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検索対象: 日本語の作文技術
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1. 日本語の作文技術

278 り読まれる内容を書こうとするなら、できるだけ大量の事実を取材しておいて、その中から最も 目的に適した材料を選びだす必要がある。このとき、枠の中にたくさんの事実をつめこんでも確 に密度は高くなるだろう。しかしそれは、資料としての価値が高くはなっても、読む人をひき つけて強い印象を与えるためには、良い記事とはいえない。二〇〇字の中で三つの材料を使うよ りも、最も適した一つの材料だけを使って、余裕ある書き方で筆力を生かす。この方が本当の意 味で密度の高い記事になる。 戦争のルポルタージュのような場合も同じである。ベトナム戦争のルポをこれまで断続的に九 年間つづけてきた中で、最初の南・ヘトナム ( 一九六七年 ) については新聞で六部に分けて計九八回 連載した。そのうち第五部「戦場の村」 ( 二〇回 ) は、戦場にされた村を最前線の兵隊とともに取 材して歩いた結果オカ 、、こー、ほとんどは二カ所の戦場のことが書かれているにすぎない。 ( のちの単 行本ではもっと書き加えられているが。 ) しかしこの二カ所の戦場について、書かれている内容 に直接関係する部分だけ、その部分の時間を切りとって計算してみると、わずか数時間になって しまうだろう。たとえば米兵が解放戦線兵士の死体から耳を切りとって記念品にするところなど、 連載の一回分を占めているものの、この事実の進行した時間はわずか数分間である、発狂した 老婆が焦土と化した部落に歩いていく最終回の舞台も、時間にしたら二〇分間くらいのことにす ぎない。けれども、この二〇回分の合計数時間は、決して取材したすべてをそのまま書いたので 、を十′ . し 。ます、最前戦への従軍が何回もくりかえされる。いろんな舞台、いろんな光景が、その 都度取材されてゆくけれど、決定打となるような舞台はむしろ少ないものである。そうした中か

2. 日本語の作文技術

よって考えながら決めます。カードへ記入するヒントは、ごくかんたんな内容であって、あまり くわしく書く必要はありません。連載の場合、ひとつの柱が分量によって二回以上に分けられる こともあります。これに使うカードは、私も梅棹忠夫氏の考案した京大式の型です。便利だと思 っています。「全体の構想」はこのとき出来上がったことになりますが、実際には原稿を書きだ してからもかなり修正します。順序もよく変わることがあります。 3 原稿用紙 どんな原稿用紙がいいかは、全く個人的な趣味の問題ですから、各自が好きなのを選ぶほかは ありません。少したくさん書く人でしたら、自分の好きな原稿用紙を直接注文する方がよいでし よう。この「趣味」というものは仕方のないもので、たとえば二〇〇字 ( いわゆる「ペラしがい いか四〇〇字がいいかといったことなど、梅棹氏は二〇〇字の方を圧倒的にすぐれているとして 支持されているけれど、私は四〇〇字の方が好きです。これは文体にも関係してくることなので しよう。私は書きながらときどき、いま書いたばかりのところをチラチラ見るくせがあります。 文章の全体の流れとか、リズムとかのためにも、これはほとんど無意識的にやっていることです。 そのとき、二〇〇字の原稿用紙だと、すぐ前の紙だけでは不足で、もう一枚前つまり二枚前のを 見たくなることがある。これは面倒でイライラさせられる作業であります。すぐ前の紙だけな ら、書き終わったのをそのまま横において重ねてゆくだけで常に前の紙が見えるわけだけれど、 二枚前・三枚前となると、いちいちめくって見なければなりませんから。実につまらぬ、ささい

3. 日本語の作文技術

の妙薬になりうるのか、となると : 名文というのはいろいろある。世の不幸がいろいろあるように。しかし、悪文というのは一つ しかない。世の幸福が一つであるように。悪文というのは、わかりにくい文章のことである。 さて、ここで冒頭にもどる。 ちゃんとした日本語を書こうと思ったら、まず、勉強に本多勝一氏の『日本語の作文技術』を 読め。これが私の持論である。なぜか。 なぜなら、どうすれば文章がわかりよくなるか、その秘訣がそこに書かれているからである。 「文法」とは、ほんとうはこの秘訣のことなのだが。 小声で言っておくと、ごく忙しい目にあっている人は、全巻を通読しなくてもいい。第一章か ら第四章まで読めば、それだけで確実に、文章はよくなる。この本はそういうスゴイ本なのだ。 悪文とはわかりにくい文章のことである。だから、わかりやすく、わかりやすくと心がければ よい。「主語」が欠けているという指摘も、じつは「わかりやすさ」を心掛けよ、ということで あったのだが、「わかりやすさ」ということでいえば、何が何にかかるか、つまり修飾・被修飾 の関係をはっきりせよ、という忠告のほうがよほどためになる。そのほうが日本語の構造に忠実 説だからである。 解 ( 悪文例— ) 私はがが o が死んだ現場にいたと証言したのかと思った。 この文章など「主語」はしつかりしすぎるはどしつかりしている。それでいてじつにわかりに

4. 日本語の作文技術

254 や笛の音をきかせる。これが何であるかは、その数杪あとからアナウンサーが説明をはじめる。 私は放送の技術について全くの素人だが、この用法は法則みたいなものなのだろうか。先日見た 沿岸漁業のテレビは、もうほとんど一〇〇パーセントが、画面の変わるごとにこれをやっていた。 漁師を写すときは手先のアップから画面に出し、小舟を写すときはスクリューのたてる泡のアッ プから写し : : : というように、なんでもかんでもアップから始める。 力なり この方法の意図は、論文の「いきなり本論」とか、紀行文の「いきなり本舞台」とは、、 違ったところからきている。もっと心理学的なものだ。たとえば漁師を写すのに手先のアップか ら始めるとしよう。見ている側は単に手先であることしか最初はわからない。いったい何だ、と 思う。この「何だろう ? 」と一瞬好奇心を起こすこと、このことを狙っているのだ。何のことか わからないから、わかろうとして熱心に画面をみる。その連続で視聴者を引きずりこんでいく。 これは映画でもよくあるテだ。 全く同じことを文章でやる人がいる。たとえば身体障害者のグループが餅つきをしたという記 事をかくとき、ます冒頭で書くのが「ペッタンコ、ペッタンコ」というオノマトペ ( 擬声語 ) で ある。餅をついている音だ。これはラジオの場合の、さきにあげたお祭りの放送の、まず太鼓や 笛の音をきかせるのをそのまま文章にした方法だろう。 だが、文章の世界ではこれはやめた方がいいと私は思う。なぜかというと、テレビ ( 視聴覚 ) に せよラジオ ( 聴覚 ) にせよ、同時に二つ以上のものを混乱なく伝達できるジャンルである。ラジオ なら、太鼓の音をきかせながらアナウンサーが語ることもできるし、テレビだと、スグリューの

5. 日本語の作文技術

しまいました。これは次のような理由によるものと思われます。 ①書く分量が多くなると、フィールド日ノートのような小型判ではしよっちゅうべージをめく らねばならす、これは読むときにも、極端ないい方をすれば小学校一年生の国語のノートを見る 一ページに書かれている字が少なすぎてイライラさせられる。かといって小さな字でぎ っしり圭くとスビード が落ちる。とくにエンビッを使った場合、紙にこすられて読めなくなる。 が大量になりすぎて、こういう小型の硬いノ ②これも書く分量が多い場合の欠点だが、ノート ートばかり、一回の調査旅行で数十冊もできてしまう。整理に不便だし、目的のメモを探すのに も大変。大学ノートなら、たとえばスワートⅡヒマラヤの二カ月の踏査でもせいぜい十数冊どま り。それでもたとえば一〇カ月にわたったベトナム取材だと大学ノートは三〇冊をゆうに超える から、もしフィールドⅡノートを使えば一〇〇冊以上になり、扱いに困る。 ③大学ノートは、あとで五 ~ 六冊すっ合本して製本することができ、たいへん整理しやすい ④大学ノートは、メモをとりながら通しページを書いてゆくのにも便利。たとえばひとつの調 で査でノート が二〇冊になったとき、一冊が八〇ページのノートなら一六〇〇ページになる〔注〕。 稿こうしてページを書いておくと関連メモを拾いだすのに便利。小型のフィールドⅡノートではと てもやりきれない ( 図 1 参照 ) 。 モ ⑤大学ノートは面積が広いので、メモを自由自在にとれる。とくに図や表を加えたり、また上 メ 下左右を無視した立体的なメモをとるような場合は、フィールド日ノートではせまくてどうにも ならない ( 図 2 参照 ) 。

6. 日本語の作文技術

はどのように機械の改良・大規模化がすすんでいったかといったことが、実にこまかな具体的記 述ですすめられる。あれだけの具体的事実で支えられているからこそ、世界をひっくりかえすほ どの説得力を持つにいたったとさえいえよう。マルグスがあれを書く作業を、実際にペンを動か している時間と、それ以前の調査・取材の時間とにわけてみたら、たぶん後者の方が何十倍も、 あるいは百倍もかかっているかもしれない 毛沢東の初期の論文に「湖南省農民運動の視察報告」という報告がある。これなどは一種のル ポルタージュ的性格をもったもので、やはりたいへん具体的な文章である。それまでの都市労働 者に重点をおいた中国革命が、毛沢東によって農民に重点をおいたものへと変わってゆくために は、このような具体的論文と、それを支える調査・取材が大きな原動力になっていた。観念的に なるとどうしても現実から遊離し、したがって現実を動かす力にはなりえない。 よく「現実的」という言葉があるが、具体的であることと、いわゆる現実的とは全く意味が違 う。反動的政治家が好んで使う「現実的」とは、現在の反動体制を維持するための、現状追認と しての「やりやすい解決方法」にはかならない。身体障害者問題や老人問題を「現実的に」解決 」するには、この社会から消してしまうことだ。たとえば太田典礼という人は次のように語る。 技 文 「植物人間は、人格のある人間だとは思ってません。無用の者は、社会から消えるべきなん 作 だ。社会の幸福、文明の進歩のために努力している人と、発展に貢献できる能力を持った人 だけが優先性を持っているのであって、重症身障者や恍惚の老人から『われわれを大事にし

7. 日本語の作文技術

283 作文「技術」の次に ならせた記者が、功成り名とげて大家になり、そして年もとりはじめるころ、筆先だけで駄文を 書く売文の徒になりさがる例がある。彼は決して文章が下手になったのではなく、ただ足まめに 取材活動をしなくなったからであり、手を抜いたからであり、実社会から実践によって謙虚に学 ぶことを怠っているから、もはや事実による説得力を持ち得ないのだ。一般に「評論家」を自称 しはじめると出やすい傾向である。 そのように取材活動は重要なものだから、これを論じはじめたら一冊の単行本を必要とするく らいであろう〔注〕。取材には人それぞれの方法があるし、そのために書かれた本もすでに何冊か 出ているから、ここでは二つの重要な点だけを指摘しておきたい。 その一。誠意をもって取材相手に対すること。誠意は、まず態度であり、次いで事実をもって 証明することである。取材態度ということについて、加藤秀俊氏はこんなことを書いている。 じっさい、わたしはこれまでの体験のなかで、大記者、名記者といわれる人たちにたくさ ん会ったが、そういう人はひとりの例外もなく、柔和で、謙虚な人びとであった。肩ひじ張 って眼光するどい そういうタイプの人はテレビの記者ものには登場するがそれはけっし てじっさいの名記者のイメージではないのである。ほんとうの名記者は、しずかで、たのし い人物たちなのである。その人がらが、すばらしい取材能力を決定している、といってもさ しつかえないだろう。かれらはひとに話をきくにあたっての基本的な作法、つまり、謙虚さ を人がらのなかにそなえているのである。 (r 取材学し

8. 日本語の作文技術

そのままで実にわかりやすく、自然で、したがって正確かっ論理的だ。私は自分で書くときも、 むろん声には出さないが、頭の中で読みながらテンをうっている。右の二例を検討してみてもわ かるように、テンは決して無駄なところにうたれていない。かならす理由のあるところ、それだ けにうたれている。すなわち、テンのうち方について厳密な要求をするなら、前に原則として述 べたように、必要なところ以外にはうつなと極論することもできよう。波多野完治氏の『文章心 理学入門』は、同じことが西欧の文章についてもいえることを次のように書いている。 外国文でも ( 日本文のように ) 口調でコンマを打っことはある。しかしこの口調は「文章」 においては、やはり統辞論の方から規定されているのである。単なる口調で打っことはいや がられる。そのような点 ( コンマ ) は打たぬがよいとされているのである。外国文では一般に コンマのたくさんある文は、現代文としてすぐれたものではない。統辞論上、どうしても仕 方のないところにだけ、文章法の上から切るべきところにだけ、コンマを置くのである。 自分の文章について私自身反省してみると、無駄なテンがとくに多いとはいえないが、厳密な い意味では不要と思われる例もときどき目につく。これからはもっと注意して減らしてゆきたい。 の 占 以上に述べてきたような原則の上で、打ってならないところに打たれているテンの実例をあげ ておこう。そんな実例はいくらでもころがっているが、この部分はいま旅先のサイゴンで書いて いるので、たまたま手にしている雑誌から拾ってみた。

9. 日本語の作文技術

264 だ。涙も涸れはてた悲劇の子供らは : この調子でも文章そのものはもちろんわかりやすいが、こういった総論的な内容を大げさな形 容詞で訴えるよりも、具体的事実で押していく方が読む人の心をつかみ、したがって迫力があり、 結果的により強く訴える。この文例の場合だと、たとえば次のように書くこともできよう。 昨日も交通事故で九人が死亡し、七五人が重軽傷を負った。中でも東京都中野区北沢二丁 目八の三会社員佐藤茂さん ( 三八 ) などは、自宅近くの歩道を横断中に暴走車にひかれ、頭 をつぶされて即死した。佐藤さんは一昨年妻に先立たれたので、小学校三年の長男太郎君 ( 八つ ) と幼稚園児の長女花子ちゃん ( 五つ ) は孤児となった。知らせで現場にかけつけた二 人の子供は、頭がつぶれて判別できない父親の死体に、しばらくは珍しいものでも見るかの ような目つきだったが、覚えのある着物や靴でまもなく父親とさとった。太郎君が「お父ち ゃん ! 」と叫んで頭のない死体にすがりつくと、花子ちゃんは立ったままで突然声をあげて 泣きだした。集まってきた近所の人々もみんな涙をぬぐった。 このように具体的な事実を書いて、そのあとで交通遺児の現状がどうなっているか、その救済 にはどういうことをすべきかを、やはり具体的な書き方で訴えてゆく。 この例でもわかるように、具体的事実を書くということは、同時に大げさな修飾語をやめると いうことでもあり、それは第八章で問題とした「自分が笑わない」ことに通ずる方法でもあろう。

10. 日本語の作文技術

こうなると、もう記事は大丈夫である。なるほど市長は一応否定した。しかし、その歯切れの 悪い否定ぶりを、そっくりそのまま文章にする。そしてそのあとに、どうしようもない事実を列 挙してゆく。そのような事実を集めるために、多くの人と会い、証拠文書も入手した。こうして 出た記事には、なるほど直接的な形で「市長は大ウソつきだ」とは書いてない しかし読んだ人 は、市長が必死でウソをついていることがよくわかるし、また市長の方も記事に文句をつけよう がないのだ。こうして読者は、市長の正体をよく認識するようになる。 あつま 苫小牧の隣りの厚真町も、この「開発」の対象地域に含まれている。最近 ( 一九七二年 ) の町長 選挙に際して、この町出身の道会議員氏 ( 新聞では実名を出したが、ここでは目的が違うので出さな い ) は、「開発」促進派を対立候補としてかつぎだした。氏自身が強力な促進派である。どう なることか不安を抱いて「苫東」計画をみつめる農民は、とにかく研究会を作って道庁の役人な どの話をきこうとした。すると氏は「開発を前提としなければ」として、これに苫東「協力」 研究会と命名させている。米価すえ置き、減反政策の「農政」による若手労働力の流出、開発計 画による土地買収さわぎで村をかき乱されていた住民は、促進派候補の「開発時代」の旗印に巻 きこまれ、「開発」候補は当選した。 しかし、あくる年になると「苫東」計画への住民の不信が急激に増大する。氏は社会党だが、 社会党道本部も明確に反対の側にまわった。厚真町には反対派の「東部開発を考える会」が発足 する。氏はツジツマがあわなくなった。このあと別の組織「自然と生活を守る会」が発足した が、これは「公害がなければ」という条件つき賛成派であって、氏の指導による一種の促進派