ーンキャ哲学ては、「俗なるもの」の否定の果てに顕現する「聖なるもの」が観照者プルシ ヤとなったのてある。 深まる哲学的思↑「アタルヴァ・ヴェーダ』 『リグ・ヴェーダ』 は、インド・アーリア人の宗教思想、とくに権力をもった階層の宗教 思想を表している。『リグ・ヴェーダ』にすこし遅れて編纂された『アタルヴァ・ヴェーダ』 は、下層階級の崇拝形態や風習を伝える一方、当時人々が哲学的思索を進めていたことを も伝えている。現象世界を巨大な統一体の部分として理解しようとする努力が、『アタルヴ ア・ヴェーダ』には明白に見られるのてある。 たとえば、『アタルヴァ・ヴェーダ』の「支柱 ( スカンバ ) の歌」 ( 一〇・七ー八 ) は、生類の 主プラジャーパティ神が、世界柱としての支柱 ( スカンバ ) を、一切世界を固定するために 設けたという ( 一〇・七・七 ) 。その支柱のある部分は現象界に入り、他の部分は現象界を超 えている ( 一〇・七・九 ) 。この柱のイメージは、多くの民族の神話に共通に現れるものてあ り、「世界軸」 ( アクシス・ムンディ ) と呼ばれている。これらの軸が、人間と宇宙とを統一体 へと作りあげているのてある。また、原人プルシャとの類似点も明らかてある。 『アタルヴァ・ヴェーダ』のいう支柱は、地上に立てられた細い柱てはない。宇宙全体が
柱となっているのてある。大地がその柱の大きさを計る縄尺てあり、限りなく広がる空が 腹部て、その上に存する天を頭部としてもっ存在者がかの世界軸スカンバだとされる。こ の世界軸は、『リグ・ヴェーダ』の「原人の歌」におけるような一人の巨人のイメージをも っている。空を腹とし、天を頭とする巨人てある。『アタルヴァ・ヴェーダ』はそれを「最 高プラフマン」と呼ぶ ( 一〇・七・三一 I)O 世界の支柱としてのプラフマンは、これ以後、イ ンド哲学の根底的イメージとして今日にいたるまて存在し続ける。 ヴェーダ文献において「プラフマン」という語は、元来、呪力のあることばあるいはそ のカそのものを意味した。祭式において、呪文としてヴェーダのことばを唱えることによ り神々をも動かす力が生まれているという」 意味て、ヴェーダの讃歌、祝詞等も「プラフマ ン」と呼ばれた。儀礼中心主義をとるヴェーダの密教ては、神々にも命令を下すことのて きる呪力あることばは、宇宙の原理と考えられることになった。ヴェーダの祭式において つかさど 祭式を司った祭司は、「プラーフマナ」 ( プラフマンを有するもの ) と呼ばれた。彼らは、呪 文を専有する者てあり、 ハラモン僧、階層としてのバラモンの祖てある。 梵書と森林書の出現 『アタルヴァ・ヴェーダ』よりほんのわずか先行して編纂された『ヤジュル・ヴェーダ』 汝はそれてある一一 - ヴェーダとウバニシャッドの世界
ハラモン僧による祭式の執行の規則、およびその時にもちいられるべき祝詞の集成て ある。神への讃歌『リグ・ヴェーダ』、その抜粋というべき『サーマ・ヴェーダ』、祭詞の 書『ヤジュル・ヴェーダ』そして『アタルヴァ・ヴェーダ』の四つのヴェーダを、「サンヒ ター」 ( 本集 ) と呼ぶ。これらが主として讃歌や祝詞を主内容としているのに対して、宇宙原 理プラフマン ( 梵 ) の解釈やヴェーダ祭式の規定に関する解釈にもつばら関わる経典類が現 ぼんしょ れた。梵書 ( プラーフマナ ) てある。この場合の「プラーフマナ」は、プラフマンに関する書 を意味する。これに続いて「森林書」 ( アーラニャカ ) と呼ばれる経典群も現れた。これは難 解な秘儀を語るものてあり、その呪術的効果のゆえに危険な性格をもっていて、一般社会 から隔離された森林の中て伝授、学習されるべき経典とされた。 ヴェーダ本集 ( サンヒター ) 、梵書、森林書は、それぞれのヴェーダごとにセットとして伝 承された。たとえば、『リグ・ヴェーダ』に属する『アイタレーヤ梵書』に、『アイタレー ャ森林書』が連続している。『リグ・ヴェーダ』には第二の梵書の伝統『カウシータキ梵書』 があり、この梵書の終わりは『カウシータキ森林書』となっている、という具合てある。 従来、梵書や森林書は思想的には見るべきものがないという評価をしばしば受けてきた。 しかし、インド哲学はこの梵書と森林書の時代を母体として育ったのてあり、この時期を 経たからこそ、次のウ。ハニシャッドの時期を迎えることがてきたのてある。
たカ数千年の歴史 シャンカラやラーマーヌジャのような哲学者はいないように田 5 える。ご、、。、 がインドの人々の中に生きていることは、わずかな期間インドを旅行する者にても感じら れる。 世界に内在する「神」 インドの精神史を六期に分けてその時代の精神の特質を見てきたが、インドの全精神史 を通じていい得ることは、インドが世界から超越した創造者の存在を認めなかったことて ある。インドは、世界の根本原理あるいは究極的存在としての神を、世界の中に、または 世界そのものに求めてきたのてある。 第一期「インダス文明」はしばらくおくとして、第二期「ヴェーダとウバニシャッド」 において、われわれはそのような傾向をはっきりと見ることがてきる。『リグ・ヴェーダ』 の「宇宙開闢の歌」ては、「唯一のもの」が展開してこの世界となると述べられており、同 じく『リグ・ヴェーダ』の「原人歌」ては、原人 ( プルシャ ) の上部四分の三が本質界てあ 、下部四分の一が現象界てあるといわれている。 『リグ・ヴェーダ』に続いて編纂された『アタルヴァ・ヴェーダ』においても、世界の中 心あるいは「宇宙軸」としての巨大な柱 ( スカンバ ) が述べられており、この柱と宇宙原理 209 世界の聖化の歴史
仏教においても膨大な数のタントラ経典が著された。 タントラは、儀礼やシンポリズムの要素を多分に含んだ宗教形態てあるが、そのような 要素はすてにヴェーダに確かに含まれている。タントリズムの重要な要素てあるマントラ ( 真一 = 〔 ) は、明らかにヴェーダにおけるマントラを継承したものてあろうし、ヴェーダ祭式に 見られるエローティックな所作とそのシンポリズムは、タントリズムのそれを先取りして しるし」見るこし」かて、さよ - フ。 このような視点からみて、タントリズムの始まりが、ヴェーダ、とくに呪術的要素を多 く含む『アタルヴァ・ヴェーダ』にすてに存在すると指摘する研究者は多い。しかし、狭 義のタントリズムが有力な思想・宗教形態として全インドに勢力を得るのは、紀元七、八 世紀以降てある。そして、この思想・宗教形態は、今日にいたるまてインドおよびその周 辺の地域において存続している。 タントリズムは、汎インド的な宗教・思想運動てあり、仏教、ヒンドウイズム、ジャイ ナ教など、それぞれの宗教にタントリズムの要素を強く含んだ部派あるいは宗派が存在す る。それぞれをここては「仏教タントリズム」、「ヒンドウー・タントリズム」、「ジャイナ・ タントリズム」と呼ぶことにしこい。 ヒンドウイズムにおいても、仏教においても、タントリズムの要素を強くもった部派と、 168
・ : 三 000 年前の、神への讃歌「リ インドの「希求する心」・ ・「プルシャの歌」・ ・「宇宙開闢の歌」・ グ・ヴェーダ」・ 深まる哲学的思索ー「アタルヴァ・ヴェーダ」 : : : 梵書と森 林書の出現 : : : 聖典ゥパニシャッドの誕生 : : : ウ。ハニシャッド の基本思想 : : : 万物はプラフマンである : : : 物にしてエネルギ : プラフマンとアートマン : : : 麦粒よりも小さく、世界よ アートマン原理の導入 : : : わたしの心臓の内部 . り・も大い のアートマンこそ 第 3 章仏教誕生ーブッダからアビダルマへ・ : ブッダ 非正統派としての仏教 : : : 宇宙も自我も存在しない : の縁起説 : : : 自己否定の果てに現れる「聖なるもの」・ ダルマの思想運動 : : : アビダルマの縁起説
うに、自らの思想体系をヴェーダの伝統の終局として位置づけている。この場合の「ヴェ ータ」という語は、広義にもちいられている。一般にヴェーダ聖典は、祭記を説く祭事部 宇宙の根本原理に関する哲学などを説く知識部とに二分されるが、前者にはヴェーダ 本集 ( 狭義のヴェーダ ) やプラーフマナ ( 梵書 ) が、後者には主としてウバニシャッドが属す る。ヴェーダーンタ学派は、知識部のヴェーダ、すなわちゥパニシャッドの思想を新しい 時代 ( 第三期後半 ) の状況の中て解釈し直そうとした。 ゥパニシャッドの哲人たち、たとえば、ウッダーラカは、プラフマンが宇宙 ( 世界 ) の原 パリナーマ・ヴァーダ ) 因てあり、世界はその結果と考えご。 オこれは、一種の展開説 ( 転変説、 てあり、唯一無二の実在たるプラフマンからこの世界が生まれ出てくるという考え方てあ る。しかし、ウバニシャッドにおけるプラフマンと現象世界との関係に関する考察は充分 なものてはなく、詳細な考察は後世の哲学者たちの手にゆだねられた。 世界成立・構造論の祖、サーンキャ哲学 ゥパニシャッドの後、宇宙の根本原理と世界のド題 ( 引ことりくんだ学派として、まずサー ンキャ学派がある。第三期 ( 紀元前五〇〇年ごろー紀元後六〇〇年ごろ ) に入ると、自然に関する 認識の発達にともない、 世界の成立と構造に関する統一的な知識体系が求められるように バラモン哲学の展開ーー - ヴェーダーンタ哲学 1 5 5
しゆくし 神々を天から地上に呼ぶための祝詞を、儀式においてうたう 彼らが後世、バラモン僧階級へと成長していくのてある。 アーリア人の田 5 想は、儀式においてうたわれた祝詞からうかがい知ることがてきる。そ うした祝詞を集めたもののうち、もっとも古いものが『リグ・ヴェーダ』てある。かって、 おそらくは途方もない量の祝詞が存在したのてあろうが、今日われわれに伝えられている 『リグ・ヴェーダ』の量は、『源氏物語』より幾分少な目てある。 『リグ・ヴェータ』 は、神々への讃歌集の性格をもっており、英雄神インドラ、火神アグ は、紀元前一二世紀ごろ ニなどに捧げられた歌がその主要部分をなす。『リグ・ヴェーダ』 へんさん から紀元前九世紀ごろまての間に編纂されたと考えられているが、そのうち、宇宙創造に 関する讃歌のほとんどは編纂末期のものてある。 「宇宙開闢の歌」 『リグ・ヴェーダ』に含まれる一〇点近い宇宙創造に関する讃歌 ( 紀元前一〇ー九世紀の成立 ) かいびやく のうち、「宇宙開闢の歌」 ( 一〇・一二九 ) は次のようにうたう。 一、そのとき ( 宇宙始原のとき ) 無もなく、有もなかった。 空界もなく、その上の天もなか 手集団が現れた 職業的歌い 汝はそれてある - ーーーヴェーダとウバニシャッドの世界
られはじめた。ヴァイシェーシカ学派やニャーヤ学派よりも時代的には先行して発展して たサーンキャ哲学も、これら自然哲学や論理学との討論の中て、自らの学説をさらに発 とくにウバニシャッドが説く世界の根 展させた。そうした時代にあって、ヴェーダ聖典、 本原因や世界構造について、時代に適応した新しい解釈を行おうとしたのが、ヴェーダー ンタ学派てある。 ウ。ハニシャッドの精神を復活させる プラフマンは世界の原因てあり、この世界は結果てあり、しかも世界はプラフマンてあ めいもう たか、この迷妄に満ちた世界がプラフマンてあると、 るとウバニシャッドはい , フ。 して訒 2 めることがてきょ , フ。ブラフマンはむ的なものてあるとウバニシャッドはい - フ。 が、心的なものからこの物的な世界がどのようにして生ずるのか。サーンキャ学派は、精 いに答えようとした。ヴェータ 神 ( 霊我 ) と根本物質とを切り離すことによってこれらの ーンタ学派は、しかし、ウバニシャッドの精神をそのまま引き継ご , フとする。 サーンキャの二元論に対して、ヴェーダーンタ学派は一元論の立場を守る。つまり、プ ラフマンと世界という二つのものを統一体として理解しようとする。ゥパニシャッドの哲 人たちにとって、この現象世界は「否定さるべき俗なるもの」てはなかった。現象世界の 1 ろ 6
ジュル・ヴェーダ』、ウバニシャッド経典、さらにはインド哲学の中のもっとも基本的な哲 学学派てあるサーンキャ学派へと受け継がれてい 前述のように、 『リグ・ヴェーダ』の「プルシャの歌」ては、プルシャと現象世界との区 別は限りなく近く、世界がプルシャてあるとか、少なくともプルシャの部分てあるという ことがてきた。ところが後に、原理としてのプルシャと現象世界の素材との間に限りなく たとえばサーンキャ哲学におけるように、現象世界は原質 ( プラ 大きな区別を置く考え方、 クリティ ) の展開てあり、プルシャ ( 霊我 ) はその原質の展開には関わらない存在てあるとい う考え方も現れた この原質の展開は、サーンキャ哲学の主張ては「俗なるもの」てあり、精神的至福 ( ニヒ シュレーヤサ ) を得るためには否定されるべきものてある。その「俗なるもの」の否定の果て に約束されているものが、「聖なるもの」としてのプルシャてあるとされ、両者は対極にま ぞ遠ざけられた。 『リグ・ヴェーダ』にあっては、哲学的な意味ての精神的至福の獲得はまだ問題となって おらず、宗教行為の目的は天界に行くことや、もろもろの現世利益てあった。「プルシャの 歌」におけるプルシャは、現象世界を構成する質料 ( 材料 ) てあり、サーンキャ哲学におけ る原質 ( プラクリティ ) に相当する。時代が下って、個人の精神的救済が主要関心事だったサ 汝はそれてある一一ヴェーダとウバニシャッドの世界