合、政治経済文化など「大問題」における差異にはほとんど関心がなく、むしろ日常生活の細かい 違いに興味が惹かれる。とりわけ人々の「肌触り」の違いは印象的である。 例えば、「サービスーという観念の内実は、かの地とわが国ではちょうど反対になっているよう だ。欧米型サ 1 ビスの典型はホテルであり、そこでは泊まり客をなるべくソッとしておくこと、介 ぜん 入しないことが、その基本条件である。これに対して、和式旅館では客の部屋に入ってきて、膳を そろ たえまなく客のウチに侵 揃え、布団を敷き ( 場合によっては風呂場で背中を流し ) というふうに、 入してきて世話をやくことが最高のサ 1 ビスなのだ。 こうした和式旅館風サービスが壁を打ち破って外に流れ出たものが、現代日本の街の風景である。 る そこでは、人々はたえまなく「世話をやこう」と身構え、私に襲いかかる。前後左右、さらには頭 め 上や足元から、商店の宣伝放送はじめ警察署や消防署の「管理放送」が放出され、びっしり立ち並み ぶドギッイ看板が私の目を射抜き、左右からティッシュを渡そうとする手が伸びてきて私の歩行をを 妨げ、あらゆるところから人々はアレを買えコレを買えと大合唱して私を責めたてる。こういう街 生 を歩くだけで、私は心底くたびれはててしまうのだ。 だが、ウィーンでは誰も私に催促しない。冷たい閑散とした街が連なり、人々は私をソッとして おいてくれる。私は個人的にはこうした「そっけない , サービスが大好きなのだが、どうも大多数 の同胞のお気には召さないようだ。「触れ合いの街」「人に優しい街、「活気ある街」という標語の 19 ろ
暗記してしまう女の子もいないようだ。私の周囲には頭脳明晰な女性たちがたくさんいるが、今な おそういう少女時代を過ごした女生にお目にかかったことがない。 そして、こういう少年がそのまま哲学青年になった。今度は、世界が「ある」こと、時間が「あ る」こと、私が「ある」ことが不可解でたまらない。同時に、少年時代からもちこたえてきた「死 ぬこと」があらためて大きな問題としてクローズアップされてくる。世界が明日崩れてしまうので はないかと思うほど不安である。こういう抽象的な不安感をもって乙女時代を過ごす女性たちもあ まり見当たらない。革命に身を投じる女性たちはずいぶん見てきた。バ 1 丿リの「社会的行動派 . も少なくない。精神的不安を抱え悩みつつ生きている女性たちも多い。彼女たちは過食症や拒食症 に陥り、あるいは自傷行為を繰り返す。だが、だからといって「独我論」や「超越論的観念論」 かか ( これらわからなくて結構です ) にハマッてしまう女性、つまり「哲学病」に罹ってしまう女性は 者 学 いないのだ。 文 これは、私の経験に限らない。東西古今の哲学者を見渡すに、たしかにそこは純粋に男の世界で 者 ある。ここは慎重に言わねばならないが、美学や心理学や歴史学や言語学に近い分野を含めて「哲哲 学」を広くとれば、女性たちもチラホラ見かける。私が言いたいのは、存在論や時間論や自我論や 認識論など、哲学の核心部分となると女性は文字通り皆無だということである。 どうも哲学というと「高級だ」という観念をもつ人が多くていけない。だから、女性に哲学者が 12 ろ
時間は「線」ではない 「時間」が不思議なものであることは、すべての人が知っている。しかし、多くの人はその固有の あり方に注意深く徹底的に眼を向けることをしない。、 心理学者や物理学者や歴史学者は、時間をす でに一本の線としてとらえることを疑うことはない。彼らにとって、関心はそれが「いかなる線 であるかということだけである。 冫し力なるこ だが、哲学者はすでにそこでつまずいてしまう。時間を「線として」表象することま ) ゝ とか、と思索するのである。紙の上に描かれた線も、頭の中に描かれた線も、線であるかぎり空間 表象である。しかし、われわれは時間を線として表象しながら、それが空間ではないことを知って いる。時間の「かたち」がこのような線ではないこと、ただ空間表象のアナロジーとして描きだし たものにすぎないことを知っている。だが、アナロジーがアナロジーとして機能しうるには、時間 と空間とのあいだの関係についての何らかの了解があるはずであろう。つまり、たしかに時間は線 時間という知恵の木の実
ころから思いつづけており、現在に至っている。この呟きは、すべての生きる気力を削ぐほど凶暴 なものであり、「そうではない」と思い直したことは、長い人生において一瞬もない。そして、こ の問いは「人類はどうせ滅んでしまうんだから」という呟きに連なっている。 だが、不思議なことに、 こう問いかけると、ほとんどの人は「そんなこと考えてもしかたない よーとか「だから真剣に生きるんだよ」とかの腐り切った紋切型の回答を私にぶつける。こういう 「仕打ち」に耐えて、その意味を厳密に執念深くどこまでも問いつづけるとき、哲学という固有の 領域が開かれるのである。人生には、割り切れないこと、理不尽なことがウンザリするほどある。 が、多くの人は「割り切りたい」という欲望に負けてしまう。ひたすら、幸福になりたいからであ る。真理から必死に目を塞ぐことによってでも。 ゝ 0 ゝゝ もうじき二一世紀。でも、私には何の意味もなし し力なる理想社会が実現しようと、理想社会 に向けて奮闘しようと、その世紀の半ば以前に、私は「どうせ死んでしまうのだから」。そして、 人類はまた地球はどうせ滅んでしまい、宇宙には人類についての記憶は一滴も残らなくなるのだか ら。 だから、哲学をするのである。 哲学に目覚めるとは ふさ 182
過去は保存されているか 過去はどこへ行ったのか。この問いのうちにすでに錯覚が潜んでいる。「どこ」とは場所への問 いであり、われわれが知っているのは空間的な場所だからである。過去という場所がどのようなも のか、じつは誰も知らないのだ。 われわれは、時間を空間的なイメージでとらえる。そのうえで、それに この錯覚の根は深い。 間につける言葉と同じ言葉をつける。こうして、戦後の五五年を、 「長い」「距離」「遠い」等の、空 生命誕生以来の四〇億年を、はるかに歩いてきた長い道のりのようなイメージでとらえてしまうの その一〇秒は長い 一〇秒間周囲を見回してほしい。 だ。だが、時間的長さは空間的長さではない。 であろうか。一分はその六倍長いであろうか。一時間はその三六〇倍長いであろうか。「長いーと いう言葉を使用しても、それがどのような長さなのか、皆目わからないのだ。 タイムトラベルも、過去が保存されているという前提に基づいている。保存されていなければ 「行く」ことができないからである。だが、過去はまったく保存されていないかもしれないじゃな しカ それにもかかわらず、われわれが過去に「行く」夢を断ち切れないのは、多分「想起」という作 用を知っているからである。想起するのは現在である。しかし、その対象は過去なのだ。これは不 180
適宜と呼んで、そのはてしなき難しさの構図の中から解決策を探ってみたい。 「普遍化」の不可能性 アダム・スミスやカントはじめ多くの哲学者は「相手の立場に立っこと」を提唱している。それ は・・ヘアによって「普遍化可能性」の問題として先鋭化された。ヘアによれば、そこを支配 するのは「他人の立脚点に自己を移し置く」という運動であり、それは「想像力」によってなされ る。たしかに、約束を守るべきだとか所有権を侵害してはならないとか人を殺してはならないとか は、他人の立脚点に自己を移し置くことによって、普遍化がある程度可能になるかもしれない。だ る が、次のような状況を考えてもらいたい。 め < が隣家から終日流れてくるラジオの大音響にんでいるとする。それをに訴えても取り合み ってもらえない。そして、その被害はだけのものであるから、他人に訴えてもわかってもらえなを そこで、は意を決しに思い知らせようと同じようにラジオを大音響でかけたが、はこう はんらん ふくしゅう した音の氾濫を何の苦にもしていないのだから、 < の復讐は成功しない。むしろ、はが自分に 同調したと誤解さえする。 いや、現代日本で展開されている実際の状況はもっとにとって不利なのだ。・ O ・・・ v-> ・という近隣の人々が、どの家も同じように隣家のラジオの音に苦痛を覚えないとする。 1 ろ 7
よう・ほう を語るかではなく「いかに」語るかが鍵である。先生の文章は、先生の容貌が端正であったように めいせき 端正である。明晰であり淡白でかっ端麗な味がする。日本語で語られた最高の哲学一一一一口語だと言って しいであろう。 先生が亡くなられてから、奥様は岩波書店から刊行されることになった著作集のために、はじめ てまとめて先生の著作を読みつづけられた。そんなあるとき、私にため息とともに語ってくれたこ 私は答えた。「そうです。先生にとって、 とがある。「主人、こんなことを考えていたんですかー 奥様でさえいらっしやらなかったんですーと。 冷たい物理学的世界がウソであるばかりではない。さまざまな人間が火花を散らして押し合って いる「社会」もまた錯覚なのである。私を愛する他人も、私を滅ばそうとする他人も、そういう意 味として私にとって存在するだけである。 者 学 文 とはいえ、先生はきわめて倫理的な人であった。漱石の作品を読むと、時折先生の言葉かと錯覚 者 するときがある。その「感触ーが似ているのである。つまり、漱石のように倫理的だという意味で哲 ある。おびただしい哲学者が倫理学に携わっているが、当人に会うと倫理とは縁もゆかりもない臭 いをまとっていることが多い。彼らは倫理とは何か知っているふうをしている。だから、倫理的で はないのである。 117
ではないが、「線として」表現できるものだということもあらかじめ知っているのである。では、 われわれは何を知っているのか。 それは先後関係であり、われわれは時間的先後関係を空間的先後関係によって表現するのだ。ご く自然に、時間における諸事象を年表やカレンダーや日記や地震計のように空間的広がりとして描 き出すのである。だが、今日一日の出来事を細かに思い起こしてほしい。さまざまな出来事は線の 上に並んでいるだろうか。今朝飛び起きたことの後に、顔を洗ったことが、そしてその後に新聞を 読んだことが、そしてその後に食事をとったことが、そしてその後にトイレに行ったことが「並ん でいる」だろうか。並んでいないのである。この先後関係は、桜の木の後に校舎があり、その後に 川が流れているという空間的先後関係とは似ても似つかないあり方をしている。そこにはただ 二つの出来事のあいだ 「の後にが位置し、そしての後に O が位置する : : : 」というように、 論 の意味的先後関係が成り立っているだけなのだ。 これはきわめて単純なことであるが、全身で実感している人は少ない。そして、これを実感でき的 る人のみが、哲学的時間論に入ってゆける。摂氏三〇度の暑さは三〇センチメ 1 トルの水銀柱の長経 さではない。五〇キログラムの重さは、体重計半周の長さではない。摂氏三〇度や五〇キログラム このことは多くの人が了解している。しかし、時間とな には「長さⅡ延長量ーは付着していない。 るとただちに空間的線を時間そのものの「かたち」と思い込んでしまうのはどうしたことであろう。
ら選んでいるからである。 つまり、は生き死にを「お上」に決してもらうような絶対的な自己決定権の放棄こそ選んだわ けではないにせよ、ちょうどこの程度の ( 柔らかい ) 他律を選んだのである。「お上ーから適度に 言ってもらいたいと自分で決めたのである。したがって、それを非難する < はのこの固有の自己 決定権を侵害するものなのだ。これは可能な論理であるが屁理屈のような印象を与えるかもしれな いので、自己決定権が反転するさまを、もっとわかりやすい例にそって考えてゆこう。 一般に繁華街を「もっと静かに ! 」と訴えるのは絶望的に難しい。多くの日本人が現在の「音」 の氾濫を積極的に望んでいるようだからである。ショップやファストフ 1 ドの店をはじめ小売 店の売り上げは、店内・店外への放送をやめる ( ないし音を絞る ) と確実に減少するという。カメめ ラのドイやさくらやあるいは大売出しの商店から弾丸のように音が放出されているのは、やはりそみ れによって現実に客が集まるからである。人々がみなうるさいと寄りつかなかったら、ただちにやを かしはらじんぐうまえ めることはまちかいない 。奈良駅から奈良公園に向かう三条通りや近鉄橿原神宮前駅から神宮 に続く商店街といった歴史的景観地でさえ「街を活気づけるため」かなりの音響でを流して生 中川真は次のように報告している。「天皇崩御のときの音風景についてレポートを書くよう課題 を出した。 ある学生はデパ 1 トに行ったが、が流れていない。喪章をつけた店員も口を へりくっ 14 う
『孤独について』 ( 文春新書 ) も同じテーマを扱っている。ただし、この書では意図的に「個人史」 を前面に押し出すことを試みた。自分の苦しくかっ孤独であった少年時代・青年時代を、自分が育 ってきた醜悪な・卑俗な・貧寒な・みじめな・さもしい・欺瞞に満ちた環境をごまかすことなく語 ってみたかったのである。これによって、妻子や親や姉妹をはじめ多くの人々を傷つけるかもしれ オし ゝ。いや、確実に傷つけるであろう。だが、それもいたしかたないことだ。私は、もはやまとも な感覚 ( コモンセンス ) をもった世間人ではないのだから、人生を〈半分〉降りてしまったのだか ら、他人を傷つけることを知っても書くことをやめないのである。そして、自分なりに責任をとる しかないのである ( 「どうとるのか」だって。それはそのつど決めます ) 。 とはいえ、私は本書を自分の露出趣味を満足させるためだけに書いたのではない。私の個人史が どれほど普遍性をもつものか知らないが、世の中には私のような人間 ( カイン型人間 ) もーー圧倒 的マイノリティながらーーー生息しているはずだと確信している。もし、自分がカイン型人間の一人 であると確信したら、もうくたびれはてる世間との格闘はやめて、こころゆくまで孤独を追求した らどうであろうか。今後の人生のすべてをかけて、ゆっくりと自分の身の丈にあった孤独をつくり あげていったらどうであろうか。 本書が、少数ながら私と同類の「生きるのが困難な人々」にメッセージを送ることができるのな たとえ膨大な数の人々を傷つけてもーーーそれでいいと思っている。私はそれほどエゴイス ら、 ぎまん 208