思想 - みる会図書館


検索対象: はじめてのインド哲学
81件見つかりました。

1. はじめてのインド哲学

ヒンドウイズム復興の時代 第六期紀元一八〇〇年ー 第一期には哲学と呼べるようなものはなかったと思われる。哲学的な思索が見られるよ へんさん うになるのは、第二期前半に編纂された神への讃歌集『リグ・ヴェーダ』以降のことてあ しかし、そこてもまだ哲学的思索の萌芽というべきものに留っており、真の意味て哲学 的思索と呼び得るものは、第二期後半に出現したウバニシャッド ( 奧義書 ) 群において始ま る。ゥパニシャッドは、自己 ( 個我、アートマン ) と宇宙の根本原理 ( プラフマン ) とが同一て あると明言する。インド哲学の基本テーマはここに確立するのてある。本書第 2 章「汝は それてあるーー・ヴェーダとウバニシャッドの世界」ては、第一一期のヴェーダとウ。ハニシャ ッドの哲学田 5 想を扱うことにしよう。 第三期 ( 紀元前五〇〇年ー紀元後六〇〇年 ) の思想は第二期の思想に対する反動として始まっ 第三期には、仏教の開祖ブッダやジャイナ教の開祖マハーヴィーラなど非正統派、つ まり非バラモン的勢力を代表する者たちが活躍した。 フッタは、バ ラモンたちの聖典てあるヴェーダの権威を認めず、ウバニシャッドが主張 した宇宙原理の実在性をも認めようとしなかった。したがって、ブッダおよび彼の弟子た 自己と宇宙の同一性を求めて

2. はじめてのインド哲学

そして「インド的」唯名論哲学者のチャンピオンは、何といっても竜樹てあった。アビダ ルマの哲学者、唯識思想家、さらには如来蔵思想を唱えた人々は、竜樹的な空思想を一方 に見すえ、他方にそれぞれが生きた状况に関わりながら自らの思想を構築していった。 方てはその間、空の思想あるいは縁起の思想は、否応なくバラモン正統派の考え方に影響 を受けた。 インド哲学の運動が活発だったこの時代に、仏教はその流れのただ中て育った。仏教も またバラモン正統派に影響を及ばし、「聖なるもの」への問いを促進した。各潮流が混在し て、ひとつの「インド的なるもの」として流れる底深い音が聞こえるような、そんな時代 てあった。 リ 0

3. はじめてのインド哲学

如来 ( 真理よりかくのごとく、 正しく来た者、つまり、仏 ) の胎 ( ガルバ 、蔵 ) を意味する。要する に、仏こり得る可能生のことてある。凡夫の心の中には仏たり得る可能性がある、という 田 5 想を「如来蔵思想」と呼ぶ。 アーラヤ識と如来蔵とが同一視される場合には、アーラヤ識には迷い ( 「俗なるもの」 ) と唐 り ( 「聖なるもの」 ) という相反する二つの部分が存することになる。このような考え方は、世 親の唯識説にはない。 また如来蔵思想においては、『中論』に見られるような徹底した否定 作業が行われないことは明らかてある。如来蔵を覆っている煩悩が取りのぞかれるならば、 如来蔵それ自身が輝く、と考えられるのてあるから。 如来蔵思想の源流は、すてに三世紀にさかのばると推定されているが、その後、唯識哲 学や中観哲学とも関係をもちながら展開した。如来蔵思想が竜樹や世親の思想とはかなり 異なったものてあり、むしろヒンドウーの哲学と多くの共通点をもっていることは確かて あるが、如来蔵的な思想は、チベット、中国、日本において、今日まて広くゆきわたって いる考え方てある。このことは、ヒンドウー教の要素が中国や日本に伝えられてきたとい うよりは、宗教理論の型として、如来蔵思想が一つの典型を示していることによるものだ と思われる。そのような典型を、インド、中国、日本の社会が共通してもったのてある。 インドの仏教は、バ ラモン正統派の田 5 想とはかなり異なった方法と態度をもっていた。 129 大乗仏教の興隆

4. はじめてのインド哲学

・ : 三 000 年前の、神への讃歌「リ インドの「希求する心」・ ・「プルシャの歌」・ ・「宇宙開闢の歌」・ グ・ヴェーダ」・ 深まる哲学的思索ー「アタルヴァ・ヴェーダ」 : : : 梵書と森 林書の出現 : : : 聖典ゥパニシャッドの誕生 : : : ウ。ハニシャッド の基本思想 : : : 万物はプラフマンである : : : 物にしてエネルギ : プラフマンとアートマン : : : 麦粒よりも小さく、世界よ アートマン原理の導入 : : : わたしの心臓の内部 . り・も大い のアートマンこそ 第 3 章仏教誕生ーブッダからアビダルマへ・ : ブッダ 非正統派としての仏教 : : : 宇宙も自我も存在しない : の縁起説 : : : 自己否定の果てに現れる「聖なるもの」・ ダルマの思想運動 : : : アビダルマの縁起説

5. はじめてのインド哲学

ちは、ウバニシャッドと同じようには自己と宇宙との同一性を主張しなかったが、別の方 法て . 「自己と宇宙の本来的同一性の経験」を追究した。 えんぎ ブッダの教説の代表的なものは縁起説てあり、この教説は彼以前のウバニシャッドの説 と対照をなし、ブッダの教説の特質をよく示している。しかし、ブッダの滅後一ー二世紀 を経ると、その縁起説にも変化が起きた。つまり、その後の縁起説はブッダの時よりもバ ラモン系の思想に引きよせられたかたちとなるのてある。ブッダの縁起説とその変容につ いては、本書第 3 章「仏教誕生ーー。フッダからアビダルマへ」において述べることにする。 正統と異端との抗争 第三期後半に入ると、つまり、紀元後一ー二世紀となると、正統派バラモンたちの間て 哲学的思索が盛んとなり、紀元四〇〇年ごろまてに一応の完成をみた。今日われわれが「イ ンド六派哲学」と呼んているものの実質的基礎は、この時代にてきあがったのてある。 バラモン正統派の哲学は展開を遂げるが、第三期に確立された 第四期以降においても、 哲学の延長上にあり、根本的な変革・展開はないように思われる。本書第 4 章「バラモン 哲学の成立」ては、インド哲学の基礎概念を説明しながら、インド哲学諸派の中て、世界 の構造がどのように考えられていたかを述べてみたい。

6. はじめてのインド哲学

大日如来は自己にほかならない 紀元六〇〇年をすぎたころになると、つまり第四期に入ると、インド大乗仏教の状況は 大きく変わみうとしていた じゃくご ほっしよう すなわち、仏教は論理学・認識論の分野ては法称 ( 七世紀 ) や寂護 ( 八世紀 ) などの学匠が 一方、、かっての中観哲学や唯識哲学は、 出て、整備された体系を構築しようとしていた。 そのかたちを変えるよう迫られていた。竜樹の『中論』を中心とする空思想や、世親の『三 十頌』を中心とする唯識思想は、いわば古代思想に属するものぞあり、現実の世界に対す る「俗なる」要求に対しては多くを提供てきなくなっていた。 つまり人々は、「色かたちあるものは空てある」 ( 色は空なり ) とか、「世界はすべて心とそ オい」といった考え方には満足を覚えなくなっていたのてある。自分た の働きにほかならよ ちの住む世界がどのような構造をもつのか、われわれの認識は何を知ることがてきるのか、 われわれの思考の正しい道筋はどのようなものてあるのか、このような問題に大乗仏教も 前章て見たように、ヒンドウーの哲学者たちもまた、彼らの立場 答えざるを得なかった。リ からこれらの問題に答えようとしていたのてある。 仏教タントリストたちは、論理学や認識論に対してはチベットの場合は別として、ほと 彼らの関心は、シンポルの助けを借りてそれが指し示す究極的 んど興味を示さなかった。 , 192

7. はじめてのインド哲学

ーンキャ哲学ては、「俗なるもの」の否定の果てに顕現する「聖なるもの」が観照者プルシ ヤとなったのてある。 深まる哲学的思↑「アタルヴァ・ヴェーダ』 『リグ・ヴェーダ』 は、インド・アーリア人の宗教思想、とくに権力をもった階層の宗教 思想を表している。『リグ・ヴェーダ』にすこし遅れて編纂された『アタルヴァ・ヴェーダ』 は、下層階級の崇拝形態や風習を伝える一方、当時人々が哲学的思索を進めていたことを も伝えている。現象世界を巨大な統一体の部分として理解しようとする努力が、『アタルヴ ア・ヴェーダ』には明白に見られるのてある。 たとえば、『アタルヴァ・ヴェーダ』の「支柱 ( スカンバ ) の歌」 ( 一〇・七ー八 ) は、生類の 主プラジャーパティ神が、世界柱としての支柱 ( スカンバ ) を、一切世界を固定するために 設けたという ( 一〇・七・七 ) 。その支柱のある部分は現象界に入り、他の部分は現象界を超 えている ( 一〇・七・九 ) 。この柱のイメージは、多くの民族の神話に共通に現れるものてあ り、「世界軸」 ( アクシス・ムンディ ) と呼ばれている。これらの軸が、人間と宇宙とを統一体 へと作りあげているのてある。また、原人プルシャとの類似点も明らかてある。 『アタルヴァ・ヴェーダ』のいう支柱は、地上に立てられた細い柱てはない。宇宙全体が

8. はじめてのインド哲学

り、第八識としてのアーラヤ ( 阿頼耶 ) 識、第七識としての思量 ( 末那識 ) 、残りの六識とし てんじき ての転識 ( 眼、耳、鼻、舌、身、意それぞれの識 ) に分ける。 「アーラヤ」という語は、蔵、場を意味する。ちなみに、「ヒマーラヤ」 ( ヒマ・アーラヤ ) と は、「ヒマ」 ( 雪 ) の「アーラヤ」 ( 場 ) のことてある。一切のもの ( 諸法 ) が結果の状態とし てこのアーラヤ識に蔵せられ、またこの第八認識が原因の状態として一切のものの中に蔵 せられている、と考えられる。このようにアーラヤ識は、他のすべての認識のターミナル となる認識ぞある。 第七認識「思量」は、アーラヤ識を認識の対象としており、「わたし ( 我 ) てある、わた い対象としてそれぞ しのもの ( 我所 ) てある」と考える。残りの六識は、色彩、音声等とう れ現れる。つまり、この六識は、対象の認識 ( 了別 ) てあり、われわれの意識にのばるもの サーンキャ哲学にあっては、原質の展開は霊我 ( プルシャ ) とは無関係に行われたが、唯 識思想ぞは一切の認識の「蔵」てあるアーラヤ識は、第七識の思量や、かの「対象認識」 ( 転識 ) とともに展開する。サーンキャ哲学の霊我を原質の中に引きこみ、原質全体を認識と 置き換えたもの、それが唯識哲学てあるといえよう。唯識はサーンキャの仏教版なのてあ まなしき 126

9. はじめてのインド哲学

れている。したがって、マドヴァにおける物質世界、霊魂、神の関係は、図におけるよ うに示すことかてきよう 以上、『プラフマ・スートラ』、シャンカラ、ラーマーヌジャ、さらにマドヴァというよ 時代を追ってヴェーダーンタの思想を見てきた。ヴェーダーンタの歴史は、プラフ マンという宇宙原理から現象世界と個我の成立を一元論的に説明しようとする伝統といえ よう。時代が下るにしたがって、世界と個我が自らの実在性を主張するのてあるが、その ような歴史的状況を反映しつつ、ヴェーダーンタ学派の人々は、一貫してプラフマンの実 在性を主張し、物質世界と個我とがプラフマンによって「聖化されたもの」てあることを 認めてきた。 しかし、ヴェーダーンタ哲学の歴史は、マドヴァ以後は根本的な展開をすることなく今 日にいたっているように田 5 われる。今日のわれわれがヴェーダーンタ哲学から学ぶ最大の ことは、やはりこの世界全体が「聖なるもの」のすがたてあるという彼らの主張だと思わ れる。 164

10. はじめてのインド哲学

極的に関わることはなかった。彼の描いた人間像は、都会人のそれよりも農村におけるヾ ラモンのそれてあったことが彼の著作から知られる。 とはいえ、彼の時代はすてにウバニシャッドの時代とは異なっていた。仏教やジャイナ 教の非バラモン哲学は、世界構造論、認識論、論理学の体系を彼の時代まてには完成させ ており、正統バラモンの六派哲学も、それぞれの体系を一応確立させていた。シャンカラ の使命は、そのような状況の中て、仏教哲学などの先行する哲学体系から吸収てきるとこ ろは吸収し、プラフマンと世界と解脱に関する統一的理論を打ち出すことてあった。 シャンカラは、『プラフマ・スートラ』に依拠しながらも、そこにはなかった、あるいは た。もっとも、それらの くつかの考え方を自らの体系の中にとり入れ 明白てはなかったい 多くは、バルトリプラバンチャ ( 五五〇年ごろ ) やガウタハーダ ( 六四〇年ー六九〇年ごろ ) など の初期のヴェーダーンタの思想家、さらには仏教の思想家などから影響を受けたものてあ ったが。シャンカラが仏教からも多くの影響を受けており、「仮面の仏教徒」と呼ばれたこ とはよく知られている。 シャンカラは二種類のプラフマン、すなわち「最高の」 ( パラマ ) プラフマンと、それ以外 の「低次の」 ( アパラ ) プラフマンとを区別する。前者は、究極的実在てあり、部分をもたす、 いかなる属性をももっていない。後者は、属生をもっており、形 不変化て、永遠てあり、 144