論文であれ報告であれ「お知らせ」であれ、また一枚のパンフレットであれ一冊の単行本であ れ、少なくとも他人に読んでもらうことを目的とした文章を書くのであれば、まずその内容がな ければならない。 もっとも随筆というような分野では、・ へつに内容らしいものもなくてただ気分 のままに書かれていることもあるが、それでも魅力的な例があるのは、それが文体そのものを 「内容」としているからなのであろう。純粋に音そのものだけを楽しむ音楽があるのと同じこと である。しかしここではそういった分野を一応例外とし、なんらかの訴える内容のある場合を対 象としよう。では、その内容が最も理想的に読者に伝わるためにはどうすればよいか 全く単純な第一歩は、少なくとも終わりまで読んでくれるものを書くことだ。最後までとにか く読まれなければ話にならない。途中で放りだされてはとうてい目的を達せられない。文章をわか りやすくするための技術をこれまで論じてきたのも、ひとつにはこのためだともいえよう。古典 のように評価が確定したものや職業上必要なものなら、面白くなくても我慢して読まれることは ある。・ハルザックの小説などは、冒頭にたいくつな部分が長くつづくことが多いけれど、それを はるかに超えて面白い内容があとにひかえていて、冒頭のたいくっ部分はその布石になっている。 」しかも読者は、多くの場合・ハルザックが面白いことを知っていて読みはじめる。メルヴィルの つま、出てくる。 『白鯨』など、冒頭で鯨に関する文献が延々と並ぶし、前半に鯨学や捕鯨学がい。し 文それでも多くの読者は、これがアメリカ文学の古典だと宣伝されているので、我慢して読みはじ める。また「わかりにくいことは高級なのだ」という迷信にとりつかれやすい学生たちは、へた くそで絶望的な日本語で書かれた哲学書でも神妙に読んでくれる。
51 修飾の順序 ③もえる若葉に雨が豊かな潤いを与えた。 ④もえる若葉に豊かな潤いを雨が与えた。 ⑤豊かな潤いを雨がもえる若葉に与えた。 ⑥豊かな潤いをもえる若葉に雨が与えた。 さて、どれが最も自然で読みやすいだろうか。もはや「多少の差」とはいえす、読みやすさ・ わかりやすさに「かなりの差」を認めざるをえないだろう。①だと「雨がもえる : : : 」となって、 これが雨だからいいものの、 一瞬「もえる」は「雨」を受けるかのような感じを受けなくもない。 たとえば「太陽」だったらますますそうなるだろう。そうした誤解を一瞬たりとも与えすに、読 む順に自然に理解できるものは、④か⑥である。この二者で優劣を決めれば④であろう。しかし この④と⑥の差は、さきの「初夏の雨が」の比較の場合のとの差と同じことである。したが ってこれは、「初夏の」を除いた結果とは関係がない。 次に、こんどは「もえる若葉」の「もえる」を除外して、語順を比べてみる。 ①初夏の雨が若葉に豊かな潤いを与えた。 ②初夏の雨が豊かな潤いを若葉に与えた。 ③若葉に初夏の雨が豊かな潤いを与えた。 ④若葉に豊かな潤いを初夏の雨が与えた。 ⑤豊かな潤いを初夏の雨が若葉に与えた。
というようなことは、文法的には可能だけれど、実際はありえない。だいたい「与えた」とい う言葉が成り立つのは、「人間」 ( または動物 ) が「物」を「与えた」ようなときにほば限られる。 反対に「物が人を与えた」ということは、文法的には可能だけれども、普通はないことだと。そ うすると「与えた」という言葉が相手として選び得る言葉は、案外せまいものになってくる。 ろんな言葉が論理的には可能だけれども、実際にはそんなに何でも選べるわけではない。「与え た」にくつつく言葉とは、たくさんある言葉の中で案外少ししかない。「雨が潤いを与えた」とい う言い方は日本語として不自然な表現である。「物」が「物」を与えている。翻訳調だ。この場 合「与えた」なんて一一 = ロ葉を使わない方がいいのではないかということを林暢夫氏は主張している のである。 これは重要な指摘だと私も思う。ここで「与えた」が問題とされたようなことは、実は他のす べての言葉にも言えるのではないか。要するに、日本語に限らず、あらゆる言語のあらゆる単語 には、それぞれ独得の親和度 ( なじみの範囲、接合関係 ) があるのだ。それを無視すると「ヘン な文章」や「ヘンな会話」になってしまう。たとえば「若葉」という単語の親和度を考えてみよ 、つ。「もえる」や「みどり」とはど、つだろ、つか もえる若葉 みどりの若葉 どちらも強い親和度がある。しかし、もし二つのどちらがより一層強いかというと、「若葉」
132 しかし送りがなというものは、極論すれば各自の趣味の問題だと思う。ひとつの法則で規定して も無理が出てくる。ほとんど唯一の可能な法則化は、語尾変化可能な部分以下をすべて送りがな にすることだ。たとえば「終る」という単語は「おえる」とも変化する以上、「終わる」としな ければならない。文の最後に出てくる「終」も「終わり」だ。反対に「すくない」は「すくな」 までが語幹だから「少い」と書くと、「すくなくない」冫 よ「少くない」になる。これはどうも 「すくない」のか「すくなくない」のかわかりにく 。文部省は四苦八苦して定めたものの、ど うしても都合が悪くなって、これまで何度も改定してきた。新聞社はそのたびに右往左往させら れ、今やいかなる記者といえども、校閲部の専門家以外に現行の規定を正確に守りうる者はいな くなった。送りがなは、規定すること自体がナンセンスなのだ。文豪たちの作品を見られよ。な んと好き勝手にそれそれの方法で送りがなを使っていることだろう。要するに、送りがな問題は 文部省など黙殺し、趣味に従って勝手気ままにすればよいということである。 オオいくら趣味の問題とはいえ、同じ一人がいろいろ違った方法で書いてはますい。あると きは「少い」と書き、あるときは「少くない」と書いたのでは、読む方が混乱する。あまり送ら ない傾向の人は全文を常にそうすべきであり、送りたい趣味の人は常に送るべきである。私自身 は比較的よく送るようにしている。「住い」を「すまい」と読ませたり、「始る」を「はじまる」 と読ませるのは、読者に一種の翻訳を強要することになりがちだ。やはり「住まい」「始まる」と とはいえ、これは論理の問題としては大したことではない。やはり趣味の問題であろう。ただ
0 視 ( ルビ使用 ) か傍点以外にあまり名案はなさそうだ。日本語をローマ字化すれば分かち書きに よって解消することだが。 となると、 漢字とカナの関係の基本的原則は、こうした心理上の問題に尽きるといってもよい 最近の当用漢字の用法にも、当然つよい疑問が起きざるをえなくなる。当用漢字にないからとい って、たとえば「こん虫」「書かん」「両せい類」などと書いたのでは、まるつきりわかりにくく なってしまうのだ。「書翰」を「手紙」というように、単純に書きかえできるものはまだしも、 「昆虫」イコール「虫」ではない ( たとえばクモやゲジゲジは虫であっても昆虫ではない ) から、 昆虫の書きかえは不可能である。新語でも作るはかはない。 といって「こん虫」とやったのでは、 まず本来の意味がわかりにくくなる。「こん虫」は「昆虫」という字を知っていてこそ判読でき る性質のものだ。そうであれば「こん虫」とする意味は全くなくなる。そしてもうひとつの問題 が、ここでいう漢字とカナの心理なのだ。、、 とうしても「昆」という字が使えないとすれば、わか ち書きとしての漢字カナまじりの文の長所が完全に破壊される。「こん虫」式に漢字を使って極 端な文を作ってみれば、次のような日常的日本語さえも読みにくくなる。 本しょの目てきは、へん形生せいぶん法のたち場からにつ本ごのぶん法を、特にれん体修し よくこう造を主だいとしてき述することである。 これを原文にもどせば次のようにわかりやすい
170 、、こナこ寸くのであれば「ふつうか遅いか」というこ 同じ書き表し方でも⑩のようこ、 ; とで「少なくとも速くはない」の意味になる。①と似ているようだが、①には「ふつう」より も「遅い」方 ( 速い反対 ) が意識され、⑩だと「速い以外」のすべて ( ふつう・やや遅い・遅い うんと遅い ) と対照される。こういうときは、書き表された表層構造では⑩と⑩とで区別がない 、、、発音上では傍線の部分にプロミネンス ( 強調 ) を置くことの違いとして区別できる。だが⑩ を言おうとして⑩ととられることもあるから、そんなときは文章を書きかえる方がよい。たとえ ば⑩は 町彼はいつも飯を速くハ食べない。 として、ハか 「速く」だけに付くことを明確にし、「いつも」を前にもってきて切り離せば解 決する。 しかし一般的によく失敗するのは、①を書いて当人は①か⑩のつもりでいる場合だ。こんなか んたんな例なら見わけやすいが、少し複雑になるとついこの関係を見落とす。そのいい例が第二 章の最後であげた次の例文であろう。 運輸省の話では、シンガポール海峡は、東京湾、瀬戸内のように巨大船の航路が決められ、 対向船が違うルートを運行するよう航路が分離されていない。 。しったい、東京湾と瀬戸内海は航路が分離されているのか、いないのか、どちらだろう
280 引き受けられないので、すぐにでも書けるようなものを材料にする。ということは、日ごろ見聞 している材料で、注文された枠に入れるだけの背景がすでにあるということだ。しかし、そう常 にうまくゆくとは限らない。、、 こく最近の例をあげてみよう。 月刊誌の『看護』から四枚プラス一〇行の長さで「何でもよいから」と依頼された。そのてい どの枠で、かっ何でもよければと思って気軽に引き受け、多ににかまけているうちに締め切り前 日になってしまった。ところが、どうもいいテーマが思い浮かばないのだ。つまり、この長さの 枠に密度の高い文章を書くためには、さきの原則からすれば三〇枚から四〇枚を書きつくすだけ の背景が必要である。しかし、二枚くらいならたくさん〃手持ち〃があるけれど、あるいは反対 に三〇枚とか五〇枚の長いテーマならまた別だけれど、四枚プラス一〇行の枠で書くに適したテ マが、なかなか思い浮かばない。帯に短しタスキに長し。 いくらテーマが何でもよいとはえ、 まさか「看護』に映画批評を書くわけにもゆかない。 こうなると取材せざるをえなくなる。 結局、日ごろ漠然と思っていたことの中から、アンデルセンの童話のイカサマ性を批判するこ とにした。『みにくいあひるの子』といった話が、どうもふざけている。手もとに昔買った岩波 文庫版『アンデルセン童話集』の第一巻があったので、改めていくつか読んでみると、ますます 臭い。近くの書店に行って、第二集・第五集の中から数篇を立ち読みし、アンデルセン自身によ る解説がついている第一〇巻 ( 最終巻 ) を買ってきた。日ごろ抱いていた疑問はこれで確信を持 つにいたり、書けば数十枚でも可能な背景が準備できた。驚いたことに、彼の童話の中では数少 ない傑作と思っていた『裸の王様』のような作品は、実は彼の創作ではなくて、スペインの一三
110 ⑩まっ、すぎ、ひのき、けやきなど ⑨天地の公道、人倫の常経 〈検証〉①はナカテンの方がよい。⑨は前述のように第一原則とからんでくるのでテンの方に傾 く。しかしこのていどの長さだと、まだナカテンでもよい 十、対話または引用のカギの前にうつ ( 例① ) 。 やりたけ ①さっきの槍ヶ岳が、「こゝまでおいで。」といふやうに、 〈検証〉カギとテンは何の関係もない。 この例でみると、もしテンをうっとすれば第一原則とし ての話にすぎない。 十一、対話または引用文の後を「と」で受けて、その下にテンをうつのに二つの場合がある 「といって、」「と思って、」などの「と」にはうたない。 「と、花子さんは」といふやうに、その「と」の下に主格や、または他の語が来る場 合にはうつのである。 ⑩「なんといふ貝だらう。」といって、みんなで、いろ / ( 、貝の名前を思ひ出してみま
念のためにもうひとっ別の例をあげてみる。これは阪倉篤義氏がその著書『日本文法の話』で 出している文例だ C 初夏の雨がもえる若葉に豊かな潤いを与えた。 これもガ・ヲ・ニの三つの格助詞を使って述語「与えた」を補足している。語順をいろいろに 変えてみよう。 O 初夏の雨が豊かな潤いをもえる若葉に与えた。 O もえる若葉に初夏の雨が豊かな潤いを与えた。 もえる若葉に豊かな潤いを初夏の雨が与えた。 国豊かな潤いを初夏の雨がもえる若葉に与えた。 の豊かな潤いをもえる若葉に初夏の雨が与えた。 とこ もちろん多少の差は感じようが、決定的にどれがわかりやすいと決めることはできない ろが、この中の「初夏の雨が」から「初夏の」を除いて、単に「雨が」とし、語順を比べると次 のようになる。 ①雨がもえる若葉に豊かな潤いを与えた。 ②雨が豊かな潤いをもえる若葉に与えた。 うるお
さて、これまで述べてきたことは、言ってみれば〃物理的〃な問題であった。しかし最後にと りあげなければならないのは、むしろ心理的な問題に属することである。以下、実例に即して考 えてみよう。さきに次のような阪倉氏の文例を挙げた。 初夏の雨がもえる若葉に豊かな潤いを与えた。 この中の「もえる」という言葉の親和度、つまりなじみの強弱を検討するために、この文例を 次のように変形する。 初夏のみどりがもえるタ日に照り映えた。 これは梅棹忠夫氏と話していたときに梅棹氏が即興的に変形してみた文例だが、これまで述べ てきた三つの原則からこれを考えると 初夏のみどりが / 照り映えた。 もえるタ日にゝ つまり①句や連文節から言っても関係ないし、②長い順からすれば同じくらしオ 、どし、 3 状况 の大小としても大差はない。そうするとどちらが先でもいいようなことになるけれども、ここ