モース夫妻とサルバドール・ダリ美術館 サルノヾドール・ダリ美術館は、この著名なスペインのシュルレアリス ムの画家の生涯をたどることができる作品群、レイノルズ・モース夫妻が 47 年間にわたってダリに捧けた献身の証とも言えるコレクションを所蔵 している。 モース・コレクションは、 10 代のダリが当時の絵画様式に倣って描いた 作品から、晩年の古典的な名画の域に到達した時代の作品まで、ダリの 全生涯にわたっており、ダリの名が知られるきっかけとなった、 1930 年 代初頭のシュルレアリスム的な絵画作品も数多く含まれている。 美術館の所蔵品の中心はダリの油彩作品であるが、絵画作品はモース 夫妻のコレクションの手始めに過きなかった。映像作品や挿絵本、工ッ セイ、詩、彫刻、水彩、素描、リトグラフ、さらには衣装や家具、オペラやノヾ レエのセットにいたる、めまいがするような幅広いコレクションから、 モース夫妻がダリを 20 世紀の偉大な芸術家のひとりであると考えてい たことがうかがえる。 エレノア・リーズとレイノルズ・モースが初めてダリの作品に出会っ たのは、 1941 年にダリの個展がクリーヴランドに巡回してきたときであ る。「私たちは彼の素晴らしい描写力とその才能に感動を覚えました。 彼が描き出す深い奥行きの空間は、私たちを楽しませてくれたのです。 そして一風変わった主題も私たちの好奇心をそそりました」と、当時を 思い出してエレノアは語っている。 彼らは 1942 年 3 月に結婚した。クリーヴランドの実業家の娘であった エレノアは、フロリダ州ウインター・パークのロリンズ・カレッジで音楽 を学び、その後、クリーヴランドのケイス・ウ工スタン・レザーヴ大学で 芸術学修士を取得し、イタリアのシエナでも学んだ経験があった。レイ ノルズ・モースは当時 27 歳、合成樹脂の技術者で、大手の合成樹脂製造 機械販売会社の販売マネージャーとしてクリーヴランドに移ってきた ばかりてあった。彼は、 19 世紀の終わり頃にコロラド州で金と銀の採掘 権を得た鉱山所有者の孫であり、テンヴァーで生まれた。成績優秀であ り、コロラド大学在学中に学生友愛会「ファイベータカッパ」の会員に選 ばれ、八一ヴァード・ビジネス・スクールで修士号を取得していた。 新婚のニ人は、 1943 年 3 月 21 日にダリの《宵のクモーー希望けを購入 する。それからしばらくして、ニューヨークのセント・レジス・ホテルの オールド・キング・コール・ノヾーてダリと会う機会が与えられた。その午 後から、今でもモース夫妻が「魅力的冒険」と呼ぶようになる、ダリとの 個人的な交際が始まったのである。 それから 1 年も経たないうちに、彼らはさらに 3 点のダリの作品を購入し た。これらは 1930 年代初頭に描かれた、ダリのシュルレアリスム時代の 作品である。 ひとりの現存の芸術家、とくにダリのような芸術家の作品だけを蒐集 するということには、明らかにリスクがつきまとうものである。エレノ ア・モースはこう語っている。「友人たちは、私たちが気がおかしくなっ ・ 214
が成熟期を迎えた時点において、シュルレアリスムの様式のなかに自す と発展していったとモース夫妻は考えている。ダリは偏執狂的・批判的 方法によって制作した手彩色の写真として、この関心を描出している。 レイノルズとエレノアのモース夫妻ほど、ダリとガラをよく知ってい る人々は世界にいないであろう。彼らほどさまざまな体験を共にし、親 密な時間を過こした人々はいない。モース夫妻によれば、「ガラはひと きわ優れた、しつかりしたロシア人でした。彼女は、私たちやダリを信 奉する他の人々すべては、「何かを欲しがって」いるのだといつも思って いました」という。そして「ダリの、多くの信奉者たちの評価に関して は、ガラはいつも正しかったのです。彼との親密さを利用しようとする 人々にダリはいつも囲まれていました。彼らは、私たちとダリの親しい 付き合いを非常に妬ましく思っていたのです」と語る。 ダリの作品を見た人を感動させる第一の特質は、彼の描写技術にある のかもしれない。初めてダリの作品をみた数多くの人は「ダリの芸術は 分からないけれど、彼の描写力は素晴らしいと思う」と口にするという が、モース夫妻によれば、これは最初の反応としては実際によくあるこ とだという。 1000 点以上もの工ッチングやリトクラフ、本の挿絵からなるダリ美術 館の収蔵品は、ダリの版画作品のコレクションの大部分を構成しており、 ペンを扱う彼の技術の高さを実証するものである。年代的には、 1934 年 に制作された彼の最初の工ッチング作品「マ丿レドロールの歌』から、現代に いたるまでの各時代の作例が含まれている。挿絵本は、「聖書」「神曲』 「ファウスト」「ドン・キホーテ』「シェイクスピア」など、目を見張るよう な限定版がある。 今日では、ダリの版画作品をめぐっては混同や議論が数多く起きてい る。こうした状況はダリ自身にも大きな責任がある。版画は労少なく して多大な畠をもたらす気楽な機会を提供してくれることに、 1950 年代 になってダリ自身が気づいてしまったからである。 この利益率の高い作品形式を次から次へと利用していったダリは、何 が制作されたのか、また作品の権利は誰にあるのかといった記録を残し ていなかった。ダリの「宮廷」の追従者の周辺で制作していたために、 うした側近のなかには版画の刊行の手配をする人々もいたのである。 こうして、後になって版画作品の真贋の判定が難しくなる状況が生まれ ていった。 映画、写真、彫刻、水彩、オペラやノヾレエの舞台装置。衣装や家具、宝飾 品、遊戯用のカード。ダリの創造的才能は、これらすべて ( そしておそら くもっとあるのだ I) を生み出してきた。事実、エレノアとレイノルズ のモース夫妻が長い年月にわたってダリに最も魅了されてきた要素の ひとつは、ダリの才能のこのような多様性であったのかもしれない。そ の結果、セント・ピーターズノヾーグのタリ美術館には、ありとあらゆるダ リの作品の驚くべき集積がコレクションとして所蔵されることになっ た。そして、この美術館は、美術を愛好する人々がここだけでしか味わ うことのてきない貴重な体験を提供する場となっているのである。 ・ 216
イんた モース夫妻と サルバドール・ダリ美術館 略年譜 参考文献 BibliographY
/ ・とノ ダリ《宵のクモー希望》 1940 年 ・ 215 のです。ときには、ひとつの油彩作品を他のものよりも重要だと言って 作の中から私たちが真っ先に作品を選べるように取り計らってくれた て個展のたびにニューヨークに招待してくれるようになりました。新 の作品を若い夫婦が蒐集することをとても喜んてくれたのてす。そし 速に親しくなっていった。二人はこう語っている。「ダリ夫妻は、ダリ モース夫妻とダリ、そしてダリのロシア人の妻てあったガラとは、急 たちに訴えかけてくるかのようでした」とエレノアは語っている。 品ばかりです。そうした作品は、値段を問わすに引き取ってくれと、私 入したものはすべて私たちが気に入ったり、気になってしかたのない作 にお金を使うことに不安を覚えたりもしました。けれども、私たちが購 は私たちにとっては一財産に等しいものてした。とくに私は時々、芸術 売れていたわけではありませんから。それても、 1 点の油彩作品の値段 やミロ、シャガール、プラック、ダリといった画家の作品は、今ほどよく 「当時は、絵画は途方もなく高いものではありませんでした。ピカソ 金的犠牲も美のために必要なものであると考えられた。 こうした投資にもかかわらず、新しい絵は美しいものと見なされ、資 を、何十年にもわたるダリ作品の蒐集のために使ってきているのだ。 ノルズとエレノアはざっと見積もっても 500 万ドルを超えるほどの金額 あると評価する専門家が何人かいる。その評価額がどれほどてあれ、レイ モース夫妻のダリ作品のコレクションには 3 億 5000 万ドルもの価値が と言わせるのに失敗することなどなかったのです」と夫妻は語る。 私たちをワクワクさせ、彼の色彩は最も輝かしく、彼の才能は人をあっ なものてあることを証明するのはいつもダリでした。彼の発想が一番 はありません。実際に心を動かされもしました。けれども、最も刺激的 「長い間には、私たちが他の芸術家の作品に誘惑されなかったわけて た魅力は揺らぐことはなかった。 だが、さまざまなリスクにもかかわらず、彼らがダリに感じ取ってい 私たちがダリの作品を所有していることに憤慨していました」。 たと考えていましたし、筋金入りの保守的人間であった私の父などは、 私たちに薦めるダリと、長い時間議論することさえありました。でも、 私たちは、画家本人でさえ説得はむすかしかったでしよう。結局はいつ も自分たちが気に入った作品を選んでいたのです。でも結果的には、む ずかしい判断を迫られ、自分たちで決定を下したことを決して後悔はし ていません」。 1954 年の舂、夫妻は、ダリが「地上で最も美しい場所」と呼ぶスペイン に行くべきときがきたと判断する。その理由をエレノアは、「私たちは、 ダリの謎の重要な鍵は彼の生まれた土地にこそ見いだせると、それまで に見た写真から推察していたのです」と語る。そこで彼らは、ダリが暮 らしていたスペイン北東部のカタルーニヤと、ダリの住まいのあるポル ト・リガトを訪問した。 そこで訪れたアンプ丿レダンの平原が、彼らの推測に確信を与えてくれ たのである。「ダリの油彩作品に描かれた風景は、空想の夢の世界では ありませんでした。それは彼が生涯のほとんどを暮らした場所の実際 の眺めだったのです」と、エレノアは書いている。「石灰岩の山や沖積土 の平原、先カンプリア時代の断崖、砂だけの浜辺など、この地方独特の地 質を見ないままでいたら、ダリの本質的な偉大さに気づくことは不可能 だったでしよう」と、レイノルズは書いている。そして、さらに、「地質と 同じように天候も重要です。アフリカという巨大な大陸とその熱い北 の砂漠が、アメリカの未知なる熱気とともに、カタルーニャ地方を引っ 張ったり押したりしているように思えます。ダリの描く空には、このよ うなアンプ丿レダンの変化に畠んだ風土の局面が、必然的に反映されてい るのです」。 モース夫妻がスペインを訪れた 1954 年の時点で、彼らはすでにダリの 油彩作品を 11 年前から蒐集していた。そして、世界中の個々のコレクター や美術組織が所蔵している点数をはるかに超える、 20 点以上の油彩作品 を持っていたのである。それらのすべてはダリのシュルレアリスム時 代の作品であり、その多くは、美術評論家たちがダリの最初の創造的な 時代にあたると考えている、 1930 年代初頭に描かれたものである。 彼らがスペインて、ダリの印象派的作品やキュビスム的作品、さらに はフランドルの巨匠に倣った様式の作品を発見したとき、彼らがこれら の素晴らしいダリの初期作品の存在を予測していなかったのも無理は ない。「スペインでダリの初期作品を発見したときは、本当に仰天した ものてす。そして、ダリが自分自身のスタイルを発展させる前には、若 い頃にこうしたいろいろな方法で実験を試みていたことを悟ったので す」とエレノアは書いている。 1954 年の最初のスペイン旅行から、モース夫妻はダリが 14 歳の時に描 いた印象派風の自画像を持ち帰った。こうして彼らのコレクションの 拡大が始まり、若い頃のダリの作品がコレクションに加えられてい った。 1955 年、モース夫妻は、アメリカて最初に展示されたダリ作品のひとつ てある《ノヾン籠》と《少女の背中》を購入する ( いすれも 1926 年制作 ) 。 のふたつの作品は、若いダリが 17 世紀オランタ絵画の緻密な現実を超え るリアリズムへの強い関心を抱いたことを示しているが、こうした関心
12 25 32 34 37 38 60 112 136 152 166 193 208 214 217 223 目次 /Contents 千足伸行「ダリ , または永遠の謎」 新関公子「サルノヾドール・ダリの波瀾の青春」 横尾忠則「ダリとカラーー超現実的邂逅」 赤瀬川原平「半信半疑・ダリの絵の表情」 カタロ 5/CataIogue モース夫妻とサルノヾドール・ダリ美術館 Ⅷ映像 /FiIm Ⅶ写Ä/Photography Ⅵ版画 , オプジェ /Graphic, Object ドローイング水彩 , ノヾステル /Drawings, Wate 「 colors, PasteIs 古典期 (1950ー1963 年 )/Classicism Paintings シュルレアリスムを超えて ( 1938 ー 1950 年 ) / Su 「「 ea ⅱ sm Paintings シュルレアリスム時代 ( 1927 ー 1936 年 ) / Su 「「 ea ⅱ sm Paintings 具象期 ( 1918 ー 1926 年 ) / Early Paintings V Ⅳ Ⅲ Ⅱ I 参考文献 /Bibliography 略年譜
サルノヾドール・ダリ 関連事項 ( 政治・芸術 ) 西暦 ( 年齢 ) テシャルヌ「カラのダリ」出版。 「ミレーの晩鐘 ( アンジェラス ) の悲劇的神話」仏語で出版 1963 年 ( 59 歳 ) ( 1933 年の未刊旧稿 ) 。 DNA 理論による一連の作品制 作。 4 月スペインで最高の勲章てある「イザベル・ラ・カトリカ 1964 年 ( 60 歳 ) 大十字勲章」を受章。 5 月「天才の日記」仏語で出版。 9 月 東京でダリ回顧展開催。 ヴェトナム戦争勃発 ( ー 75 ) ホログラフィに関心を示す。ロック歌手アマンダ・リア、ダ 1965 年 ( 61 歳 ) リのとりまきに加わる。 アラン・ボスケ「ダリとの対話」出版。 国連 20 周年記念封筒テザイン。パリのサン・ジャック通り 1966 年 ( 62 歳 ) プレトン歿。 に日時計テサイン。 ノヾリのムーリス・ホテルで《鮪漁》公開。フランス官学派の マグリット歿。 1967 年 ( 63 歳 ) メッソニエらを同時に並べ、熱烈に賛美する。 ノヾリ大学生の五月革命に刺激され、「私の文化革命」を発 1968 年 ( 64 歳 ) 表。パリのグレヴァン人形館にダリの肖像入る。 「エロティックな変貌」 ( 偏執狂的・批判的方法を駆使した 1969 年 ( 65 歳 ) 素描集 ) を出版。ガラのためにピュボルの古城を購入。 改装はじめる。 かねて市、政府と交渉を重ねてきた旧フィゲラス市立劇場 1970 年 ( 66 歳 ) を改築して「ダリ劇場美術館 ( テアトロ・ムゼオ・ダリ ) 」とす る計画を公表。建築家にピニエロを起用。三年がかりの 大作《幻覚剤的闘牛士》完成。オランダの画家へラルト・ ダウの研究から立体視絵画を思いっき、フレネルレンズを 使って実作はじめる。 11 月ロッテルダムのポイマンス・ファ ン・プーニンゲン美術館で大きなダリ回顧展。 ダリ収集家のモース夫妻がクリーヴ フランス版「ヴォーグ」誌 12 月号のゲスト編集長をつとめ 1971 年 ( 67 歳 ) ランドにダリ美術館をオープン ( のち る。 にフロリダに移転 ) 。 4 月ニューヨークのネドラー画廊でホログラム展。古城ピ 1972 年 ( 68 歳 ) ュボル、およびダリ劇場美術館の天井画や壁画を精力的に 描く。 モーリス・ホテ丿レでクロノホログラムを発表。 1973 年 ( 69 歳 ) 3 月フランクフルト・アム・マインのシュテーテル美術館で 1974 年 ( 70 歳 ) ダリの回顧展。 9 月 28 日フィゲラスのダリ劇場美術館オー プン。「魔術的 50 の秘密」 ( 48 年に出た英語版「魔術的ク ラフトマンシップ 50 の謎」の仏訳改定版 ) 出版。 11 月 20 日、フランコ総統歿。立憲王 ダリ制作の映画「高地モンゴルへの旅」の最初の部分公開 1975 年 ( 71 歳 ) 政復活。ピカソの《ゲルニカ》スペイ される。 4 月パリのニコン・ギャラリーでダリに関する写真 ンに返還される ( フランコ独裁のスペ 展開催 ( 写真選択はダリ自身 ) 。 インに置かぬというピカソの意志で ーコーヨーク近代美術館に寄託され ていた ) 。 工ルンスト歿。毛沢東歿。 ピカソ歿。ムーアに代わりエンリコ・ サバテー丿レがタリの秘書となる。 fig.7 ホテル・モーリスのダリ ( 1972 年 ) 10 月パリ国立図書館に自署「哲学者の錬金術」を貝畄 1976 年 ( 72 歳 ) ロノ日 0 立体視絵画の大作《太陽のはるか彼方の、まったく裸の黎 1977 年 ( 73 歳 ) 明をガラに見せるために、雲の形をした金羊毛をはきとる ダリの手》 ( クロード・ロランの《聖ノヾウラの乗船を伴うオス ティア港》による ) を制作。 5 月フランスの美術アカテミーの外国人会員に選ばれ 1978 年 ( 74 歳 ) る。 12 月パリのジョルジュ・ポンピドウー・センターで大回顧展 1979 年 ( 75 歳 ) ( 17 日のオープニングは従業員ストライキで中止、ダリは 展覧会を見ずに渡米 ) 。 ポンピドウー・センターの回顧展が 6 月にロンドンのテー 1980 年 ( 76 歳 ) ト・ギャラリーに巡回。 ・ 221
サルバドール・ダリ 西暦 ( 年齢 ) 1946 年 ( 42 歳 ) ティズニーのアニメーション映画に協力する ( 完成にいた らなかった ) 。 10 月クリーヴランド美術館で個展。 11 月ビグノー画廊て 1947 年 ( 43 歳 ) ボロック、アクション・ペインティング の個展に際し、「ダリ・ニュース」第 2 号発行。 をはじめる ( 抽象表現主義のはじま 1948 年 ( 44 歳 ) ダイア丿レ・プレス社、ダリの技法論「魔術的クラフトマンシ イスラエル共和国成立。東西にドイ ップの 50 の謎」の英訳出版。 7 月ダリ夫妻ル・アーヴル港 ツ分裂。朝鮮南北に分裂。 経由でポルト・リガトに帰る。 11 月ローマでヴィスコンティ 演出のシェイクスピア劇「お気にめすまま」の舞台装置・衣 装テザインを手がける。 1949 年 ( 45 歳 ) 11 月 23 日ローマ法王ピウス 12 世に謁見。《ポルト・リカト アンドレ・ブルトン、ダリの商業主義 の聖母》 ( 第 1 ヴァージョン ) に祝福を受ける。この頃から 的活動を批判して彼の氏名のつづり ペーター・ムーア大佐と知りあい、ビジネス・ノヾートナーに を組み換えて「 Avida Dollers( ドル する。年末、アナ・マリア・ダリ「妹からみたサル八ドール・ 亡者 ) 」とよぶ。中華人民共和国成 ダリ」出版。妹との不仲決定的となる。 11 月渡米。以後 並。 冬はニューヨーク、春夏はポルト・リガト、秋はパリに暮ら すライフ・スタイルが定着する ( 79 年まで ) 。 1950 年 ( 46 歳 ) 11 月ニューヨークでのカーステアーズ画廊で 2 点の《ポ丿レ 朝鮮戦争勃発 ( ー 54 ) 。 ト・リカトの聖母》 ( 第 2 ヴァージョンは現福岡市美術館蔵 ) を展示。科学、特に量子力学に関心と理解を深めて「核神 秘主義」を提唱。 1951 年 ( 47 歳 ) 《十字架の聖ヨ八ネのキリスト》を制作し、 12 月ロンドンの 写真家ロべール・テシャルヌ、ダリの ルフェーヴル画廊で展示 ( グラスゴー市美術館が翌年購入 資料写真を撮影。以後協力関係を を決定 ) 。 むすぶ。 1952 年 ( 48 歳 ) 2 月核神秘主義を主題とする講演ツアーをアメリカ各地で 工リュアー丿レ歿。分子生物学者ワト ソンとクリック、 DNA 構造のこ重螺 何つ。 旋モデルを完成。翌年「ネイチャー」 誌に発表 ( 62 年にノーベ丿レ賞受賞 ) 。 愛するポ丿レト・リガトを観光開発から護るため、フランコ将 1953 年 ( 49 歳 ) この頃からレーザー光線の研究、飛 車に影響力を発揮して同地を「国定景勝地」と定める法令 躍的に発展 ( その応用からホログラ に署名させる。 ムが生まれた ) 。 ローマのパラヴッチーニ宮の回顧展で形而上学的立方体 1954 年 ( 50 歳 ) から登場し、ルネサンスをめざすと講演。フィリップ・八ル スマンとの共作写真集「ダリのロ髭」完成。数学、とくに対 数螺旋理論にこの頃から中 12 月パリ大学文学部 ( ソルボンヌ ) で「偏執狂的・批判的方 1955 年 ( 51 歳 ) 法の現象学的諸様相」と題して講演。 1956 年 ( 52 歳 ) アメリカの美術収集家チェスター・ティルの依頼で制作さ れた《最後の晩餐》がワシントン・ナショナ丿レ・ギャラリーに 展示 ( のちに寄贈 ) される。 1957 年 ( 53 歳 ) 12 月ジャックマール・アンドレ美術館で 15 点の《ドン・キホ ーテ》を主題とするリトクラフを公開。 8 月 8 日ダリとガラはジローナ ( カタ丿レーニャ ) のカトリック 1958 年 ( 54 歳 ) 小教会で宗教的結婚の儀式を行う。 1959 年 ( 55 歳 ) 5 月 2 日ローマ法王ヨ八ネ 23 世に謁見し、全キリスト教を 統一する象徴的大聖堂建築計画について述べる。 5 月シュルレアリスト・グレープから「シュルレアリスム国際 1960 年 ( 56 歳 ) 展」への参加拒否される。 12 月ニューヨークのカーステ アーズ画廊で《世界公会議》を発表。 ポルト・リガトの自宅に、ガラのデサインになる「卵の部屋」 1961 年 ( 57 歳 ) を増築。 ウォーホル《マリリン》 ( ポップ・アート 1962 年 ( 58 歳 ) 10 月マリアーノ・フォルトウニーの《テトウアンの闘い》と同 の隆盛 ) 。ペータームーア大佐が 名の自作を並べてノヾルセロナで公開。 ダリの秘書となりビジネスをとりしき る。 関連事項 ( 政治・芸術 ) fig. 5 モース夫妻とダリとカラ ( 1954 年、ニューヨークにて ) 夫 モ 年 6 一 ・ 220
ったり、評価されているとするならば、それは彼の作品が古典を下敷にしているところだと思う。い い意味で伝統的な作家であるということであろう。古典絵画から彼は執拗に剽窃を試みる。剽窃こ そ伝統であると言わんばかりにだ。 ダリは終生シュールレアリストであろうとした。彼が神秘的な存在であろうと演じるためには、 彼は戦略的にもシュールレアリストである必要があったと思う。そして自らが決めた不自由な枠の 中で彼は自由を求めつづけたようにばくには思える。 ぼくがダリに会った時ガラも一緒だった。ダリにとってガラは霊感の源泉であったらしい。ま たガラの欲求には大抵応じたという。ダリのリアリズムはガラのお好みの技法でもあった。まあそ んなことはどうでもよい。ガラとのことを一卵性双生児と自認するダリのミューズ神がガラである ことはダリの「天才」のためにも幸運なことであったろう。何しろ創造は内なるミューズ神とのセッ クスで芸術が誕生するわけだから。芸術家はその内に両性を有している。いわゆる両性具有者こそ 理想の芸術家と言えるだろう。内なる女性原理が霊感をもたらし、内なる男性原理がそれを創造に変 えて社会に発信させるのである。ダリの内なる女性原理こそガラの存在である。 ースから遊びに来たという若いハンサムなモデルにびったり寄り添いながら、ガラは突然ばく にこんなことを言った。 「ねえ、あなた今夜私と一緒しない ? 」 意味はわかるが意図がわからずにポカーンとしているばくにガラはさらにからかうように笑い ながらいった。 「ホラ、ホラ、この人返答に困っているわ」 ばくのエスプリを試そうとしたようにも、またダリにわざと意地悪をしているようにも思えた。 ダリは化石のように無表情のまま、前方の青い空をみつめながら、その本心はマゾヒズムを味わって でもいるように思えるのだった。 ダリの家を後にした時はすっかり日も暮れ、天空に輝く星が瞬いていた。一体どのくらいの時 間、ダリ夫妻と一緒にいたのだろう。ばくにとっては一生忘れられない不思議な時間を過ごしたが、 彼らにとってはほんの一瞬で、翌日にはあったのかなかったのかさえ定かでない忘却の時間として永 久に埋葬されてしまうのであろう。 作家に会うということは一体どういうことなのだろう。ダリとの邂逅はまったく特殊なケース である。芸術について言葉を交したわけではない。ただ流れていく時間の中でダリとガラを感じて いたのである。一種の居心地の悪さに耐えていたような気もする。彼らの体温がじかに伝わってき そうな距離でばくは二人の肉体を感じていたのである。そしてダリとダリの芸術を理解することの 最短距離こそ彼の肉体と最短距離を保っことで十分だったような気がしたのだった。 ・ 33 ( 画家 )
サルノヾドー丿レ・ダリ 西暦 ( 年齢 ) 1 月ダリを支援するグループ「ゾティアック ( 黄道十二宮 ) 」 1933 年 ( 29 歳 ) 結成 ( ノアイユ子爵ほか 12 名 ) 。 6 月ピエール・コル画廊て 始まる。 「シュ丿レレアリスム」展 ( はじめてのシュルレアリスムのオプ ジェである《懐古的女性の胸像》など 8 点出品 ) 。 11 月ニュ ーヨークのジュリアン・レヴィ画廊で初個展。 1934 年 ( 30 歳 ) 2 月アンテパンダン展に《ウイ丿レヘルム・テ丿レの謎》出品 ( レ 10 月 6 日ノヾルセロナにカタルーニヤ ニンが侮辱的に描かれているとしてプルトンが激怒し、 分離独立派のクーテターおこり、一 ダリをクループから除名しようと公聴会を開くが、逆にダリ 日て鎮圧される。 から反論されて不成功に終わる ) 。 IO 月 6 日のノヾルセロナ 暴動に遭遇し、命からがらノヾリへ逃げる。 11 月初渡米。ジ ュリアン・レウイ画廊て個展。 1935 年 ( 31 歳 ) 1 月ニューヨーク近代美術館で講演。 2 月帰国。 10 月工ド ワード・ジェームズとイタリア旅行。 12 月「非合理の征服」 出版。 1936 年 ( 32 歳 ) 5 月シュ丿レレアリスム・オプジェ展に《催淫的上着》出品。 6 1 月選挙でスペイン共和国に左派人 月 20 日一 7 月末までロンドンの国際シュルレアリスム展に 民戦線内閣成立、 7 月 17 日フランコ 参加して、ロンドンのエドワード・ジェームズ邸に滞在。 36 将軍ひきいる車部が蜂起、内乱勃 ー 39 年間に制作した主要作品を全部ジェームズに売りわた 発。 8 月 19 日ロ丿レカ、フランコ軍に銃 す契約をむすぶ。秋、イタリア滞在。 12 月 7 日ニューヨー 殺される。 クに到着。 12 月 14 日の「タイム」誌の表紙にダリの顔掲 載。ニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊で個展。 1937 年 ( 33 歳 ) 2 月ヨーロッパに帰る。 8 月から年末にかけて、イタリアの フランコ軍八スク地方のゲルニカを ジェームズ所有別荘で制作。《ナ丿レシスの変貌》を描き、同 無差別爆撃。 7 月ノヾリ万博のスペイ 名の著書発行。この頃からファッション・テザインも多く手 ン共和国政府館にピカソ《ゲルニカ》 がける。 出品。 7 月廬溝橋事件から日中戦争 はじまる。 1938 年 ( 34 歳 ) 1 月パリでシュルレアリスム展に《雨ふりタクシー》出品。 7 月 19 日ロンドンにフロイトを訪ねる。夏以降は南仏とイタ リアに滞在。 1939 年 ( 35 歳 ) 2 月ニューヨーク到着。 3 月ジュリアン・レヴィ画廊個 4 月 1 日スペイン共和国政府全面降 展。 5 、 6 月ニューヨーク万博パビリオンのテザイン、ノヾレ 伏。フランコ総統独裁はじまる。 9 工舞台テサインなど手がける。年末帰国。 月ドイツ、ポーランドに侵入し、第二 次世界大戦勃発。フロイト歿。 1940 年 ( 36 歳 ) 6 月フィゲラスの父を訪れ和解。 8 月第二次世界大戦を避 けて米国移住 ( 48 年まて ) 。ヴァージニアて自伝執筆に着 手。 1941 年 ( 37 歳 ) 4 月ジュリアン・レヴィ画廊個展。自伝脱稿。宝石テザイ 12 月 8 日真珠湾攻撃により太平洋戦 ン手がける。 争はじまる。 1942 年 ( 38 歳 ) 二ューヨーク近代美術館て回顧展。 8 都市に巡回。 IO 月 自伝「わが秘められた生涯」の英語版出版。ヘレナ・ルビ ンシュタイン家の壁画《幻想的風景》三部作 ( 現横浜美術 館蔵 ) を制作。 1943 年 ( 39 歳 ) 4 月ニューヨーク、ネドラー画廊で個展 ( 多くの肖像画で注 目される ) 。レイノルズ・モース夫妻ダリ作品を収集しはじ める。 4 月「ヴォーグ誌 ( アメリカ版 ) 4 月号の表紙制作。小説 1944 年 ( 40 歳 ) 「隠された顔」出版。 12 月、ノヾレエ「狂えるトリスタン」の舞 台テサイン。 1945 年 ( 41 歳 ) 8 月広島に原子爆弾が投下されたことにショックを受け、 5 月ドイツ降伏。 8 月 6 日広島に原爆 《メランコリックな原子的ウラニウム的田園詩》を描き、以 投下、 8 月 15 日、日本全面降伏。第 後原子核構造をテーマのひとっとする。ヒッチコックの映 二次世界大戦終結。 10 月国際連合 画「白い恐怖」の夢のシーン担当。ニューヨーク、ビグノー 発足。 画廊個展に際し「ダリ・ニュース」第 1 号発行。 関連事項 ( 政治・芸術 ) 「ミノトール」誌創刊。ヒトラー独裁 fig. 4 1936 年頃のダリ ・ 219
「スペイン 20 世紀美術館 - ーピカソ、ミロ、ダリとその時代」、池袋・西武美術館 ( 4 月 29 日一 6 月 11 日 ) 、尼崎・つかしんホール ( 6 月 17 日一 7 月 23 日 ) 、 1989 年 「スペインの幻想ーーガウティとダリの世界展」、大丸ミュージアム東京 ( 9 月 27 日 -10 月 8 日 ) 、大丸ミュージアム梅田 ( IO 月 10 日一 22 日 ) 、ミュージアム KY 〇 TO ( IO 月 25 日一 11 月 6 日 ) 、天神・大丸 ( 11 月 15 日一 20 日 ) 、 1989 年 ( 朝日新聞社大阪 本社企画部編集によるカタログ 2 巻のうち、 1 巻が瀬木慎ー ( 総監修 ) による「ダ リーー造形の魔術」、収録工ッセイ : 瀬木慎ー「サル八ドー丿レ・ダリーーその芸術の 精神」 ) 「ダリ展」、新宿・三越美術館 ( IO 月 10 日一 11 月 17 日 ) 、 1991 年 ( 収録工ッセイ : ロべ ール・テシャルヌ「偉大なるダリ」、千足伸行「運命の星座ーーダリとガラと二人の サルノヾドール」、 A. レイノルズ・モース「ダリによるシュールレアリスムの彫刻 ( 三 次元におけるシュールレアリスム ) 」、アルノヾート・フィールド「ダリの作品におけ る対比の秘密」 ) 「揺れる女 / 揺らぐイメージーーフェミニズムの誕生から現代まで」展、栃木県立美 術館、 1997 年 ( 新関公子「シュルレアリスムにおける女性一一天才の詩神 ( ミュー ズ ) としてのガラとドラ・マール」収録 ) 定期刊行物 サルノヾドル・ダリ〔筆 ) 、瀧ロ修造 ( 訳 ) 「シュルレアリスムの実験に現はれた物体」 「詩法」、第 2 巻第 3 号、通巻第 8 号、 1935 年 瀧ロ修造〔解説、訳 ) 「サ丿レヴァドル・ダリと非合理性の繪畫」「みづゑ」、第 376 号、 1936 年 6 月号、 448 ー 457 頁 サルヴァド丿レ・ダリ〔筆 ) 、江川和彦〔訳 ) 「ピカソの芸術」「アトリヱ」、第 14 巻第 6 号、 1937 年 6 月号、 12 ー 13 頁 サルウアドオル・ダリ〔筆 ) 、山田散生〔訳 ) 「腐った驢馬」「みづゑ」、第 394 号、 1937 年 12 月号、 557 ー 563 頁 瀧ロ修造「サ丿レヴァド丿レ・ダリの形態學」「みづゑ」、第 400 号、 1938 年 6 月号、 527 ー 530 頁 サルウアドル・ダリ「ナルシスの變貌」「みづゑ」、第 4 開号、 1938 年 6 月号、 533 ー 536 頁 福沢一郎「ダリをめぐって」「美術手帖」、第 14 号、 1949 年 2 月号、 2 ー 5 頁 春山行夫「サルヴァドル・ダリ」「美術手帖」、第 20 号、 1949 年 8 月号、 15 ー 17 頁 勝見勝「サ丿レヴァドール・ダリーは俗物か」「アトリヱ」、第 272 号、 1949 年 9 月号、 39 ー 41 頁 古沢岩美「ダリー」 ( アヴァンギャルドの五つの個性 ) 「アトリヱ」、第 277 号、 1950 年 2 月号、 65 ー 66 頁 阿部展也「サルヴァドール・ダリ雜記」「アトリヱ」、第 281 号、 1950 年 6 月号、 20 ー 27 頁 高山底「サルヴァドー丿レ・ダリの近況」「美術手帖」、第 30 号、 1950 年 6 月号、 25 ー 26 岡本太郎「スキャンダリスト・ダリーー。。冗談眞面目”“眞面目冗談”」「藝術新 潮」、第 2 巻第 6 号、 1951 年 6 月号、 126 ー 129 頁 滝ロ修造「ダリと「白い恐怖」」「美術手帖」、第 51 号、 1951 年 12 月号、 2-4 頁 滝ロ修造「ダリ、ミロ、エルンスト」「美術手帖」、第 52 号、 1952 年 1 月号、 30 ー 33 頁 勝見勝「「窓のない館』とダリの挿繪」「藝術新潮」、第 3 巻第 6 号、 1952 年 6 月号、 110 ー 116 頁 サルヴァドル・ダリ〔筆 ) 、瀧ロ修造〔解説・編・訳 ) 「わが秘められたる生涯 1 」、第 4 巻第 8 号、 1953 年 8 月号、 187 ー 194 頁 サルヴァドル・ダリ〔筆 ) 、瀧ロ修造 ( 編・訳 ) 「わが秘められたる生涯 2 」、第 4 巻第 9 号、 1953 年 9 月号、 234 ー 240 頁 サルヴァドル・ダリ〔筆 ) 、瀧ロ修造〔編・訳 ) 「わが秘められたる生涯 3 」、第 4 巻第 ・ 224 10 号、 1953 年 10 月号、 241 ー 248 頁 土方定ー「テ・キリコとダリの近作」「みづゑ」、第 589 号、 1954 年 9 月号、 6 ー 15 頁 アンドレ・プレトン〔筆 ) 、江原偵〔解説、訳、編 ) 「 5 人の画家」「美術批評」、 1955 年 4 月号、 42 ー 55 頁 北園克衛「ダリの藝術的實驗」「藝術新潮」、第 6 巻第 IO 号、 1955 年 IO 月号、 155 ー 158 頁 東野芳明「ダリ小論」 ( グロッタの画家 8 ) 、「みづゑ」、第 621 号、 1957 年 4 月号、 58 ー 67 頁 ( 「グロッタの画家」、美術出版社、 1957 年に再録 ) サルヴァドール・ダリ〔筆 ) 、滝ロ修造〔訳 ) 「異説・近代藝術論ー - 古いモ夕、ンア ートのコキュたち」「藝術新潮」、第 9 巻第 5 巻、 1958 年 5 月号、 80 ー 87 頁 滝ロ修造「ダリ周邊」「藝術新潮」、第 9 巻第 5 巻、 1958 年 5 月号、 88 ー 89 頁 江原順「ダリ「ドン・キホーテ』に挑戰す」「藝術新潮」、第 9 巻第 9 号、 1958 年 9 月 号、 129 ー 135 頁 滝ロ修造「ダリを訪ねてスペインのちきれた旅行記」「藝術新潮」、第 9 巻第 12 号、 1958 年 12 月号、 241 ー 247 頁 江原順「その逆説と変貌」 ( 特集・サルバドール・ダリ ) 、「美術手帖」、第 162 巻、 1959 年 9 月号、 9 ー 5 頁 滝ロ修造、針生一郎、池田龍雄 ( 座談会 ) 「偏執狂的批判と性倒錯の芸術」 ( 特集・ サルバドール・ダリ ) 、「美術手帖」、第 162 巻、 1959 年 9 月号、 16 ー 43 頁 野村良雄「ダリの芸術と宗教的象徴」 ( 特集・サ丿レバドー丿レ・ダリ ) 、「美術手帖」、 第 162 巻、 1959 年 9 月号、 36 ー 41 頁 菱田安彦「ダリの宝石芸術」「藝術新潮」、第 11 巻第 4 号、 1960 年 4 月号、 73 ー 78 頁 大岡信「知られざるダリの世界」「美術手帖」、第 215 号、 1 月号、 1963 年 1 月号、 56 ー 59 頁 東野芳明「ダリの神秘宣言」「みづゑ」、第 697 号、 1963 年 3 月号、 20-32 頁 大島辰雄「ダリーー魔術的芸術の秘密」「三彩」、第 177 号、 19 年 9 月号、 44 ー 51 頁 加山又造「ダリ・生きている化石」「藝術新潮」、第 15 巻第 9 号、通巻第 177 号、 1964 年 9 月号、 40 ー 44 頁 大岡信「世俗化された地獄」「朝日ジャーナル」、第 6 巻第 39 号、通巻第 2 号、 1964 年 9 月号、 26 頁 東野芳明「サ丿レヴァドー丿レ・ダリ氏の優雅な生活」「藝術新潮」、第 15 巻第 10 号、通 巻第 178 号、 19 年 IO 月号、 80 ー 83 頁 針生一郎「ダリ・スキャンダル年代記」 ( 特集、サル八ドル・ダリ ) 、「美術手帖」、第 242 号、 1964 年 IO 月号、 15-19 頁 宮川淳〔編 ) 「ダリ芸術簡明小辞典」 ( 特集、サルノヾドル・ダリ ) 、「美術手帖」、第 242 号、 1964 年 IO 月号、 20 ー 23 頁 古沢岩美「絵とは思えぬ驚き ( 私のダリー -4 人が語るダリとの出会い ) 」 ( 特集、 サルバド丿レ・ダリ ) 、「美術手帖」、第 242 号、 1964 年 10 月号、 24 ー 25 頁 藤野ー友「偉大ないかもの ( 私のダリーー 4 人が語るダリとの出会い ) 」 ( 特集、サ ルノヾドル・ダリ ) 、「美術手帖」、第 242 号、 1964 年 10 月号、 25 ー 26 頁 岡本信一郎「ダラリと八リバリ ( 私のダリーー 4 人が語るダリとの出会い ) 」 ( 特 集、サルバド丿レ・ダリ ) 、「美術手帖」、第 242 号、 19 年 10 月号、 26 ー 27 頁 井上洋介「ダリの悪夢 ( 私のダリーー 4 人が語るダリとの出会い ) 」 ( 特集、サルノヾ ドル・ダリ ) 、「美術手帖」、第 242 号、 1964 年 10 月号、 27 頁 無署名「ノヾタフジックの窓ーーダリ氏によるミレーの晩鐘の悲劇的神話」 ( 特集、 サルノヾドル・ダリ ) 、「美術手帖」、第 242 号、 19 年 10 月号、 24 ー 25 頁 澁澤龍彦「サルヴァドール・ダリの両極性 - ー堅いものと軟らかいもの」 ( 特集、 サルヴァドール・ダリ ) 、「みづゑ」、第 716 号、 1964 年 10 月号、 9 ー 11 頁 島崎敏樹「ダリの心理と論理」 ( 特集、サルヴァドール・ダリ ) 、「みづゑ」、第 716 号、 1964 年 IO 月号、 12 ー 26 頁 粟津則雄「ダリの神曲」「みづゑ」、第 717 号、 1964 年 11 月号、 11 ー 14 頁