日本語を書き、日本語で考えて来た。私たちにとって、日本語は空気のようなもので、日本 語が上手とか下手というのさえ滑稽なほど、私たちはみな日本語の達人のつもりでいる。 や、そんなことを更めて考えないくらい、私たちは日本語に慣れ、日本語というものを意識 していない。 これは当り前のことである。しかし、その日本語で文章を書くという時は、こ の日本語への慣れを捨てなければいけない。日本語というものが意識されないのでは駄目で ある。話したり、聞いたりしている間はそれでよいが、文章を書くという段になると、日本 語をハッキリ客体として意識しなければいけない。自分と日本語との融合関係を脱出して、 日本語を自分の外の客体として意識せねば、これを道具として文章を書くことは出来ない。 文章を書くというには、日本語を外国語として取扱わなければいけな、 要するに一つの建築みたいにして作りあげるのである。建築技術と同じような意味での「技 術」なのだ。なんだか大げさで、えらいことのようだけれど、作文は技術だからこそまた訓練に よってだれでもができるともいえよう。清水幾太郎氏のこの本は、かけだし記者のころ私も読ん でたいへん参考になったが、題名は「論文の : : : 」よりも「文章の書き方」とか「作文の方法」 とすべきだと思った。 しかしこの優れた作文論にも、日本語というもののシンタックス ( 統語法・統辞法・構文 ) や文化 的背景の理解に関しては限界がある。たとえば久保栄の作品『のばり窯』の文章を引用しつつ、 その意図を肯定しながらも悲観的で、「特殊な語順を初めとする日本語の特色」というような事
参考にした本 ( 本文中でふれた雑誌類は除き、単行本のみ ) 板坂元『考える技術・書く技術』 ( 講談社現代新書・一九七三 ) 入江徳郎「マスコミ文章入門』 ( 日本文芸社・一九七四 ) 岩淵悦太郎・他『悪文』 ( 日本評論社・一九六〇、同新版・一九六一 ) 内村直也『日本語と話しことば』 ( 北洋社・一九七六 ) 梅棹忠夫『知的生産の技術』 ( 岩波新書・一九六九 ) 扇谷正造『現代文の書き方』 ( 講談社現代新書・一九六五 ) 大出晁『日本語の論理』 ( 講談社現代新書・一九六五 ) 大倉佐一『文章の書き表し方』 ( 明治書院・一九七四 ) 大隈秀夫『文章の実習』 ( 日本エデイタースグール出版部・一九七五 ) 大野晋『日本語対談集・日本語の探究』 ( 集英社・一九七六 ) 鉢大類雅敏「句読点活用辞典』 ( 栄光出版社・一九七九 ) し 魚返善雄『言語と文体』 ( 紀伊国屋新書・一九六三 ) 奥津敬一郎「生成日本文法論』 ( 大修館書店・一九七四 ) 奥山益朗『原稿作法』 ( 東京堂出版・一九七〇 ) 片桐ュズル『意味論と外国語教育』 ( くろしお出版・一九七三 )
うして日本語として完全なものになりえようか。だからそういう訳書は、日本語として意味のよ くわからないところを原文で当たってみると、たいてい誤訳している。 しかし多少の誤訳があろうとも、もし②の作業ーーー日本語として完全な建築がなされているな ら、少なくとも「わけがわからぬ」ということにはならない。反対に、外国語がいくらペラベラ で理解は完全 ( ①の方 ) であっても、日本語作文 ( ②の方 ) がダメであれば、翻訳をしたことにはな らぬであろう。そうした場合のわかりにくい原因には、やはり修飾・被修飾の距離の離れすぎが 圧倒的に多い。とくにイギリス語やフランス語のように、主語が述語を強力に支配し、その結果 ネ語が述語よりあとに延々とつながる構文を日本文に翻訳するときにこれは目立つ。なぜそうな るかというと、イギリス語というシンタッグス ( 構文・統辞 ) の世界を、そのまま日本語という別 のシンタックスの中へ押しこんでしまうからである。翻訳とは、シンタッグスを変えることなの だ。たんに単語を入れかえるだけで翻訳できるものなら、翻訳機にやらせればよい。実際、翻訳 機の試作がこころみられているようだが、イギリス語↓フランス語というような似たシンタッグ ス間ならともかく、イギリス語↓日本語といった全く別のシンタックス間では、本当の翻訳機は まず当分は絶望的だろうと思う。たとえば、これはのちの章でくわしく触れるが、「象ハ鼻ガ長 イ」という場合の「ハ」のような便利な助詞を持つ日本語など、ヨーロッパ語のシンタックスに 機械的に移すには、大変な困難に直面するであろう。 では、翻訳文の中からわかりにくい日本語の実例をあげてみよう。ただ誤訳かどうかについて はここでは別問題としてふれす、日本語の問題としてだけ考えることにしこ、。
子供の小さな学校がある。 ここに両者の深層構造 とすることができよう。しかし①をそのよ、つに変えることはできない における文法上の決定的違いが明らかにされる。 : と、まあこういった分析を、もっと徹底的にすすめていったのが「変形生成文法」なのだ ノ」について、その深層構造を独自に掘りさげてゆくところから が、三上章氏は日本語の助詞「、 新理論を提出したともいえよう。その結果到達した一つが「主語廃止論」である。三上氏の文法 論は、もちろん完全無欠の域に達したわけではないが、日本語というものの基本的性質を知る上 で、たいへん重要な指摘をしたことは否定できない。三上氏によれば、このような「当たり前す ぎる」指摘が日本文法界の根幹をゆるがしたのは、これまでの日本文法が西欧文法の直輸入から 脱却できていなかったからだ。全く異なるシンタッグス ( 統語法 ) の主語を土台に発達した文法 を、そのまま日本語に強引にもちこんだことに諸悪の根源があるというのである。三上氏のこの 主張は、明治以後の日本のさまざまな分野に対しても共通して適用できるだろう。邦楽を西欧音 昉楽のシンタックスで考える愚、日本建築を西欧建築のシンタックスで律する愚、要するに異なっ 使た文化を別の文化の基準ではかる愚は、ありとあらゆる分野で行なわれてきた。あの「日本語は 論理的でない」という世紀の迷信に、大知識人とされている人物の頭さえ侵されるにいたった現 象は、こういう悲劇の結末でもあろう。 たいへん大ざっぱに現状をみると、国語学界の主流としての体制派は「主語存在説」で、反主 1 三ロ
民族の言語を、それとは知らすに執拗に維持し滅亡からまもっているのは、学 問のあるさかしらな文筆の人ではなくて、無学な女と子供なのであった。だか ら女こそは日本をシナ化から救い、日本のことばを今日まで伝えた恩人なので あったと言わねばならない。 ( 田中克彦『ことばと国家』 )
されているが、それは決して最大の困難ではない。 私は、一番大きい困難は、日本語は、文法的言語、すなわちそれ自体の中に自己を組 織する原理をもっている言語ではない、 という事実にあると考えている」 日本語の記載法はいうまでもなく、非常に複雑である。それにもかかわらず、それは、森 氏が指摘するように、外国人にと「て一番大きい困難ではないかも知れない。私としては生 来、記憶力が弱いので、日本語の記載法に苦労させられるのだが、この点、自分のことを引 き合いに出すことは不適当だろう。それはそれとして、「日本語は、文法的言語、すなわち それ自体の中に自己を組織する原理をもっている言語ではない」ということは事実だろうか。 ろくにテニヲハのつかい方も心得ていない私がこんなことを言うと、あっかましく聞こえ るだろうが、森氏の主張は独断のように思われてならない。最大の困難は外国人にとって記 載法の相違ではなく、文法の相違である、というくらいのことなら、異議はあるまい。しかし、 「日本語は文法的言語、すなわちそれ自体の中に自己を組織する原理をもっている言語では ない」と言われては、納得が行かない。森氏には失礼だが、そのような断定のうらには、日 本人をユニーグな人間とする心理が働いているように思われてならない。私の考えでは、ど の言語でもそれ自体の中に自己を組織する原理、法則をもっていると思う。 ( 日本ペンクラブ 「日本文化研究論集』の日ラガナ「日本語は " 非文法的言語。か」ラガナ『日本語とわたし』所 収より )
書でこの点を突いて憤慨している。一一一口語学者ロイⅡアンドリ 語ーー歴史と構造』 ( 小黒昌一訳 ) の中で次のように書いた 富士谷、義門、その他によって始められたこの完全に日本で生まれた文法の伝統は、徳川 時代末期に西洋の学問が導入されたことで、不幸にもその芽をつみとられてしまった。もし 外国からこうした非常に有害な影響を受けずに進んでいたら、日本人は世界の学問の歴史で 極めて重要な文法的記述の科学を必らず発展させていたことであろう。しかし残念なことに、 徳川時代末期数年間にオランダ語とそれに次ぐ英語の研究熱が高まったため、人々は医学と 天文学の新知識を求めるためだけではなく、新しい進歩的文法観と考えたものを求めて外国 の書物に目を転じたのである。その時に日本人は判断を誤ったのである。当時の西欧の一般 的言語観と文法研究のレベルは、かってない程に低いものであった。その結果として、日本 人が当時獲得したものはほとんど全て、今でも学び直す必要のあるものとなっている。古く さくて非科学的な西洋文法観が大量にたちまちのうちに日本語文法研究の用語や方法論の中 にもちこまれ、それらは現在でも日本の学校の伝統となって残っている。富士谷ら先駆者的 学者の科学的・記述的方法論は、インド・ヨーロッパ語文法、特にオランダ語と英語の文法 範疇類を日本語の中に確立しようという大規模で悲惨な試みの前に、捨て去られてしまった。 この領域での研究のはっきりとした方法論的基盤もなく、ただただ西洋文化の相をまねする ようなサルまね的熱意をもって模倣に精出しているうちに、日本の自称文法家連は、やがて、 Ⅱミラーは、その著書『日本
木多勝一 カナダⅡエスキモー 一一ユーギ一一ア高地人 アラビア遊牧民 戦場の村 アメリカ合州国 庫中国の旅 殺される側の論理 日本語の作文技術 ルポルタージュの方法 そして我が祖国・日本 事実とは何か 北海道探検記 職業としてのジャーナリスト 殺す側の論理 冒険と日本人 シリーズ既刊 = 三巻 憧憬のヒマラヤ 子供たちの復讐 検証・カンボジア大虐殺 南京への道 受信料拒 K ロの珊理 天畠の軍隊 植村直己の冒険 日本環境報告 マゼランが来た しやがむ姿勢はカッコ悪いか ? 釧路湿原 先住民族アイヌの現在 〈新版〉山を考える 実戦・日本語の作文技術 滅びゆくジャーナリスム リーダーは何をしていたか きたぐにの動物たち
25 なぜ作文の「技術」か 当時流行していた英語の記述法とほとんど区別できないような記述を日本語にも行うことに 成功したのである。二つの言語が構造的に非常に異なっていることもあり、出てきた結果は もちろん悲惨であった。 日本の学校制度で今日教えている文法方式も、また多くの日本人専門家が日本語を分析す る方法も、ともに大部分は見境いもなく借用を行なっていた時代の遺産である。 文部省教育もこれには責任があるだろう。 小学校でいったい作文の基本的技術をどれだけ教え ているのだろうか。作文の時間そのものが、たとえば私たちの小学校時代〔注 5 〕より少ない上、 読書の「感想文」などを書かせているのだ。このような日本の教育環境もまた、いまの日本に非 論理的文章の多い現象の一因であろう。こうした問題をも含めながら、日本語の作文技術につい て考えていきたい。 〔注 1 〕加ページここで「言葉の芸術としての文学は、作文技術的センスの世界とは全く次元を異にす る」といったのは、たとえば植物図鑑の図と、絵画としての描かれた植物との違いに似た意味であって、 マチスが「前衛的」に花を描くセンスと、植物学者が新種の植物を正確に図にするセンスとは全く次元 が異なるようなものである。現代詩や俳句はもちろん現代小説にもその意味での「前衛的」なものがよ くあり、それは谷崎潤一郎などが「文章に実用的と芸術的との区別はない」文章読本しという場合と は意味が違う。散文に限っても、これはやはり次元を異にする。 ( もっとも「前衛的試み」を退廃とし て排除するとなると、また別の次元の問題になるが。 )
187 助詞の使い方 以上にのべたような特徴は、イギリス語などが前置詞的言語であるのと反対に日本語が後置詞 的言語であることと深く関連するようだ。たとえば久野暲氏の次の指摘が参考になろう。 英語の並列接続詞 and は、その後に来る要素と続けて発音されるが、日本語の並列接続助 詞は、その前に来る要素と続けて発音される。 〇 John and ・ Mary x John ・ and Mary 〇 John stupid and-slow. X JOhn is stupid-and slow. 〇太郎ト花子 x 太郎ト花子 〇ジョンハバカダシノロマダ。 x ジョンハバカダシノロマダ。 日本語の後置詞性は、日本語が rnO> 語〔注 1 〕であることと何か深い関係があるに違いな 。 Greenbe 「 g は、世界の言語にあてはまる普遍的特徴として、 TO> を正常の語順とする 言語の大部分が後置詞的であると観察している。日本文法研究』四ページ )