謡い - みる会図書館


検索対象: 日本古典文学全集(34)-謡曲集(2)
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1. 日本古典文学全集(34)-謡曲集(2)

位に即き給ひて : ・」となる。 = 濃水 ( こみづ ) の音便。ここでは 仙家の酒のこと。 三仙人の飲みものという。ここで は盃の名称としている。 一四「 ( 喜びは ) まさり」と掛詞。菊の 異名。「まさり草の」は「菊」の序。 一五「 ( 盃 ) 取り」と掛詞。 せんざい てんこんづかうがい 千年の寿命を保っという仙境の菊の酒を、 千歳まで保ち給ふべし。さるほどに天の濃漿や沆の、 盧生に捧げる。 これまで持ちて参りたり。 廷臣「奏上申しあげねばならないことがあり ます。御位にお即きになってより、もは シテ「そも天の濃漿とは。 や五十年である。そこでこの霊薬を召し あがるならば、御年一千歳までのご寿命 ワキツレ「これ仙家の酒の名なり。 をお保ちなさるであろう。それゆえ天の さかずき シテ气沆の盃と申す事は。 濃漿や沆の盃を、ここへ持って参った さか・つき のである。 ワキツレ「同じく仙家の盃なり。 盧生「いったい天の濃漿とは : きくさけ 廷臣「これは仙境の酒の名である。 一三「 ( 千代ぞと ) 聞く」と掛詞。本来シテ气寿命は千代そと菊の酒。 は九月九日の重陽の節句に用いる酒 盧生「沆の盃と申すのは : ・ えいぐわ よろづとし で、菊水の故事から出ている。 ワキツレ「栄花の春も万年。 廷臣「同じく仙人の用いる盃のことである。 ゆた 盧生「飲めば寿命は千年というこの菊の酒は シテ气君も豊かに、 めでたいこと。 廷臣「この栄華の春も万年続くことでありま ワキツレ气民栄え、 1 レよ、勹・ .0 こくどあんせんちゃうキう こくどあんせんちゃうキう 地謡气国土安全長久の、国土安全長久の ( ワキツレは子方に酒をつ盧生「君も豊かになり、 ぐさ さかづき 廷臣「民も栄えるし、 ぐ ) 、栄花もいやましに、なほ喜びはまさり草の、菊の盃、地謡「国土は安らかに久しく、国は安らか ( 慮生 ) で永久に続き、栄華もいよいよ盛りとな とりどりにいざや飲まうよ ( 子方はシテの前へ行き、シテに酒をつ って、なおなお喜びは加わるという、こ ぐ ) 。 の菊の酒の盃を手に取って、皆々でさあ 飲もうではないか。 盃はめぐり、舞童は立って舞を舞う。菊 の酒は汲めども尽ぎることなく、栄華は 絶頂に達する。盧生は喜びのあまり舞を 舞う。 邯鄲 シテの謡があって、地謡となると、子方は立って大小前へ行き、 以下地謡に合わせて舞い、角で留めて着座する。子方の舞の間 にシテは右の肩を脱ぎ、子方の舞がすむと、立って台の上で 〔楽〕を舞いはじめる。舞の途中で台のうしろより下り、以下 を舞台で舞って、大小前で留める。「いつまでぞ」と謡いなが たも せんか こんず ぶどう

2. 日本古典文学全集(34)-謡曲集(2)

謡曲集 ざうらふ ったのであります。できることならお心 一われと他人と。この場合は、われシテ「 ( 大小前に安座して ) さん候ただいま参る事余の儀にあらず。 ら両人、の意。 をわたくしと一つにして、われら両人共 わうざんしゃうリうじはんにやたい ニ京都市の東北方に位置し、京都わが国において、育王山青龍寺、般若台に至るまで、すこ 通の本望を達成するようご協力ください。 府・滋賀県の境をなす山。天台宗の イ まんじんともがら 太郎坊「さてさてそれは、殊勝にもお思い立 総本山延暦寺があり、古来、王城鎮 しも慢心の輩をば、皆わが道に誘引せずといふ事なし。ま 護の霊山として有名。 ちなさいましたものである。そもそもわ にツぽんナ 三中国浙江省天台県にあり、智顗 が国は、天地の始まりよりずっと、ます ことや日本は、小国なれども神国として、仏法今に盛んな が天台宗を開いた霊山。入唐した伝 神国なのである。それで仏法が今におい 教大師最澄はここで修行し、帰朝後、 るよし承り候ふ間、すこし心にかかり、これまで参りて候。 比叡山を中心に布教した。それゆえ、 ても盛んである。まず第一にここからほ おんこころひと 比叡山を「日本の天台山」といったの ど近い比叡山、あれこそ日本の天台宗の である。 同じくは御心を一つにして、自他の本意を達し給へ。 本山であります。心のままに様子をうか 四※現行観世流は「心のままに窺ひ給 がってごらんなさい。 ツレ「さてはやさしくもおぼしめし立ち候ふものかな。それわ 五権教ぎ ( 仮の方便として説いた教 かいびやく ぶッ善界坊「さてはいよいよ、よいついでである。 え ) と実教 ( 真実の教え ) と。 が国は天地開闢よりこの方、まづ以て神国たり。されば仏 そもそも天台の仏法は、教えを権実の一一 六真言秘密の教。法身・如来身・ロ まちかひえいさん 教に分け、 意身の三秘密を説く。密教ともいう。 法今に盛んなり。まづまづ間近き比叡山、あれこそ日本の 一般には真言宗と同義。入唐した最 太郎坊「また密教の奥義を伝えており、 ( 善界坊 ) 四※ う・カカ てんだいさんざうら 澄は天台宗とともに密教をも学んだ。 善界坊「顕教密教を兼修している所である。 わが国では空海の伝えた真言宗を東天台山候ふよ。气心のごとく窺ひ給へ。 太郎坊「そのような所を、われらの分際で、 ふッぽふごんじつにけう 、最澄のものを台密という。 密といし 七密教 ( 真言宗 ) 以外の教えを顕教シテ气さてはいよいよ便りあり。それ天台の仏法は権実二教善界坊「簡単に様子をうかがい ( 太郎坊 ) きという。比叡山延暦寺は天台宗 わか 太郎坊「なさろうとすることは、 まえあし とともに密教をも兼修しているので、 地に謡「かまきりがその前脚で大きな車に ( 太良坊 ) うつ このようにいわれた。 みッシうあうぎ 立ち向かったり、猿が水面に映る月を取 しよせん 〈「欲苡娘之斧→禦 ~ ・ ' て隆車之ツレまた密宗の奥義を伝へ、 隧 ' 」 ( 文選巻四十四 ) に基づき、お ろうとするのと同じこと、所詮失敗に終 けんみッけんがく のれの徴力をも顧みす強者に立ち向 わるはかない企てである。そうであると シテ气顕密兼学の所なるを、 かうこと。「蟷娘」はかまきり。参考 はわかっていながら、それでもやはり、 「蟷娘が斧をいからかして隆車に向 ツレ气われらごときの類として、 ふがごとし」 ( 平家巻七・願書 ) 。 相手の我慢・増上慢といった慢心につけ 九『僧祗律』にある寓言で、猿が水面 こんで、よい機会を得ようと思うのであ に映る月を取ろうとして、樹上からシテ气たやすく窺ひ、 るが、それにしても不動明王の威力を考 互いに手や尾をつないで伸ばしてい えるとなかなかむずかしいと、いよいよ るうちに枝が折れ、いっせいに溺れツレ气給はん事、 に分ち、 たぐひ たよ イういん ほんニ よ ぶッぽふ にほん おうぎ ごんじっ ぶんざい

3. 日本古典文学全集(34)-謡曲集(2)

謡曲集 ニ※ きんぜいとうばうしゃうリうしゃうじゃう さいはうびやくリう りゅうびやくおうきんゼいちゅうおうおうたいおうりゅう 一以下、四方と中央の五色の龍王に地謡 ( 立って足拍子を踏み ) 謹請東方青龍清浄、謹請西方白龍龍白王、謹請中央黄帝黄龍、そのほか 呼びかけて祈る文句のうち、南の赤 びやくわう チうあうわうたいわうリう 全世界の数限りない龍王よ、憐れみを垂 龍と北の黒龍をはぶいたもの。典拠白王 ( 舞台をまわる ) 、謹請中央黄帝黄龍 ( 正面先〈出る ) 、一大れてこの願いを聞き入れたまえ』。いや、 さんぜんだいせんせかい うちづえ ごうじやリうわうあいみんなふ の意。 ここは龍王の憐れみたまう所であるから、 三千大千世界の ( ワキへ打杖を振りおろす ) 、恒沙の龍王哀愍納 ニ※現行観世流は「白帝白龍 2 」。 どこに大蛇は存在してよかろうそと、行 じゅ みぎん 三広大な全宇宙。須弥山みを中心 受 ( 正面に向き膝をつく ) 、哀愍じぎんの砌なれば ( 立ち、ワキへ立者が祈れば、蛇体は祈られて、がばと倒 とした小世界を千倍したものを小千 セ※ れ伏し、また起きあがって、すぐに鐘に だいじゃ 世界、それを千倍したものを中千世 ち向かう ) 、 いづくに大蛇はあるべきそと ( 下がって安座する ) 、 界、さらにそれを千倍したものを大 向かって息を吐きかける。その息は燃え 千世界という。 あがツ さかる火となり、かえって蛇体自身を焼 四恒河沙の略。恒河 ( ガンジス川 ) の祈り祈られかつばと転ぶが ( 立ち、角へ行く ) 、また起き上って く。そして蛇体は、日高川の波立っ深淵 砂の意で、きわめておびただしい数 のこし J 。 に、飛び入ってしまったのであった。 たちまちに ( 鐘を見あげ、頭を振る ) 、鐘に向って吐く息は ( 鐘に 五憐れんでこの願いを聞き入れたま 地謡「望みを達したと行者たちは、自分の本 みやうくわ ひだか かはなみ え、の意。 せまり、膝をつく ) 、猛火となってその身を焼く、日高の川波坊に帰った、自分の本坊に帰って行った 六未詳。底本は「自謹」。観世系古本 しんネん のであった。 には「りきん」とある。一応ロ語訳の ( 立ち、揚幕へ向かって走る ) 、深淵に飛んでそ入りにける ( 揚幕の ように解しておく。 七※現行観世流は「大蛇のあるべき 内へ飛び込み、膝をつく ) 。 ぞと」。 げんじゃ ^ 激しい勢いで、音を立てて、倒れ 伏したり、また起き上がったりする地謡「望み足りぬと験者たちは、わが本坊にそ帰りける、わ さまを表わすことば。 九「撞く」に音が通じ、「鐘」の縁語。 が本坊にそ帰りける ( ワキは常座でユウケン扇をした後、留拍子を踏 一 0 「火」に音が通じ、「焼く」を受け る。 む。シテは揚幕の内で立ち、一歩出て留める ) 。 一一修験道の行者。すなわち、山伏。・ 三自分たちの住む僧坊。 ^ ッ まろ ッ すみ ッ 九 っ

4. 日本古典文学全集(34)-謡曲集(2)

謡曲集 かうぞめけさ じゅず 一丁子の煮汁で染めたもの。染め僧の、香染の袈裟をかけ、水晶の数珠をつまぐり、鳩の杖袈裟をかけ、水品の数珠を指先で繰り、 はとっえ 色は、赤味を帯びた黄色。 らくやうひがしやま 鳩の杖にすがって現われて、美しく端正 めうもんただ みこゑ ニ握りの部分に鳩の形をつけた老人にすがりつつ、妙聞正しき御声にて、われは洛陽東山の、 なお声で、『わたくしは京都東山の、清 用の杖。 なんち きよみづ 水のあたりより、そなたのために来たの 三美しく聞こえる音、の意。 清水のあたりより、汝がために来りたり、もとより大慈大 四端正な、の意。 である。もとより仏の大慈悲の誓願はど いちおん せいぐわん むな うしてむなしかろうそ。ただ一声であっ 悲の、誓願などか空しからん、たた一音なりとても、われ ても、わたくしを祈念する時は、王命に じせつ わうなんさい を念ずる時節の、王難の災は遁るべし、 背いたための災難をばのがれることがで としつき きるのだ。 シテ气いはんや汝年月、 盛久「ましてやそなたは、この年月、 はツしん たねん六 地謡「多年の間、とくに目立って真心を尽 五世阿弥自筆本に「タンネン」とある。地謡气多年のまことをぬきんでて、発心人に越えたり、心安 ( 盛久 ) 底本および現行各流は「多年」である くしていて、仏に帰依する心が他の人以 が、「年月」と重複するので、あるい く思ふべし、われ汝が命に、代るべしとのたまひて、夢は 上である。安心せよ、わたくしがそなた は、「丹念」が原意かもしれない。 たツと くわんぎ の命に代わることにしよう』とおっしゃ 六とりわけきわだって真心を尽くし すなはち覚めにけり。盛久尊く思ひて、歓喜の心限りな って、それで夢は覚めたのであった。わ 七仏道に帰依し、菩薩を求める心。 たくしは尊いことだと思って、心中の喜 し。 びの思いはたいへんなものであった。 〈ロンギ〉となると、シテは立って常座へ行きかかり、また、 頼朝は、自分の見た夢も同じであるとす 中央にもどって着座する。ワキはシテに酒をつぐ。シテは、中 ひたたれ つかり感動し、盛久の命を許し、盃を与 、しょ・もら′ 央で直垂の両袖を取って〔男舞〕を舞いはじめる。 える。舞のご所望と土屋より伝えられた よりと・も 盛久は、御代を寿ぎわが身の喜びをも添 地謡〈ロンギ〉頼朝これをきこしめし ( 正面へ両手をつく ) 、この えて、舞を舞う。 ごしんかんナ あかっきごむさう 暁の御夢想も、同じ告そとあらたなる、御信感は限りなし。地謡「頼朝はこのことをお聞きになって、こ かんるい の明け方に自分の受けた夢のお告げも同 シテ气その時盛久は、夢の覚めたる心地して、感涙を留めか じ内容であると、あらたかな仏のお示し ごんノ に対して、信仰し感動なさることはたい ね ( シオリをする ) 、御前をまかり立ちければ ( 立って常座へ行きか へんなものであった。 かる ) 、 盛久「その時盛久は、夢が覚めたような気持 ^ 信じ感ずること。 0 そう のが ここち はとっゑ

5. 日本古典文学全集(34)-謡曲集(2)

こかたよしつね よしつねよりとも 〔次第〕の囃子で、子方の義経、ワキの弁慶、ワキツレの義経 義経は頼朝と不和になり、主従十余人、 だいもっ 都を離れて津の国大物の浦に赴く。 の従者登場。アイの船頭もワキツレに続いて登場し、狂言座に 着座する。正面先に向かい合って〈次第〉を謡う。子方・ワキ 弁慶「今日思い立って都から旅に出る は正面を向き、ワキは〈名ノリ〉を述べる。一同〈サシ〉を謡 のであるが、今日思い立って旅立つので い出し、「まだ夜深くも」以下ふたたび向かい合って謡い あるが、ふたたび都へ帰る日をいっと定 〈下歌〉〈上歌〉と続く。〈上歌〉の末尾でワキは歩行の態を示 めることができようぞ。 した後、正面を向ぎ、〈着キゼリフ〉を述べる。子方・ワキッ しようぎ 弁慶「ここに出て参りました者は、比叡山西 レは脇座へ行き、子方は床几に腰をかけ、ワキツレは着座する。 むさしぼう・ヘんけい 塔のそばに住む武蔵坊弁慶であります。 ほうがんどの さてわが君判官殿は、頼朝の御代官とし 〔次第〕 一「 ( 思ひ立っ ) 旅」と続き、「帰洛」の て、平家をほろぼし天下をご鎮定なさっ 「き」が「着こに音が通するので、そ の序。なお、「立つ」は「裁つ」に音がワキ气〈次第〉今日思ひ立っ旅衣、今日思ひ立っ旅衣、帰て、ご兄弟の御仲は日と月とのように並 ワキツレ 通じ、「衣」の縁語。 らく び立っておいでになりますはずのところ、 ざんげん おんなかたが ニ東塔・横川とともに比叡山延暦寺 洛をいっと定めん。 つまらぬ者の讒言によって、御仲違いを の三塔の一。 さいたふかたはら むさ 三鎌倉初期の人物。怪カ無双で武事 なさいましたこと、かえすがえすも残念 ワキ「〈名ノリ〉かやうに候ふ者は、西塔の傍に住まひする武 を好み、源義経にしたがって名をは 四 なことであります。しかしながらわが君 よりともおんだいくわん しばうべんけい はうぐわんどの せた。義経没落後も忠節を尽くし、 は、頼朝に対し兄としての礼儀を十分に 安宅の関で危難を救い、衣川の戦に蔵坊弁慶にて候。さてもわが君判官殿は、頼朝の御代官と お尽くしになり、ひとまず都をお離れに おんなかじっげつ おんしづ ごきゃうだい 討死したと伝える。『平家物語』『吾 して、平家を滅し天下を御鎮めあって、御兄弟の御仲日月 妻鏡』『義経記』などに名がみえる。 なって、西国のほうへお下りになり、ご 四検非違使尉の通称。義経がその職 ュ ざんげん 自身にまちがいのないということをご嘆 にあったことから、義経の称として のごとく御座候ふべきを、言ひかひなき者の讒言により、 願なさろうがため、今日、夜も深いうち 用いられた。 くちを おんなかたが から、淀よりお舟に召され、津の国尼が 五主君に代わって官職を代行する者。御仲違はれ候ふ事、返す返すも口惜しき次第にて候。しか 六つまらない者。梶原景時をさす。 崎の大物の浦へと急ぐのであります。 七肉親の兄に対する礼儀。 れどもわが君親兄の礼を重んじ給ひ、ひとまづ都を御開き弁者「時は文治の初めごろ、頼朝義経 〈「開く」は、武士の忌み詞で、「退 さいこく おんげかう おんみあやま の間が不和であるということが、もはや く」の意。 あって、西国の方へ御下向あり、御身に誤りなき通りを御 九「歎き」は、嘆願・愁訴。 決定的となってしかたなく、 なげ よど こんにちょ おんふね 一 0 摂津国の神崎川の河口、川尻の 義経「判官は都落ちをして、あちらこちらの おって 西方にあ。た港。当時西国往来の舟歎きあるべきため、今日夜をこめ淀より御舟に召され、津 道が追手で閉ざされぬその前に、西国の の発着地であった。今は兵庫県尼崎 だいもっ の国尼が崎大物の浦へと急ぎ候。 ほうへ行こうと心に思って、 市大物町。 舟弁慶 ッ ほろぼてんが しんきゃう はやし たびごろも べんけい おんひら おん おもむ ひえいざん

6. 日本古典文学全集(34)-謡曲集(2)

謡曲集 ねんぎゃう たいれい えい。こちらへ寄せないのなら祈りもど 一中国の天台山に擬して、比叡山を地謡气台嶺の雲を凌ぎ ( ワキは祈る ) 、台嶺の雲を凌ぎ、年行の、 いう。ただしここでは、山伏の修行 すことにするそ。 しんみやう ゅやごんげん いッせんよかにち する高山、の意。なお、以下、謡曲劫を積む事一千余箇日、しばしば身命を捨て、熊野権現に船頭「なんだ 0 て、この舟を祈りもどそうと 「野守」にほぼ同文が存する。 言うのか。 ニ多年の修行。 頼みをかけば、などかしるしのなかるべき ( 船頭は舞台へ引き 三矜羯羅・制多迦は、不動明王の脇 阿闍梨「もちろん、そうだとも。 くりからしちだいはつだい いちこんがらにせいたカ 立の童子。ともに八大童子の一。 寄せられる ) 。一矜羯羅一一制多迦、三に倶利迦羅七大八大、船頭「山伏はもののけなどをこそ祈るはずの 四倶利迦羅龍王。不動明王の剣の変 もの、舟を祈った山伏なんて、いまだか とうまう じた化身。黒龍が剣にからみついた 金剛童子。東ガ ( 船頭は切戸口より退場し、ワキは祈りつつ地謡座前に って聞いたことがないそよ。 形をしている。八大童子ではないが、 その一と考えられていたらしく、謡 阿闍梨「いや、なんと言ったってよいが、あ くや 曲「野守」においても、本曲と同文の下がり着座する ) 。 とで悔もうそ。後悔するな、男め。 けんそ 形で、「三に倶利迦羅」と列挙されて 〔早笛〕の子でシテの熊野権現が登場して、常座に立つ。掛地謡「高い山の雲を押し分け、険阻な高 こう 合いの謡、地謡に合わせて舞い、常座で留める。 五「八大」の序。 山で雲を分けて進み、年々の修行の劫を 六不動明王の使者である八童子。 積むこと一千余日、その間しばしば身命 〔早笛〕 すなわち、慧光・慧喜・阿耨達多 を捨てて熊野権現に祈誓をしたのであっ 彎指徳・鳥倶婆迦飃・清徳・矜 地謡气〈ロンギ〉ふしぎや東風の風変り、西吹く風となる事は、 て、その熊野権現にお願い申すならば、 羯羅・制多迦。手に金剛杵」 を持つから金剛童子という。 どうしてそのかいのないはずがあろうそ。 こんがら せいたカ いかなる謂れなるらん。 七「東方降三世明王」と続くべきとこ 第一に矜羯羅、第二に制多迦、第三に倶 りからりゅうおう ろ。 しゃうじゃうでんあみだによらい 利迦羅龍王、そのほか合わせて八人の金 シテ气 ( 常座で ) 本宮証誠殿、阿弥陀如来の誓ひにて ( 足拍子を踏 , 下掛系は、〔早笛〕の次に、 ごうざんみようおう 剛童子、そして東方の降三世明王、これ 地謡气そもそも我が朝に、霊神跡を とど 垂れ給ひて、威光も神徳も、まち む ) 、西吹く風となし給ひて ( 左袖を返してワキへ向く ) 、舟を留らのかたがたにお祈り申しあげる、どう まちなりと申せども、熊野の権現 そ舟をもどしてくださいますよう。 の、誓ひぞすぐれ給へる。 め給へり。 ( 擬車屋本 ) 熊野権現が海上に出現し、一一人の者の乗 とあり、そして〈ロンギ〉に続く。 地謡气さてまた西の風もやみ、東風吹く風となる事は ( 角へ行 る舟を、あっという間に若狭の浦に引き ^ ※下掛系は、「ふしぎや東風の風変 つけ、都へお帰しになった。まことにあ り」と繰り返す。 りがたいことであった。 九熊野本宮の神殿の名。 しんぐう一ニ 一 0 熊野本宮の本地は阿弥陀如来で 地謡「ふしぎなこと、東から吹いていた シテ气新宮薬師如来の ( 左へまわって大小前へ行く ) 、浄瑠璃浄土は ( 阿闍梨 ) ある。 風が変わり、西から吹く風となった。こ = 引き寄せられた舟に梅若・阿闍 れはどういうわけであろうか。 梨が乗船した後は、ふたたび順風の東にて、東風吹く風となし給ふ。 こふ しの 一 0 こち じゃうるりじゃうど すみ 1 」うどうじ まわかさ こん

7. 日本古典文学全集(34)-謡曲集(2)

^ ※下掛系は「名をも弔ひ」。 九※下掛系は「妙文の」。 一 0 声を出して経を読み、仏名をと なえて仏事をすること。 = 生死流転する六道の世界。 三※下掛系は「離れて」。 一三迷いのない真実の本性に帰り、 赴ぎ行く極楽浄土。 一四「 ( 恨みを ) 言ふ」と掛詞。 一五「 ( 声を ) 上げ」と掛詞。 一六功徳。 一七心の迷いから物事に執着するこ 一 ^ 遠慮がちながらも。 一九この場にふさわしい調子。 山姥 いッきよく の妙花を開く事、この一曲のゆゑならずや。しからばわらむ女であるなら、わたくしの身の上と同 九※ めうおん とむら じではありませんか。長い年月、曲舞と おもて はが身をも弔ひ、舞歌音楽の妙音の、声仏事をもなし給は して表に出してお謡いになっているのに、 りんネ きしゃうぜんしょ その主人公である山姥そのものについて、 ば、などかわらはも輪廻を遁れ、帰性の善所に至らざらん ほんのすこしもお心におかけなさってい あげろやまンば ないことを、お恨み申すために来たので と、恨みをタ山の、鳥獣も鳴き添へて、声を上路の山姥が、 おうぎ れいき ある。あなたが芸の道の奥義をきわめて 霊鬼これまで来りたり ( ツレヘ向く ) 。 名を上げ、世間の人々の間にあらゆる徳 望を得て、すばらしい花を咲かせたとい ツレ气ふしぎの事を聞くものかな ( シテは正面を向く ) 、さてはま うことは、この山姥の一曲のためではな やまンば いか。それならわたくしの身をも弔い ことの山姥の、これまで来り給へるか。 妙なる舞歌音楽によって、供養をもなさ めぐ ぎた けふ シテ「われ国々の山廻り、今日しもここに来る事は ( ツレヘ向く ) 、 るべきである。そうしてくたさったなら、 りんね わたくしも輪廻をのがれて、迷いのない わが名の徳を聞かんた第第 真実の本性に帰って赴く極楽へ、どうし て至り着かぬことがあろうそと、恨みご めなり。謡ひ給ひてさ とを言えば、夕暮れの山の鳥や獣も同情 して、ともどもに鳴声を立て添えている。 りとては、わが妄執を 上路の山の山姥の霊魂が、これここに現 晴らし給へ。 気われて来たのである。 の 遊女「これはまた、ふしぎなことを聞くもの 山 ツレ气この上はとかく辞 , の であること。さてはまことの山姥が、こ テ こまでおいでなさったのか。 しなばおそろしゃ ( シテ 山の女「わたくしが国々の山々を廻って、今 は正面を向く ) 、もし身 日という〈マ日ここに来たということは、 あ わが名の功徳を聞こうがためである。曲 のためや悪しかりなん 舞をお謡いになって、どうかわが執念を 晴らしてくださいませ。 と、憚りながら時の調 五〇九 めうくわ イふやま まうシふ 一九 とりけだもの のが こゑぶつじ たえ おもむ

8. 日本古典文学全集(34)-謡曲集(2)

四七〇 せども神国にて、さやうの事容易にはなりがたく候さりながら、これまではるばる御出でにて候ふ間、 ひえいさん きぐわんじよ 同心申さうずる、まづあれに見えたるが比叡山と申して、王城の祈願所なり、まづまづ都へ御上りあ って、心のままに窺アて御覧候へとありしかば、やがて退散申され、それより善界坊都へ上り、いろ いろ妨げをなし申され候ふ間、勅諚立って急ぎ僧正に御出であり、祈疇あれとの御事にて、僧正も ひとあし 御車を早め給ふが、一足も早くこの巻数を持ちて参り、捧げ申せとの御事により、これまで出でて候。 急いで参らばやと存ずる。 かたぶッぼふはんじゃう アイ「 ( 舞台をまわりながら ) いやまことに、わが朝は神国にて、後五百歳よりこの方、仏法繁昌にして何事 もめでたき御国なるを、善界坊の分として、妨げをなし申さうずるとあるは、ちかごろかたはらいた き事にて候。その上太郎坊などは、日本の事をよく知られ、今まで聊爾なる事を召されぬこ、 善界坊の申さるればとて、同心申さうずるとあるは、ちと太郎坊の分別違ひかと存ずる。そりやそり つじかぜ やそりやそりや。今辻風が吹いて通ったれば、身の毛がよだっておそろしうなった。これも善界坊が 業であろうほどに、苦しうあるまい。急いで参らう。ゃあこれは以ての外の大風になった ( アイは常座 に立 3 。その上行先が暗うなって一足も行かれぬ。みどもが分として、善界坊とねち合ふ事はなるま 。命を失うてはいらぬ事ちゃ。ただ戻らう。さりながらもしお尋ねもあらば、これまで出でて候へ ども、行先が暗うなって参られぬと申してまかり帰りたるよし、御申しあって賜り候へ。その分心得 候へ、心得候へ。 ( アイは退場する ) 後見が車の作リ物を脇座へ置く。〔一声〕のでワキの室 の僧正とワキツレの従僧とが登場。ワキは車の内に入り、ワキ ツレは車の両側に立って〈一セイ〉を謡う。ワキは〈サシ〉を 謡い、地謡の〈上歌〉に続く。〈上歌〉の終りに、ワキは車の ニ※底本の役名は「僧正」。現行観世 しようぎ 流によって、ワキ・ワキツレの謡と 内で床几に腰をかけ、ワキツレは地謡座前へ行き着座する。 した。 三比叡山をさす。「阿耨多羅三藐三 ニ※ そま ちよく 菩提やく あのくたの仏たちわが立っ杣に ワキ气〈一セイ〉勅を受け、わが立っ杣を出でながら、急ぐ 冥加あらせたまへ」 ( 新古今・釈教ワキツレ おほうちゃま 伝教大師 ) の詞書に、「比叡山中堂建 も同じ名に高き、大内山の道ならん。 立の時」とあることに基づく 一釈迦入減後の一一千五百年間を五期 に分けたうちの最後の五百年間。こ れを、「はるかの昔」の意に用いたも のと思われる。なお、山本東本の表 記は「古々百歳」。 謡曲集 0 みくるま わざ ちよくじゃう ひとあし くわんじ てう さうらふ ごひやくさい 飯室の僧正は、従僧とともに都へ急ぐ。 急に風が出て、雷鳴がとどろき、すさま じい景色となる。これはいったいどうい うわけなのであろうか。 飯室の譱正「勅命を受けて、わが山である比 叡山を出て行き、急ぎ赴いて行く所も、 わが山と同じく名高い大内山、禁中への 道なのである。 れうじ おんニ お、む おんの

9. 日本古典文学全集(34)-謡曲集(2)

六※下掛系は「これまでなれ」。 七※下掛系は「歓楽の」。 ^ 「一炊」の意をも含む。 九深く感動した時に発する感動詞。 本来、仏法僧の三宝に帰依する意。 《夢中酔舞》の場合は、シテは、「よ くよく思へば」では台より下りず、 「げにありがたや邯鄲の」の繰返しの 句で下りる。 一 0 迷いの境地を抜け出ること。 によう・こかうい こよ、 五「女御」は中宮に次ぐ位、「更衣」は地謡气女御更衣の声と聞きしは、 女御の次の位。いずれも宮中の女官 まっかぜおと 盧生「夢の中であれほど多くいた、 にようご の名称。 シテ松風の音となり ( 橋がかりのほうを見る ) 、 地謡「女御や史、その声だと聞いていた くうでんろうかく のは、 地謡「宮殿楼閣は、 慮生「今は松吹く風の音、 地「夢の中の宮殿楼閣は、 シテ气ただ邯鄲の仮の宿 ( 台の柱を見る ) 、 盧生「実はこの邯鄲の仮の宿りにすぎない、 地謡气栄花のほどは、 地謡「夢の中で栄華の続いたのは、 盧生「五十年、 シテ气五十年、 地謡「さてこの夢の間というのは、粟飯を あひだあはいひ 地謡气さて夢の間は粟飯の、 盧生「ほんのわずかの間のことである、 シテ气一炊の間なり、 地謡「ふしぎなことだ、なんとも考えにく いことだ。 地謡气ふしぎなりや計りがたしゃ。 盧生「よくよく人間というものについて考え にんげん てみると、 シテ气つらつら人間の、有様を案ずるに ( 膝をかかえて面を伏せる ) 、 地謡「人生百年の歓楽といっても、命が終 はくねんくわんらくめい ごジふねん ( 慮生 ) 地謡气百年の歓楽も、命終れば夢そかし、五十年の栄花こそ、 われば夢と同じこと。今の五十年の栄華 六※ こそ、わたくしにとってはこれ以上のも 身のためにはこれまでなり、栄花の望みもの長さも、五 のはない。栄華の望みも長命の願いも、 わうる ジふねんセ※ 十年の歓楽も、王位になれば、これまでなり、げに何事も五十年の歓楽をきわめることも、王位に まで即いた以上、この上に望むことはな 1 ッすい 一睡の夢 ( 枕を見つめる ) 、 しいやまったく何事も、一炊の間の一 うらわ なむさんぼう 眠りの夢と同じくむなしいことなのだ。 シテ气南無三宝南無三宝 ( 団扇で膝を打っ ) 。 慮生「ああそうなのだ、よくわかった。 一 0 しゅッり 地謡「よくよく考えてみると、迷いを脱し 地謡气よくよく思へば出離を求むる ( 立って台より下り、常座のほう ( 盧生 ) ようと望むわたくしが求めていた師は、 この枕なのであった。この邯鄲の枕はま へ行ぎかかる ) 、知識はこの枕なり ( 台へもどって枕を見つめ、台へ上 邯鄲 ごジふねん いッすい やど よ ひ こう

10. 日本古典文学全集(34)-謡曲集(2)

謡曲集 元雅・禅世阿弥以後の能作者について簡単に触れておく。世阿弥の長男十郎元雅 ( ? ~ 一噐一 l) は、前述したように父に先立って死ん むせきいっし 竹・宮増。こ。 世阿弥の追悼文『夢跡一紙』は彼の才能をたたえ、その早世を哀惜している。享年は明らかでないが、近年、音阿弥 すみだがわ よろばし よりも年下であったとする有力な説がとなえられており、それにしたがえば、三十二、三歳ということになる。「隅田川」「弱法師」 もり・ひみ、 「盛久」は彼の作で、いずれも現在能である。それらの能の主人公は、逆境に死んだ彼自身を反映しているかのようである。「隅田川」 の母親は、狂女物の唯一の例外として、わが子に再会できず、東国の果てでその死を告げられ、弱法師・盛久は、逆境にあっても透 徹した心境をもつ人物として描かれている。世阿弥とは別の境地を開拓しかけた趣がある。 金春大夫氏信 ( 一四 0 五 ~ ? ) は、法名を禅竹と称した。没年は明らかでないが応仁二 ( 一四六八 ) 年、六十四歳で健在であり、それから二、三 じよせい 年後に没した。彼は世阿弥の女婿であり、『拾玉得花』などの伝書を相伝している。また彼自身に『六輪一露之記』などの伝書の著 一ばしよう 述がある。音阿弥と同時代人であり、主として奈良で活動した。「賀茂」「色蕉」「定家」などは彼の作品と考えられる。「芭蕉」は冷 えさびた内容をもち、「定家」もまた晩秋初冬の情緒を描く。「賀茂」の前シテの場では、部分的に人生の哀感を示している。 こそでそが くらまてんぐ みやます なお、「小袖曾我」「鞍馬天狗」などの作者宮増も、ほばこのころの人であると考えられている。彼の作品は世阿弥とはやや異質で、 『曾我物語』『義経記』と共通の素材をもったものが多く、京都風ではない。たぶん、在地の人々を対象に活躍していた群小諸座の者 だったのであろう。 のぶみつ もみじ 小次郎音阿弥の第七子、観世小次郎信光言 = 尻 ~ 至〈 ) は、世阿弥を本体とした上での異風の作品を残している。本書所収の「紅葉 どうじようじ がり ふなべんけい 信光狩」「舟弁慶」や、「道成寺」の原作「鐘巻」は彼の代表作と考えられ、「安宅」は若干存疑の点があるけれども、一応彼 たまのい ゅようやなぎ の作に人れてよいと思われる。その他、「玉井」「遊行柳」も彼の作品と考えられる。 「紅葉狩」「舟弁慶」において、前後二場それそれに〔舞〕〔舞働〕が演ぜられる。「紅葉狩」の前シテの舞は途中でテンポが急変する なみがしら はやし し、「舟弁慶」のアイの船頭の場では、アイのせりふに合わせて〔波頭〕の囃子が演奏される。これらは、目や耳に具体的に訴える演 かも ていか