ラーマーヌジャ - みる会図書館


検索対象: はじめてのインド哲学
21件見つかりました。

1. はじめてのインド哲学

なったカテゴリーの名のもとに呼ばれることは、ヴァイシェーシカ哲学においてはない。 また、ヴァイシェーシカ哲学においては、認識は我 ( アートマン ) に存する属性てあるが、ラ ーマーヌジャは、知識を、伸縮作用という属性をもつものてあるという理由によって「実 体」とも呼ぶ。このようにラーマーヌジャにあっては、「実体」と「非実体」 ( あるいは「属性」 ) 「法」と「有法」における相関的な関係と同 は、一定不変のカテゴリーを指すのてはなく、 じような関係のものとしてとらえられている。 ラーマーヌジャにおける実体と属性 ラーマーヌジャの哲学にあっては、世界はそれ自身の中に実体と非実体 ( 属性 ) を含みな がら、全体としては神の属性となる。神は実体てあり、常住なるものてある。霊魂 ( アート マン ) も神の属性てあるが、シャンカラにおけるように、解脱においてプラフマンに溶け入 ってしまうのてはない。 世界と霊魂は、神あるいはプラフマンの実在性に次ぐ実在性をも っている。 世界、霊魂、神およびプラフマンは、それぞれ度の異なる実在性を主張しながら、一つ の構築物となる。しかし、それは、ヴァイシェーシカ哲学におけるような、世界の構成要 素が明確に区別、分離されているモービルのようなものてはなく、「石の上に粘土を積みあ バラモン哲学の展開ーーーヴェーダーンタ哲学 い 9

2. はじめてのインド哲学

ラーマーメジャの神学 彼の生年に関し ラーマーヌジャは、南インドのカーンチープラの近くの村に生まれた。 , ては、一〇一七年、一〇五〇年、一〇五五年の異説があるが、没年は一一三七年と伝えら れている。彼は、ヤーダヴァプラカーシャのもとてヴェーダーンタ哲学を学んだが、この 師の学説に従うことはてきなかった。後に彼はこの師のもとを去るのてあるが、ヤータヴ アプラカーシャの哲学に対する批判が、結局はラーマーヌジャの終生の哲学的態度となっ ャーダヴァプラカーシャは、プラフマンが精神、物質、および神の三者となったという 「プラフマン展開説」を唱えた。しかし彼の学説ては、プラフマンとそれから展開した三者 との関係、およびかの三者間の関係が明らかてなかった。というよりも、プラフマンと、 精神や物質というすがたをとる現象世界との間に、明確な区別を認めないことこそャーダ ヴァプラカーシャの学説の特徴てあった。彼の学説が、「差別無差別論」 ( べーダ・アベーダ・ ヴァーダ ) と呼ばれる以ぞある。つまり、プラフマンと世界には、差別があると同時に差 別かないというのてある。 この「あいまいさ」をラーマーヌジャは受け入れることがてきなかった。「神のカ ( シャ クティ ) 、霊魂、物質と、それらの基礎 ( シャクティの基体 ) との関係が、ヤーダヴァプラカー 149 バラモン哲学の展開ーー - ヴェーダーンタ哲学

3. はじめてのインド哲学

叙事詩『マハ ーラタ』の中て、百王子方と五王子方との戦いの直前 、五王子の第 二王子アルジュナに神ヴィシュヌが語る言葉が『バガヴァッド・ギーター』てあるが、こ ジュニヤ 1 ナ カルマン こてヴィシュヌは、アルジュナの戦車の御者クリシュナとして、知識の道、行為の道、お バク一アイ よび献信の道の統一をアルジュナに勧める。 主知主義を唱えたシャンカラは、彼の『バガヴァッド・ギーター』注の中て知識を重視 、こ。ンヤンカラは自ら したが、ラーマーヌジャはむしろ行為の道と献信の道に重きを置し が置かれていた状況の中ぞ『プラフマ・スートラ』を解釈しようとしたが、ラーマーヌジ ャもまた、新しい状況の中てかの経典を解釈したのぞある。 世界も霊魂も実在する この二人の思想家が置かれていた状況は、かなり異なっていた。シャンカラは、現象世 界を無知によっててきた幻のようなものと規定することの許された、いわばなお古代的な 時代に生きていた。 一方、ラーマーヌジャの時代は、少なくともシャンカラにおける場合 のようには、世界を無知による産物と考えることを許さなかった。彼の時代は、人間たち のさまざまな行為、すなわち農耕などの生産行為、出産等の生理的行為、通過儀礼や供養 などの宗教行為に対して、程度の違いはあるにせよ、シャンカラの時代よりは肯定的、積 バラモン哲学の展開・一一ヴェーダーンタ哲学 1 5 1

4. はじめてのインド哲学

・ : 世親と唯識思想 : : : 世界とは自己である : ・・ : アーラヤ識の 特質 : : : 宗教理論の典型としての如来蔵思想 第 6 章バラモン哲学の展開ーヴェーダーンタ哲学 宇宙原理プラフマンの再評価 : : : 世界成立・構造論の祖、サー ンキャ哲学 : : : ウ。ハニシャッドの精神を復活させる : : : 根本経 : プラフマンとアートマンは同一 典「プラフマ・スートラ』・ ではない : : プラフマンと世界とはどういう関係にあるか : シャンカラの哲学ー世界はプ 「仮面の仏教徒」シャンカラ : ラフマンの仮現である : : : 世界は、また人間は救われるべきで ある : ・ : ラーマーヌジャの神学 : ・・ : 世界も霊魂も実在する : ・ 欲ばりな学説 : : : 三組の対概念 : : : 神とプラフマンとが合致す る : : ラーマーメジャにおける実体と属性 : : : マドヴァにおけ る世界とプラフマン

5. はじめてのインド哲学

オい」とラーマーヌジャは批判したのてある ( ラダクリシュナン ) 。「あ シャの説ては明確てはよ いまいさ」への批判は、信仰論の立場から、神の存在のあいまいさへの批判としても行わ れたのてあった。 ャーダヴァプラカーシャのもとを去った後、ラーマーヌジャはペーリアナンビ師のもと たウ て学びながら、当時、南インドて勢力のあったヴィシュヌ崇拝の影響を強く受け ーダーンタ哲学と、ヴィシュヌ崇拝がラーマーヌジャの思想をかたちづくる二本の柱とな 彼の数多くの著作の中て、『プラフマ・スートラ』に対する注てある『聖注』 ( シュリー ーシュャ ) と、ヒンドウー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』 ( 神の歌 ) に対する注との二 作が重要だ。この二つの著作は、今述べたラーマーヌジャの思想の二本の軸をそれぞれ代 表する。 「聖注」という名称が今日まて一般にもちいられてきたという事実は、ラーマーヌジャの 『プラフマ・スートラ』解釈が、後世のインド人たちに権威あるものとして受け入れられて きたことを示している。彼の『ヾガヴァッド・キーター』に対する注は、さらに多くの人々 に愛読されてきた。「バガヴァッド」とは、恵み ( バガ ) を垂れるもの ( ヴァッド ) 、すなわち、 神を意味するが、 、ハガヴァッド・ギーター』の神は、ヴィシュヌてある。 150

6. はじめてのインド哲学

ラーマーヌジャにとって、物質世界ともろもろの霊魂はともに存在するが、ネイーシュ ヴァラも実在する。しかし、両者は根本的に異なっている。神ィーシュヴァラは実体てあ るが心的なものてあり、どのような不完全さからも自由てある。それに反して物質はむ的 なものてはなく、もろもろの霊魂は不完全てあり、無知と苦しみを伴っている。ごが、神 というこれらは、ヴェーダーンタの伝統からすれば一つ ィーシュヴァラ、物質世界、霊魂 の統一体てあるはずだ。 このような矛盾を、どのように考えるのか。ラーマーヌジャの結論は、物質世界と霊魂 彼よ、物質世界、霊 とは神 ( ィーシュヴァラ ) の身体として存在する、ということてあった。 , ー 魂 ( アートマン、自己 ) 、および神ィーシュヴァラを「三存在」 ( タットヴァ・トラヤ ) と呼び、こ の三存在の統一体を「プラフマン」と呼ぶ。ラーマーヌジャにとって、神ィーシュヴァラ とプラフマンとは、まったく同一のものてはよ、 オしネイーシュヴァラ ( 限定されるもの。実体 ) は心的な存在そのものてあるが、プラフマンは色やかたち ( 限定するもの。属性 ) をも含む心 的なものてある。 かの三存在を重視するという点ては、ラーマーヌジャは師ャーダヴァプラカーシャに近 しかし、ヤーダヴァプラカーシャの主張する三存在間の位置関係、プラフマンと三存 在との区別のあいまいさは、ラーマーヌジャにとって受け入れがたいものてあった。ラー 154

7. はじめてのインド哲学

そして、現象世界を中に「含んだ」プラフマンは「聖なるもの」てある。 マドヴァにおける世界とプラフマン マドヴァ ( 一一九九年ー一二七八年 ) は、南インド・マイソール州の西海岸にあるカナラ地 方にバラモンの子として生まれた。彼はヴェーダーンタ学派に属し、ヴィシュヌ教徒てあ た。この限りては、ラーマーヌジャと同じ伝統に従 - フ。 マドヴァの学説は、「二元論」 ( ドヴァイタ・ヴァーダ ) と呼ばれる。この学説によれば、物 質世界、霊魂 ( 個我 ) 、および神はそれぞれ永遠不滅てあって、互いに異なったものてある。 つまり、第二のもの ( ドヴァイタ ) たる物質世界や霊魂が、第一のものたる神と同じ度におい て実在すると主張される。 とはいえ、彼の説においても、神のみが独立的存在てあり、物質世界と霊魂 ( 個我 ) は神 の意志に従う。神と。フラフマンは同一視されている。このようにして、彼はヴェーダーン タの一元論的学説を保持する。神ヴィシュヌを学説の中核とはするが、ラーマーヌジャよ オこのようなわけて、彼の学説は、逆 りもいっそう強く世界と個我との実在性を主張し ' 」。 説的な命名てはあるが、「多元論的一元論」と呼ぶことがてきよう。 ラーマーヌジャと同様に、マドヴァも世界と個我とそして神との関係の考察を自らの主 162

8. はじめてのインド哲学

小さな青い壺をとりあげてみよう。ラーマーヌジャにとって、小ささと色とは属すな わち非実体てあり、壺は実体てある。このかぎりにおいては、ヴァイシェーシカ学派の理 小ささと青色と壺の集合体あるいは統一体 解と同じぞある。この場合、小さい青い壺は、 てある。小 ささと青色とは限定者てあり、壺は被限定者てある。さらにラーマーヌジャ流 にし - フならま、 小ささと青色は壺の余り、様態てあり、壺は余りの所有者、様態の所有者 てある。 一般にわれわれは「壺」という場合、「ロがあって、その下が少しくびれ、腹の丸くなっ たもの」というようなかたち ( 様態 ) のあるものを表象するが、インド哲学にあってはその かたちも一種の属性と考えられる、と先に述べた。実体としての壺は色もかたちもない いわば無色透明の器のようなものてある。 したがって「壺」とも呼べない 小さな青い壺は、このようなもろもろの属性と透明な実体との統一体と考えられる。 ささか乱暴なたとえてはあるが、この壺において、小ささとか青色とかかたちは、ラーマ 壺は神にあたる。 小ささ、青色、かたち、および壺 ーヌジャのいう世界と霊魂にあたり、 の統一体、すなわち小さな青い壺がプラフマンてある。 しかし、かの青い壺という実体は、ラーマーヌジャの哲学において、物質世界の一部て あり、物質世界は神の属性と考えられる。このように、あるものが視点の違いによって異 1 う 8

9. はじめてのインド哲学

一体てあることを印象づけるために、「世界と霊魂は神の身体ぞある」と主張したのてある。 神とプラフマンとが合致する ラーマーヌジャにとってプラフマンとは、統一体としてのかの三存在 ( 物質世界、霊魂、神 ) を指す。神が世界と霊魂によって限定されたものてあり、世界と霊魂と神ィーシュヴァラ の三者の統一体を「プラフマン」と呼ぶかぎりにおいて、ラーマーヌジャの神学において、 「神ィーシュヴァラ」と「プラフマン」とは最終的には同一の対象を指すのてある。 ヴァイシェーシカ哲学が六種 ( あるいは七種 ) のカテゴリーを認めたのに対し、ラーマーヌ ジャは二種類のカテゴリーを認める。つまり、実体 ( ドラヴャ ) と非実体 ( アドラヴャ ) てあ オカこの二種類のカテ る。「非実体」は実質的には「属性」といいかえることがてきる。ご、、、、 ゴリーは、ヴァイシェーシカ哲学に説かれるカテゴリーとは異なる性格をもっている。 ヴァイシェーシカ哲学の場合には、実体、属性、運動等は、観察者の視点によって異な ったカテゴリーとして把握されるということはなく、それぞれ実在するものてあった。す なわち、あるもの ( 工 ) がある場面ては「実体」と呼ばれるが、他の場面ては「属性」と呼 、は、れるし J い - フしょ - フたこし J はた 6 い。 しかし、ラーマーヌジャの場合には、あるもの工が観察 者の視点の違いによって「実体」と呼ばれオ ' 」り、「属生」と呼ばれたりする。 バラモン哲学の展開ーーーヴェーダーンタ哲学 157

10. はじめてのインド哲学

マーヌジャは、彼独自の方法によって、かの三存在およびプラフマンを一元的に把握する ことと、三存在の間の関係、三存在とプラフマンとの関係を明確にすることを両立させよ うとした。限定・被限定の関係として、世界・霊魂と神ィーシュヴァラをとらえることに よって、ヴェーダーンタの伝統を守りつつ、神ィーシュヴァラの存在を浮かびあがらせて、 ヒンドウー教徒の信仰をより強力にしたのがラーマーヌジャてあった。 三組の対概念 世界と霊魂が神ィーシュヴァラの身体てあるというラーマーヌジャの学説ては、神は世 界や霊魂によって限定されている、と考えられている。この場合、世界と霊魂は「限定者」 ( ヴィシェーシャナ ) てあり 、神は「被限定者」 ( ヴィシェーシュャ ) てある。 この一組の基本概念のほかに、ラーマーヌジャの神学にあっては別の二組の概念が重要 、神に依存しているもの、 すなわち、世界と霊魂は神とは区別されるべきものてあり 従属的なものという意味て「余り」 ( シーシャ ) と呼ばれ、神はその「余りの所有者」 ( シェ 、神は「様態の ーシン ) と呼ばれる。さらに、世界と霊魂は神の「様態」 ( プラカーラ ) てあり 所有者」 ( プラカーリン ) ともいわれる。 ダルマ・ダル、、、ン 以上述べた三組の対概念の間の関係は、それぞれ本書第 4 章において考察した「法・有法 バラモン哲学の展開ーーヴェーダーンタ哲学 1 5 5