2 72 「もし身体が弱くなかったら、あれだけ大きな仕事はできなかったにちがいない」と ダーウインは述懐している。 シラ 1 があの偉大な悲劇の数々を書いたのは、拷問にも似た肉体的な苦痛を味わっ ている最中だった。 ヘンデルは死が近づいたことを知らせる手足のしびれに襲われ、絶望感と苦痛にさ いなまれながらも机に向かい、その名を不朽なものとした名曲をいくつも作曲した。 モーツアルトは莫大な借金を抱え、重い病と戦いながら「レクイエム」の最終曲と オペラを作曲した。 シューベルトは貧困にあえぎながら三十二年の短いながらも輝かしい生涯を閉じた。 後に遺された財産と言えば、着ていた洋服と六十三フロリン銀貨、それに自分で作曲 した曲の楽譜だけだった。 姿を変えた " 幸せ。を見逃さないこと 災いはしばしば姿を変えた幸せにすぎないまた、それをうまく生かすことによっ て、何倍もの幸せを手にできるのだ。
274 ゲーテの " 五週間。の幸福 富や成功は、それ自体では幸せをもたらさない。たとえ、人生が失敗の連続であっ ても、本当の喜びを見出した人はけっして珍しくない 健康・名声・能力・満ち足りた生活のどれにも恵まれたゲーテほど幸せな男はいな いだろうと、われわれは考える。しかし、その彼も、人生で本当に楽しみを味わった のはたったの五週間にすぎなかったと告白している。 サラセン帝国の栄華を誇ったアブドウル・ラフマーン三世も五十年にわたる治世を ふりかえって、自分が心の底から幸福だと感じたのはわずかに十四日間だけだったこ とに気づいたという こは , か学はい、ものか【か このような話を聞くにつけ、幸せだけを追い求める人生がいか ( 理解できるではないか さんさんと太陽が輝いて日陰のない一生、あるのは幸福ばかりで不幸のない一生、 楽しみばかりで苦しみのない一生ーーこれらは少なくとも人間の一生とは呼べない 最大の幸福とは、もつれた糸のようなものである。幸福は悲しみと喜びの組み合わ
8 ストア派の哲学者エピクテトスは数々の名一言を遺しているが、その中に次のような ものがある 「われわれは人生における役割分担を自ら選んだのではなく、これについてどうする こともできない。われわれに与えられた唯一の義務は、その役割を上手に演じること だけである。奴隷でも執政官でも同じように自由になれる。自由は何よりも尊いもの だ。自由に比べればすべては小さく見え、自由の横に並べればすべてが無意味になっ てしまう。自由があれば他には何もいらないし、自由がなければ何ごとも不可能であ る。 いくらさがしても幸福は見つからないと教えて 目を見開かす恥を知らぬ人間には、 やるかいし 力が強ければ幸せになれるというものではないし、富も幸せをもたらし はしない。権力も幸福とは関係ない。これらの条件が全部そろっていても幸福ではな 幸福はわれわれの内にある。真の自由、つまらぬ恐怖心を克服する力、そして完璧 な自制心があるところに幸せがある。そして満足感と平和を味わえる能力があれば、 貧困や病や放浪の生活にあえいでいても、いや死の影が迫る苦難の時においてすら、
人生で成功するためには才能も必要だが、気質もそれに劣らず大切な要素であると 言われている。成功するしないは別として、人生における幸福は、平静さを失わない 性格、忍耐力と寛容、周囲の人たちへの好意や思いやりなどに左右される部分が大き 「他人の幸せを願うことはとりも直さす自分の幸せを求めることである」 このプラトンの言葉は、この意味でまさに的を射ている。 この " 心がまえ。が人生の重荷を半分にする この世には、非常に楽天的で、何を見てもよい面しか目に入らぬ人がいるものだ。 この人たちにとっては、挫折してしまうような手ひどい災難など世の中には存在せ す、たとえあったとしても、災いを福に変えて満足感を得ることができる。どんなに 空が暗くても、雲のすき間からもれる太陽の光をどこかに見つけ、たとえ姿は見えな くても、太陽は何かよい目的のためにヴェールをかぶっているだけのことで、必ずそ の後で輝くのだと信じ、満ち足りた気持ちになれるのだ。 このような性格の人は誰もがうらやむ幸せ者である。彼らの瞳は、喜び、満足感、
り、枕であり、たのもしい味方である。ものぐさな大の毛は不潔で皮膚病だらけにな る。怠け癖のある人間が、同じ状態を避けることができるだろうか ? 孤独に生きるな、ーーなまけるな 「身体を動かすのか億劫になることよりも、精神が怠隋になることのほうがはるかに 恐ろしい。頭がいいのに何も仕事をしないのは一種の病気である。悪い病であり、精 神を腐らせるさびであり、地獄そのものである。よどんだ水たまりにうじが湧くよう に、怠け者の頭の中には腐った悪い考えがはびこってしまう。魂が悪魔のとりこにな ってしまうのである。 とにかくあまり金持ちで もっと大胆な表現をしよう。どんな社会的地位でもいい はないが、似たりよったりの幸せな暮らしをしている怠惰な人に、あり余るほどのも のと望むだけの幸せと満足を与えたとする。 を怠け癖が消えない限り、彼らはいつまで経ってもこれでいいということがなく、心 仕も身体も病んだままに、相変わらす疲れ切った表情でいらいらと不満を並べ立て、涙 を流し、ため息をついて自分の不幸を嘆き、疑心暗鬼で社会のあらゆることにたてつ
190 と客として招いた貴族であろうと、まったく同じような思いやりのある明るい愛情の こもった態度で接した。おかげで、どこへ行っても彼は人びとに幸せをもたらし、自 分も幸せになった」 まず自分の周囲への心くばりからはじめよ 礼儀正しさは通常、よい家庭に生まれ育った人たち、そしてどちらかと言えば社会 の底辺ではなく上流社会に属する人たちがもっ特質であると考えられている。 確かに上流階級の子供たちはよい環境に恵まれて育っているから、この考え方もあ る点までは納得できる。しかし、金持ちと同じように、貧乏人はそれなりにお互い同 士、折り目正しくつき合ってはいけないという理山はない。 自分の手を汚して労働にいそしむ人たちでも、自分に誇りをもち、他人を尊敬する ことはできるのだ。互いに相手に対する態度、言葉を変えれば礼儀作法、心くばりに よって、相互の信頼感と自尊心を伝えられる。 この種の思いやりさえあれば、仕事場で、隣近所のつき合いで、そして家庭でも、 楽しみの数はいくらでもふえるものである。たとえ一介のしがない労働者であっても、
8 よ、 8 / し ほどほどの自制心をもたない人間は、仲間にとって我慢のならない存在である。 つも周囲に厄介ばかり起こすので、誰も進んでつき合おうとはしない。大勢の人が、 自制心がないばかりに世間を狭くして出世をはばまれ、根性のねじけた思いやりのな い性格のために、成功を手にすることができずにいる。 反対に才能は劣るかもしれないが、自分を抑制し、辛抱強く冷静さを失わぬように 努めるだけで、成功への道を切り開いている人たちがいるのである。 このように、人生で成功をおさめた人たちの中には、才能ばかりではなく、その気 性によった例もある。それも特に、陽気で明るい気性が幸せをもたらすことは確かな ようだ。愛想のよい柔らかな物腰、人間同士のつき合いに欠かせない当たりさわりの ない話題、いつでも喜んで他人のために奉仕する気持ちが彼らに幸せを運ぶのである。 一方、他人を尊重できない気持ちはいろいろぶしつけな形であらわれる。たとえば、 身だしなみが悪い 、清潔感がない、人に不快感を与える癖をやめないなどである。だ らしのないうす汚れた人間は、見た目の不愉快さで周囲の人たちの感情を害する。形 こそちがえ、これもやはり礼儀をわきまえぬ無礼な態度にほかならない
4 実力にまさる「保証」はない ケチな人間は魂さえも裏長屋に住む " 人生という畑。に何の種を蒔くか 自分を″解放 ~ しなければ足は前に出ないー 肚をすえてかかれば「敵」は小さく見えてくる 6 自分に最高の「幸福」をもたらす生き方 姿を変えた " 幸せ。を見逃さないこと いまこの場で本分を尽くす 訳者あとがき 2 79 270 256
人は幸せを感じることができるのである」 5 この「使命感」が人を大きくする ! 自分の務めを果たす責任感は、勇敢な人を支える力にもなる。それはその人を正し く導き、力を与える。 紀元前一世紀、嵐の中を口 1 マに向けて船出しようとする将軍ポンペイウスを、命 を捨てるようなものだと言って友人たちが引き止めた時、彼が返した答えはりつばで ある。 「私はどうしても行かなければならないが、生きている必要はない る え 彼にとって、自分がやらなければならぬことは、たとえ危険であろうが友人に説得 燃 盟されようが、どうしてもやり遂げねばならなかったのだ。 命
185 人とつきあう まれつきの性格からぎごちなさと堅苦しさを取り除いて、誠意を表にあらわすように しなければならない 模範的な礼儀正しさは水とそっくりで、味も混じり気もなく、透明に澄み切ってい るのが、いちばんおいしいにちがいない。人間の天性は、生地のままのあくの強さを カバーしてくれるものである。このような天性と個性がなければ、われわれの生活は 味気ない変化の乏しいものになり、人間らしいたくましさも失われてしまうだろう。 礼儀正しさは親切心である。他人の幸せをいつも考え、不愉快な思いをさせたりす るような行ないはけっしてしないことである。それは他人に対して親切であるばかり か、自分も感謝の気持ちを忘れず、やさしい行為を素直にありがたく思うことでもあ る。 2 相手の心をどうつかむか 、いくばりとは、主として他人の人格を尊重することである。自分が尊敬されたいと