ユリイカ - みる会図書館


検索対象: DALI
132件見つかりました。

1. DALI

谷田博幸「ウィリアム・テルの謎ーーダリの図像学 ( 1929 ー 1934 ) 」 ( 特集、サル八 ドール・ダリ ) 、「ユリイカ」、第 18 巻第 12 号、 1986 年 11 月号、一 77 頁 徳田良仁「ダリの深層心理と創造性」 ( 特集、サルノヾドール・ダリ ) 、「ユリイカ」、 第 18 巻第 12 号、 1986 年 11 月号、 78 ー 89 頁 パトリス・シュミット〔筆 ) 、円生谷員志〔訳 ) 「ダリとラカンのパラノイアックな 関係」 ( 特集、サルノヾドール・ダリ ) 、「ユリイカ」、第 18 巻第 12 号、 1986 年 11 月号、 90— 101 頁 東野芳明、巖谷國士 ( 対談 ) 「ダリになろうとしたダリーーヨーロッノヾの鬼子」 ( 特 集、サル八ドール・ダリ ) 、「ユリイカ」、第 18 巻第 12 号、 1986 年 11 月号、 102 ー 133 頁 岩成達也「ダリ風味のあるいはダリ風味のではない五つの連作」 ( 特集、サル八 ドール・ダリ ) 、「ユリイカ」、第 18 巻第 12 号、 1986 年 11 月号、 134 ー 143 頁 金塚貞文「「大いなるオナニストムダリ」 ( 特集、サル八ドール・ダリ ) 、「ユリイ 力」、第 18 巻第 12 号、 1986 年 11 月号、 144 ー 147 頁 田中英道「ダリ論ーーその共時的考察」 ( 特集、サルバドール・ダリ ) 、「ユリイ リ ) 、「ユリイカ」、第 18 巻第 12 号、 1986 年 11 月号、 174-187 頁 ジョゼ・ピエール ( 筆 ) 、鈴木雅雄〔訳 ) 「プルトンとダリ」 ( 特集、サルノヾドール・ダ リ ) 、「ユリイカ」、第 18 巻第 12 号、 1986 年 11 月号、 167 ー 73 頁 関井光男「ダリあるいは筒井康隆の自己反省の錬金術」 ( 特集、サルノヾドール・ダ ルノヾドール・ダリ ) 、「ユリイカ」、第 18 巻第 12 号、 1986 年 11 月号、 162 ー 166 頁 由水常雄「ルビーの心臓とガラスの時計一一ダリの宝飾とガラス彫刻」 ( 特集、サ 力」、第 18 巻第 12 号、 1986 年 11 月号、 148 ー 161 頁 ・ 226 瀬木慎ー「矛盾こそが最大の魅力」 ( モダン・マスター・シリーズーーその人生と 月号、 14 ー 16 頁 針生一郎「ダリの伝説と実像」「藝術公論」、第 8 巻第 5 号、通巻第 45 号、 1991 年 10 114 ー 133 頁 入儀礼の象徴図としての解読」「美術史」、第 40 巻第 1 号、通巻第 129 号、 1991 年、 新関公子「ダリ作「幻想的風景 -- ー暁・英雄的昼・夕暮』一一フリーメーソンの参 末永照和「世紀末はダリ」「新美術新聞」、第 617 号、 1991 年 10 月 1 日、 5 頁 谷田博幸「ダリとラファ工ル前派」「ユリイカ」、第 22 巻第 11 号、 1990 年 11 月号 号、通巻第 607 号、 1989 年 4 月号、 116 ー 120 頁 谷田博幸「〔追悼 ) サルノヾドール・ダリーーダリのロ髭」「美術手帖」、第 42 巻第 6 第 3 号、通巻第 471 号、 1989 年 3 月号、 89 頁 無署名「二十世紀の巨匠サルノヾドール・ダリの死」 (World) 、「芸術新潮」、第 40 巻 1989 年 3 月号、 67 頁 無署名「追悼サルノヾドー丿レ・タ、リーーーっの時代が終わった」「三彩」、第 498 号、 近代美術館ニュース」、第 65 号、 1987 年 9 月、 2 ー 4 頁 木下長宏「文章を書くダリ - ー・ダリ体験へのいざない」「ピロティーー兵庫県立 ティング ) 、「美術手帖」、第 39 巻第 7 号、通巻第 582 号、 1987 年 7 月号、 144 ー 151 頁 新関公子「自己愛の構図ーーダリの「ガラの測地学的肖像』にみる」 ( アートリー 38 巻第 4 号、通巻第 448 号、 1987 年 4 月号、 1 OO-102 頁 ゴンサーロ・ロブレド「ダリにとり憑かれた町カダケス」〔随筆 ) 、「芸術新潮」、第 ニュース」、第 63 号、 1987 年 3 月号、 2 ー 3 頁、 筒井康隆「ダリ雑筆」 ( カタルニア讃歌・ 4 ) 、「ピロティーー兵庫県立近代美術館 力」、第 18 巻第 12 号、 1986 年 11 月号、 202-213 頁 鍵谷幸信「転覆した諧謔ーーダリ断想」 ( 特集、サルノヾドール・ダリ ) 、「ユリイ 力」、第 18 巻第 12 号、 1986 年 11 月号、 197 ー 201 頁 石井勢津子「ホログラフイへ、立体の嘱望」 ( 特集、サルノヾドール・ダリ ) 、「ユリイ 力」、第 18 巻第 12 号、 1986 年 1 1 月号、 192 ー 196 頁 岡村多佳夫「ダリにおける数字の神秘」 ( 特集、サルノヾドール・ダリ ) 、「ユリイ 第 18 巻第 12 号、 1986 年 11 月号、 1 田一 191 頁 大高保ニ郎「スペインから見たダリ」 ( 特集、サルノヾドール・ダリ ) 、「ユリイカ」、 版画 2 ーーサルノヾドール・ダリ ) 、「 21 世紀版画」、第 3 巻第 10 号、通巻第 23 号、 1992 年、 86 頁 新関公子「ダリとゴッホの亡兄神話」「図書」、第 520 号、 1992 年 IO 月号、 28 ー 30 頁 中野中「ダリのキリン」 ( 私家版アートの楽しみー一見て読んで感じ歩き - ー 15 ) 、「ギャラリー」、第 99 号、 1993 年 8 月号、 74 ー 75 頁 中野中「画面を読む」 ( 私家版アートの楽しみー一見て読んで感じ歩き一一最終 回 ) 、「ギャラリー」、第 100 号、 1993 年 8 月号、 74 ー 75 頁 谷川渥「美は食べられるものであるか、さもなければ存在しないだろうーーダ リ」 ( 芸術をめぐる言葉 18 ) 、「美術手帖」、第田 9 号、 1994 年 6 月号、 195 頁 スーサン・ムーア「サルヴァドール・ダリ」 ( 特集、今甦る 3 人の奇才 ) 、「アトリ 工」、第 811 号、 1994 年 9 月号、 60 ー 71 頁 新関公子「 ( ダリの《原罪》からみた ) ゴッホの恋と脱がれた《靴》の意味」「へるめ す」、第 51 号、 1994 年 9 月号、 133 ー 157 頁 黒田雷児「サルヴァドー丿レ・ダリ《ポルト・リガドの聖母》」「福岡市美術館ニュー スーーエスプラナード」、第 91 号、 1995 年 3 月 15 日、 1 、 6 頁 長谷川公之「サルヴァドール・ダリ」 ( 「版画カタログ・レゾネ」あれこれ 98 ) 、「月 刊美術」、第 21 巻第 4 号、通巻 235 号、 1995 年 4 月号、 114 ー 117 頁

2. DALI

サルノヾドール・ダリ〔筆 ) 、滝ロ修造 ( 訳 ) 「真珠論ーー光の思想「われわれはこの光 を食べない」」 ( 特集、ダリと工丿レンスト ) 、「本の手帖」、第 4 巻第 9 号、通巻第 39 号、 1964 年 11 月号、 6 ー 11 頁 岩本悍右「ダリとエルンストの二・三の本のことなど」 ( 特集、ダリとエルンス ト ) 、「本の手帖」、第 4 巻第 9 号、通巻第 39 号、 1964 年 11 月号、 38 ー 45 頁 サルヴァドール・ダリ〔筆 ) 、服部伸六〔訳 ) 「大自讀者 ( 断片 ) 」 ( 特集、ダリとエル ンスト ) 、「本の手帖」、第 4 巻第 9 号、通巻第 39 号、 1964 年 11 月号、 46-47 頁 瀬木慎ー「ダリーーパピエ・コレ風に」 ( 特集、ダリとエルンスト ) 、「本の手帖」、 第 4 巻第 9 号、通巻第 39 号、 1964 年 11 月号、ー 58 頁 滝ロ修造「ナルシスの変貌ーーサルノヾドール・ダリをめぐって」「世界」、第 228 号、 1964 年 12 月号、 262 ー 266 頁 足立康「自伝に見る salvador Dali のアメリカ」「慶應義塾大学経済学部日吉論 文集」、第 19 号、 1965 年 9 月、 1 ー 44 頁 飯島耕一「ダリの採点」「藝術新潮」、第 17 巻第 3 号、通巻第 195 号、 1966 年 3 月号、 78 ー 80 頁 サルヴァドール・ダリ、ルイ・ゴルテーヌ、ピエル・アスティエ ( インタビュア ー ) 、辻邦生〔訳 ) 「サル八ドール・ダリ」 ( 巨匠訪問・ 4 ) 、「美術手帖」、第 265 号、 1966 年 4 月号、 17 ー 21 頁 村木明 ( 訳・編 ) 「ダリが語る古今の巨匠」 ( 特集、ダリの採点 ) 、「藝術新潮」、第 17 巻第 5 号、通巻第 197 号、 1966 年 5 月号、 1 ー 12 頁 滝ロ修造「ダリ現象」 ( 特集、ダリの採点 ) 、「藝術新潮」、第 17 巻第 5 号、通巻第 197 号、 1966 年 5 月号、 13 ー 16 頁 サルノヾドー丿レ・ダリ ( 筆 ) 、石子順造〔訳 ) 「わが生涯 1 ーー私は痴呆を愛す」「芸術生 活」、第 2 巻第 1 号、第 221 号、 19 田年 1 月号 サルノヾドー丿レ・ダリ〔筆 ) 、石子順造 ( 訳 ) 「わが生涯 2- ー・私は当代最も偉大な る破廉恥漢である」「芸術生活」、第 2 巻第 2 号、第 222 号、 19 年 2 月号、 47 ー 50 頁 サルノヾドー丿レ・ダリ ( 筆 ) 、石子順造 ( 訳 ) 「わが生涯 3 ーー私は突飛な道化である」 「芸術生活」、第 2 巻第 3 号、第 223 号、 19 田年 3 月号 瀬木慎ー「ピカソ、シャガー丿レ、ダリ、ミロ」「本の手帖」、第 8 巻第 5 号、通巻第 75 号、 19 年 7 月号、 51-55 頁 川野恭子「ダリの商魂」「藝術新潮」、第 19 巻第 10 号、通巻第 226 号、 19 田年 10 月 号、 57 頁 池田龍雄「サルヴァドール・ダリ「水の影に眠る犬を見るために非常に注意深く 海の皮膚をもちあげる少女である私』」 ( 一枚の絵 ) 、「みづゑ」、第 771 号、 1969 年 4 月号、 67 ー 71 頁 島崎敏樹「超現実主義と精神病理ーーダリの場合」「思想」、第 545 号、 1969 年 11 月 第 269 号、 1972 年 5 月号、 71 ー 73 頁 増田義郎「スペインの随想 - ーダリと文化風土」「藝術新潮」、第 23 巻第 5 号、通巻 年 5 月号、 62 ー 70 頁 岡谷公ニ「ダリの「ソロモン雅歌」」「藝術新潮」、第 23 巻第 5 号、通巻第 269 号、 巻第 2 号、第 2 号、 1971 年 2 月号、 3 ー 17 頁 宇野一郎「わがカルメン体験ーーダリの「カルメン」を見て」「藝術新潮」、第 22 の予感」」 ( 私の一枚 ) 、「みづゑ」、第 784 号、 1969 年 5 月号、 50-53 頁 松本俊夫「サルヴァドール・ダリ「ゆてたインゲン豆のある柔らかい構造 : 内乱 号、 61 ー 67 頁 1972 ・ 225 覚 ) 、「藝術新潮」、第 27 巻第 5 号、通巻第 317 号、 1976 年 5 月号、 5 ー 27 頁 岡谷公ニ「食べられる絵画一一ダリの美食学」 ( 特集、ダリの料理ーーその表現と味 第 9 号、通巻第 297 号、 1974 年 9 月号、 38 ー 44 頁 東野芳明「ダリの近作「不死の秘宝十番」」 ( 描かれた自由 ) 、「藝術新潮」、第 25 巻 第 276 号、 1972 年 12 月号、 82 ー 91 頁 東野芳明「タリの「シュールレアリスム回想舅「藝術新潮」、第 23 巻第 12 号、通巻 飯島耕一「ダリとプニュエルーー 20 世紀の異物」 ( 特集、ダリ ) 、「みづゑ」、第 875 号、 1978 年 2 月号、 37 ー 43 頁 サルヴァドー丿レ・ダリ〔筆 ) 、大島辰雄 ( 訳・構成 ) 「ダリの方法敍説「ミレーの晩鐘 の悲劇的神話」」 ( 特集、ダリ ) 、「みづゑ」、第 875 号、 1978 年 2 月号、 44 ー 49 頁 寺山修治「反言語としてのダリ絵画一一消失した犀のかたちの大便についての 528 字」 ( 特集、ダリ ) 、「みづゑ」、第 875 号、 1978 年 2 月号、 51 ー 55 頁 勅使河原宏「ダリとの出遭いーーカーネーションを耳に活けた人への親近感」 (salvado 「 Dali) 、「版画芸術」、第 21 号、 1978 年舂号、 76 ー 77 頁 松原俊朗「ダリ版画拾遺、幻の名作から凡作まで」 (Salvador Da ⅱ ) 、「版画芸 術」、第 21 号、 1978 年春号、 80 ー 81 頁 瀬木慎ー「永遠の。若い巨匠 " ダリーーその、、版画錬金術師 " としての魅力」 (salvador Dali) 、「版画芸術」、第 21 号、 1978 年春号、 84 ー 89 頁 ジョルジュ・ホルヌ〔筆 ) 、天野恒雄〔訳 ) 「サルヴァドール・ダリの魔術スペイン・ フィゲラスのダリ美術館考」「朝日ジャーナル」、第 20 巻第 43 号、 1978 年 10 月、 105 ー 107 頁 阿部信雄「サルバドール・タリとジャン = フランソワ・ミレー」 ( 変奏のテクネ巨 匠から巨匠へ ) 、「美術手帖」、第 30 巻第 10 号、第 439 号、 1978 年 10 月号、 77 ー 103 頁 千足伸行「“地中海人”ダリの欲望のメカニズム」「新美術新聞」、第 291 号、 1982 年 3 月 11 日、 1 頁 筒井康隆「ダリ展」 ( 展覧会で語る一 15 ) 、「芸術新潮」、第巻第 3 号、第田 7 号、 1 田 2 年 3 月号、 108 ー 113 頁 古沢岩美「不毛の工ロス」「藝術新潮」、第 33 巻第 3 号、第 387 号、 1982 年 3 月号、 113 無署名「“ダリ”ーシャス・ジュウリーーーサルノヾドール・ダリの宝飾」「藝術新潮」、 第 35 巻第 4 号、通巻第 412 号、 1984 年 4 月号、田一 69 頁 池田満寿夫「至高の豚ーーダリについての雑感」 ( 特集、サルノヾドール・ダリ ) 、 「美術手帖」、第 37 巻第 3 号、通巻第 540 号、 1985 年 3 月号、 26 ー 32 頁 末永照和、徳田良仁 ( 対談 ) 「画面と深層のスペクタクル」 ( 特集、サルノヾドール・ ダリ ) 、「美術手帖」、第 37 巻第 3 号、通巻第図 0 号、 1985 年 3 月号、 42 ー 73 頁 堀切直人「プルジョワジーの明らかな愉しみ」 ( 特集、サルノヾドール・ダリ ) 、「美 術手帖」、第 37 巻第 3 号、通巻第 540 号、 1985 年 3 月号、 76 ー 80 頁 岡村多佳夫「家族」、「初個展の頃」、「ミレーの「晩鐘」」、「アンドレ・プルトン」、 「ガルシア・ロルカ」、「ガラ」、「美と食欲」、「映画」 (Cahier de Dali) ( 特集、サル 八ドール・タリ ) 、「美術手帖」、第 37 巻第 3 号、通巻第 540 号、 1985 年 3 月号、 22 、 46 、、 58 、 62 、 69 、 70 、 74 頁 長谷川智恵子「孤独、寂し気なダリは嫌い」「月刊美術」、第 124 号、 1985 年 1 月号、 80 ー 81 頁 サルノヾドール・ダリ〔筆 ) 、木下長宏〔訳 ) 「愛」 ( 特集、サル八ドール・ダリ ) 、「ユリ イカ」、第 18 巻第 12 号、 1986 年 12 月号、田一 41 頁 サルノヾドー丿レ・ダリ ( 筆 ) 、岡村多佳夫 ( 訳・解説 ) 「神秘主義宣言」 ( 特集、サ丿レノヾド ール・ダリ ) 、「ユリイカ」、第 18 巻第 12 号、 1986 年 11 月号、 42 ー 47 頁 佐藤朔「ダリの変身」 ( 特集、サルノヾドール・ダリ ) 、「ユリイカ」、第 18 巻第 12 号、 1986 年 11 月号、ー 51 頁 池田龍雄「夢の重さーーイメージの魔術」 ( 特集、サルノヾドール・ダリ ) 、「ユリイ 力」、第 18 巻第 12 号、 1986 年 11 月号、 52 ー 56 頁 有田忠郎「カダケスを望んで」 ( 特集、サルノヾドール・ダリ ) 、「ユリイカ」、第 18 巻 第 12 号、 1986 年 11 月号、 57-59 頁 蜷川幸雄「解釈からの逃亡」 ( 特集、サルバドール・ダリ ) 、「ユリイカ」、第 18 巻第 12 号、 1986 年 11 月号、 60-62 頁 ルネ・クルヴェル ( 筆 ) 、星埜森之 ( 訳 ) 「ダリ、あるいは反蒙昧主義」 ( 特集、サルノヾ ドール・ダリ ) 、「ユリイカ」、第 18 巻第 12 号、 1986 年 11 月号、 63 ー 67 頁

3. DALI

自画像 ( フィゲラス ) 1921 年 油彩、バーラップ 37X43Cm SeIf-portrait (Figueres) 1921 0 ⅱ on burlap 37X43Cm ダリがマドリードのサン・フェ丿けンド王立美術アカ テミーに入学する 1 年前の 17 歳の頃に描かれたこの 思い入れたつぶりの作品からは、こつのことが読みと れます。 そのひとつは、ダリが印象派から離れ、より広範囲 な絵画様式の影響を受け入れるようになったこと。 つめは、ダリが自分のイメージを意識し始めたという ことです。この作品て用いられている技法は、カラ ヴァッジオ ( 1571 頃ー 1610 ) やレンプラント ( 1606 ー 1669 ) など、ヨーロッノヾの巨匠たちが好んて取り入れ た「キアロスクーロ ( 明暗法 ) 」と呼はれるものて、光と 影の劇的な効果を狙った絵画技法てす。この作品で は、陰影がミステリアスな雰囲気を醸しだし、作品を 観る者を見つめ返す画家の瞳を際立たせています。 タリはこの自画像で、広いつばの帽子をかぶり、黒 マントに派手な赤のスカーフを身につけ、ノヾイプを手 にして精いっぱい粋なポーズをとっています。しか し実際のところ、ダリに煙草を喫う習慣はなく、マン トやスカーフも地方劇場で使われていたのを持って きたものてした。自画像にこのような演出を選んだ のは、ダリが 17 歳にしてすでに自分のエキセントリ ックなイメージを意識的に作り出そうとしていたこ とを示しています。 ・ 40 Early Paintings

4. DALI

15. 春のはじめのころ 1929 年 油彩、板 49X65Cm The First Days of Spring 1929 0 ⅱ on panel 49X65Cm これは、ダリ個人のヴィジョンが初めて組織的に画面 に投影された作品です。偏執狂的で不安なイメージ が精緻な筆致苗き出され、自分の考えとスタイルを 極めた作品がついに造りだされようとしています。 この作品が描かれた 1929 年の春、ダリは精神衰弱 に陥っていました。彼と父親との関係はこじれ、ダリ は精神不安による抑制できない痙攣性の笑いに苦し みます。幸いにもその夏、ダリは後に生涯の伴侶とな るガラ・エリュアールと出会い、カラの影響はダリを 絵画の新たな方向へと駆り立てました。 この作品を見ると、ダリカ叭リのシュルレアリスト・ グループに合流してもおかしくない時期にあること が分かるでしよう。ノヾリのシュルレアリストたちと 同様、ダリも無意識や夢に関するフロイトの里論に深 く影響されていました。ただ、タリのイメージは、こ うしたシュルレアリストたちよりもっと鮮烈で、この 作品もまるで夢を筆て描いた写真のように見えます。 荒涼とした風景の中央には子供の頃のダリの小さい 写真が貼られ、背景に立っている二人のこく小さな人 物はダリと父親が親密だった時代への憧れを表わし ています。不安を呼び起こすような風景に、孤立した 人々、何か性的な行為を暗示する人物、コラージュさ れた物、魚・髪の毛・温度計が合体して下に虹色の壺が 付いた奇妙な物体などが散在し、全体として夢という もののちぐはぐな側面を表現しています。 ・ 68 SurreaIism Paintings

5. DALI

22. 子供である女の記憶 1932 年 油彩、カンヴァス 99X120cm Memory of the Child-Woman 1932 0 ⅱ on canvas 99X120Cm タリはこの巨大な作品で、 1932 年当時の自分の人間 関係を、悪夢じみたイメージを使って描き出しました。 ひとつは当時絶縁状態にあった父親との関係。ダリ の父は、 1929 年にダリを家から追い出していました。 ガラがダリの愛人となったことがその原因のひとつ です。父親との確執のため、ダリは自分が迫害されて いるように感じ始めていました。 蹄鉄型の壁のようなものの右側に開いているいく つかの丸い空洞には、ウィ丿レヘルム・テルの伝説を示 すメモが書き込まれています。当時ダリはこの有名 な伝説を自分自身と関連づけ、作品の中に取り込んで いました。ふつうウイルヘルム・テルは、自由を獲得 するため、自分の息子の頭上に置いたリンコを見事矢 て射抜いたヒーローとして知られています。しかし ダリはこの物語を自分用に変形し、自分の息子を迫害 する父親のシンボルとしました。黄色い大きな壁の 上に見えるのがこの父親で、苦悩のあまり血の涙を流 しています。 画面背景の脇で抱擁しあっている二人の男性像は、 父親との和解を望むダリの願いを表わしているのて しよう。 ダリはまた、女性の解剖模型の姿 ( 恋人力ラを登場 させています。ダリがガラに感じていた結びつきの 深さは、「ガラ : サルノヾドール・ダリ」というサインによ く表わされています。ダリはまた、自分がガラに付け た二ックネームてある「オリべッテ」 ( カタルー二ャ語 てオリーヴの愛称 ) という言葉を壁の別の穴に 3 回書 き込んでいます。 さらに、穴のひとつに 10 回書き込まれた「我が母」 という言葉で、亡くなった母親もここに登場していま す。 10 という数は、母親が 1921 年に癌で亡くなって から過き去った年月をしめしています。 この絵には薔薇もシンホルとして使われ、美と閉ざ された心を象徴しています。またコラージュされた 時計は、前年の有名な作品《記憶の固執》の溶けた時 計と関連し、夢のなかでは時間が止まっていたり恣意 的だったりすることをしめしています。 作品にはまた、これらシュルレアリスムのシンホル に混ざって、ダリの田舎の風景が垣間見られます。壁 の穴から流れ出している小川は、カダケス近くの一本 の木の根本から湧き出しているアルシナの泉がモテ ルとなっているからです。 ・ 84 SurreaIism Paintings

6. DALI

ルシアの犬」の徹底的にナンセンスなシナリオは、フィゲラスのダリ家 オートマティスム て 6 日間の二人の自動記述的共同作業によって生み出されたのである。 映画の制作費用は大地主てあるプニュエ丿レの母が提供し、撮影はノヾリで 行われることになった。撮影に立ち会うというロ実て父に費用を出さ せ、 4 月初めにノヾリに行ったダリは、剥製を腐ったロ八らしくメークしたり、 自ら修道士の役で出演したりして約 2 週閂の撮影につきあい、さらに 6 月 6 日の映画完成の内輪の試写会に立ち会ったあと、フィゲラスに帰っ たらしい。 しかし、映画制作を自分本来の仕事と思っていないダリは、この約 2 カ 月をただプニュエルのために使ったのではなかった。彼はこの時間 を、画家ダリがパリを征服するのに必要な準備期間と考え、非常に有効 に使ったのである。すでに 1927 年から、シュルレアリスム運動の中に 自分の位置を見いだそうと定め、自己の様式をその方向に押し進めてい たタリだった。本展出品作の《器官と手》 ( cat. no. 12 ) 、《浴女》 ( cat. no. 13 ) 、《牡羊 ( 亡霊のような牝牛 ) 》 ( cat. no. 14 ) は、みなその過程を示す努 力の作品で、タンギー、ミロ、エルンストの影響が色濃く現れている。ノヾ リに着くや、先輩ミロを訪ね、彼を通じてシュルレアリストを扱う画商 カミーユ・ゲーマンを始め、運動の中心人物アンドレ・ブルトンやポー ル・エリュアールやルネ・マグリットにも面識を得たようだ。さらにタ キシードを新調して貴族のサロンに出入りし、バトロンを獲得する法ま でミロに伝授されている。雑誌等でシュルレアリストの人脈をよく研 究していたダリは、誰にわたりをつけるのが最も有効かをよく考え、主 要人物たちにカダケス訪問の約束を取り付けると、風のようにパリを去 った。 2 カ月後、夏のカダケスにやってきたのは、画商ゲーマンとその愛人、 は、当時最も先鋭で総合的な芸術運動であったシュルレアリスムに接近 マクリット夫妻、シュルレアリスト・グループでプルトンに次ぐ中心的 位置にあり、タレント・スカウト役も務めていた詩人ポール・エリュアー し、映画という近代的ジャンルにおいて専門知識を持つ唯一の存在とし て、正式にメンノヾーに迎えられてもいた。スポーツマンて近代主義者で ルとその妻ガラと娘セシル、およびプニュエルの計 8 人である。カダケ 国際派のプ二ュエルは、つねづねロルカのジプシー音楽に根ざす強烈な スは風光明媚な保養地として著名とはいえ、非常に交通不便な土地で、 民族主義的傾向が、ダリのまだ確定していない芸術的個性に及ほす影響 訪れるのは今日でも楽ではない。そこにこれだけの人物を同時に集合 を危惧していた。プニュエルは、ダリの才能を民族主義に閉じ込めず、 させたのだから、ダリの外交の周到さと、発散する魅力の強さが推し量 普遍的世界に解き放ちたいと考えていたのであろう。ともに年長者の られる。 ロルカとプニュエルは、未熟の天才ダリへの影響力を競っていた、とも この全員集合の最大の目的は、パリでの個展を画商ゲーマンに引き受 けさせるための一種のプレヴューだった。ゲーマンはまだダリに確立 みえる。独創的で前衛的な映画を共同で制作しようという、 1929 年初 頭のプニュエルの提案は、すでにロルカに距離をおく必要性を感じてい した自己の様式がないのではないかと契約をためらっていたのである。 そこで、すでに明らかにシュルレアリスム的様式を備えた最新作《痛ま たダリに喜んで受け入れられた。 1929 年 1 月中にプニュエルはフィゲラスにやってきた。映画「アンダ しき遊戯》 ( p 16 、 fig. 5 ) を、シュルレアリストの証人たちも立ち会いのも fig. 6 ダリ《ノヾン籠》 1926 年 ( cat. no. 11 ) fig.7 スルバラン《ホデゴン ( 茶碗、アンフォラ、壺 ) 》 1633 年、マドリード、プラド美術館 ・ 28

7. DALI

ています。また透明なプラスティックかガラスてで きたような掎子とテープレも、支えは八イヒ - ルをは いた足とひと続きの手からてきていて、面白いテサイ ンです。このグンニャリとしたものと硬質のものを 巧みにノヾランスさせる才能は、のちにガラスを素材と したテサインに、より見事に発揮されました。薔薇の 頭の女性は、お気に入りのモチーフとして、のちにフ アッション雑誌「ヴォーグ ( アメリカ版 ) 」の表紙を飾 ることになります ( fig. ) 。 しかし、この絵の魅力は、ファッション性がタリー 流の不気味さとユーモアに彩られているところにあ るてしよう。不気昧さを演出してい乙のよ脅迫的表 情のライオン形の岩や、遠近法の消失点近くに立つ死 の影のような人物てす。 34. 薔薇の頭の女 1935 年 油彩、カンヴァス 35X27Cm チューリッヒ美術館 Of Roses Woman with a Head 1935 0 ⅱ on canvas 35X27Cm Kunsthaus Zürich スだけてなく、ダリはココ・シャネルや工丿レサ・スキャ バレリやヘレナ・ルビンシュタインなど、ファッショ ン界で活躍する強い個性の女性と一緒に仕事をする ことが大好きでした。それにアメリカはヨーロッパ と違って、純粋芸術とテサインを区別する習慣がなく、 ヨーロッノヾの前衛芸術の旗手てあるダリに、ショーウ インドー・ティスプレイやファッション雑誌の挿絵や 舞台衣装テザインなど、雑多な仕事を気軽に注文する のです。ダリはそれらをみな引き受けることにより、 活動の分野を飛躍的に広けました。特にファッショ ン界に得た人脈と仕事は、ダリの後半生の重要な支え のひとっとなりました。 ファッションや家具の斬新なテサインについての 関心が見られるこの作品は、 1935 年 2 月にヨーロッ 八に帰ってから描かれたものでしよう。しかし、その 年のダリ夫妻の行動はめまぐるしく、ノヾリ、カダケス、 ポルト・リガト、パリ、ボルト・リガト、八ルセロナ、イ この作品には、 1934 年以前の作品に見られないファ タリア、パリと移動しているのて、どこて描かれたか ッショナプルな要素が見られます。以前のダリの作 は確定できません。気どったポーズ独創的な衣装デ 品は、無意識の深層から汲み上けられた不安と欲望の サイン、華麗な薔薇の花でてきた帽子ともみえる頭、 イメージから成っていましたが、この作品には、それ 抱きしめからみつく、工ロティックな男性の両手から らの不思議さに、どこか洗練されたテザイン性が加わ なるサッシュ・ベルトやプレスレット、半透明の巻貝 っています。このダリにおける新しい要素の誕生に のようなベルト、左右の色の違うべティキュアなど二 は、アメリカという国、あるいは文イ匕の存在が深く関 人の女性は実に魅力的なファッション・センスを示し わっていると思われます。 ダリとガラは 1934 年 11 月に、初めてアメリカに渡り ました。パリを訪れた二ューヨ - ク近代美術館長ア fig. 「ウォーク ( アメリカ版 ) 」表紙 1939 年 6 月 1 日号 ルフレッド・ H. ノ←の勧めが、渡米決意の最大の動機 でした。まだ貧しかった彼らは、渡航費の一部をピカ ソに援助してもらって、決死の覚悟で渡米したのです が、待っていたのは思いがけない大歓迎でした。ニュ ーヨークのジュリアン・レヴィ画廊での個展の大成功 に加え、近代美術館やワズウォース・アシニーアムて の講演会てみせたダリの聡明、エスプリ、ユーモアは、 たちまちアメリカのジャーナリズムを魅了しました。 夫妻は財界人のノ←ティにたびたび招かれ、社交界の 寵児となりました。そこて彼らは後援者となってく れそうな人脈の感触をつかみ、その後のアメリカにお ける活動の可能性を確かめたのでした。 このアメリカ旅行に際し、特にタリ夫妻の保護と引 き立て役を務めたのは、ノヾリとアメリカの両方て活躍 していたファッション界の女性実業家カレス・クロス ピー ( ブラジャーの発明で成功した女性 ) です。カレ 7 ! . イ妻ぐ 日日 FÅSHIONS ・ BEAIJTY ー ・ 108 Surrealism Paintings

8. DALI

映像 Film 「アンダルシアの犬」 について ダリはマドリードのエリート学生寮「学生館 ( レシテンシア・テ・エスト ティアンテス ) 」で、のちに映画監督となるルイス・フニュエ丿レと親友にな りました。彼はマドリード大学哲学科の学生でしたが、卒業後、ダリよ り一足早く八リに出て映画会社に勤め、シュルレアリストのグループと も接触していました。 1929 年 1 月に、彼はフィゲラスのタリを訪れ、前 衛的な映画を協同制作しようと呼びかけます。ダリはそれに応えて、フ ニュエルのシナリオ原稿を徹底的に作り直すことを提案しました。そ れから一週間、二人はシュルレアリスムのオートマティスム ( 自動記述 ) 的な手法で、脈絡のない唐突なイメージをお互いにぶつけ合いながら一 本のシナリオを完成しました。それが「アンダルシアの犬」てす。二人 は合理的説明のつく要素を徹底的に排除することを大前提に、このシナ リオを書きました。従って、この 17 分のサイレント映画に、意味のある ストーリーや象徴性や批評性を読み取ろうとすることは、二人の制作意 図に反します。 ひとりの男が八ルコ二一の近くで剃刀を研き、満月に雲がかかると若い 女の大きな瞳が剃刀で切り裂かれるショッキンクなプロローグのイメー ジに始まり、手の穴から蟻が無数に沸いてくるところ、ちきれた女性の 手首が街路に落ちているところ、蛾の背中にどくろの模様があるとこ ろ、女性が口紅を塗ると相手の男性のロが消えて血が流れるところな ど、「アンダルシアの犬」には随所にダリらしいイメージが溢れてい ます。 制作資金は大地主だったプニュエルの母が出し、撮影は同年 4 月に八 リで行われました。二週間の撮影にダリは立ち会い、グランドピアノに 引きすられる修道士役 ( 向かって右 ) もっとめ、腐ったロ八の模型を本物 らしくみせる演出に凝ったということてす。 6 月 6 日の試写会では、この 映画は前衛好きの上流階級には大いに受けたのですが、これは二人の予 期に反することでした。二人は、特にプ二ュエルは、もっと反発や怒り を期待していたのです。時間が経つにつれ、二人の映画観の違いは次第 に明らかになっていき、映画制作の協力は第二作「黄金時代」 ( 1930 年 ) で終わりとなりました。 ともかくダリは、「アンダルシアの犬」のシナリオ・ライターとして、ま すノヾリの人々に記憶されたのです。これは同年 9 月に個展を予定し、パ リ画壇に華々しくテビューしようと準備中のダリにとって、大変有利な ことでした。 ( を 9 ッ ・ 208 Film

9. DALI

サルノヾドール・ダリ 関連事項 ( 政治・芸術 ) 西暦 ( 年齢 ) テシャルヌ「カラのダリ」出版。 「ミレーの晩鐘 ( アンジェラス ) の悲劇的神話」仏語で出版 1963 年 ( 59 歳 ) ( 1933 年の未刊旧稿 ) 。 DNA 理論による一連の作品制 作。 4 月スペインで最高の勲章てある「イザベル・ラ・カトリカ 1964 年 ( 60 歳 ) 大十字勲章」を受章。 5 月「天才の日記」仏語で出版。 9 月 東京でダリ回顧展開催。 ヴェトナム戦争勃発 ( ー 75 ) ホログラフィに関心を示す。ロック歌手アマンダ・リア、ダ 1965 年 ( 61 歳 ) リのとりまきに加わる。 アラン・ボスケ「ダリとの対話」出版。 国連 20 周年記念封筒テザイン。パリのサン・ジャック通り 1966 年 ( 62 歳 ) プレトン歿。 に日時計テサイン。 ノヾリのムーリス・ホテルで《鮪漁》公開。フランス官学派の マグリット歿。 1967 年 ( 63 歳 ) メッソニエらを同時に並べ、熱烈に賛美する。 ノヾリ大学生の五月革命に刺激され、「私の文化革命」を発 1968 年 ( 64 歳 ) 表。パリのグレヴァン人形館にダリの肖像入る。 「エロティックな変貌」 ( 偏執狂的・批判的方法を駆使した 1969 年 ( 65 歳 ) 素描集 ) を出版。ガラのためにピュボルの古城を購入。 改装はじめる。 かねて市、政府と交渉を重ねてきた旧フィゲラス市立劇場 1970 年 ( 66 歳 ) を改築して「ダリ劇場美術館 ( テアトロ・ムゼオ・ダリ ) 」とす る計画を公表。建築家にピニエロを起用。三年がかりの 大作《幻覚剤的闘牛士》完成。オランダの画家へラルト・ ダウの研究から立体視絵画を思いっき、フレネルレンズを 使って実作はじめる。 11 月ロッテルダムのポイマンス・ファ ン・プーニンゲン美術館で大きなダリ回顧展。 ダリ収集家のモース夫妻がクリーヴ フランス版「ヴォーグ」誌 12 月号のゲスト編集長をつとめ 1971 年 ( 67 歳 ) ランドにダリ美術館をオープン ( のち る。 にフロリダに移転 ) 。 4 月ニューヨークのネドラー画廊でホログラム展。古城ピ 1972 年 ( 68 歳 ) ュボル、およびダリ劇場美術館の天井画や壁画を精力的に 描く。 モーリス・ホテ丿レでクロノホログラムを発表。 1973 年 ( 69 歳 ) 3 月フランクフルト・アム・マインのシュテーテル美術館で 1974 年 ( 70 歳 ) ダリの回顧展。 9 月 28 日フィゲラスのダリ劇場美術館オー プン。「魔術的 50 の秘密」 ( 48 年に出た英語版「魔術的ク ラフトマンシップ 50 の謎」の仏訳改定版 ) 出版。 11 月 20 日、フランコ総統歿。立憲王 ダリ制作の映画「高地モンゴルへの旅」の最初の部分公開 1975 年 ( 71 歳 ) 政復活。ピカソの《ゲルニカ》スペイ される。 4 月パリのニコン・ギャラリーでダリに関する写真 ンに返還される ( フランコ独裁のスペ 展開催 ( 写真選択はダリ自身 ) 。 インに置かぬというピカソの意志で ーコーヨーク近代美術館に寄託され ていた ) 。 工ルンスト歿。毛沢東歿。 ピカソ歿。ムーアに代わりエンリコ・ サバテー丿レがタリの秘書となる。 fig.7 ホテル・モーリスのダリ ( 1972 年 ) 10 月パリ国立図書館に自署「哲学者の錬金術」を貝畄 1976 年 ( 72 歳 ) ロノ日 0 立体視絵画の大作《太陽のはるか彼方の、まったく裸の黎 1977 年 ( 73 歳 ) 明をガラに見せるために、雲の形をした金羊毛をはきとる ダリの手》 ( クロード・ロランの《聖ノヾウラの乗船を伴うオス ティア港》による ) を制作。 5 月フランスの美術アカテミーの外国人会員に選ばれ 1978 年 ( 74 歳 ) る。 12 月パリのジョルジュ・ポンピドウー・センターで大回顧展 1979 年 ( 75 歳 ) ( 17 日のオープニングは従業員ストライキで中止、ダリは 展覧会を見ずに渡米 ) 。 ポンピドウー・センターの回顧展が 6 月にロンドンのテー 1980 年 ( 76 歳 ) ト・ギャラリーに巡回。 ・ 221

10. DALI

版画 / オプジェ Graphic/Object ダリの版画作品 ダリ美術館所蔵品からのセレクション 版画家としてのタリのキャリアは 1930 年代にまで遡りま魂ダリ美術 館に所蔵されている最も早い時期の版画作品のひとつに《ノヾッタである 子供》 ( cat. no. 66 ) という作品がありますが、これは彼自身のドローイン グに基づいたエンクレーヴィングの作品です。この独特の雰囲気をた たえた作品はダリのシュルレアリスム時代の制作で、少年の頃のダリが 描かれていますが、ダリ美術館所蔵の油彩作品《私がノヾッタの子供だった、 IO 歳の頃》の「自画像」を思わせる雰囲気が漂っていま魂ドローイングも 油絵も 1932 年に描かれていま魂ものの細部に寄せるダリの関心がテリ ケートな描写に表われており、荒涼とした風景のなかの引き伸ばされた 人物が醸し出すドラマティックな効果を高めています。この作品はま た、細部の隅々まで描き込まれている点で、ダリのオリジナルのドロー イングに基づいてプラコン = テュプレシスが制作した「マルドロールの 歌」 ( 1934 年 ) のためのエングレーヴィングとも非常によく似ています。 1940 年代、セルバンテスの「ドン・キホーテ」やアラクロンの「ル・トリコ ルヌ』のような本の挿絵以外、ダリはあまり多くの版画作品を制作して いません。 1947 年には、クリーヴランド版画協会のために、《聖ゲオ丿レギウスと龍》 というドローイングを描いています。この特別に注文されたドローイ ンクは、ニューヨークのスタンレイ・ W. ヘイター・スタジオのフレッド・ べイカーによって銅版画になりました ( cat. no. 67 ) 。この数少ないエテ ィションの銅版画は、 250 部という限定版て、わすかに 10 点のみが J. ワ ットマン製の紙に刷られて追加されたものです。刷り上がった後の原 版は二度と使用できないように傷を入れられ、表面を削り取られまし た。ですから、この銅版画には、以後のエティションはありません。 ダリの版画作品の魅力はいくつも挙けられますが、そのひとつは実験 的なテク二ックに対する彼の関心にあるといえるでしよう。例えば「ビ ュレッティズム」と呼ばれる技法があります。この言葉は、リトグラフ 用の石版に変わったパターンを創り出そうと採用した独特の方法を言い 表わすために、ダリが考案した言葉です。ダリ美術館所蔵の 1960 年制 作の《闘争》 ( cat. n071 ) は、まさにこの技法を用いて制作されたもので すが、これにはホークイーブスと呼はれる 15 世紀の火縄銃が使われまし た。弾丸に墨汁を詰め、石版に向かって撃つのです。弾丸が石版に当た ると墨汁が飛び散り、何らかの形が浮かんでいるような印象を与える染 みができます。これをダリは、「定量化された点のリアリズム」と呼んで いました。このようにして生まれた斑点を鋭い眼力で観察し、ダリはイ ンクの染みから戦っている人物たちを描き出したのてす。彼はまた、 の技法は、当時アメリカで脚光を浴びていた抽象表現主義に対する彼な りの答えであると感じていました。 1960 年のジョゼフ・フォレとの共同作業によって生まれた《ピエタ》 (cat. no.72 ) という作品ては、さらにこの発想を押し進めています。パリて 出版社を経営するフォレは、彼が作ろうとしているきわめて風変わりな 書物「聖ヨ八ネの黙示録」に参加してみないかとダリに声をかけました。 の驚くべき書物には 7 人の芸術家と 7 人の作家の作品が収録されており、 しかも文章はすべて羊皮紙に手書きで記入されました。ダリはエンボ ス加工を施したこの本の表紙のテザインも手掛けています。それはフ ・ 166 Graphic