0 視 ( ルビ使用 ) か傍点以外にあまり名案はなさそうだ。日本語をローマ字化すれば分かち書きに よって解消することだが。 となると、 漢字とカナの関係の基本的原則は、こうした心理上の問題に尽きるといってもよい 最近の当用漢字の用法にも、当然つよい疑問が起きざるをえなくなる。当用漢字にないからとい って、たとえば「こん虫」「書かん」「両せい類」などと書いたのでは、まるつきりわかりにくく なってしまうのだ。「書翰」を「手紙」というように、単純に書きかえできるものはまだしも、 「昆虫」イコール「虫」ではない ( たとえばクモやゲジゲジは虫であっても昆虫ではない ) から、 昆虫の書きかえは不可能である。新語でも作るはかはない。 といって「こん虫」とやったのでは、 まず本来の意味がわかりにくくなる。「こん虫」は「昆虫」という字を知っていてこそ判読でき る性質のものだ。そうであれば「こん虫」とする意味は全くなくなる。そしてもうひとつの問題 が、ここでいう漢字とカナの心理なのだ。、、 とうしても「昆」という字が使えないとすれば、わか ち書きとしての漢字カナまじりの文の長所が完全に破壊される。「こん虫」式に漢字を使って極 端な文を作ってみれば、次のような日常的日本語さえも読みにくくなる。 本しょの目てきは、へん形生せいぶん法のたち場からにつ本ごのぶん法を、特にれん体修し よくこう造を主だいとしてき述することである。 これを原文にもどせば次のようにわかりやすい
168 6 蛙は腹にはヘソがないが背中には ( へソが ) ある。 オしカイボはある。 ⑧蛙は腹にヘソはよ、 ; 〈「腹」が題目の場合〉 ⑤腹には蛙はヘソがないがタヌキはヘソがある。 以上の各例文を比較してみると、ハを二個使うことによって成立した @〇⑧の三例と、ハを一 個使うときの④@〇と意味の同じものがある。とくに問題なのは、三つもの解釈が可能な@ であ ろう。⑩の中でも対照のとり方によって違うと◎が焦点である。これは論理としてはどちらも 矛盾していない ところが、これもハが二つの場合同様、両者は語られるときにイントネーショ ン ( 調子 ) の差として違いが出てくる。すなわちゴチックで示されたところを高く発音すること によって、何を対照としているのかが明示される。もし◎ ( 腹には ) の意味であれば、 6 と@ は 次のように発音されなければならない 6 のには O がない @蛙の腹にはヘソがない。 しかもこの場合だと、ハは題目の役割が消えて対照だけになるから、解釈はできなくなる。 そうであれば「蛙の腹にはヘソがない」 ( 最初の例文としての④または⑩ ) という文を普通に発音す
朝日次郎さん。四十九歳。青森市浅虫温泉出身。練馬区貫井三丁目に住む : : : 朝日新聞』 一九七七年九月二七日朝刊・東京版 ) このスタイルが流行しはじめたのは、たぶんこの一〇年前後 ( 一九六五年前後から ) 以内のこと 新な響きを持つ。私の であろう。だがこの方法を最初に使った人には私は敬意を表したい。 記憶では、これを初めて見たのは疋田桂一郎氏の文章であった。 ( もっともこれが疋田氏の〃発 明〃かどうかは知らないが、ともかく流行以前ではあった。 ) 疋田氏は私が新聞記者になりたての ころ『朝日新聞』の社会部遊軍記者として活躍していた。ときどき社会面の大きなスペースをさ いて出るルボの文章に、もうひたすら感嘆するばかりだった。独得の文体。鋭い視点。スキのな い言葉の選択。かけだし記者の私は、何年ものあいだ疋田氏の文体やものの見方を手本にしてい た。しかも疋田氏のえらいところは、自分の文体をも破壊してゆく点だ。この「何野誰兵衛。五 五歳 : : : 」式のスタイルも、流行しはじめるころには彼自身が使わなくなっている。 投書はそのあと「このおばさん、ただのおばさんではない」と書く。この表現がまた、どうに 章もならぬ紋切型だ。助詞を省いたこの用法は、文自体に「笑い」を出してしまう。落語家が自分 なで笑っては観客は笑わない。 しかし「このおばさん、ただの : : : 」とやると、もう文章が自分で 神 笑いだしている。 いい気になっているのは自分だけで、読む方は「へ」とも思わない。また「た 無 だのおばさんではない」などと無内容なことを書くくらいなら、どのように「ただ」でないのか、 具体的内容をすぐにつづけて書くべく、この部分は省略すべきだろう。
244 前章までの課題は、リズムも含めていわば物理的ともいうべき基礎技術の問題であった。本書 、いけれど、もう一歩次の段階に踏みこんだ の目的もそこにあるのだから、もうここでやめてもし 問題についても以下に論ずることにした。この段階以後だとかえって本は多くなり、文章作法・ 文章読本・文章入門などに類する先人たちの考察も、量的には大部分をここに当てている。さら に「私の場合」としてここに加えるのは、それら先人たちとはまた異なった作文体験による視点 もあるので、いささか資する面もあるかと考えたためである。絵などの技法にも見られるように、 同じ画材を使っても画家によってその″作法 , は驚くほど違い、そしてそれそれ実に参考になる。 ただ、画家には技法を知らせたがらぬ人が案外多いが、文章家たちにそれが少ないのはおもしろ い現象だと思う。 書き出しをどうするか 第一〇章作文「技術」の次に
こうなると、もう記事は大丈夫である。なるほど市長は一応否定した。しかし、その歯切れの 悪い否定ぶりを、そっくりそのまま文章にする。そしてそのあとに、どうしようもない事実を列 挙してゆく。そのような事実を集めるために、多くの人と会い、証拠文書も入手した。こうして 出た記事には、なるほど直接的な形で「市長は大ウソつきだ」とは書いてない しかし読んだ人 は、市長が必死でウソをついていることがよくわかるし、また市長の方も記事に文句をつけよう がないのだ。こうして読者は、市長の正体をよく認識するようになる。 あつま 苫小牧の隣りの厚真町も、この「開発」の対象地域に含まれている。最近 ( 一九七二年 ) の町長 選挙に際して、この町出身の道会議員氏 ( 新聞では実名を出したが、ここでは目的が違うので出さな い ) は、「開発」促進派を対立候補としてかつぎだした。氏自身が強力な促進派である。どう なることか不安を抱いて「苫東」計画をみつめる農民は、とにかく研究会を作って道庁の役人な どの話をきこうとした。すると氏は「開発を前提としなければ」として、これに苫東「協力」 研究会と命名させている。米価すえ置き、減反政策の「農政」による若手労働力の流出、開発計 画による土地買収さわぎで村をかき乱されていた住民は、促進派候補の「開発時代」の旗印に巻 きこまれ、「開発」候補は当選した。 しかし、あくる年になると「苫東」計画への住民の不信が急激に増大する。氏は社会党だが、 社会党道本部も明確に反対の側にまわった。厚真町には反対派の「東部開発を考える会」が発足 する。氏はツジツマがあわなくなった。このあと別の組織「自然と生活を守る会」が発足した が、これは「公害がなければ」という条件つき賛成派であって、氏の指導による一種の促進派
とすべきかは、その置かれた状況によって異なる。前後に漢字がつづけば「いま」とすべきだし、 ひらがなが続けば「今」とすべきである。 その結果今腸内発酵が盛んになった。 その結果いま腸内発酵が盛んになった。 閣下がほんのいまおならをなさいました。 閣下がほんの今おならをなさいました。 右の④は「いま」、⑧は「今」の方が視覚的にわかりやすい。編集者のなかには、こういうと き統一したがる人がいる。「今」は漢字にすべきかカナにすべきか、などと悩んだ上に決めてし まうのは、愚かなことである。実例を見よう。 ナポレオンは、倉庫にあるほとんどからの穀物貯蔵箱に、ヘりすれすれ近くまで砂をつめ、 その上を残りの穀物やひきわりですっかりおおうように命じた。 (r 動物農場』角川文庫 ) 理 の右のうち「 : : にあるほとんどからの」「 : : : やひきわりですっかりおおうように」は読みに ひ から カ : ほとんどカラの」「 : : ほとんどからの」「 : : ほとんど空の」「 : : : や挽き割りです と : 」などと漢字や片カナや傍点を使えば解決 漢つかり被うように」「・ : ・ : やひきわりですっかり : するが、漢字の場合は当用漢字とのジレンマが出てくる。「へりすれすれ」も「へりスレスレ」の 方がわかりやすいが、むやみに片カナを使うのも好ましくないとなれば、この問題は当用漢字無 おお
たとえば「あぶないですから白線までさがってお待ち下さい」というような掲示が駅のホーム に出ている。この「あぶないです」という書き方が文章にも多く登場するようになったのは最近 のことなのだろうか。かっての軍隊用語の「自分の靴は小さすぎるであります」とか、よく国籍 不明の安易なイナカ言葉として使われる「死んじまっただ」とかいった種類に属するこの用法は、 文法的にももちろん誤っている。助動詞の「ダ」と「デス」は、中学生の文法書などに明示され ているとおり、接続は次の三種に限られる。 ①体言 ( 名詞・数詞等 ) , ②「の」などの助詞に。 ③未然形と仮定形だけが 、 : 動詞・形容詞および動詞型活川の助動詞・形容詞型活用の助動詞・ 特殊型活用の助動詞の、それそれ連体形冫 ということは、用言 ( 活用する語 ) のあとに「ダ」や「デス」の連用形・終止形・連体形は接・ 続しないということである。「あぶないです」「小さすぎるであります」「死んじまっただ」はす べて違反だ。この違反が最近べらばうに多い。「うれしいです」「悲しかったです」「よかったで 章すか」等々。 な いうまでもなく、文法は現実のあとからついてくる。もしこれが大多数の用法となってしまえ 経 無ば、文法も変更せざるをえなくなるのであろう。 ( もうそうなってしまったのかもしれぬ〔注〕。 ) それはそれで仕方がない。だが文章としてこれが邪道であり、軽薄・下品になることは覚悟をし なければならない。 これもまた「名人」はあまり使わぬ用法である。 ノノ ) 0
この男に交換を申しこもうとしたとき、かげのほうでもそもそしていたコボマが、とっぜ ん「アレガメ ! 」 ( わが友よ ) とさけんだ。アレガメは、親しい友だちに尊敬の意味をこめ てよぶときのことばなのだ。わたしたちは、ヤゲンプラやコボマなどと、こうよびあうこと のできる親しい仲になっていたのだ。 ( 本多勝一『生きている石器時代し 漢字をカナに開いたりする点は仕方がないだろう。しかし右にゴチックで示した「ノダ」のよ うな使い方を自分はしないはずだと思って原文を見ると、次のとおりであった。 : アレガメは、親しい友人に尊敬の意をこめて呼ぶときのことばだ。ャゲンプラやコボマ など、親しい男たちと私たちはこう呼ぶ間柄になっていた 文がかなり改竄されている。こんなふうにリライトしなくても、原文で子供にも十分わかるで 。オしか。しかしどうしても許しがたいのは「ノダ」というような一一一口葉を勝手に加え、しかも繰 り返していることである。 章 文ついでにいえば、ノダとかノデス・ノデアルの第一の用法は、その前の文を受けて説明すると 神きである。したがってこの用法のときは、前の文章と内容が密接につながっている。文の頭に 無 。したとえば 「ナゼナラ・ハ」が付くような形の場合と思えまよ、 彼はびつくりして立ちどまった。 ( ナゼナラ・ハ ) 二〇年前の恋人が眼前にすわって雑誌を かいざん
312 は水にひたしても消えなくなるイングです。もちろん、最初から「水で消える」ことを前提とし たニセ日イングもあります。これはこれでそういう使い道があるのでしようから、識別して使 うのであれば問題ないと思います。ペリカンだのスグリップだののインクだと、チャンとしたイ ンク ( 本来の、没食子酸インク ) は Permanent ( 不変 ) と明示したプルー日プラック ( 紺色 ) のもの ですが、水で流される方には Washable ( 消せる ) と示してあります。このニセ日インクの方が、 カスでペンがつまることが少ないという長所があるようです。しかしいくらインクの出が良くて も、せつかく書いたものが水でサッと流されてしまっては大変なので、私は Permanent すなわち チャンとした本当のインクしか使いません。 ところが、私が「近頃のインクは : : 」と疑いを抱いたのは、その Permanent と明示したイン くさ グでもどうも臭い気がしているからです。一カ月たってみても以前ほど濃い紺色にならないよう だし、水をかけてみると、完全には消えないにしろかなり流れてしまうではないか。これはもう 少し調べてみることにしますが、日本製のイングでこの点をはっきりさせてないものは、たいて Washable とみてよいでしよう。アテナⅡインキの製造元の「丸善」に電話できいてみると、 最近のイングは没食子酸を少なくして染料をふやし、書いたときにキレイに見えるようにしてい る傾向があるとのことです。以前のような、黒っぱくなるほど濃くなって水で落ちなくなるとこ ろまでの質を要求する客が少なくなったとか。ライトⅡインキに電話してみると、ここもまだチ ャンと没食子酸を使っているそうですが、「なにしろポールペンなどの普及のせいもあってイン クは斜陽で : : : 」といっていました。また。ハイロット萬年筆に入社したある社員が、子会社で製
125 日本の国語国字問題で、漢字とローマ字について論じはじめると、もう底なしの泥沼に引きず りこまれてしまうようだ。さまざまの立場の考え方を紹介するだけでも、一冊の単行本ではとう てい収容しきれないだろう。しかもこれは、文部省を通じて教育の現場に影響し、直接的に政治 とかかわりもするため、対立はきわめて深刻なものにならざるをえない。 私自身も国字問題としての漢字とローマ字について一応の主張を持ってはいるが、ここでそれ を述べようとは思わない。それは第一に、まだ確信をもって主張するほどの勉強をしていないこ とによる。また第二に、本稿の目的はこの問題とは別のところにあるので、軽々に論ずることは 避けたいためである。したがってここでは、日本語の国字が一応「漢字とカナの組み合わせ」で ある現状に立った上で、その範囲内での「わかりやすさ」を論ずることにしたい〔注 1 〕。 極端な話からはじめよう。全文を万葉仮名 ( 漢字 ) で書いてしまうと、これはもはや「漢字とカ ナの組み合わせ」ではないから、まず可能なかぎり漢字を使った場合から考えてみることにする。 第五章漢字とカナの心理