく、またそれらしく出で立っことである。鳥獣の類に扮する際には、ある いは鶴・亀、あるいは狐・龍の姿を象ったものを戴く。これは風流である。主として後シテの場面では、古人の姿に扮して故事を再 ただのり レ一 . お・ 0 もとめづか 現し、前シテの場面では、田夫野人の風情ー・ー「敦盛」の草刈男、「忠度」「融」の潮汲の老人、「求塚」の若菜摘みの女、など が示される。いずれも風流である。能において、この風流性はかなり重要な要素であると考えられる。 ところで、平安時代の猿楽が種々な姿を示していたことを述べたが、 鎌倉時代の猿楽も、芸能の様態はさまざまであった 「能」 と考えられる。その詳細は知り得ないが、ただ、十三世紀末には「能」とよばれるものが猿楽の中に成立し、さらにそれ が田楽においても演ぜられるようになっていたことは知られている。この「能」とは、一つのまとまった筋を、物まね的演技によっ て演じてゆき、歌や舞を含むもの、と一応考えられる。しかし、すべての猿楽の集団がこのような「能」をもっていたと言いきるこ ともできず、また、能」とよばれるものがすべてこのような条件を満たしていたかどうかもわからない。 田楽の座は、鎌倉時代に入ると、京都 ( 白川 ) の本座と奈良の新座とが強力な存在となり、南北朝期に至る。猿楽の座の成 猿楽の座 立は田楽よりはやや遅れたようであるが、鎌倉時代に人り、各地に座が形成された。『風姿花伝』の「第四神儀云」に、 一、大和国春日御神事相随申楽四座① 外山結崎坂戸円満井 よそお あつもり しおくみ わかなっ ふん ちくりんしちけん