のろ うに思われる。「お前と狂人の唯一の相違は、お前が狂人ではないこと を取り戻すために魂を売った男 ( ファウスト ) に呪いあれ冂 ( 15 : 79 ) 。 なんだぞ」というダリの有名な言葉にしても、他人の目に、また彼自身 これはダリの本音てもあったろうが、しかしその底にはアンチ・ファ の目にも自分が狂人と映ることを怖れ、自分は決して本当の狂人、「絵を ウストを装うことで、やがて来る死あるいは老年と折り合いをつけてお 描く狂人」ではないことを、実際に精神を病んだ、。芸術家 " とは本質的に こうというダリの潜在意識が見え隠れするのである。 異なる存在であることを、みすからに言い聞かせたものと解釈されるの 世間的にはシュルレアリスムの道化師を演じながら、一方では死と狂気 おび である。しかしその一方で、自分は狂人でないと言い張るダリの意識の の影に怯え、生存の不安におののくダリがあったことを知るべきである。 深層には、自分の父方の祖父が 36 歳という若さで ( 不況で仕事に行きづま った、という事情もあったにせよ ) 精神病にたたられて自殺した、という ダリ的イメージ 厳然たる事実がこびりついていたことを我々は知っている。イアン・ギ “イメージの魔術師”とも言うべきダリにとっては、そもそもものが見 プソン ( 15 : 11 ) によれば、ダリにはおそらく人には言えない、ダリ研究 f05 ダリ《うとましき遊戯》 1929 年、個人蔵 家にも未確認の「家族的なトラウマ ( 心の傷 ) 」があり、あれほど饒舌なダ リが祖父の自殺については「執拗に沈黙を守り通した」のもおそらくそ のトラウマのためであった。とすれは自分は正常だというダリの主張 は、額面通りに受け取ることもできるが、同時に狂気の遺伝、あるいは自 分もいつか自殺するのでは、との恐怖感から出た一種の自己暗示、ある まじな いは呪い、厄除け的な意味合いもあったと言えよう。 時代による差はあるものの、ダリの絵がしばしは地中海的、スペイン 的なまばゆい光をたたえ、その光の中に照らし出された鮮やかな、とい うよりどきつい、ギラギラした色彩に彩られているにもかかわらす、全 体的に暗い不穏な印象を与えるのは、祖父の自殺、威圧的、強権的な父親 との葛藤、 ( かってのゴッホと同様に ) 自分が生まれる前に、生後間もな く逝ったもう一人の“サルノヾドール・ダリ”の存在、両親の寵愛を一身に 集めた ( しかし両親の思い出話と写真でしか知らない ) 同名の兄に対す るコンプレックスなど、生と死にまつわる様々な「家族的なトラウマ」に も起因すると言えよう。 1941 年の二ューヨークの近代美術館でのダリ展はミロのそれとの同 ダリ《大自濆者》 1929 年、マドリード、レーナ・ソフィア国立美術館 f06 ーによると「陽気さ、太 時開催であったが、同美術館の J. J. スウィー 陽、健康、色彩、ユーモア、リズム。これらはミロの作品のトレードマー クてある。 ( ・・・・・・ ) ダリの会場からミロの会場へ移動することは、暗く重 苦しい部屋ー一例えば病状 ( 患部 ) を写した写真を ( 医師が ) じっと見て いる部屋ーーから子供部屋の賑やかさ、明るさに移るようなものであ る」 ( 15 : 414 ) 。 フランス的な“趣味の良さ " をあざ笑い、ガウティ的、ダリ的、。悪趣味” を賛美するダリはまた、青舂をあざ笑い、老年を賛美するダリでもあっ たが、こにも死の影におびえるダリをかいま見ることがてきよう。 「私は老年を賛美した ! ( ・・・・・・ ) 私はアンチ・ファウストだった。老年 という至高の科学を会得しながら、額の皺を消し、無自覚な肉体的若さ ー発第を ・ 16
街の全景に変わり、それがセニョール・トライテ ( ダリの小学校教師 ) の 眠そうな髭面になったかと思うと、 ( ・・・・・・ ) 猛り狂った狼たちがくりひろ げる互いに血で血を洗う闘争の姿」に変貌したという。ダリはまた自分 の小学校の「円天井の湿った染みのなかに ( かってのピエロ・ティ・コジ モ、レオナルド・ダ・ヴィンチのように = 筆者補足 ) 。。なんでも好きなも の " を見る」ことができた。またある時は、八ムレットとボローニアスの 有名な対話 ( 「八ムレット」第 3 幕第 2 場 ) のように、少年ダリは「夏の嵐の 変わり行く雲」に幻想的なイメージの数々を見てとった。中学校時代の ダリはフランス語の教科書の中の鳥のイラストに手を加えて、これを人 fig. 4 ミロ《母性》 1924 年、ロンドン、個人蔵 ンスト、ミロの場合、そこには具体的なイメージも登場するが、同時に抽 象化、単純化、あるいは記号化されたものも少なくない ( fig. 4 ) 。無論、ダ リにもテフォルメされ、誇張され、曖昧化されて言葉では定義、説明しが たいイメージはあるが、しかしその多くはその原型を、本来は何なのか を想定ないし特定しうるものである。言い換えれば、ダリの想像力は錯 乱的、幻覚的である前に、彼の身近な現実とその視覚体験に、あるいは彼 が生まれ育ったカタルー二ャの、アンプルダン ( 工ンポルダ ) 平野の、カ ダケスの、クレウス岬の風景と風土に根ざしているのである。鬼面人を 驚かすダリ的イメージの多くはここに発し、ここに帰るといっても過言 てはない。その中間にあって、ダリの原体験をあのダリ的イメージに展 fig. 3 ダリの中学時代の教科書の 1 ページ。オウムのイラスト ( 右下 ) を人の顔に描き変えている。 開してゆくのが彼のいう偏執狂的・批判的方法であるが、プルトンにと の横顔に生まれ変わらせている ( fig. 3 の右下参照 ) 。こうしたイメージ ってそうであったように、ダリにとっても「現実は、他のものと同じく一 の変容は、たとえはドイツのシュルレアリスト、マックス・エルンストも つの報告」に過きなかった。言い換えればそれはひとつの可能性に過き 木目やひび割れのある床板や壁を見た時に体験しており、それがやがて ないのであり、「精神が把握できる現実とは別の、偶然、幻覚、幻想、夢の 彼のフロッタージュの技法につながっていったが、しかしダリの写真的 ように第 1 番目のものである報告がいくらでもある」 ( プルトン、 24 : リアリズム顔負けの細密描写によった“イメージのアクロ八ット”とも 42 ) 。要するに「超現実は、現実そのものの中に含まれており、現実の上 言うべき作品は、エルンスト、あるいはミロのそれとはいささか次元を にも外にもあるのではない」 ( 同 ) のである。正気と狂気がそうであるよ 異にしている。 うに、現実と超現実とは紙一重であり、表裏一体をなしているのである。 ダリがいかに狂気を装い、また実際、時に狂気に走ったとしても、彼の つまり、上の例で見たようにダリはあるイメージを見て、それが別の ものに変じ、さらに別のものに変じるというメタモルフォーズの連鎖反 絵に登場する異様でグロテスクなイメージは“狂気の沙汰”にはほど遠 応を意のままにできたが、しかしそこに現れるのは常に具体的、現実的 かったし、彼の、、狂気 ' の根底にはどこか覚めたところが、狂気を装いな なイメージ ( 橇→街の景色→人の顔→争う狼の群 ) であった。一方、エル がら冷静に父の復讐の計画を練る八ムレットに近いところがあったよ レ部興 3 しレーー 0 200 ⅸれ L'æut 飜粉 0. 34. 0 世 0 Ⅱ一聞」 ト呻氤物 レ bl レを一。物え第 ・ 15
えること自体がひとつの神秘てあり奇跡であり、また見るという行為は る胎児のような奇妙な生物体なども、ダリのオプセッション ( 憑依 ) とし 常にある種の発見、発明を、“付加価値”を伴うものてあったが、それを雄 て、ダリ的イメージの“定番”として我々の目を引く。これらのモチーフ 弁に語るのが上に挙けた 2 点の“パン”である。とりわけ 22 歳の時の《パ には他のシュルレアリストの作品に登場するものもあれば、しないもの ン籠》 ( cat. no. 11 ) は翌年の《器官と手》 ( cat. no. 12 ) 、《浴女》 ( cat. no. 13 ) な もあるが、それらが何を意味し、象徴するかといった問題は別として、そ どを経て 1929 年の《舂のはじめのころ》 ( cat no. 15 ) へと展開してゆく、 の多くはまたしてもダリの幼少の頃の生々しい体験にもとづいている。 ダリ的シュルレアリスムの原点ともいうべき作品である。 1929 年とい たとえば蟻。少年時代のある日、蟻の大群がペットとして可愛がってい う年にはこの他にも《ポール・エリュアー丿レの肖像》、《欲望の謎ーーわが た蝙蝠に群がり、蝙蝠がもがき苦しんでいるのを見て以来、蟻はダリの 母よ、わが母よ、わが母よ》、《うとましき遊戯》 ( 題名は詩人のエリュアー オプセッションのひとっとして、 1930 年前後の彼の作品のいたる所に ルによる。 fig. 5 ) 、《大自濆者》 ( fig. 6 ) 、《見えない男》などがたて続けに 出没するのである。あるいは池でつかまえた魚の頭をよく見ようとし 生まれており、それまで七分咲きかノ \ 分咲きのダリのシュルレアリスム て顔を近づけた瞬間、そこに大きなノヾッタの顔と頭を発見して言い知れ が全開した記念すべき年である。ここでこれらの作品を熟視する余裕 ぬ恐怖と驚愕を覚えた少年ダリ。この八ッタはイナゴと訳されること はないが、多少のダリ理解のためにそこに繰り返し現れる若干のダリ的 もあるが、ギブソン ( 15 : 57 ) によれば空中をピョンピョン飛ぶいわゆる イメージを検討してみる必要はあろう。 grass oppe 「ではなく、地をはうことの多い locust で、カタルーニヤ地 ダリ様式を形成する要素のひとつに、画面に一種異様な緊張感を生み 方のそれは体長が普通のノヾッタの数倍にも達するという。魚の頭にノヾ 出している強烈な光と影のコントラストがある。これは《パン籠》にす ッタを重ね合わせる少年ダリは、後に彼のトレード・マークとなるダブレ・ てに見えるが、しばしは指摘されるようにこの点でテ・キリコとイヴ・タ イメージ ( cat. no. 37 参照 ) をすでに意のままにする術を身につけていたと ンギーの影響は明らかである。しかしまたそれは、スル八ラン ( fig.7 ) 言えるが、以後バッタは「サル八ドール・ダリの生命の恐怖、悪夢、迫害 者、幻覚を呼ぶ痴呆」 ( 25 : 143 ) 、要するに彼のコンプレックスあるいは フォビア ( 病的な恐怖の対象 ) となって、蟻とともに彼の作品に張りつく ことになる。 人間よりもはるかに無力で取るに足りないこれらの昆虫は、ダリの絵 の中てはそのうとましさ、おぞましさを存分に発揮しているが、いわれ のない恐怖の象徴とも考えられる蟻やノヾッタ、あるいは腐敗 = 死のイメ ージ ( しばしば描かれた腐ったロノヾに代表されるように、これもダリの 強迫観念のひとつであった ) を彼が繰り返し描いたのは、「私は厄払いの ために一度 ( 八ッタを ) 絵にしてみたんだが、効き目はなかった」 ( 20 : 234 ) というダリの言葉が示唆しているように、一種の呪術、悪魔祓いの fig.7 スル八ラン《ホテゴン ( 茶碗、アンフォラ、壺 ) 》 1633 年、マドリード、プラド美術館 儀式であったとも言えるのである。 しかしながら、ダリが自分にとってフォビアの対象ともいうべき蟻や の、初期のべラスケスの、つまり 17 世紀スペイン絵画の隔世遺伝とも見 八ッタを繰り返し描いた背景にはまた、一種の「怖いもの見たさ」、不気 味なもの、おぞましいものに対するマゾ的な快感があったようにも思え えるし、ダリの故郷カタルーニヤの光と影の反映とも言えよう。現代の 画家で、ダリほど風土的なものが身に染み込んだ画家はそう多くない る。例えは《洗礼盤》の中て目を閉じて夢見るような女性 ( fig 8 ) が、ラフ が、これは彼の光と影についても言えるのであり、光と影が演出するシ ア工ル前派のロセッティの名作《べアタ・べアトリックス》 ( fig. 9 ) を下敷 きにしていることは明らかであるが、ダリの《洗礼盤》の顔にはまたして ュルレアリスムにおいて、彼に匹敵する画家もまた少ないのである。 も蟻が這っている。ダリ自身、その感触を楽しむかのように。しかも半 《うとましき遊戯》、《大自濆者》、《春のはじめのころ》、《洗礼盤》 ( cat no. 17 ) をはじめ、この頃から彼の作品に目立ちはじめる蟻、ノヾッタ、松葉 固形的、半流動的なその顔と頭部は、石を素材としているようにも見え 杖、ライオンの頭部、長い睫毛のある目を閉じ、鼻だけあってロのない眠 るが、ダリ的コンテクストからすれはむしろのように思える。という ・ 17
/ ・とノ ダリ《宵のクモー希望》 1940 年 ・ 215 のです。ときには、ひとつの油彩作品を他のものよりも重要だと言って 作の中から私たちが真っ先に作品を選べるように取り計らってくれた て個展のたびにニューヨークに招待してくれるようになりました。新 の作品を若い夫婦が蒐集することをとても喜んてくれたのてす。そし 速に親しくなっていった。二人はこう語っている。「ダリ夫妻は、ダリ モース夫妻とダリ、そしてダリのロシア人の妻てあったガラとは、急 たちに訴えかけてくるかのようでした」とエレノアは語っている。 品ばかりです。そうした作品は、値段を問わすに引き取ってくれと、私 入したものはすべて私たちが気に入ったり、気になってしかたのない作 にお金を使うことに不安を覚えたりもしました。けれども、私たちが購 は私たちにとっては一財産に等しいものてした。とくに私は時々、芸術 売れていたわけではありませんから。それても、 1 点の油彩作品の値段 やミロ、シャガール、プラック、ダリといった画家の作品は、今ほどよく 「当時は、絵画は途方もなく高いものではありませんでした。ピカソ 金的犠牲も美のために必要なものであると考えられた。 こうした投資にもかかわらず、新しい絵は美しいものと見なされ、資 を、何十年にもわたるダリ作品の蒐集のために使ってきているのだ。 ノルズとエレノアはざっと見積もっても 500 万ドルを超えるほどの金額 あると評価する専門家が何人かいる。その評価額がどれほどてあれ、レイ モース夫妻のダリ作品のコレクションには 3 億 5000 万ドルもの価値が と言わせるのに失敗することなどなかったのです」と夫妻は語る。 私たちをワクワクさせ、彼の色彩は最も輝かしく、彼の才能は人をあっ なものてあることを証明するのはいつもダリでした。彼の発想が一番 はありません。実際に心を動かされもしました。けれども、最も刺激的 「長い間には、私たちが他の芸術家の作品に誘惑されなかったわけて た魅力は揺らぐことはなかった。 だが、さまざまなリスクにもかかわらず、彼らがダリに感じ取ってい 私たちがダリの作品を所有していることに憤慨していました」。 たと考えていましたし、筋金入りの保守的人間であった私の父などは、 私たちに薦めるダリと、長い時間議論することさえありました。でも、 私たちは、画家本人でさえ説得はむすかしかったでしよう。結局はいつ も自分たちが気に入った作品を選んでいたのです。でも結果的には、む ずかしい判断を迫られ、自分たちで決定を下したことを決して後悔はし ていません」。 1954 年の舂、夫妻は、ダリが「地上で最も美しい場所」と呼ぶスペイン に行くべきときがきたと判断する。その理由をエレノアは、「私たちは、 ダリの謎の重要な鍵は彼の生まれた土地にこそ見いだせると、それまで に見た写真から推察していたのです」と語る。そこで彼らは、ダリが暮 らしていたスペイン北東部のカタルーニヤと、ダリの住まいのあるポル ト・リガトを訪問した。 そこで訪れたアンプ丿レダンの平原が、彼らの推測に確信を与えてくれ たのである。「ダリの油彩作品に描かれた風景は、空想の夢の世界では ありませんでした。それは彼が生涯のほとんどを暮らした場所の実際 の眺めだったのです」と、エレノアは書いている。「石灰岩の山や沖積土 の平原、先カンプリア時代の断崖、砂だけの浜辺など、この地方独特の地 質を見ないままでいたら、ダリの本質的な偉大さに気づくことは不可能 だったでしよう」と、レイノルズは書いている。そして、さらに、「地質と 同じように天候も重要です。アフリカという巨大な大陸とその熱い北 の砂漠が、アメリカの未知なる熱気とともに、カタルーニャ地方を引っ 張ったり押したりしているように思えます。ダリの描く空には、このよ うなアンプ丿レダンの変化に畠んだ風土の局面が、必然的に反映されてい るのです」。 モース夫妻がスペインを訪れた 1954 年の時点で、彼らはすでにダリの 油彩作品を 11 年前から蒐集していた。そして、世界中の個々のコレクター や美術組織が所蔵している点数をはるかに超える、 20 点以上の油彩作品 を持っていたのである。それらのすべてはダリのシュルレアリスム時 代の作品であり、その多くは、美術評論家たちがダリの最初の創造的な 時代にあたると考えている、 1930 年代初頭に描かれたものである。 彼らがスペインて、ダリの印象派的作品やキュビスム的作品、さらに はフランドルの巨匠に倣った様式の作品を発見したとき、彼らがこれら の素晴らしいダリの初期作品の存在を予測していなかったのも無理は ない。「スペインでダリの初期作品を発見したときは、本当に仰天した ものてす。そして、ダリが自分自身のスタイルを発展させる前には、若 い頃にこうしたいろいろな方法で実験を試みていたことを悟ったので す」とエレノアは書いている。 1954 年の最初のスペイン旅行から、モース夫妻はダリが 14 歳の時に描 いた印象派風の自画像を持ち帰った。こうして彼らのコレクションの 拡大が始まり、若い頃のダリの作品がコレクションに加えられてい った。 1955 年、モース夫妻は、アメリカて最初に展示されたダリ作品のひとつ てある《ノヾン籠》と《少女の背中》を購入する ( いすれも 1926 年制作 ) 。 のふたつの作品は、若いダリが 17 世紀オランタ絵画の緻密な現実を超え るリアリズムへの強い関心を抱いたことを示しているが、こうした関心
人間の意識の底にうこめいているイメージとは、いうなれば深海魚の ようなものであり、シュルレアリスムの課題のひとつは、この深海魚の ようなイメージを海面 = 意識された世界に釣り上けるのではなく、いか にしてほの暗い深海にある時のままに見せるか、であった。シュルレア リスムが予測や計算を許さない、。偶然”を重視したのもそのためであり、 また無意識を極力無意識に近い状態で表現する方法として編み出され たのがいわゆるオートマティスム ( 自動記述法 ) てあった。 から しかし心を空にして無想無念、ひたすら受動的に何かに ( たとえば手 の動きに ) 身を任せるオートマティスムは、ダリにとってはその有効性 が疑わしい、胡散臭い手法であり、それによって獲得されたイメージは 結局は「精神分析の領域に落ちこみ、それゆえ簡単に日常の論理的言語 で説明されてしまう」 (20: 76 ) のである。ダリの場合、彼の絵に登場す るイメージの多くは、白紙の状態から自然発生的に生まれてくるという より、彼の幻覚的、偏執狂的な視覚能力、イメージ醸成能力により、いわ ば誕生間近な胎児のようにかなりの程度に形ができあがっており、画家 がイーゼルに向かう時にはそれらは「白昼夢としてほぼ完成されてい ) 後はそれを多かれ少なかれ“レティー・メード " のイメージと してカンヴァスに移し替える」 ( 3 : 72 ) だけてあった。 シュルレアリスムの教義ともいうべきオートマティスムや“客観的偶 然 "(hasard objectif) にはほとんど無関心だったダリにとって、シュル レアリスムを実現する道はただひとつ、ダリという個人に徹すること、 “ダリ主義者”であり続けることてあった。ダリ主義者の名のもとに彼 はモンドリアン流の幾何学的、没個性的な抽象を否定し、党派的な集団 としてのシュルレアリスムとも袂を分かつのである。 この世は謎と神秘と非合理に満ちている。合理主義、功利主義に染ま った現代人にはそれが見えない。これは嘆かわしいことである。しか しなお悪いのは、それらが見えた時、未知のものを既知のものに、神秘的 なものを事実的なものに、不可解なものを合理的なものに置き換えよう とする、、近代”精神である。誇り高きアンチ・モダ二ストとしてダリが目 をむくのはこの点である。 「画家よ、近代的であろうなどと思ってはいけない。不幸なことだが、 君が何をしても、避けられない唯一のことは、近代的てあることなのだ」 ( 23 : 38 ) 。 近代をさかのぼって前近代へ、前近代から反近代へ、反近代から神秘主 義へ。ダリが一目置いたイエズス会のイグナテイウス・テ・ロヨラ ( 1491 ー 1556 ) の、十字架の聖ヨ八ネ ( 1542 ー 1591 ) のスペイン神秘主義 ( cat. no. 58 参照 ) へとさかのぼってゆくダリにとって、存在する 1 個のパンは 1 個の ・ 23 謎であり神秘であった。パンがダリにとってオプセッションであり、フ ェティッシュであったことは、作品 ( たとえば cat. nos. 11 , 12 ) はもとよ り、すでに紹介したパンにまつわるエピソードやフィゲラスのダリ美術 館の外壁 ( fig. 1 参照 ) をカタルーニャ地方独特のパンで飾っていること にもうかがえよう。ダリはプルトンの「ナジャ」をしめくくる「美は痙攣 的なものだろう、さもなければ存在しないだろう」という有名な言葉を もじって、「美は可食的なものだろう、さもなければ存在しないだろう」 と語っているが、可食的な美としてのパンはまた、カトリック的神秘主 義者ダリにとっては“こ神体”、聖餐のバンてもあった。パリのビストロ で友人とタ食をとっていた時のこと、ギャルソンが食卓に置いたパンを 見るなり、友人たちは一斉に叫んだという、「ダリそっくりだ冂。ダリ によれば、「パリのパンはもはやパリのパンではなかった。私のパンで あり、ダリのパンてあり、救世主 ( サル八ドール ) のパンだった」 ( 25 : 344 ー 345 ) 。 ダリは 1 個のパンに現代絵画の救世主 ( 、。サルノヾドール”・ダリ ) を見ると 同時に、歴史的な救世主 ( キリスト ) をも見ているのである。 22 歳の時 の一見客観描写に徹した、実物に生き写しの八ン ( cat. no. 11 ) は、ダリ的 リアリズムの源流ともいうべきスルノヾランの静物 ( fig.7 参照 ) のように 存在そのものの謎、光と閭の神秘をたたえながら、戦後の《最後の晩餐》 のパンを、秘跡のノヾンを予告しているのである。 1938 年の作品 ( マドリ ード、レーナ・ソフィア国立美術館 ) の題名のように、ダリにとって世界 は「終わりのない謎」 (EndIess Enigma ) てあったが、彼はこれを解明す るのでも、その意味を探るのでもなく、ダリ的な、不可解な謎として我々 につきつけるだけである。ダリの謎、つまり彼の絵の“意味”は彼自身に も理解できない、とダリは言う。しかし、「私自身、自分の絵を描く時、そ の意味を理解しないという事実は、それらの絵になんの意味もないこと を意味するわけではない。逆にそれらの意味はあまりにも深く複雑て あり、整合的であり、意志や意図とは無縁であるがゆえに、論理的直感に よる単純な分析をもってしては捉えられないということなのだ」 ( 27 : 188 ) 。 ダリはここで、生きることの意味が理解てきなくとも、それが「終わり のない謎」としても、だからといって生きることが決して無意味、無価値 てはない、とも言っているかのようてあるが、ダリの不可解な「終わりの ない謎」を、我々がその不可解さゆえに愛する時、我々はダリのシュルレ アリスムのいくふんかを分かちあっているのである。 ( 成城大学教授 )
サルバドール・ダリ 西暦 ( 年齢 ) 1946 年 ( 42 歳 ) ティズニーのアニメーション映画に協力する ( 完成にいた らなかった ) 。 10 月クリーヴランド美術館で個展。 11 月ビグノー画廊て 1947 年 ( 43 歳 ) ボロック、アクション・ペインティング の個展に際し、「ダリ・ニュース」第 2 号発行。 をはじめる ( 抽象表現主義のはじま 1948 年 ( 44 歳 ) ダイア丿レ・プレス社、ダリの技法論「魔術的クラフトマンシ イスラエル共和国成立。東西にドイ ップの 50 の謎」の英訳出版。 7 月ダリ夫妻ル・アーヴル港 ツ分裂。朝鮮南北に分裂。 経由でポルト・リガトに帰る。 11 月ローマでヴィスコンティ 演出のシェイクスピア劇「お気にめすまま」の舞台装置・衣 装テザインを手がける。 1949 年 ( 45 歳 ) 11 月 23 日ローマ法王ピウス 12 世に謁見。《ポルト・リカト アンドレ・ブルトン、ダリの商業主義 の聖母》 ( 第 1 ヴァージョン ) に祝福を受ける。この頃から 的活動を批判して彼の氏名のつづり ペーター・ムーア大佐と知りあい、ビジネス・ノヾートナーに を組み換えて「 Avida Dollers( ドル する。年末、アナ・マリア・ダリ「妹からみたサル八ドール・ 亡者 ) 」とよぶ。中華人民共和国成 ダリ」出版。妹との不仲決定的となる。 11 月渡米。以後 並。 冬はニューヨーク、春夏はポルト・リガト、秋はパリに暮ら すライフ・スタイルが定着する ( 79 年まで ) 。 1950 年 ( 46 歳 ) 11 月ニューヨークでのカーステアーズ画廊で 2 点の《ポ丿レ 朝鮮戦争勃発 ( ー 54 ) 。 ト・リカトの聖母》 ( 第 2 ヴァージョンは現福岡市美術館蔵 ) を展示。科学、特に量子力学に関心と理解を深めて「核神 秘主義」を提唱。 1951 年 ( 47 歳 ) 《十字架の聖ヨ八ネのキリスト》を制作し、 12 月ロンドンの 写真家ロべール・テシャルヌ、ダリの ルフェーヴル画廊で展示 ( グラスゴー市美術館が翌年購入 資料写真を撮影。以後協力関係を を決定 ) 。 むすぶ。 1952 年 ( 48 歳 ) 2 月核神秘主義を主題とする講演ツアーをアメリカ各地で 工リュアー丿レ歿。分子生物学者ワト ソンとクリック、 DNA 構造のこ重螺 何つ。 旋モデルを完成。翌年「ネイチャー」 誌に発表 ( 62 年にノーベ丿レ賞受賞 ) 。 愛するポ丿レト・リガトを観光開発から護るため、フランコ将 1953 年 ( 49 歳 ) この頃からレーザー光線の研究、飛 車に影響力を発揮して同地を「国定景勝地」と定める法令 躍的に発展 ( その応用からホログラ に署名させる。 ムが生まれた ) 。 ローマのパラヴッチーニ宮の回顧展で形而上学的立方体 1954 年 ( 50 歳 ) から登場し、ルネサンスをめざすと講演。フィリップ・八ル スマンとの共作写真集「ダリのロ髭」完成。数学、とくに対 数螺旋理論にこの頃から中 12 月パリ大学文学部 ( ソルボンヌ ) で「偏執狂的・批判的方 1955 年 ( 51 歳 ) 法の現象学的諸様相」と題して講演。 1956 年 ( 52 歳 ) アメリカの美術収集家チェスター・ティルの依頼で制作さ れた《最後の晩餐》がワシントン・ナショナ丿レ・ギャラリーに 展示 ( のちに寄贈 ) される。 1957 年 ( 53 歳 ) 12 月ジャックマール・アンドレ美術館で 15 点の《ドン・キホ ーテ》を主題とするリトクラフを公開。 8 月 8 日ダリとガラはジローナ ( カタ丿レーニャ ) のカトリック 1958 年 ( 54 歳 ) 小教会で宗教的結婚の儀式を行う。 1959 年 ( 55 歳 ) 5 月 2 日ローマ法王ヨ八ネ 23 世に謁見し、全キリスト教を 統一する象徴的大聖堂建築計画について述べる。 5 月シュルレアリスト・グレープから「シュルレアリスム国際 1960 年 ( 56 歳 ) 展」への参加拒否される。 12 月ニューヨークのカーステ アーズ画廊で《世界公会議》を発表。 ポルト・リガトの自宅に、ガラのデサインになる「卵の部屋」 1961 年 ( 57 歳 ) を増築。 ウォーホル《マリリン》 ( ポップ・アート 1962 年 ( 58 歳 ) 10 月マリアーノ・フォルトウニーの《テトウアンの闘い》と同 の隆盛 ) 。ペータームーア大佐が 名の自作を並べてノヾルセロナで公開。 ダリの秘書となりビジネスをとりしき る。 関連事項 ( 政治・芸術 ) fig. 5 モース夫妻とダリとカラ ( 1954 年、ニューヨークにて ) 夫 モ 年 6 一 ・ 220
ごあいさつ Foreword from the orgamzers このたび「ダリ展ーーーサルノヾドー丿レ・ダリ美術館 ( 米国フロリダ ) 所蔵作 TOday we have the opportunity tO present "Dali Exhibition 1999 : The SaIvador Dali Museum Collection and SeIected WO 「 ks' 品および招待作品」を開催する運びになりました。 The artistic style and cu 「 iosity of SaIvador DaIl' went through a variety サルノヾドー丿レ・ダリの作風と好奇心はその生涯を通じてさまざまに広 Of fascinating changes during his lifetime. Starting Off in realism and passing がり変化しました。写実主義から出発し、キュビスム、シュルレアリス through periods Of cubism and surrealism, he developed an interest in ムを経て、科学・原子物理へ興味を広け、ついには古典主義への回帰を果 science and nuclear physics, and eventually reverted back tO classicism. たしました。その中で、後のポップアートやフォト・リアリズムのさき Much of his painting constituted a pionee 「 ing force in the ensuing pop arts がけとなった作品も生んでおり、その活動範囲は絵画の枠をはみ出し and photo-realism movements. The scope Of his activities was not limited tO て、映画製作、小説や随筆の執筆、オペラや演劇、テパートのウインドー painting alone but extended tO areas as varied as film, novels, essays, ティスプレイ、広告などさまざまな分野に広がりました。今日の感覚で opera, theat 「 e, window displays in department stores and adve 「 tising.ln いうとまさに「マルチ・タレント」「マルチ・アーティスト」です。 today's sense Of the word, one can say that he truly was a "multi-talented' このマルチ性と、数々のスキャンダラスな奇行のイメージが強いた artist: a "multi-a 「 tist" Dali's multiple activities, combined with his sometimes scandalously め、画家としてのダリへの評価はしばしば毀誉褒貶相半はするものがあり、 eccent 「 ic conduct, resulted in his standing as an artist being a mixture of 生前から世界各地で開かれた回顧展は大きな話題を集めるとともに作品 bOth praise and criticism. However, many Of his retrospective exhibitions に対して幾たびかの「再評価」を生む、ということが繰り返されました。 held bOth during and after his Hfetime have repeatedly drawn much public 1904 年にスペインに生まれ、 1989 年に没したダリの生涯は 20 世紀と attention, and led many tO re-evaluate his WO 「 k. ほほ重なります。 20 世紀の終焉が近づいている本年 1999 年はダリ没後 DaIi's life spans nearly the whole of the 20th century: he was born in IO 周年にあたりますが、初期から後期までの代表作が一堂に出展される 1904 in Spain, and died in 1989. 1999 thus marks the 10th anniversary of ことで、我国の美術愛好家に大きな評判を呼ぶことを確信しており Dali's passing. We a 「 e confident that this exhibition, p 「 esenting Dali's ます。 masterpieces from the early years as well as later years, will be greatly サルノヾドール・ダリの没後、ダリが会員となっていた伝統あるフラン app 「 eciated by art lovers in Japan. ス美術アカテミーの正会員に日本テレビ会長の小林與三次がその席を Afte 「 the death Of Salvador Dali, Mr. Yosoji Kobayashi, Chairman of Nippon TeIevision Network Corporation, was accepted as a lifetime 継いで終身会員として就任しました。この不世出の天才の本格的展覧 membe 「 Of the French Academie de Beaux-A 「 ts, as DaI[ had been before 会を私どもが主催いたしますことは、こうした由縁からも意義深いもの him. ThiS coincidence has added even more meaning tO our hosting a であります。 major exhibition Of DaIi's unparalleled genius. 本展実現のために、多くの方々にこ支援、こ協力をいただきました。 We have been very fortunate tO have the support and cooperation of 門外不出のコレクションをまとめて貸出していただきましたフロリダ many people in mounting this exhibition.l would like tO express my heartfelt のサルノヾドール・ダリ美術館、招待作品といたしまして特別出展をいた gratitude tO the Salvador Dali Museum in FIorida, which generously loaned だきました各美術館、そしてこ協賛、こ後援、こ協力をいただきました関 us many Of their much-t 「 easured artworks.l would 引 SO like tO thank the 係各社、各団体に心よりお礼を申し上げます。 Othe 「 museums that entrusted us with their specially selected works fo 「 this exhibition. FinaIIy ー would like to underline ou 「 appreciation fo 「 all the companies and foundations who have given their support, sponso 「 ship and cooperation. 主催者代表 日本テレビ放送網株式会社 代表取締役社長 氏家齊一郎 Seiichiro Ujiie President, CEO Nippon TeIevision Network Corporation
オークと金の象眼、貴石類を組み合わせたものてした。この本は一冊の重 さが 180kg 以上もあり、しかも 1961 年当時て IOO 万ドルという高価な本に なりました。 ダリはこの書物の構想に非常に強い関心を抱き、版画作品においても 何か真に革命的なことをしてみたいと思っていました。そして、爆発し て版そのものに食い込んでいく爆弾を作ろうと考えたのです。この「黙 示録的グレネード弾」に釘を詰め、銅板で作られた箱のなかて爆発させ ようというものでした。これらの穴だらけの銅板から制作された第一 刷りは、ノヾリの版画家で人々の尊敬を集め、長老的な存在であったロジ ェ・ラクーリエー丿レによって羊皮紙に刷られました。それをもとにダリ は、「ピエタ」という悲劇的な主題に解釈を施し、磔刑の後に息絶えたキ リストを聖母マリアの腕に抱かせたイメージを生みだしたのです。実 際にも、また象徴的にも、釘という磔刑にかかわるものを使うことによ って主題をより深めていったといえるてしよう。 フィリス・ルーカス・ギャラリー ( 旧カミーラ・ルーカス社 ) は、アメリ 力で早くからダリの版画作品を出版していた版元のひとつでした。《風 車のなかの彦頁》 ( cat. no.73 ) は、シドニー・ルーカスおよびフィリス・ルー カスがダリと直接に仕事をして出版した、 31 枚の版画作品のうちの 1 点 です。ダリは主題をまとめるだけでなく、版画の出来上がり具合にまて 気を配りました。この作品では、ダリは、有名なスペインの物語『ドン・ キホーテ』の作者であるセル八ンテスに敬意を表しています。亜鈴板「 よるオリジナル・リトグラフには、あの有名な風車との戦いにのぞむ勇 ましい騎士の姿が描かれています。インクが載るように亜鉛板を感光 させて、黒い背景を作り出すことができました。こうした工程を経てプ レス機にかけられ、このようにドラマティックな効果が生まれました。 《レティー・ゴティヴァ》 ( cat. n085 ) は、アトリエ・リガルで刷られたオ リジナル・ドライボイント作品てす。ドライボイントは、金属の針か先 にダイヤモンドをはめ込んだニードルで金属板を彫り、イメージを描き 出す技法です。プレス機の圧力の加減や、版を彫り込む針が線を削り出 すときにその両側にできる金属板のまくれによって、描線の変化が生ま れます。原版にインクが盛られ刷られる際に、この金属板のまくれが線 の曖昧なプレを生み出すのてす。この作品は、コヴェントリー街を馬に 乗って通り抜けていく姿が、最小限の線を使ってのびのびと描かれてい ます。この版画は、 1969 年にスイスのセナンス社によって出版されたも のです。 1964 年、シアーズ・ルーベック社によってシアーズ百貨店内で、ヴィン セント・プライス・コレクション展が開催されました。この展覧会の呼 び物は、シアーズ社によって注文された《神秘の薔薇の聖母》 (cat. no. 91 ) でした。これは 1949 年の作品《ポルト・リガトの聖母》 (cat. no 46 参照 ) を 思い起こさせるものてす。キリストを膝に乗せた聖母マリアの体には 四角い穴があいていますが、構図自体はイタリア・ルネサンスの巨匠、ラ ファ工ロの作品からインスピレーションを得たものです。薔薇は神秘 的な美の象徴です。《神秘の薔薇の聖母》の原画となったドローイング は石版に移されて、カラーリトグラフ作品となりました。 300 部のエテ 1930 年にマ丿レクス兄弟が出演した映画「けだもの組合」を見て強い感銘 を受け、映画界のシュルレアリストと呼べる人々に敬意を表した「映画 の批判的歴史』のなかで、この映画作品について触れています。 1936 年に は、八一ボ・マルクスにとても変わった貝曽り物をしています。八一ボの役 柄にふさわしく、それは弦に有刺鉄線を、調律用糸巻にスプーンを使っ た、セロファンで包まれた八一プでした。このプレゼントを手にした八 ーポは、映画を共同で作るためにダリを招待します。ダリは映画のなか の場面を想定したコンテを何点か描き、スクリプトを書き始めました。 映画のタイトルは「馬の背のサラダに乗ったキリン」となるはすてした。 それから何年かの間にスクリプトは失われましたが、何点かのスケッチ が残されています。《自転車交響曲》 ( cat. no. 94 ) は、この実現しなかっ た映画のためのスケッチの 1 点に基づいて制作された版画です。水彩と 木炭、八ステルで描かれた原画《燃える自転車の上のシュルレアリスム 的ゴンドラ》は、オークションにかけられました。そのカタログのなか で、ロべール・テシャルヌは、「前景の船の上にいる人物は、眼下の風景が 炎に包まれているにもかかわらす八一プを奏でている、まるて現代のネ ロのような八一ボ、そしてピアノに向かっているのはチコ、さらに彼ら の音楽に合わせて踊っているのは「ジミーとシュルレアリスムの女性」 である」と書いています。リトグラフの《自転車交響曲》は 1970 年に出版 されました。 ダリは、自分の作品に応用できそうな新しいテク二ックや素材にいつも 夢中になっていました。 1964 年には、ロウランド・テヴェロップメント・ コーポレーションの製品紹介の記者会見に出席し、新しい成形プラステ ィック素材「ロウルクス」を知ります。この素材は両面に小さなレンズ 型のエンボス加工が施されていて、この加工を渦巻きや線、光輝く小さ な点などに変えることもできるものてす。ダリを夢中にさせたのは、 の素材が生み出す三次元的な奥行き感の効果でした。ダリのスケッチ に基づいて制作された《トリスタンとイゾルテ》 ( cat. no. 97 ) には、ゴブ レットの左右に女性の横顔と男性の横顔がありますが、ロウランド社が ゴプレットを金のロウルクスて作ったため、ゴプレットは輝く白い背景 から立体的に浮き上がって見えます。背景はロウルクスの上にリトグ ラフて印刷されたものてす。この当時、ダリはこの新素材に強い関心を もっていましたが、限定版作品としてはあまり多くの作品を制作しませ んてした。 ダリ美術館の所蔵品には、ダリがこの分野に応用したさまざまな様式 とテク二ックをうかがうことのできる版画が多数含まれています。ダ リ自身が選んだものてあれ出版社の注文によって選ばれたものであれ、 これらの作品の主題には、タリの創造的想像力と素材にかかわらず発揮 される彼の豊かな才能があふれています。版画市場におけるダリの活 動をめぐる議論はいまだに続いていますが、ひとつ確かなことがありま す。それは、ダリ自身の多産で豊かなヴィジョンを通してこそ、愉快な ものから崇高なものまてを含む、これらの無数の新しいイメージが生み 出されてきたのだということて、す。 イションは売り物ではなく、すべて関係者に贈られました。 ・ 167 Graphic