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検索対象: はじめてのインド哲学
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1. はじめてのインド哲学

ちゅうむかろん 中無果論」と呼ばれてきた。 かの六派哲学のうち、はじめの三学派は因中有果論を、後半の三学派は因中無果論を主 張した、と大筋においてはいうことがてきる。因中有果論の典型はサーンキャ学派に見ら れ、因中無果論の典型はヴァイシェーシカ学派に見られる。 。粘土から壺が作られる 因中有果論と因中無果論のちがいを例によって説明してみよう 際、粘土は明らかに壺の原因てある。粘土が素材となって壺がてきあがったという意味て、 ここ乍りあげられない段階ては、「壺」と 粘土は壺の質料因と呼ばれる。まだ壺というす力オ ( イ 呼ぶことのてきるものは存在しないとしても、原因としての粘土の中に壺という仮想され たすがたはすてに存在していたと考えることがてきる。このようにして、原因の中にすて に結果が、そのままてはないにせよ可能態あるいは潜在的なすがたて存在するという考え 方が、因中有果論てある。 この立場ては、不滅のものが過去、現在、未来を通して存在しており、あるものが生ず るとは、その不滅のものが顕現した状態 ( ヴィヤクタ ) に入ることてあり、あるものが滅する とは、かの不滅のものが未顕現の状態 ( アヴィヤクタ ) に入ることてある。したがってこの考 ものが生じたり滅したりするよう え方ては、厳密な意味ては何も生じないし、滅しない。 に見えても、それは一つの不滅な素材の様態の変化にすぎない。 バラモン哲学の成立 9.

2. はじめてのインド哲学

り、意をのぞく他の四つは宇宙に遍在していると考えられている。 空間、時間、方向は、それぞれ単一なものてある。空間には、そして空間にのみ声 ( 音響 ) という属性がある。時間には数、量、別体性などの属性がある。時間はまた、過去、現在、 未来の認識の根拠てあり、方向は、東、西などの認識の根拠てある。方向にも時間と同様、 数、量、別体等の属性がある。我という実体は、プラシャスタバーダによれば、直接知覚 されるわけてよよ、。、、。、 ーオしカ認識の基体は他のものぞはあり得ないのて、この認識を目印と して我の存在が推論される。 一七世紀のヴァイシェーシカ哲学の有名な綱要書『タルカ・サングラハ』 ( 論理学綱要 ) ) よれば、我 ( アートマン ) にはわれわれ人間の我と最高我 ( 神ィーシュヴァラ ) の二種がある。 この場合の神ィーシュヴァラは、しかし、世界の創造者てもなければ、宇宙原理プラフマ ンというわけてもない。後期のヴァイシェーシカ哲学ては、最高我は世界の動力因と考え られる。 第九番目の実体てある意は、内的な感官てある。我と外的な感官 ( 眼、耳等 ) と対象とが 接近しても、それだけては我に認識は生じないし、楽 ( 幸福感 ) も感じられない。眼や耳の 感官が価いていないときにも、記慮などが我に生まれることがある。これは、我のほかに 内的な器官が存在するからてあり、それが意という実体てある。

3. はじめてのインド哲学

本書の目的を越えている。したがって、ここては、仏教タントリズムにおける中心的な仏 てある大日如来のイメージについて、触れるにとどめたい。 仏教の開祖ゴータマ・ブッダの滅後、時代 とともに、弟子や信徒たちの間におけるブッ ダのイメージは変化していった。すなわち、シャカ族の王子として生まれ、出家して修行 の後に語りを開き、生涯の後半を宣教に費した、というような歴史的存在としての要素を 少なくし、ゴータマ・ブッダの歴史的生涯とは別の「生涯」、あるいは「神話」をもっ仏と して生まれかわっていったのてある。 ほうぞうぼさっ たとえば「衆生を救う願を立て、世自在王のもとて修行を積んだ法蔵菩薩が、成仏して 阿弥陀仏となり、今も説法をしている」という 『大無量寿経』の「神話」は、かの仏教の 開祖の成道と説法という歴史的事実を踏まえてはいる。しかし、阿弥陀仏にはシャカ族の み、、れは、い 王子てあったという要素はすてにない。 っそうの「高み」、すなわち「聖性」の 度合いをよりいっそう強めた存在に登るために、ゴータマ・ブッダの生涯における歴史的 個差を切り捨てた姿なのてある。『阿弥陀経』は、初期大乗仏教経典の代表的なものてあり、 現在のかたちは紀元一、一一世紀まてには成立していたと考えられる。 ところて、阿弥陀信仰においては、人々はこの「不浄な」世界を捨てて浄土へと生まれ ることを願う。阿弥陀は浄土の主なのてある。つまり、この世界は「不浄なるもの」、「否 186

4. はじめてのインド哲学

世界の根源てあるプラフマンにもとづいて世界と個々の霊魂 ( 自己 ) の存在が説明される一 方て、神としてのプラフマンとの間の人格的な交わりが約束されるのてある。 その場合、世界や個々の霊魂は、幻のような非実在てはなくて、ある程度の実在性を認 められたものてなくてはならなかった。「ある程度の」とは、世界や自己 ( アートマン ) は、 神と比較するならば価値のより小さなものてはあるが、まったくの幻影だというわけては ないという意味てある。 欲ばりな学説 究極的存在と世界との統一的理解、人格神による救済、および世界と自己の存在の弁証 を、ラーマーヌジャは求めた。このような多項目をすべて満足させようという「欲ばりな」 彼の学説は、「限定不二論」 ( 制限不二論、ヴィシシュタ・アドヴァイタ ) と呼ばれてきた。この名 称の意味は、「〔属性等によって〕限定〔された〕第二のものなきもの ( 不一 l) に関する理論」て ある。つまり、限定を受 けた究極的存在に関する理論てある。インド哲学研究者の前田専 学氏は「被限定者不二論」と訳されている。ラーマーヌジャにおいては、現象世界や霊魂 ( 自己 ) が神と区別されているからこそ、世界や霊魂が神を「限定する」ことが可能なのてあ バラモン哲学の展開ーーヴェーダーンタ哲学 1 5 5

5. はじめてのインド哲学

ラーマーヌジャにとって、物質世界ともろもろの霊魂はともに存在するが、ネイーシュ ヴァラも実在する。しかし、両者は根本的に異なっている。神ィーシュヴァラは実体てあ るが心的なものてあり、どのような不完全さからも自由てある。それに反して物質はむ的 なものてはなく、もろもろの霊魂は不完全てあり、無知と苦しみを伴っている。ごが、神 というこれらは、ヴェーダーンタの伝統からすれば一つ ィーシュヴァラ、物質世界、霊魂 の統一体てあるはずだ。 このような矛盾を、どのように考えるのか。ラーマーヌジャの結論は、物質世界と霊魂 彼よ、物質世界、霊 とは神 ( ィーシュヴァラ ) の身体として存在する、ということてあった。 , ー 魂 ( アートマン、自己 ) 、および神ィーシュヴァラを「三存在」 ( タットヴァ・トラヤ ) と呼び、こ の三存在の統一体を「プラフマン」と呼ぶ。ラーマーヌジャにとって、神ィーシュヴァラ とプラフマンとは、まったく同一のものてはよ、 オしネイーシュヴァラ ( 限定されるもの。実体 ) は心的な存在そのものてあるが、プラフマンは色やかたち ( 限定するもの。属性 ) をも含む心 的なものてある。 かの三存在を重視するという点ては、ラーマーヌジャは師ャーダヴァプラカーシャに近 しかし、ヤーダヴァプラカーシャの主張する三存在間の位置関係、プラフマンと三存 在との区別のあいまいさは、ラーマーヌジャにとって受け入れがたいものてあった。ラー 154

6. はじめてのインド哲学

「唯名論的」と呼んだ。このような呼び方は、西洋哲学史における普遍論争にちなんだもの てあった。 すなわち、西洋の中世哲学においては、普遍 ( 種、類 ) が人間の思考の外に実在として存 在するのか、あるいは人間の思考の中にのみ存在し、認識によって構成されているものに すぎないのか、という一一つの立場ーーー実在論 ( 実念論 ) と唯名論の論争があり、中世最大の 論争となった。この問題は、プラトンとアリストテレスのイデア理解の違いにさかのばる が、論争の種は紀元後五世紀末ー六世紀初めのローマ哲学者ポエテイウスによってまかれ 初期スコラ学ては実在論の方が優勢ぞあった。カトリック教会にとっては実在論の方が つまり、「カトリック」とは「普遍的」という意味てあるが、実在論的立 都合がよかった。 場に立つならば、カトリック教会は信者の単なるあつまりてはなく、信者たちから独立し、 先立っ実在てあると主張しやすいからてあった。 一方、唯名論は、普遍は単なる名称てあるか、抽象の所産てあると主張する。一一世紀 の末、ロスケリヌスがこの学説を明確に唱えた。彼は色や智は存在せず、実在するのは色 のある物体や智者てあると主張した。彼によれば、色や智は普遍てあり、普遍は実在てあ る個物の背後に存するのてある。彼の説は異端とされたが、一四世紀にはオッカムによっ バラモン哲学の成立 10 ろ

7. はじめてのインド哲学

( 要素、元 ) てある」を意味すると考える。その場合、クラスは構成メンバーの集合 ( セッ ト ) として考えられている。しかし、ヴァイシェーシカ学派の者たちには、「これは壺てあ る」という命題の内容を、「これには壺性がある」というかたちて理解する傾向が強い。す なわち、この関係にあっては、普遍とは個物の集合をいうのてはなく、二つ以上の個物に 共通して存在する法 ( ダルマ ) なのてある。 ヴァイシェーシカ哲学は、普遍と個物との関係をも、属性と実体との関係をも含む法・ 有法関係を基本として世界構造の見取り図を作った。この場合、法は有法と明確に区別さ れており、あらゆる個物にある普遍は、その見取り図の中の重要な構成要素として存在し ている。ニャーヤ学派や後期のミーマーンサー学派もほば同様に考えた。 「インド的」実在論と唯名論 ヴァイシェーシカ学派、ニャーヤ学派等ては、属性と実体、普遍と個物は厳密に区別さ れた。しかし、すてに述べたように、その区別をそれほど明寉にしない立場もインドには 存在した。ヴェーダーンタ学派や仏教などてある。この二つの立場の間の論争は、インド 哲学史におけるもっとも重要な論争の一つてあった。近代における仏教論理学研究の基礎 を築いたロシアのスチェルバッキーは、前者の立場を「実在論的」と呼び、後者の立場を 102

8. はじめてのインド哲学

米粒よりも、支粒よりも ( 中略 ) 能の核よりも微細てある。しかも、この心臓の内部の わがアートマンは大地より大きく、空よりも大きく ( 中略 ) これらの諸世界の全体よりも 大きく、 ( 中略 ) 一切万有を保持し、語なく、愛着なきものてある。 ( 三・一四・一ー四 ) アートマン原理の導入 このように、ウバニシャッドの哲人たちは、眼に見える大きさのものにはむろんのこと、 眼には見えない微細なものにも宇宙の根本原理が存在すると考えた。 細かく刻まれたイチジクの実の微細なものこそこの一切が本性としてもっているものて ある」 ( 『チャーンドーグヤ・ウバニシャッド』六 このイチジクの実にたとえられるアートマンには世界の質料因としての側面がある、とド ィッのインド学者 O ・シュトラウスはいう。 徴細なものに宇宙原理としてのアートマンの存在を確認するとともに、巨大なものにも アートマンの存在を確認する。ゥパニシャッドにおけるアートマンの探究の方法は、どち らかといえば帰納的だ。世界の中の事象を一つ一つ追っていきながら、それぞれの事象の アートマンの存在を確認する。そのような操作の結果、アートマンが世界の中に遍在する ことが明らかとなるのてある。 ・一 ) 。その一切の本性がアートマンなのてある。

9. はじめてのインド哲学

献愛 ( バクティ ) のような「人格神との交わりとしての信仰」は必要てはなかった。シャン カラにとって神ィーシュヴァラは、最高の存在パラマ・プラフマンが世界の顕現のために あえて低次のすがたをとったものにすぎない。 最高プラフマンが、無明によって世界というすがたをとって仮りに出現すると考えるシ けげん ャンカラの学説は、「仮現説」 ( ヴィヴァルタ・ヴァーダ ) と呼ばれてきた。サーンキャ的な展 開説とは異なるが、巨視的には、一つの実在から世界創造を説明しようとするものてあり、 展開説を修正したものと見なすことがてきよう。 シャンカラにとって、世界は無明によって現れるものてあり、非実在てある。究極的実 ふにいちげんろん 在はただ一つ、すなわち、最高プラフマンてある。彼の学説は、「不一一一元論」とも呼ばれ オ一つの実在が存在するのみてあって、他のものの発生はその「一つ る。「一一兀」とは、 ' ズこ の実在」に依拠していることを意味する。「不二」 ( アドヴァイタ ) とは、「第二のもの ( ドヴァ この「第 イタ ) のないこと」の意味てあって、「二つのもののないこと」の意味てはない。 二のもの」とは世界のことてあり、「第一のもの」とはプラフマンてある。 仏教においては、「二つのものがない」 ( アドヴァャ ) の意味の「不二」という語がもちいら れる。この「二つのもの」とは、客観と主観、能動と受動、有と無等々てある。仏教は、 これらの二つのものがともになくなった境地ーーー空ーーーを目指すが、ヴェーダーンタの人々 146

10. はじめてのインド哲学

はないかと竜樹は主張する。 アビダルマの哲学者たちは、世界の構造を有限個の要素の特質と、その諸要素間の総体 によって示そうと努めたが、彼らにとって、実在的な宇宙原理あるいは絶対者の存在を否 定することはすてに済んてし 、こ。ただ彼らは、世界の構造を考察する過程て、もろもろの 構成要素を実在する「小さな絶対者」に仕上げてしまったのてある。これは構造を諸要素 に分解てきるのだと信じた結果てあった。 インド思想史上の一頂点としての『中論』 「エに依ってが生じ」、さらにととが、アビダルマ学派の人々が考えるようにそれぞ れ独立した実体てあると仮定してみよう。ならば、はエに依ることがなくても生ずるの てはなかろうか。工がもしも自己完結的に存在しているならば、他のもの ( ことの関係に あることは不必要だ。 縁起の関係にあるとは、縁起を構成している項 7 、等 ) が、独立した「堅いもの」て はなくて、それぞれの自体 ( 恒常不変の特質 ) を欠いた「柔らかなもの」てあってはじめて可 能てはないのか。 そもそも縁起のそれぞれの項は、止滅させられるべきものてあった。たしかにアビダル 110