根本経典『プラフマ・スートラ』 『プラフマ・スートラ』は、四編に分かれ、それぞれの編が四章に分かれている。つまり この聖典は、一六の部分に分かれるが、古代インドては一六 / という数は特別な意味をもっ ており、その伝統を受け継いているのてあろう。『プラフマ・スートラ』には五五五の経句 ( スートラ ) があり、各章の主題にしたがって配分されている。 一〉 ( 第一編第一章スートラ一 ) は「さて 第一編第一章一ー一九は、総論てある。〈一 ミーマーンサー ) を始めよう〕」という。プラフマンの探究、これ これよりプラフマン〔の探究 ( こそがこの聖典の、ひいてはヴェーダーンタ学派の中心課題てある。この学派は、「プラフ マ・ミーマーンサー」 ( プラフマン研究学派 ) とも呼ばれる。この場合の「ミーマーンサー」と いう語は、祭式に関する学的体系を追究する学派としてのミーマーンサーという名称とは 区別されるべきてある。 続いて、『ブラフマ・スートラ』〈一 ・二〉は「〔プラフマンは〕この〔世界の〕生起な ど〔すなわち、生起、存続、消滅〕が起きる源てある」という。これはシャンカラやラーマ ヌジャがそれぞれの注釈書て述べるように、『ターイッティリーヤ・ウバニシャッド』 ( 三・ 一、本書四九ページ参照 ) に依拠している。この経句も、『プラフマ・スートラ』の主題を語る リ 8
・三・四一一 l) というように、アートマンの明白な規定とア 我はプラフマンの〕部分ぞある」 ( 二 ートマン、プラフマンの関係が語られる。 『プラフマ・スートラ』第三編ては、輪廻 ( 第一章 ) 、個我 ( アートマン ) と最高我 ( プラフマン ) との関係 ( 第一一章 ) 、念想 ( 第三章 ) 、修道論 ( 第四章 ) が扱われる。第四編ては、念想の実修法 と善悪の業と解脱との関係 ( 第一章 ) 、知者の死 ( 第一一章 ) 、知者の死後の世界 ( 第三章 ) 、解脱 ( 第四章 ) が扱われている。 『プラフマ・スートラ』の最後は解脱論て終わっている。解脱した個我は、最高我プラフ マンと「無区別に〔存在する〕」 ( 四・四・四 ) といわれるが、この状態がどのようなものてあ 解脱した個我が身体や器 るかについては、『プラフマ・スートラ』の記述は明確てはない。 官をもっかどうかについても、さまざまな伝統的な説を引用するにとどまっている。解脱 者の状態についての詳細な考察、観察は、後世の注釈者たちの解釈をまっことになるのて ある。 フラフマンと世界とはど , フいう関係にあるか 『プラフマ・スートラ』に対し、後世のヴェーダーンタ学派の田 5 想家たちは、それぞれの 立場から注釈した。伝統を重んするインドては、独立の著作が書かれることもあったが、 141 バラモン哲学の展開ーーヴェーダーンタ哲学
それぞれの学派の根本聖典に対する注釈の中て、各思想家の立場が主張される場合が多か っこ。『プラフマ・スートラ』の場合もまさにそうてある。『プラフマ・スートラ』の注釈 の歴史が、ヴェーダーンタ哲学の歴史てある、といっても過一言てはない。 『プラフマ・スートラ』に対する数多くの注釈のうち、現存する最古のものはシャンカラ ( 八世紀前半 ) による注釈てある。彼はインド最大の哲学者といわれ、ヴェーダーンタ哲学を 代表する人物てあった。そして、われわれのいうインド精神史の第四期末期 ( こ、もう一人 のヴェーダーンタ学派の巨大な思想家が現れた。ラーマーヌジャ ( 一一世紀前葉ー一一三七年 ) てある。彼は『プラフマ・スートラ』に対する注『聖注』 ( シュリー・ ーシュャ ) を著した。 彼はシャンカラと並び称せられるほど重要な思想家てあるが、彼の立場は、同じヴェーダ ンタの立場に立ちながらも、シャンカラの立場には批判的てあった。 この後も、数多くの思想家たちがそれぞれの立場に立って『プラフマ・スートラ』の注 釈を著しながら、傾向の微妙に異なるヴェーダーンタ哲学の分派をかたちづくった。その 中ても、マドヴァ ( 一一九九年ー一二七八年 ) は『スートラ・ ーシュャ』を著し、シャンカ ラともラーマーヌジャとも異なる立場を日疋唱した。 このように、ヴェーダーンタ学派の内部てもさまざまな学説が提唱されたが、この学派 の人々は一致してプラフマンの実在性を主張した。この学派間の相違は主として、プラフ 142
ものてある。 たが、プラフマンが世界の原因てあることは、、。 し力にして知られるのか。『プラフマ・ス ・三 ) は、「〔それは〕聖典が根拠てあるから」という。この「聖典」は、主 としてウバニシャッドを指している。それては、聖典がプラフマンを知るための根拠たる ことは、どのようにして知られるのか。『プラフマ・スートラ』 ( 一・一・四 ) は、「それは〔も ろもろの聖典がプラフマンを説くものてあることに 〕一致しているから」と答える。 要するに、世界の生起等の原因はプラフマンてあるが、それはウバニシャッドから知ら とくに重要なひとまとまりのもの れる、というのてある。冒頭の四つのスートラは古来、 として扱われてきた。 次に『プラフマ・スートラ』は、サーンキャ学派の主張する根本物質 ( 原質 ) は、その根 拠を聖典に見出すことはてきないという ( 一 ・一・五ー一一 ) 。この経 ( スートラ ) の他学派に 対する批判の中心は、サーンキャ哲学に向けられている。それは、サーンキャ哲学がヴェ ーダーンタ哲学よりもっとも遠く離れているためてはなく、むしろ近い存在だからだ。サ ーンキャの二元論的な展開説を批判し、一元論的な展開説を打ちたてようとしたのが、ヴ エーダーンタ学派なのてある。 バラモン哲学の展開ーー - ヴェーダーンタ哲学 159
れている。したがって、マドヴァにおける物質世界、霊魂、神の関係は、図におけるよ うに示すことかてきよう 以上、『プラフマ・スートラ』、シャンカラ、ラーマーヌジャ、さらにマドヴァというよ 時代を追ってヴェーダーンタの思想を見てきた。ヴェーダーンタの歴史は、プラフ マンという宇宙原理から現象世界と個我の成立を一元論的に説明しようとする伝統といえ よう。時代が下るにしたがって、世界と個我が自らの実在性を主張するのてあるが、その ような歴史的状況を反映しつつ、ヴェーダーンタ学派の人々は、一貫してプラフマンの実 在性を主張し、物質世界と個我とがプラフマンによって「聖化されたもの」てあることを 認めてきた。 しかし、ヴェーダーンタ哲学の歴史は、マドヴァ以後は根本的な展開をすることなく今 日にいたっているように田 5 われる。今日のわれわれがヴェーダーンタ哲学から学ぶ最大の ことは、やはりこの世界全体が「聖なるもの」のすがたてあるという彼らの主張だと思わ れる。 164
プラフマンとアートマンは同一ではない 総論の最後 ( 一・一・ 一二ー一九 ) において、『プラフマ・スートラ』は、プラフマンと個我 ( アートマン ) とがまったくの同一てはない、 という。プラフマンとアートマンとが本来は同 一のものてあることは、ウバニシャッドの究極的な主張てあり、ヴェーダーンタ学派はそ れを受け継いている。だが、ヴェーダーンタの人々が直面した状况は、彼らをして単に「同 一てある」と繰り返すことを許さなかった。『プラフマ・スートラ』は、宇宙原理プラフマ ンと個我アートマンとが、異なるものてあることをまず出発点として設定した上て、究極 的には両者が同一てあることを弁証しようとする。この総論の後、第一編のほとんどの部 分が、『チャーンドーグヤ・ウバニシャッド』等のウバニシャッドの個々の箇所についての 考察にあてられている。 第二編第一章は、サーンキャ学派からの批判に対する回答、第二章はサーンキャ、ヴァ イシェーシカ、仏教、ジャイナ教などの学説に対する批判てある。第三章は世界の成立過 程を論じ、プラフマンより空↓風↓火↓水↓地という順序て世界構成要素が生ずるさまを 説く。さらに、構成要素がプラフマンに帰入することが述べられた後、「アートマンは〔生 起し〕ない。 ( 中略 ) それは常住てあるから」 ( 二 ・三・一七 ) 、「〔アートマンは〕知者 ( 知る作用を もつ者 ) てある」 ( 二 ・三・一八 ) 、さらに「〔アートマンは〕行為者てある」 ( 二・ 140
・ : 世親と唯識思想 : : : 世界とは自己である : ・・ : アーラヤ識の 特質 : : : 宗教理論の典型としての如来蔵思想 第 6 章バラモン哲学の展開ーヴェーダーンタ哲学 宇宙原理プラフマンの再評価 : : : 世界成立・構造論の祖、サー ンキャ哲学 : : : ウ。ハニシャッドの精神を復活させる : : : 根本経 : プラフマンとアートマンは同一 典「プラフマ・スートラ』・ ではない : : プラフマンと世界とはどういう関係にあるか : シャンカラの哲学ー世界はプ 「仮面の仏教徒」シャンカラ : ラフマンの仮現である : : : 世界は、また人間は救われるべきで ある : ・ : ラーマーヌジャの神学 : ・・ : 世界も霊魂も実在する : ・ 欲ばりな学説 : : : 三組の対概念 : : : 神とプラフマンとが合致す る : : ラーマーメジャにおける実体と属性 : : : マドヴァにおけ る世界とプラフマン
全体あるいはその部分は、プラフマンの力あるいは輝きを具現するものてあった。哲人た ちはプラフマンの秘儀を説くときに、その例として眼の前にある壺やイチジクを手に取れ ばよかった。深い瞑想から起きた聖者が、弟子に教えを授けるときに見渡す樹木や大地が 「世界」なのてあった。 だが、時代が下ったヴェーダーンタの人々、さらには他の哲学学派の人々にとって、現 象世界はすてに「汚れ」たものぞあった。それは「プラフマンにほかならない」と考える にしても、何らかの否定的契機なくしては受け入れることのてきないものとなっていた。 また、この時代の人々にとって、すてに世界は個我の立場から観察された世界てあって、 個我あるいは自己の変革の要求と世界観とは密接に結びついていた。自己とそれにつなが る世界の聖化という課題が、意識にのばりはじめていたのてある。 ヴェーダーンタ学派の基礎は、ヾ ノーダラーヤナ ( 紀元前一世紀 ) によって築かれたと推定さ れる。ゥパニシャッド聖典の編纂が一応終わった後、聖典の語句に統一的な解釈を下そう 彼よとくにプラフマンと世界との関係 と努めた人々が現れたが、彼もその一人てあった。 , ー に関心があったと思われる。後に彼の学説に手が加えられ、他の学説、解釈も整理されて、 紀元後四〇〇年ごろー四五〇年ごろに現在の形の『プラフマ・スートラ』がてきあがった。 これがヴェーダーンタ学派の根本経典となったのてある。 バラモン哲学の展開ーーヴェーダーンタ哲学 1 ろ 7
極的に関わることはなかった。彼の描いた人間像は、都会人のそれよりも農村におけるヾ ラモンのそれてあったことが彼の著作から知られる。 とはいえ、彼の時代はすてにウバニシャッドの時代とは異なっていた。仏教やジャイナ 教の非バラモン哲学は、世界構造論、認識論、論理学の体系を彼の時代まてには完成させ ており、正統バラモンの六派哲学も、それぞれの体系を一応確立させていた。シャンカラ の使命は、そのような状況の中て、仏教哲学などの先行する哲学体系から吸収てきるとこ ろは吸収し、プラフマンと世界と解脱に関する統一的理論を打ち出すことてあった。 シャンカラは、『プラフマ・スートラ』に依拠しながらも、そこにはなかった、あるいは た。もっとも、それらの くつかの考え方を自らの体系の中にとり入れ 明白てはなかったい 多くは、バルトリプラバンチャ ( 五五〇年ごろ ) やガウタハーダ ( 六四〇年ー六九〇年ごろ ) など の初期のヴェーダーンタの思想家、さらには仏教の思想家などから影響を受けたものてあ ったが。シャンカラが仏教からも多くの影響を受けており、「仮面の仏教徒」と呼ばれたこ とはよく知られている。 シャンカラは二種類のプラフマン、すなわち「最高の」 ( パラマ ) プラフマンと、それ以外 の「低次の」 ( アパラ ) プラフマンとを区別する。前者は、究極的実在てあり、部分をもたす、 いかなる属性をももっていない。後者は、属生をもっており、形 不変化て、永遠てあり、 144
オい」とラーマーヌジャは批判したのてある ( ラダクリシュナン ) 。「あ シャの説ては明確てはよ いまいさ」への批判は、信仰論の立場から、神の存在のあいまいさへの批判としても行わ れたのてあった。 ャーダヴァプラカーシャのもとを去った後、ラーマーヌジャはペーリアナンビ師のもと たウ て学びながら、当時、南インドて勢力のあったヴィシュヌ崇拝の影響を強く受け ーダーンタ哲学と、ヴィシュヌ崇拝がラーマーヌジャの思想をかたちづくる二本の柱とな 彼の数多くの著作の中て、『プラフマ・スートラ』に対する注てある『聖注』 ( シュリー ーシュャ ) と、ヒンドウー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』 ( 神の歌 ) に対する注との二 作が重要だ。この二つの著作は、今述べたラーマーヌジャの思想の二本の軸をそれぞれ代 表する。 「聖注」という名称が今日まて一般にもちいられてきたという事実は、ラーマーヌジャの 『プラフマ・スートラ』解釈が、後世のインド人たちに権威あるものとして受け入れられて きたことを示している。彼の『ヾガヴァッド・キーター』に対する注は、さらに多くの人々 に愛読されてきた。「バガヴァッド」とは、恵み ( バガ ) を垂れるもの ( ヴァッド ) 、すなわち、 神を意味するが、 、ハガヴァッド・ギーター』の神は、ヴィシュヌてある。 150