それぞれ印相の異なる仏が浮き彫りにされている。これは立体的マンダラとも呼ぶべきも のてあろう。この種の仏塔はカトマンドウ盆地には無数に見られる。また、カトマンドウ のスヴァャンプーナート仏塔は、その周囲に九つのくばみ ( 歙 ) があり、それぞれには金剛 界マンダラの五仏と四妃の像が収められている。 へいとう つまり、仏塔自体が立体的な金剛マンダラなのてある。この仏塔の上部 ( 平頭 ) には眼や 鼻が描かれていることから、この仏塔の寺は「目玉寺」の名て親しまれている。この眼や 鼻は仏のものてあり、仏塔全体が仏の坐っているすがたを表していると考えられている。 このようにして、かの仏塔は仏のすがたてもあり、大日如来を中心とする仏たちの世界て もある。そして、重要なことは、仏教タントリズムによれば、大日如来たちの世界はわれ われ人間たちの世界にほかならないことご。 宇宙がケシ粒大に 仏教タントリストたちは、マンダラというシンポルをもちいて、大日如来にほかならな 宇宙と自己、この二つの相反す い世界と自己とが同一てあることを直証する道を開いた。 る二つの極をつなぐ道筋は、この二者の相同性 ( ホモロジー ) てあった。 ひみつしゆえ マンダラはまさにこの相同生を可視化する試みてあった。あるマンダラ ( 秘密集会マンダラ ) タントリズム ( 密教 ) の出現 195
ももっていた。 は、サーンキャ哲学 ー・ー・世界の聖化ーーー 世界に肯定的な価値を与えること においては見られない考えてあった。 輪廻の中にあり、生と死の繰り返しにほかならない世界は否定されねばならない。無明 が消えさったとき、「否定さるべき俗なる」世界も消えさる、とシャンカラはい - フ。しかし、 単に世界が消え去って、人間が虚無の中に投げ出されるだけては、人間は救われない。否 定の果てに、何か良きものが人間を待っていてくれねばならない。 ここてシャンカラは、サーンキャの人々が懐かなかった望みを懐く。「われわれの住む世 界てあり、またわれわれにほかならないこの世界それ自体が、救済論的価値をもてばよい のに」と。世界もまたプラフマンの現れてあるとすれば、高次の明知によって最高プラフ マンに帰入する道が、この世界の中に見出されることてあろう。高次の明知は、自己と世 界とをまるごとプラフマンに帰入させてくれるてあろう。そうすれば、われわれは宇宙を まるごと一つの統一体として自己と一体化させ、プラフマンもアートマン ( 個我 ) も世界も 一つのものてある地点に到達てきるぞあろう。 す立、差別、分裂などは、この完全な解脱 てはおのずから消滅していよう。このような救済論的要求を満たすために、つまり、救済 論の地点からシャンカラは世界を逆算したのてある。 148
第一の項てある無明に依って ( を縁として ) 第二の行が成立し、第二の行に依って第三の識 が成立する。「あるもの 7 ) に依ってあるもの ( こが生ずる」というのが、縁起 ( 縁りて生 ずること ) の基本構造てある。 縁起説の眼目は、現象世界の成立や構造をプラフマンのような根本原理からてはなく、 世界の構成要素が相互に依存関係にあることを基本として説明することにあった。もっと 一切万有ということてはなく、 もブッダにとっての「世界」とは、すてに触れたように、 一人の人間が自らの感官によってとらえた心身てあり、いわば周囲世界てあった。世界は 自己にとっての世界てある。これは仏教がもち続けている態度なのてある。 常住なる根本原理が自己展開して世界が形成される、という展開説にブッダの説が属さ ないのはもちろんてはあるが、彼の説は一定数の恒常不変な構成要素の相互の関係によっ というのは、縁起の関係を て世界の形成・構造を説明するという一種の集合説てもない。 構成している項は、究極的には止滅すべきものだからだ。次の第 4 章て考察するように、 正統バラモンの哲学学派には、世界を不変の原子の集合として説明するものがあるが、そ の種の集合説と縁起説とは区別されねばならない。 十二支縁起の各項目を見てみよう。この説ては、第一の無明が原因となって第二の行が 生まれると考えられている。この段階ては、「世界」はまだ無規定なエネルギー量にすぎな
なった。紀元前一二五〇年ごろー一一五〇年ごろと推測されるカピラは、このような状况に対 応した哲学者の一人てあり、サーンキャ学派の祖と考えられる。この学派は他のインド哲 学の諸学派に先んじて、世界の成立と構造に関する理論を樹立した。 この学派は、因中有果論にもとづく展開説 ( 転変説 ) を主張した。 すてに述べたように、 つまり、「原質」 ( プラクリティ ) と呼ばれる根本物質が自己展開をしてこの現象世界となった という。この学派は、原質のほかに霊我 ( プルシャ ) という原理を立てるが、この原理はか の原質の自己展開を見守るのみてあり、自らは宇宙創造には関与しない このようにして、サーンキャ哲学においては、世界の素材としての自然と、精神として の霊我は分離されてしまった。ゥパニシャッドにおいてプラフマン ( あるいはアートマン ) に 属していた世界創造の力が、サーンキャ哲学ては原質すなわち自然にのみ属することにな ったのてある。そして一方の霊我は、「聖なるもの」としての価値は得たものの、宇宙精神 の資格を失ってしまった。 。芹ぐが、「聖なる」フラフマンとい - フ サーンキャ哲学は、ウバニシャッドの展開説は受ナ恍、 原因から「俗なる」世界が生まれるという考えは、おそらく宗教実践の体験から否定した。 プラフマンが世界の質料因ぞあり、同時に動力因てもあるゆえに、両者が限りなく同て というゥパニシャッドの考え方も否定した。サーンキャ学派の人々は、実践上の必 1 ろ 4
プロローグ・ 第ー章自己と宇宙の同一性を求めて・ 「自己」のすがたを考える : ・・ : 自己とはどこまでの範囲か : ・・ : 自 己の時間と宇宙の時間 : : : 自己と宇宙の同一性の経験 : : : イン ト精神史を区分する : ・・ : 正統と異端との抗争 : ・・ : ヒンドウイズ ムの制覇・・・・ : 世界という神 第 2 章汝はそれてある 目次 ヴェーダとウ。ハニシャッドの世界
自己と宇宙の同一性の経験 しかし、どのようにしてこの小さな個体が、巨大な宇宙と本来的に同一てあると知り得 るのか。どのような方法によって泡粒ほどの大きさのわれわれが、広大な宇宙と同じ大き さのものへと いたったことを感じ得るのか。また、われわれの短い生命が、想像すること もてきないほど永い宇宙の生命と本質的に同じてあると経験てきるのか。これがインド精 神史のテーマてあった。 もっとも、インドのすべての哲学学派や神話が、個体と宇宙との同一性に関して同じよ うな世界観 ( 宇宙観 ) をもっていたのてはない。宇宙あるいは世界と自己とをどのように考 えるかについて、インドの中てさまざまな理解があり、それらの間には激烈な論争が続い てきたのてある。とりわけ大きな相違は、よく知られているように、宇宙の実在性をめぐ っててあった。ヒンドウーの哲学者はおおむね宇宙の実在性を認めたのに対し、仏教徒の 多くは宇宙の実在性を認めなかった。 自己と宇宙の同一性の経験という、インド精神のめざす到達点に関しても、各学派や神 話的伝統は微妙に異なった立場をとっている。大きく分ければ、自己の中に宇宙を収めよ うとする立場と、宇宙の中へ自己を帰入させようとする立場との二つがある。 自己と宇宙の同一性を求めて
はないかと竜樹は主張する。 アビダルマの哲学者たちは、世界の構造を有限個の要素の特質と、その諸要素間の総体 によって示そうと努めたが、彼らにとって、実在的な宇宙原理あるいは絶対者の存在を否 定することはすてに済んてし 、こ。ただ彼らは、世界の構造を考察する過程て、もろもろの 構成要素を実在する「小さな絶対者」に仕上げてしまったのてある。これは構造を諸要素 に分解てきるのだと信じた結果てあった。 インド思想史上の一頂点としての『中論』 「エに依ってが生じ」、さらにととが、アビダルマ学派の人々が考えるようにそれぞ れ独立した実体てあると仮定してみよう。ならば、はエに依ることがなくても生ずるの てはなかろうか。工がもしも自己完結的に存在しているならば、他のもの ( ことの関係に あることは不必要だ。 縁起の関係にあるとは、縁起を構成している項 7 、等 ) が、独立した「堅いもの」て はなくて、それぞれの自体 ( 恒常不変の特質 ) を欠いた「柔らかなもの」てあってはじめて可 能てはないのか。 そもそも縁起のそれぞれの項は、止滅させられるべきものてあった。たしかにアビダル 110
本書は、インド哲学における「宇宙 ( 世界 ) と自己」の問題を主にし、いわゆる第三、四 期の哲学に焦点をあてて扱おうとしている。それは、「宇宙と自己」の問題をはじめとする インド哲学の核心の考究が、おおむねこの時期において深められたからてある。 自己と宇宙の同一性を求めて
「自己」のすがたを考える 自己とは何か。自己にはかたちもなく色もないと、われわれはふだん田 5 っている。しか し、あるいはもしかすると、自己はかたちや色があるものかもしれない。 + / し」し J われわれの周囲に見えたり聞こえたりする現象世界は「わたしてはよ、 一般には し」、ほ・ルし」 , フ . に」断 考えられている。が、眼前に存在する樹木や地面が「わたしてはない 一言てきるのだろうか 今、わたしはずいぶんと無茶なことをいっている。それはわかってはいるのだが、常識 から遠く離れたところから始めるのがインドの哲学にふさわしいことなのだ。 自己とは何か。われわれがそれを生活の中て考えるとき、途方もなく強大な圧力にあえ ぎ、今にもおしつぶされそうになっている小さな粒を想像するかもしれない。 一メートル 数十センチの高さの肉体をもつ人間が、オ ことえどのような権力をもとうとも、この宇宙全 体から見るならば、まったくとるに足らぬ小さな泡と同じほどにその個体は小さく、すぐ にも消えてしまう運命にある。 たか、インドの精神的伝統は、泡のように見える人間の一つの個体を、宇宙全体と比較 し得るものと老フえた。 つまり、本質的にはこの宇宙の根本原理と同一てあると主張してき
繝異常の構造 木村敏跖〈つきあい〉の心理学ー国分康孝① 心理・精神医学 自己分析 池見酉次郎 〈自立〉の心理学ーーーー国分康孝 ー・・ターー、ンツ。フ 人問の心のふしぎーー村松常雄自己実現の方法 石塚幸雄 国分康孝 の心理学 感情はいかにして 大木幸介自己コントロールーー成瀬悟策期チームワークの心理学ー国分康孝 っ′、、 -.0 ・れ ; 0 か 記憶力 原野広太郎弸フロイト 岩原信九郎コントロール 宮城立日弥訳 間記憶力を 原野広太郎躪甦るフロイト思想ー佐々木孝次 光不一一夫訳圏自己弛緩法 繝直観カ 新崎盛紀人問関係の心理学ー早坂泰次郎旒ュングの心理学ーー秋山さと子 集中力 山下富美代團ェロス的人問論 小此木啓吾ュングとオカルトー秋山さと子 性格 詫摩武俊眦秘密の心理 小此木啓吾 ュングの性格分析ー秋山さと子 ・・ルク . ロン 川性格分析 / 川捷之繝催眠のすべてー 秋山さと子 生月誠訳夢診断 人はなぜ悩むのか 岩井寛うその心理学 相場均タバコ 宮城音弥 1 天才ーーー・創造の ノイローゼ 宮城音弥異常の心理学 相場均 福島章 ー「んノ一フフィ 自閉症 玉井収介繝「誤り」の心理を読むー海保博之ミドルエイジ 稲村博 ーー森崇 うつ病の時代ーーー大原健士郎好きと嫌いの心理学ー詫摩武俊青春期内科診療ノート 自己不安の構造 石田春夫Ⅲ性と適性の 詫摩武俊躓ナルシズム 中西信男 セルフ・クライシスー石田春夫期「らしさ」の心理学ーーー・・福富護馴退却神経症 笠原嘉 9 「り」の自己分析ーー石田春夫「出会い」の心理学ーー都留春夫矚正常と異常のはざまーー森省一一 スレス 内山喜久雄Ⅲ集団の心理学 磯貝芳郎対人恐怖 内沼幸雄 ストレス 宮城音弥自己抑制と自己実現ー磯齦芳 5 森田療法 岩井寛バニックの心理 安倍北夫