ニ人のジプシーの若者 1920-21 年 グアッシュ、厚紙 49.5X74.5cm 49.5X74.5cm gouache on cardboard 1920 ー 21 Two Gypsy Lads この少年時代に描かれたグアッシュ作品には、ダリの 生涯を語る上てとても重要なエピソードのひとつが 反映されています。というのは、この二人の若者に、 幼くして亡くなったダリの兄とタリ自身の関係がう かがえるからです。兄、サルノヾドール・ガロ・アンセ丿レ モ・ダリは 1901 年に生まれ、 1903 年 8 月、胃腸カタル のために亡くなりました。ダリが生まれたのは、兄が 死んでから 9 カ月と 11 日後てした。両親はダリを長 男の生まれ代わりだと思い、兄と同じ名前「サルノヾド ール ( 救世主という意喇」をダリにつけました。ダリ はこの亡くなった兄と常に比べられながら育ったの てす。このような状態は、ダリの心に大きな動揺を引 き起こしました。彼はこの動揺を生涯を通じて忘れ ることはなかったのです。彼が奇妙な振舞いをして 人の目を引こうとしたのも、兄とは違う彼自身の存在 を認めてもらいたいという努力の顕れでした。 この絵の背景には、昔ながらのスペインの村の風景 が見えます。左側には「ノ←ティー・カーティー」とい う楽器を演奏している男がいます。そして右側には、 道を歩いて通り過きようとしている、長いスカートと スペイン独特のショールをはおった女性が見えます。 ・ 46 EarIy Paintings
ダリとハルスマン 写真による共同作業 サルノヾドー丿レ・ダリ美術館の所蔵品からと、今回特別に出品される八ル スマン・スタジオからの写真作品、併せて 30 点は、偉大な写真家フィリッ プ・八ルスマンとサル八ドー丿レ・ダリとの共同作業から生まれたものです。 これらの写真が撮影されたのは 1941 年から 1965 年にかけてでした。 こにはダリの最も創造的な姿が焼き付けられています。 フィリップ・八ルスマン ( 1906 ー 1979 ) はラトヴィアのリカに生まれ、 1930 年代にパリで肖像写真家としての地位を獲得しました。ドイツ軍 の侵攻が間近に迫るまでパリに留まっていましたが、妻イヴォンヌと娘 とともにアメリカに移住する道を選びます。そして、アメリカでもたち まち写真家として認められ、名を知られるようになっていきました。 彼が有力雑誌のために有名人の写真を撮り始めたのは、 1940 年代のこ とです。彼の仕事はウィットとユーモアに富み、ひときわ魅力的なもので した。彼が偉大な写真家として突出していたことは、雑誌「ライフ (Life) 」 の表紙を 97 回も飾ったことを考えてみれば明らかです。その後、八ルス マンは、物理学者アルノヾート・アインシュタイン、イギリスの政治家ウイン ストン・チャーチル、女優マリリン・モンロー、アメリカ大統領ジョン・ F. ケネティなど数多くの著名人と会い、写真を撮ってきました。 20 世紀の 偉人や著名人の彼の肖像写真は、文字どおり何百回も有力雑誌のページに 華を添え、その作品は数々の美術館の所蔵品として展示されています。 けれども、彼が撮影した肖像写真のなかでも、サルノヾドール・ダリの写 真ほど人を惹きつけ、また特異な魅力を放っているものはありません。 二人の間に強い関係が生まれたのは 1941 年てした。その時、八ルスマン は胎児としてのダリの肖像を撮ろうと持ちかけたのです。その結果生 まれた写真は、生まれる以前の記憶に取り憑かれていたこの画家の、す ばらしい肖像写真となりました。これはダリの自伝「わが秘められた生 涯』のなかに収められています。同じ年、八ルスマンは別の写真も撮っ ています。それは、ダリがテサインした雄鶏の衣装に身を包んだ八レリ ーナとダリが屋根の上でポーズしているというものです。この写真は、 雑誌「ライフ』の「今週の写真」というべージに掲載されました。 1954 年、八ルスマンは「ダリのロ髭」という写真集を出版します。 れは、最もダリらしい特徴としてっとに有名であった、ワックスで固め たロ髭のさまざまな表情をまとめたものて、その一風変わった趣向は実 に楽しいものでした。ダリのロ髭はその見事さを褒め称えられている かと思うと、さんざんな目にもあわされていて、その様子には、この二人 の芸術家が自分たちの最善を尽くすためにどれほど努力したかがうか がわれます。八ルスマンの写真ては、ロ髭は牛の角になったかと思え は、米国の通貨ドルを示す記号になったり、時計の針になったりと大忙 ・ 194 Photograph してす。またスイス・チーズの孔を貫いていることもあれば、クラフの 統計を示す線として使われたり、はてはレオナルド・ダ・ヴィンチの名作 《モナ・リサ》の顔を飾ったりもしています。こうして普通ては考えられ ないような気紛れな質問と、それに対する謎めいた答によって構成され た視覚的なインタヴューができあがったわけです。この写真集は現在 でも出版されていて、手にとって眺めることができます。 この他にも、写真ならではの特殊効果と技術を使いこなす八ルスマン の手腕は、ダリの幻想的なヴィジョンを写真として実現するためにおお いに発揮されました。こうして八ルスマンの注目すべき写真作品のひ とつ、 1948 年に制作された《ダリ・アトミクス》が生まれたのてす。この写 真には、分子の浮遊状態に寄せるダリの関心が表現されています。 1940 年 代後半から 1950 年代初頭にかけて、ダリは、原子が陽子や中性子といっ た運動する素粒子で構成されており、それら素粒子同士の間にははてし ない空間が広がっているという考えに興味を抱いていました。この写 真では、原子の状態を描き出すために、八ルスマンは掎子や絵画、画架を ワイヤーで吊り下けました。そして 4 人のアシスタントを使って、 3 匹 の猫と八ケツに入った水を空中にぶちまけ、その間にダリも一緒に飛び 跳ねている、という情景を作り上けたのてす。「これだ」と思える一枚を撮 影することができるまで、なんと 26 回も撮影を繰り返したということで す。その結果、 20 世紀写真史に残る忘れがたい印象を与える作品ができ あがりました。 散乱というテーマは、《爆発するダリ》という写真でも取り上げられて います。ここでは、ダリの彦頁がトレイに入ったミルクに映し出されてお り、そこに石が投げ込まれます。タリの顔は、見る人を困惑させるよう な視覚感覚を与えつつ爆発していくように見えます。《死んだ頭部》や 《豹の頭蓋骨》は、ダリの偏執狂的・批判的方法が八ルスマンによって視 覚化されている例です。このような二重像の視覚効果を生み出すため に、八ルスマンはモテ丿レの体を支える足場を工夫しました。彼女たちの 裸体が、豹の頭部と正しい比率の形態をとることができなけれはならな かったからです。 八ルスマンは 1979 年に、またダリは 1989 年に亡くなりました。けれど も、ここに残されている写真によって、この二人の芸術家が分かち合っ た天才的な仕事は、永遠に私たちの心に刻みつけられることでしよう。 彼らのお互いのヴィジョンはあまりにもユニークでしたが、それがまた 互いにびったりと合っていたのです。そしてまた、これらの写真は、ダ リが選んだ媒体が何であれ、この芸術家が秘めていた天賦の才は常に自 らを表現することがてきたということの証でもあるのです。
、べックリンなど過去の巨匠の作品、またピカソ、ミロ、エルンスト、 テ・キリコ、タンギーなど同時代の画家の作品に触発されたものも多い が、しかしそれ以上に決定的なのは彼が生まれ育ったカタルー二ャ地方 ( 首都はノヾルセロナ ) の自然であり、風土である。より具体的には、生地 のフィゲラスであり、父の生地で、ダリが少年時代を過こしたカダケス であり、その近くのクレウス岬であり、ダリのアトリエのあったポルト・ リガトであり、またフィゲラスに接するアンプ丿レダン平野てある。これ らの土地がダリにとってもつ意味は、ピカソにとっての生地マラガ、ノヾ ルセロナ、ミロにとってのモントロイグ ( ミロが若い頃過こしたカタル ニャ地方の村 ) 、タンギーにとってのプルター二ュあるいはアフリカ をはるかに凌ぐものがある。ただし、描いた場所、モチーフを特定てき る、初期の比較的写実的な作品 ( cat. no. 6 ) は別として、シュルレアリス ム時代のダリにとってこれらの土地は、伝統的な意味での風景というに はほど遠く、むしろ現実と超現実、直視と幻視の入り交じる、一種の蜃気 楼に近いものであった。たとえばポ丿レト・リガト ( fig. 11 ) 。この鄙びた漁 村は今日ここを訪れる“常人”にとっては地中海の隠れ家的なサマー・リ ゾートに過きないが、ダリにとっては「地上でもっとも乾燥した鉱物的、 かっ、遊星的な場所」てあった。しかもここでのダリはガラとともに、ノヾ リやニューヨークにいる時の、センセーショナルな“お騒がせ人間”とは 生活だった。 ( ・・・・・・ ) 都会の光も、 ( 八リの ) ラ・ペー通りの宝石の輝きも、 とうていこの異質の光とは競い合うべくもなかった」 ( 25 : 331 ) 。 しかしカダケスよりも、ポルト・リガトよりも強力にダリの偏執狂的 なシュルレアリスム感覚に訴えたのは、カダケスにほど近いクレウス岬 であった。地中海にのぞむこの岬で採れるサンゴは、カダケスの重要な 財源のひとつであったが、何世紀にもわたる風雨や、塩分、砂を多分に含 んだトラムンターナ ( プロヴァンスのミストラルに相当する季節風で、 風速は時に時速 100km を超え、この風にまともに、、 touched " された [ 触 れられた ] 人はしばしば頭も“ touched " [ 気がふれる、おかしくなる ] と いう ) で穿たれた奇岩の数々は、「自然の中の視覚的な幻想劇場」 ( 15 : 36 ) と呼ぶにふさわしい。土地の漁師たちはそれぞれの岩にラクダ、ラ イオンの頭、鷲、女の死体など、思い思いの二ックネームを与えたが、幼 い頃から変身願望が強く、昆虫の擬態に強い関心を抱いていたダリにと って、見方次第でいかようにも姿を変える、イメージの魔術師ともいう べきこれらの岩 ( fig. 12 ) がダリのオプセッションとなり、彼を呪縛した ことは想像に難くない。「私にこんなにも大きな影響を与えた数々の 岩」、つまりクレウス岬とは、ダリによれば「ピレネー山脈が壮大な地質 学的譫妄状態で海へ落ちこんでいる、文字通り叙事詩的な地点」 ( 25 : 333 ) であり、同時にその奇岩の群はダリが賛美してやまなかった「ガウ ティの地中海的ゴシックの美学」の体現でもあった。 クレウス岬に触発されたダリの作品は少なくないが、たとえは《大自 漬者》 (fig 6 ) の眠る胎児のような奇妙な生物、有名な《記憶の固執 ( 柔ら かい時計 ) 》 ( 二ューヨーク近代美術館 ) の背景、あるいはこれまた有名な 1937 年の《眠り》 ( fig. 13 ) の眠っている人物そのものもここの岩 ( fig. 14 ) に触発されたものである。その他、 ( 出品作では ) 《器官と手》 ( cat. no 12 ) 、《降りてくる夜の影》 ( cat. no. 19 ) 、《子供である女の記憶》 ( cat. no 22 ) 、《無題》 (cat. n025) 、《秋のパズル》 ( cat. no. 29 ) 等々、ここの岩、ある いは場所との対応関係が曖昧ないし特定できない場合でも、クレウス岬 のメタモルフォーズと思われる作品は少なくない。 「風景とは心のありようである」という、スイスの作家アミエル ( 1821 ー 1881 ) の有名な言葉があるが、ダリの場合、故郷の風景は、たとえは「今に も泣き出しそうな空」といった言い方にあるような感情移入の場てはなく、 「遠くにありて思ふもの」でもなく、純粋な美的対象、自然美でもなく、むし ろ幼年時代にすでにきざしていた彼の目と精神の。。 a は er ego" 、、 'Doppel- g 節 ge 「 " ( 第二の自我、分身 ) であり、あるいは彼の意識下の世界のイメ ージを活性化する引き金のようなものであった。 ダリは幼くして死んだ同名の兄と自分を、レダとゼウスの間に生まれ figll ポルト・リガト風景 ( 右の木立に囲まれた建物がダリのアトリエ、筆者撮影 ) 別人のような質素で禁欲的とも言うべき制作三昧の日々であった。 「 ( ダリは ) 煙草も吸わず、麻薬もやらす、泊り歩いたりもせすに、常に 健康な生活を送った。 ( ・・・・・・ ) ガラと私は二人だけの生活をつづけた。 私たちは誰からも遠く離れていたばかりか、誰からも同じ距離を保って いた」 ( 25 : 324 ) 。 「ポルト・リガト。禁欲と孤立の生活。 ( ・・・・・・ ) だが、永遠の光に満ちた ・ 20
1940 年から 1948 年にわたるアメリカ滞在の間に描 かれたこの《新しい人間の誕生を見る地政学的子供》 は、ダリの古典期の始まりをしるす作品となりました。 これら古典期の作品のアイテアは、さまざまな方面か ら取り入れられています。例えはこの時代の事件。ス ペインの伝統。カトリックのシンボリズム。こうし たものが、シュルレアリスム期の作品における個人的 なシンホリズムと入れ替わったのです。 画面左中景の小さな二人の人物は、丿レネサンスの巨 匠ラファ工ロ ( 1483 ー 1520 ) の作品から採られていま す。これもダリの絵画の新しい方向を物語るもので しよう。またダリは 1943 年にこの作品を描きながら、 ちょっとした注意書きを書き入れました。そこには 「バラシュート、超誕生 (paranaissance) 、防御、円 38. 新しい人間の誕生を見る地政学的子供 1943 年 油彩、カンヴァス 44.5X52cm GeopoIiticus ChiId Watching the Birth of the New Man 1943 0 ⅱ on canvas 44.5X52cm ( 部分 ) 蓋、胎盤、カトリック、卵、地球のゆがみ、生物学的楕 ての重要性を夫いつつあることを示しているのてし 円。地理は歴史的萌芽においてその表情を変える」と よっ。 いった言葉が書かれています。 卵の下にある布は胎盤で、誕生を表わす卵から血が この作品は、カタルーニヤの亡命芸術家であるダリ 滲み出ています。画面右には両性具有の人物像。自 が新たに見いだしたアメリカの重要性を反映してい 分の足下にいる子供にむかって、生まれつつある男を ます。卵から姿を現しつつある男は、「新しき」国アメ 指さしています。この二人の人物像は新しい世代の リカから生まれようとしているのてす。当時アメリ 精神を表わしているのでしよう。画面下には子供の 力は、世界の新たなパワーとなりつつありました。 影のほうが長く伸び、やがて子供が旧い世代に取って の作品の地図ではアフリカと南アメリカが大きく描 代わることを示しています。 かれ、日毎に増大していく第三世界の重要性を表わし ています。その一方、ヨーロッパはこの男の手に握り つぶされています。ヨーロッノヾが国際的な勢力とし SurreaIism Paintings ・ 118
28. ジャワのマネキン 1934 年 油彩、カンヴァス 64X54Cm The Javanese Mannequin 1934 0 ⅱ on canvas 64X54Cm 《ジャワのマネキン》という題名は、この時代に現れた ダンスの一座と関連して付けられました。細長い肢 体は腐りはじめていますが、これはカってピカソが ( 骨 や骸骨の形て ) 実験的に用いたコンセプトを復活させ ようとしたものてもあるでしよう。また、ダリ自身の、 難破船の肋材のテーマのヴァージョンとも言える作 品て、す。 この作品には、腐っていく肉の宝石のような輝きと いうダリ独特のコンセプトが見られます。他の作品 と同じく、純粋にタリの無意識から生まれた非合理な イメージですが、その一方では、社会のテカダンスと いう 20 世紀の精神的潮流を反映した作品ともなって います。 ・ 96 SurreaIism Paintings
16. 大自濆者 1930 年 / ヾステル、糸氏 64.5X48.5cm 日 Gran Masturbateur 1930 pastel on paper 64.5X48.5cm タリの数少ないノヾステ丿レ作品の一点てす。鼻によっ て支えられ浜辺でうつむいている頭のような形は、ダ リの作品に繰り返し登場しますが、これはダリ自身の 「柔らかい」自画像てす。スペインのポルト・リガト近 くのクレロ湾で見られる岩石層に触発されて、この柔 らかそうな形が生まれたといわれています。このノヾ ステル作品の 1 年前に同じタイトルの油彩作品が描 かれていますが、ダリはその作品について、「異性愛に 対する不安の表現」であると語っています。 ・ 72 SurreaIism Paintings
が成熟期を迎えた時点において、シュルレアリスムの様式のなかに自す と発展していったとモース夫妻は考えている。ダリは偏執狂的・批判的 方法によって制作した手彩色の写真として、この関心を描出している。 レイノルズとエレノアのモース夫妻ほど、ダリとガラをよく知ってい る人々は世界にいないであろう。彼らほどさまざまな体験を共にし、親 密な時間を過こした人々はいない。モース夫妻によれば、「ガラはひと きわ優れた、しつかりしたロシア人でした。彼女は、私たちやダリを信 奉する他の人々すべては、「何かを欲しがって」いるのだといつも思って いました」という。そして「ダリの、多くの信奉者たちの評価に関して は、ガラはいつも正しかったのです。彼との親密さを利用しようとする 人々にダリはいつも囲まれていました。彼らは、私たちとダリの親しい 付き合いを非常に妬ましく思っていたのです」と語る。 ダリの作品を見た人を感動させる第一の特質は、彼の描写技術にある のかもしれない。初めてダリの作品をみた数多くの人は「ダリの芸術は 分からないけれど、彼の描写力は素晴らしいと思う」と口にするという が、モース夫妻によれば、これは最初の反応としては実際によくあるこ とだという。 1000 点以上もの工ッチングやリトクラフ、本の挿絵からなるダリ美術 館の収蔵品は、ダリの版画作品のコレクションの大部分を構成しており、 ペンを扱う彼の技術の高さを実証するものである。年代的には、 1934 年 に制作された彼の最初の工ッチング作品「マ丿レドロールの歌』から、現代に いたるまでの各時代の作例が含まれている。挿絵本は、「聖書」「神曲』 「ファウスト」「ドン・キホーテ』「シェイクスピア」など、目を見張るよう な限定版がある。 今日では、ダリの版画作品をめぐっては混同や議論が数多く起きてい る。こうした状況はダリ自身にも大きな責任がある。版画は労少なく して多大な畠をもたらす気楽な機会を提供してくれることに、 1950 年代 になってダリ自身が気づいてしまったからである。 この利益率の高い作品形式を次から次へと利用していったダリは、何 が制作されたのか、また作品の権利は誰にあるのかといった記録を残し ていなかった。ダリの「宮廷」の追従者の周辺で制作していたために、 うした側近のなかには版画の刊行の手配をする人々もいたのである。 こうして、後になって版画作品の真贋の判定が難しくなる状況が生まれ ていった。 映画、写真、彫刻、水彩、オペラやノヾレエの舞台装置。衣装や家具、宝飾 品、遊戯用のカード。ダリの創造的才能は、これらすべて ( そしておそら くもっとあるのだ I) を生み出してきた。事実、エレノアとレイノルズ のモース夫妻が長い年月にわたってダリに最も魅了されてきた要素の ひとつは、ダリの才能のこのような多様性であったのかもしれない。そ の結果、セント・ピーターズノヾーグのタリ美術館には、ありとあらゆるダ リの作品の驚くべき集積がコレクションとして所蔵されることになっ た。そして、この美術館は、美術を愛好する人々がここだけでしか味わ うことのてきない貴重な体験を提供する場となっているのである。 ・ 216
63. 精霊を崇める寓意的聖人と天使たち 1958 年 水彩、紙 100X74Cm AIIegoricaI Saint and AngeIs in Adoration of the Holy Spirit 1958 watercolor on paper 100X74Cm 薔薇に囲まれた鳩として表わされた聖霊を聖人と天 使が崇めている、象徴的な風景です。この作品には、 滲みの出る水彩を利用して濃淡の縞模様のなかに隠 されたイメージを生み出すダリの才能がいかんなく 発揮されています。淡彩を用いて、たつぶりと水分を 含ませた絵の具を素早く塗ることで天使の翼を形づ くる一方で、光が強く当たる部分では、細部まて丁寧 に描き上げています。ダリの形而上学的な世界に対 する関心と古典的な形態によせる彼の解釈との結び つきから、こ似乍品が生まれてきたといえるでしよう。 ・ 163 Drawings, WatercoIors, Pastels
クレウス岬を見晴るかすポルト・リガトの道 1922 ー 23 年 油彩、カンヴァス 61X71Cm The Lane to Port LIigat with View Of Cape Creus 1922 ー 23 0 ⅱ on canvas 61X71Cm この作品で、 18 歳の芸術家ダリは、本々に透ける光と 影の戯れを見事に描き出し、以前にもまして光の表現 に熟達したところを示しています。 ここに描かれているのは、カタケスからペ二山を越 えてポルト・リガトに至る曲がりくねった道の終わり 近くの風景です。から積みされた濃い青灰色の石壁 は今も残っていますが、花咲くアーモンドの木々は経 済的な事情から切り倒され、今はもう見られません。 クレウス岬はこの絵の遠景の焦点となっています。 何世紀にもわたって吹き寄せる潮風や雨で岩肌が削 りとられて生まれた奇怪な景観てす。この不思議の 国のような地形はダリの「精神風景」となり、イメージ の素材としてその後のダリの絵画に現れることにな ります。 ・ 48 Early Paintings
53. 馬 = 女 1933 年 インク、紙 52.8X37cm Femme-Cheval 1933 ink on paper 52.8x37cm 「二重像 ( 馬でありながら同時に女性でもあるイメー ジ ) は、偏執狂的な前進を続けながら拡大していく。 すると、別の力強い観念が現れ、三つめのイメージの 出現を促すだろう。これよ精神の偏執狂的な許容範 囲の度合いだけが限定づけることを可能にする、数多 くのイメージが生まれるまで続く」、とダリは 1930 年 に工ッセイ「腐った驢馬」のなかで書いています。 この作品ては、女性像の頭部と上半身が馬の本へと 変容しつつあります。馬のたてがみは女の髪と絡み 合い、女の両足はあまりにもかすかて、ほとんど消え ていきそうな感じです。馬の両脚も肉や筋肉を失っ て、化石化した骨だけになりつつあります。《ポルト・ リガトの風景のなかのシュ丿レレアリスム的人物》 (cat. no. 52 ) のドローイングと同じように、前景には骨が散 らはり、遠くにはダリと父親を表わす二つの小さな人 物が描かれています。 ・ 153 Drawings, WatercoIors, PasteIs