な個体を生んだ後に、自らは消滅していく。樹木、犬、猫という生命体のグループが、そ そして、われわ とい , フリズムをくり返していることは疑いない。 れぞれに「生・住・減」 れはそのリズムを実感することがてきる。 自己の時間と宇宙の時間 一人の人 一人の人間が自己を意識する場合の心的空間を「自己空間」と呼んだように、 生命体に共通のリズムを感ずる際の時間を「自己時間」と名づ 間が「生・住・滅」というロ る」し」にーしレよフ インドては、自己空間 と宇宙全体とが本来的には同一てあると考えられたように、自己 時間もまた、宇宙の時間と本質的なものを分有すると考えられた。単に、宇宙の誕生、生 成、消滅の過程が個体にも見られるというのてはなくて、宇宙の活動がまさに個体の活動 にほかならないと考えられたのてある。 確かに「わたし」という一つの小さな生命体がもっ時間ーーーあるいはその中にわたしが ある時間ーーは、それ自体生命てある宇宙がもっ時間ーーあるいはその中に宇宙がある時 と同質のものを含んていると、インドの伝統にしたがって考えることがてきる。 インドは、生命体が生まれて亡ぶもの、すなわち変化するものてあるゆえにこそ、それ 自己と宇宙の同一性を求めて
かし、もしかすると、われわれが「自己」と呼んているものには、色やかたちがあるかも しれないのてある。また眼前に展開する一切の現象、生物学的生命体としてのこの身体、 あの大も猫も花も山も含めて、ともかくありとあらゆるものが、あるいは自己かもしれな いのてある。もちろん、手足が自分のものてあるのと同じ意味て山や川が自分のものてあ るとはいえないだろうが、自己とは頭や胴からなるこの身体に限定された領域を越えた何 ものかぞあるかもしれないのてある。 自己とはどこまでの範囲か われわれは、身体に見られる奇跡的にすばらしいメカニズムの上に可能となるさまざま と、つかく な心的現象を、一つにまとめる統覚を自己意識と呼んており、その意識を自己 ( 我 ) の本質 と老 / んて、る。ズ。、 オカその意識は、本来は、身体という物理的条件に限定されるべきもの てはなく、身体および心の活動をこの世界の中て可能ならしめているエネルギーと直接結 びついているのかもしれない。 ふだんわれわれは、自分の身体を中心にした周囲の世界 ( 周囲世界 ) を意識の中てとらえ て、一種の心的空間を表象している。わたしはそれを「自己空間」と呼んている。自己空 間の内部は、プラネタリウムのドームの内側に星座などを映し出す球形のスクリーンにた
のようなものてあれ、それが一つのまとまりあるものとして理解されれば、それはその本 体あるいは自体 ( アートマン ) をもつ。それがアートマンの第一の意味てある。また「アート マン」という語は、宗教的には宇宙我プラフマンと同一視され、神秘的直観によってのみ 把握されることのてきる「聖なる」原理を指す。だが、サンスクリットの文中てはそのよ うに宗教的価値をもたない用法の方が圧倒的に多い ゥパニシャッドの哲人たちが、自分、自己、それ自身などを意味するもっとも一般的な たいじ 五ロズヾ フラフマンと対峙するもう一方の原理の名称として選んだことは注目すべきことて ある。というのは、どのようなものにも必ずアートマン ( 自体 ) は存在するからてある。一 つのものがまとまりある「閉じられたもの」として現れるならば、それは必す「小さな全 体」てあり、そのようにそれは「アートマン」をもっている。そして、個々のものがその ようにアートマンをもっていることをまた、それ ( 個々のもの ) はアートマンてある、ともい うのてある。 麦粒よりも小さく、世界よりも大きい 一切のもの ( 万有 ) は、その総体自体も、ひとつのまとまりてあることによってひとつの アートマンてある。と同時にその中に存在する個々のそれぞれのものも、ひとつひとつの
たのてある。 このような考え方は、われわれの生活感覚と著しく異なるが、インドの哲学者たちはお よそ三〇〇〇年にわたって、一貫して自己と宇宙とが本質的に同一てあると訴え続けてき た。もしも「わたしが宇宙てあり、宇宙はわたしてある」と確信するに足る根拠をわれわ れが受け入れるならば、われわれの生のあり方はかなり異なったものとなるだろう。イン ドがその「非常識」ーーーあるいは秘儀ーーーを、どのようにわれわれに説明してきたかを、 これからゆっくり問いただしてみることにしょ , フ。 われわれはそれぞれ、「自分は今、ここにいる」とか「自分は今、山を見ている」という ような、自己意識をもって生きている。我を忘れる、ということはあるが、その時が過ぎ てしまえば、再びかの自己意識はもどっている。 「わたしてある」あるいは「わたしがある」という自己意識を生ぜしめるものは何なのか そのような認識作用を可能にする自己の中核が、どのようなものてあれ、存在することは だが、瞬間瞬間に変化 確かてある。それはもちろん恒常不変の「実体」てはないだろう。 しつつ、ある一定の期間、一つの統一体としての機能を果たすものてあることは、われわ れの日常経験しているところてある。 自己は現象の背後に隠れて、色もかたちも香りもないものと一般には田 5 われている。し 自己と宇宙の同一性を求めて
なものーーー・大日如来ーーーが、自己にほかならないことを直証することてあった。すてに繰 り返し述べてきたように、タントリズムは非アーリア的要素を多分に含んはいるが、ヴ エーダ以来、インド正統派の伝統がもち続けてきた問題にも関わっているのてある。 大日如来が世界に充満しており、世界そのものてあり、大日如来が自己にほかならない、 という仏教タントリストのテーセは、まさにウバニシャッドの「汝 ( 個我 ) はそれ ( 宇宙原理 ) てある」というテーセと符合する。 事実、無上ヨーガ・タントラの一つてある『ヘーヴァジュラ・タントラ』の末尾には、 「汝は汝の父てある」と述べられている。これはウバニシャッドの「汝はそれてある」を意 識した、仏教側から提出された「大文章」 ( 本書五七ページ参照 ) なのてある。 仏教は、ヾ ノラモン正統派の思想より多大の影響を受けながらも、それに対抗しながら何 とか自らのアイデンティティを保とうとしてきた。縁起説や空田 5 想はまさにそうした試み の産物てあった。しかし、ブッダの滅後、一〇〇〇年近くを経ると、仏教はヴェーダ以来 のバラモン正統派、あるいはヒンドウー精神によりいっそう近づくのてある。そもそも第 四期の仏教の歴史は、ヒンドウー教より多大の影響を受ける一方て、回教徒の侵入に直面 しながら、自分たちの道を見つけようとした歴史てあった。 タントリズム ( 密教 ) の出現 195
が多かった。インド田 5 想史の理解のためには、これらの時期の哲学・思想の考察を欠くこ しかしながら、本書ては紙面の関係上、終五、六期については終 とはもちろんてきない。 章の初めて簡単に触れるにとどめたい。 世界という神 一」の a-6 - フに、 インド精神史は六つの時期に分けられるが、インド精神が一貫して求めた ものは、自己と宇宙 ( 世界 ) との同一性の体験てあった。世界を超越する創造神を認めない インドの人々が求めた「神」は、世界に内在する神、あるいは世界という神てあった。 つまり、自己は限りなく「大 方、インドは自己に許された分際というものを知らなかった。 宇宙との同一性を きく」なり、「聖化」され、宇宙 ( 世界 ) と同一と考えられた。もっとも、 かちとるために、自己は時として「死」んだり、「無」となる必要はあった。しかし、その ことによって自己はその存在の重みをますます増したのてある。 自己も宇宙も神てあり、「聖なるもの」てある。自己と宇宙の外には何も存在せず、宇宙 が自らに対して「聖なるもの」としての価値を与える、すなわち「聖化する」のだという ことを、何としても証したいという努力の過程が、インド哲学の歴史にほかならないのて ある。
近代の合理的思匪をも合わせもっていた。彼の信仰はや の霊性を感じとる能力とともに、 がて、弟子のヴィヴェーカーナンダ ( 一八六三年ー一九〇一一年 ) によって受けつがれ、ラーマ クリシュナ・ミッションとして今日にいたっている。 ほかにもヒンドウー教の近代化に貢献した思想家や宗教家は多いが、第六期におけるヒ ンドウーの田 5 想家たちのほとんどは、このように「インドの近代化におけるヒンドウイズ ムの機能」という間題に関わっていた。また、この時期においても、「自己と宇宙の同一生 の経験」というかのテーマは、人々を引きつけ続けてきた。 この時期においては、キリスト教やイスラーム教などの影響もあって、「神の問題」が重 オオカヒンドウー教における神は、ユダヤ・キリスト教的神てはあり得なか 要となっ ' 」。ご、、。、 った。あくまてインド古代精神の伝統をふまえた神てあり、自己の中に存在し、かっ宇宙 とい - フ「二 の根本原理てもある神てあった。インド近代の宗教改革者たちは、自己と宇宙 つの極」を、インドの伝統を踏まえつつ、彼らがとらえなおした「神」を媒体とすること によって結びつけようとした。彼らは、自らの立場を他の宗教的伝統に従う人々に理解さ せるために、「神」の概念を中心に自らの教義を語ったのてある。 ほかにオーロビンド、タゴ ル、ガンディー 本書において扱うことはてきないが イラクのようなスケールの大きな思想家が第六期には活躍している。現在のインドには、 208
インドの「希求する心」 インドの哲学は、単なる知的体系てはなくて、最終的には一つの目的の獲得を目指して 行われた行為の集積てある。 今ある自分ならぬ自分になること、今いる地点とは別の地点に到達することを目指して、 人々はその目標を見つめ、それへと いたる方法を模索した。複雑に巨大化したインドの知 的体系が、出発点にそのような「希求する心」をもっていたことを、インド哲学を考察す る際に忘れてはならない。 そこには、最初、今ある自己と周囲の世界についての現状認識 ( しオオしのか目標を見定める思考があり、さらにそこにいたる手 段について実践をともなう長い考察があったはずてある。 行為に必す伴う、現状認識 ( 世界観 ) 、目的、および手段という三つの要素については、す てに拙著『ヨーガの哲学』 ( 講談社現代新書三七ー四〇ページ ) に述べたのて、それぞれについて の説明をここてくり返すことはしないが、本書においても、知的体系と行為の関係、およ び行為を成り立たせている三要素については、前掲書と同じ立場に立ちつつ、考察の際の 基礎としこい。 ところて、希求する心が哲学しはじめ、現状の自己と周囲世界を認識しようとするとき、
言てはない。 アーリア・非アーリア系文化の抗争と融合 インドの歴史は、アーリア系の文化と非アーリア系の文化との抗争、あるいは融合の歴 史と見ることがてきる。第一期、第三期、第五期は、どちらかといえば非アーリア系の人々 の文化が勢力をもった時期てあり、第二期、第四期、第六期は、明らかにアーリア系の文 化が隆盛した時代てある。アーリア文化が、非アーリア文化を自己の中に吸収・同化しょ うとする一方て、非アーリア文化もまた、自らの中にサンスクリット文化を中心とするア ーリア系文化をとり入れ、自分たちの方法て消化しようとした。 このようにして、インド文化は幾千年の歴史の中て、人種、地域、文化等の複雑な交差 や混交によって形成されてきた。したがって時代が下ると、非アーリア系の人々がバラモ ン僧となるというような事態が一般的なこととなってきた。たとえば今日、 ハラモン文化 の伝統が非アーリア人系の要素の多いタミルナードの地域に、北インドよりもいっそう強 く残っているという事実もあるのてある。 仏教の開祖ゴータマ・ブッダもまた、いわゆる純粋なアーリア人の血筋に生まれたもの てはなかった。仏教はその後、インド精神史の中て、非アーリア文化の一代表となってバ 211 世界の聖化の歴史
手 / ド哲学 はじめて , 現代新書既刊よりーーー同著者による『ヨーガの哲学』は、 世俗を捨て、「精神の至福」をもとめる方法ヨーガのもつ「哲学」を考える。 服部正明『古代インドの神秘思想』は、 初期ウバニシャッドを中心に、アートマンとプラフマンの実相を解明する。 またインド精神史の華、仏教については、 定方【成『空と ~ 我』が、竜樹の逆説などを通して言語のもっ限界と可能性をさぐり、 竹村牧男『「覚と「空」』が、 シャカによる誕生から衰亡にいたるインド仏教の歩みをたどる。 一方、本書の背景となる歴史全般については 近藤治不ンドの歴史』がくわしく、 インド哲学と並ぶ西欧哲学全体を概観したものに、 新田義弘『哲学の歴史』がある。 イ ン 学 立 武 自己と全宇宙との合一をめざし、三 000 年の「聖なる」思索を一ゞ 重ねたインド。壮大にして精緻な . 7 精神のドラマを、一巻に凝縮する。 立川武蔵一 自己が宇宙と合一するー , ・ーインド精神が一貫して求めたものは、 自己と宇宙 ( 世界 ) との同一性の体験であった。 世界を超越する創造神を認めないインドの人々が求めた「神」は、 世界に内在する神、あるいは世界という神であった。 一方、インドは自己に許された分際というものを知らなかった。 つまり、自己は限りなく「大きく」なり、「聖化」され、宇宙 ( 世界 ) と同一と考えられた。 もっとも、宇宙との同一性をかちとるために、自己は時として「死」んだり、「無」となる必要はあった。 しかし、そのことによって自己はその存在の重みをますます増したのである。 自己も宇宙も神であり、「聖なるもの」である。 自己と宇宙の外には何も存在せず、宇宙が自らに対して「聖なるもの」としての価値を与える、 すなわち「聖化する」のだということを、何としても証したいという努力の過程が、 ・本書より インド哲学の歴史にほかならないのである。 はしめてのインド哲学 ! = 。目次より ・自己と宇宙の同一性を求めて ・汝はそれである ・プラフマンとアートマン ・麦粒よりも小さく、世界よりも大きい ・仏教誕生 6 ・自己否定の果てに現れる「聖なるもの」 ・バラモン哲学の成立 1 ・大乗仏教の興隆 0 ・言葉の多元性を止減させる ・マンダラーー宇宙と自己の同一性の直証 ・男性原理と女性原理 2 ) ・世界の聖化の歴史 3 8 0 円 6 ・たちかわ・むさし 一九四ニ年、名古屋生まれ。名古屋大学文学部卒業後、 ト大学大学院に留学、 o-c ・取得。名古屋大学文学部教授を経て、 現在国立民族学博物館教授。専攻はインド学、チベット学。文学博士。 著書に『西蔵仏教宗義研究第一巻・第五巻ー財東洋文庫、「曼荼羅の神々」ーありな書房、 『空の構造」ー第三文明社、「女神たちのインド」ーせりか書房、 "The St 「 uctu 「 e 0 → the Wo 「 ld ョ Udayanas ReaIism ー・ Re ミ e 一ーなどがあるほか、 本新書にも「ヨーガの哲学』がある 2 講談社現代新書 特製ブックカバー物呈 - ・ - 一。・ ものマークを 2 枚集めて ーくたさい ( 葉書は不可〉 封書でお送 ) パックスのマーク代用も可 宛先 | 」・ 講談社新書販売部プ「・クカバー係 マークアジアの「豊攘の渦」 講談社現代新書 カット〔〔」クリシュナ神宇宙