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検索対象: はじめてのインド哲学
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1. はじめてのインド哲学

第 7 章タントリズム ( 密教 ) の出 タントリズムの時代背景 : : : タントリズムの起源 : : : 四種のタ ントラ経典 : ・・ : インド精神史の一つの到達点 : : : プラヴリッテ イ・マールガとニヴリッティ・マールガ : ・・ : 現世拒否の緩和・ 儀礼中心主義の復活 : : : シンポルが重視される : : : 頭蓋骨を満 たす血の意味するもの : : : 大日如来の性格 : : : 大日如来が他の 仏や世界を生み出す : : : 眼前に仏を立ちのばらせる : : : 大日如 : マンダラ 宇宙と自己の同一性 来は自己にほかならない : : ヒンドウー・タントリスム・ の直証 : : : 宇宙がケシ粒大に : ・ 男性原理と女性原理 : : : 世界は女神でもあり、男神でもある 終章世界の聖化の歴史 一三世紀以降のインド精神史 : : : ヨーロッパ近代との出会い

2. はじめてのインド哲学

ヨーロッパ近代との出会い 次の第六期において、インドはいわゆるヨーロッパ近代と出会う。ヒンドウーの人々は、 それまて考えてもみなかった、あるいは、考える必要のなかった間題にとりくまざるを得 なくなった。 労働、独立、民衆運動等の間題が、ヒンドウーの指導者たちの前に立ちはだ かったのてある。イスラーム教徒およびイギリス人たちの支配からのがれようとしたイン ドの人々は、自らのヒンドウーの伝統を改めて問い直しながら、ヒンドウイズムを近代化 この運動はまず、ラーム・モー ハン・ローイ ( 一七七二年ー一八二三年 ) によって始められ オ彼は因習にとらわれたインド社会を批判し、ウバニシャッドなどの古典を、近代の状 况にあわせて解釈しなおした。ローイの活動に続い て、ダヤーナンダ・サラスヴァティー ( 一八二四年ー一八八三年 ) の古代復帰運動が起こった。ローイはキリスト教など他の宗教との 調和をはかったが、サラスヴァティーは他の宗教をしりぞ け、純粋にヒンドウーの伝統、 しかも古代のヴェーダに帰るべきことを主張した。しかし、両者はともこ ( 古代インド精神 を、近代において新しく解釈しようとする点ては一致していた。 サラスヴァティーとほば同時代の宗教改革者に、ラーマクリシュナ ( 一八三六年ー一八八六 年 ) がいる。カーリ ー女神の崇拝者てあった彼は、恵まれた宗教的資質によってインド精神 207 世界の聖化の歴史

3. はじめてのインド哲学

さくじよう 家畜 ( パシこおよび索縄 ( パーシャ ) という三原理を認めるが、この三者はそれぞれシヴァ 神、個我、および世界の素材となる非精神的物質を意味する。 ラー・シャクティとしてシヴ 一方、シヴァ神にはシャクティ ( カ ) がある。この力は、パ 展開の結果としての非精 アとともにあったり、 世界の原因としてのマーヤーてあったり、 神的な物質てあったりする。つまり、シヴァ神と個我とが存在する場てある世界の形成は、 シャクティのあらわれてあるマーヤー ( 幻 ) による。マーヤーが段階を追って展開し、霊魂 ( プルシャ ) に身体、感官、感官の対象などを与えて、現象世界をかたちづくるのてある。ち なみに、この学説におけるプルシャ ( 霊魂 ) は、サーンキャ哲学における霊我 ( プルシャ ) と 異なって、時間、知、執着等の制約を受ける。 このシャイヴァ・シッダーンタの説は、一種の展開説 ( パリナーマ・ヴァーダ ) てある。し かし、サーンキャ的な展開説てはない。すなわち、世界の形成の原因てあるシャクティは、 サーンキャ哲学の原質のように止滅させられることはない。シヴァ神とその妃すなわちシ ヤクティは、宇宙のはじまりから終わりまて一貫して存在し続ける。 世界は女神でもあり、男神でもある 最高神シヴァは、女神のすがたをとった自らのカ ( シャクティ ) によって、宇宙を創造する。 200

4. はじめてのインド哲学

( 臂 ) が幾本もあり、脚もまた幾本もあり、奇怪な顔の尊格が同じようなすがたの女神 ( 妃 ) を抱いている、といった仏がこれらのタントラに登場する。 これはある人々には、仏教が「堕落した」あるいは「似ても似つかぬものになってしま オし。たしかに、無上ヨーガ・タントラの仏教は、行タントラ った」よ - フに映るかもしれよ、 オカそれが仏教の「堕落」てあるかど やヨーガ・タントラのそれからは変容している。ご、、。、 うかを決めることは本書の任務てはない。 無上ヨーガ・タントラの歴史は、ますます勢力を増してくるヒンドウイズ ム、さらにはインド侵入の手を休めない回教徒たちとの抗争の歴史の上にあったことは間 いがない。無上ヨーガ・タントラの理解のためには、当時のヒンドウイズム、とくに性 カ崇拝派 ( シャクティズム ) の理解が必要なのてある。 インド精神史の一つの到達点 タントリズムの構造は実に複雑てある。というのは、今述べたように、タントリズムは インド精神史の結論、少なくとも一つの到達点に達したものてあり、それに先行するさま ざまな形態を統一、総合しようとするからだ。明らかにヴェーダ祭式のもっ儀礼形態もタ ントリズムの主要な要素の一つてあるし、ウバニシャッドの哲人たちが求めた宇宙原理の 172

5. はじめてのインド哲学

現代日本に生きる一個人たる「わたし」の問題として、仏教・ヒンドウー的伝統の意義 を見出すことは、インド精神の伝統を私的なことがらに解消してしま - フことを意味しない。 「インド的伝統の現代的意義」一般が、個々人を離れて存在するわけてはないのだから。そ して「わたし」がとりこむことのてきる広さと深さに応じてのみ、インド精神はその広さ と深みを見せてくれるだろう。 わたしに、読者ひとりひとりの何ほどかを担う力があり、わたしのとりこむインド精神 が、その豊かさのてきる限り多くを、実際ここて見せてくれることを切に願っている。 にな プロローグ

6. はじめてのインド哲学

ジュル・ヴェーダ』、ウバニシャッド経典、さらにはインド哲学の中のもっとも基本的な哲 学学派てあるサーンキャ学派へと受け継がれてい 前述のように、 『リグ・ヴェーダ』の「プルシャの歌」ては、プルシャと現象世界との区 別は限りなく近く、世界がプルシャてあるとか、少なくともプルシャの部分てあるという ことがてきた。ところが後に、原理としてのプルシャと現象世界の素材との間に限りなく たとえばサーンキャ哲学におけるように、現象世界は原質 ( プラ 大きな区別を置く考え方、 クリティ ) の展開てあり、プルシャ ( 霊我 ) はその原質の展開には関わらない存在てあるとい う考え方も現れた この原質の展開は、サーンキャ哲学の主張ては「俗なるもの」てあり、精神的至福 ( ニヒ シュレーヤサ ) を得るためには否定されるべきものてある。その「俗なるもの」の否定の果て に約束されているものが、「聖なるもの」としてのプルシャてあるとされ、両者は対極にま ぞ遠ざけられた。 『リグ・ヴェーダ』にあっては、哲学的な意味ての精神的至福の獲得はまだ問題となって おらず、宗教行為の目的は天界に行くことや、もろもろの現世利益てあった。「プルシャの 歌」におけるプルシャは、現象世界を構成する質料 ( 材料 ) てあり、サーンキャ哲学におけ る原質 ( プラクリティ ) に相当する。時代が下って、個人の精神的救済が主要関心事だったサ 汝はそれてある一一ヴェーダとウバニシャッドの世界

7. はじめてのインド哲学

シャーンディリヤはかの節を次のように結論づける。 このわたしの心臟の内部に存するアートマンがすなわちプラフマンなのだ。「この世を 去った後、必ずこれと合一しよう」という意志をもつ者には不安がまったくない。 ここには、ウバニシャッドの世界観と目的が簡潔に述べられている。ゥパニシャッドの 哲人たちは、アートマンという原理を得たことによって、個我の観点から宇宙原理と向き 合 , フことカてきるよ - フになった。。 フラフマンという大宇宙原理のみては個体と宇宙との関 係を考察することは困難てあったろう。その二つのコスモスの関係についてウバニシャッ ドが達した結論は、かの二者は本来同一のものてあり、その同一性はしかるべき方法によ って感得てきる、というものてあった。 アートマンという原理の導入は、インド精神にひとつの明瞭な思想の水平を与えたばか りてはない。アートマンという、第一義的にはやはり固を指す術語を得ることによって、 インドの宗教思想は、ヒンドウー教あるいは仏教といった、個人の精神的救済をその主要 な関心事の一つとする宗教形態を生み出すことがてきた。インドの哲学者たちは、このア ートマンという場において、個体の精神的救済を論じたのてある。 汝はそれてある一一一ヴェーダとウバニシャッドの世界

8. はじめてのインド哲学

相違がよりいっそう明白になるように仕組まれた行為の型なのてある。したがって、儀礼 行為は、社会あるいは集団の生活の仕組、あるいは季節ごとの行事というかたちぞ現れた り、それらの一部となったりする。 前もって決められた日時や場所あるいは行事の次第に対して、人々は、その日が近づく につれてさまざまな準備をし、その儀礼を行う集団の中の「聖なる」気分を強めてい このようにして儀礼は、精神的至福を求める個人的宗教実践としてよりはむしろ、僧院、 血縁的共同体、部族社会における集団的行為として機能を発揮するものてある。タントリ ズムにおいては、個人的宗教実践は主として儀礼の枠組の中て行われ、儀礼のもつ「外的 な装置」の助けを借りて、その実践の活性化を目指すのてある。 一方てタントリズムは、集団儀礼の中に、それまてに諸哲学学派の中て育てあげられて きた個人的宗教実践の要素を含めることによって、集団儀礼が精神的至福の獲得にとって も有効な手段となる、と主張する。このようにして、仏教タントリズムのみならず、タン トリズム一般にあっては、精神的至福を求める個人的宗教実践と、通過儀礼 ( 出産祝い、成人 式、結婚式、葬儀など ) を中心とする集団儀礼とが統一される。その統一は、互いの長所を出 しあって、両者がともに舌性化されることを目指すのてある。 たとえば、火の中にバター油 ( バターを熱した時、浮きあがる半透明の油 ) や穀物などを入れる 179 タントリズム ( 密教 ) の出現

9. はじめてのインド哲学

手 / ド哲学 はじめて , 現代新書既刊よりーーー同著者による『ヨーガの哲学』は、 世俗を捨て、「精神の至福」をもとめる方法ヨーガのもつ「哲学」を考える。 服部正明『古代インドの神秘思想』は、 初期ウバニシャッドを中心に、アートマンとプラフマンの実相を解明する。 またインド精神史の華、仏教については、 定方【成『空と ~ 我』が、竜樹の逆説などを通して言語のもっ限界と可能性をさぐり、 竹村牧男『「覚と「空」』が、 シャカによる誕生から衰亡にいたるインド仏教の歩みをたどる。 一方、本書の背景となる歴史全般については 近藤治不ンドの歴史』がくわしく、 インド哲学と並ぶ西欧哲学全体を概観したものに、 新田義弘『哲学の歴史』がある。 イ ン 学 立 武 自己と全宇宙との合一をめざし、三 000 年の「聖なる」思索を一ゞ 重ねたインド。壮大にして精緻な . 7 精神のドラマを、一巻に凝縮する。 立川武蔵一 自己が宇宙と合一するー , ・ーインド精神が一貫して求めたものは、 自己と宇宙 ( 世界 ) との同一性の体験であった。 世界を超越する創造神を認めないインドの人々が求めた「神」は、 世界に内在する神、あるいは世界という神であった。 一方、インドは自己に許された分際というものを知らなかった。 つまり、自己は限りなく「大きく」なり、「聖化」され、宇宙 ( 世界 ) と同一と考えられた。 もっとも、宇宙との同一性をかちとるために、自己は時として「死」んだり、「無」となる必要はあった。 しかし、そのことによって自己はその存在の重みをますます増したのである。 自己も宇宙も神であり、「聖なるもの」である。 自己と宇宙の外には何も存在せず、宇宙が自らに対して「聖なるもの」としての価値を与える、 すなわち「聖化する」のだということを、何としても証したいという努力の過程が、 ・本書より インド哲学の歴史にほかならないのである。 はしめてのインド哲学 ! = 。目次より ・自己と宇宙の同一性を求めて ・汝はそれである ・プラフマンとアートマン ・麦粒よりも小さく、世界よりも大きい ・仏教誕生 6 ・自己否定の果てに現れる「聖なるもの」 ・バラモン哲学の成立 1 ・大乗仏教の興隆 0 ・言葉の多元性を止減させる ・マンダラーー宇宙と自己の同一性の直証 ・男性原理と女性原理 2 ) ・世界の聖化の歴史 3 8 0 円 6 ・たちかわ・むさし 一九四ニ年、名古屋生まれ。名古屋大学文学部卒業後、 ト大学大学院に留学、 o-c ・取得。名古屋大学文学部教授を経て、 現在国立民族学博物館教授。専攻はインド学、チベット学。文学博士。 著書に『西蔵仏教宗義研究第一巻・第五巻ー財東洋文庫、「曼荼羅の神々」ーありな書房、 『空の構造」ー第三文明社、「女神たちのインド」ーせりか書房、 "The St 「 uctu 「 e 0 → the Wo 「 ld ョ Udayanas ReaIism ー・ Re ミ e 一ーなどがあるほか、 本新書にも「ヨーガの哲学』がある 2 講談社現代新書 特製ブックカバー物呈 - ・ - 一。・ ものマークを 2 枚集めて ーくたさい ( 葉書は不可〉 封書でお送 ) パックスのマーク代用も可 宛先 | 」・ 講談社新書販売部プ「・クカバー係 マークアジアの「豊攘の渦」 講談社現代新書 カット〔〔」クリシュナ神宇宙

10. はじめてのインド哲学

たカ数千年の歴史 シャンカラやラーマーヌジャのような哲学者はいないように田 5 える。ご、、。、 がインドの人々の中に生きていることは、わずかな期間インドを旅行する者にても感じら れる。 世界に内在する「神」 インドの精神史を六期に分けてその時代の精神の特質を見てきたが、インドの全精神史 を通じていい得ることは、インドが世界から超越した創造者の存在を認めなかったことて ある。インドは、世界の根本原理あるいは究極的存在としての神を、世界の中に、または 世界そのものに求めてきたのてある。 第一期「インダス文明」はしばらくおくとして、第二期「ヴェーダとウバニシャッド」 において、われわれはそのような傾向をはっきりと見ることがてきる。『リグ・ヴェーダ』 の「宇宙開闢の歌」ては、「唯一のもの」が展開してこの世界となると述べられており、同 じく『リグ・ヴェーダ』の「原人歌」ては、原人 ( プルシャ ) の上部四分の三が本質界てあ 、下部四分の一が現象界てあるといわれている。 『リグ・ヴェーダ』に続いて編纂された『アタルヴァ・ヴェーダ』においても、世界の中 心あるいは「宇宙軸」としての巨大な柱 ( スカンバ ) が述べられており、この柱と宇宙原理 209 世界の聖化の歴史