「きみは考えたことがあるかい、何百万人、何千億人という人たちが、ただどうってこともなく死 んで、消えて、呑み込まれてしまってさ、その人たちが存在したことがあるなんて誰もこれつばっ ちも思ってみないってことを たまら 「うー、そうね、ほんとに、 「ところがやつばりその連中は存在していたんだ、その連中には子供がいたし、女房がいたし、そ 論 いろいろな理念や理想なんかがあったんだ、ところがそういうことは何ひとっとして残っ れに 時 的 ていない 症 ( ル・クレジオ『愛する大地』 ) 経 みんな死んでしまった
私は機械音がすべて一様に嫌なのではない。機械音の種類に応じてはっきり「嫌悪度」は異なる。 車自体が発する機械音より車の窓から放出される音楽にいらだつが、前者の場合その音を誰も積極 的に求めていないのに対して、後者は音楽を楽しんでいる「人」が感じられるからかもしれない。 他人 ( つまり私 ) を不快にしながらおのずから快感に浸っているその鈍感さがいらだたしいのだ。 竿竹屋の場合もその音によって積極的に利益を受けている「人 , の顔が見え、煩瑣な注意放送の場 合もその音を流すことによる安易な保身に身を委ねている「人 , の姿勢が見えて不愉快さは増すよ うである。 この延長上の仮説であるが、自然音に私 ( そしてほとんどの人 ) がいらだたないのは、そこにい どとう あらし かなる「人 , も原因として感じられないからではないか。ほとんどの人は、嵐や雷鳴、怒濤や豪雨 の音に怒りを覚えることはないであろう。だが、この仮説もじつは足元がぐらついてくる。田舎に やめさせ 越してきた都会人の中には「蛙の声がやかましくて眠れない ! 鳥の声がうるさいー ろ ! 」と村役場にねじ込んでくる人がかならずいるそうだから : こうして、「文化騒音」は不快であるという「公理」から出発しないかぎり、特定の人工音・機 械音による注意・挨拶・依頼放送を嫌う私の感受性が現代日本における多数派の共感を得ることは、 絶望的であるように思われる。では、共感を得られなくともよいから、こうした感受性を頭で理解 いや、それさえたいへん難しいであろう。以下、私のような感受性をもつ者を してもらえるか ? ゆだ 1 ろ 6
しんだ。二度とふたたび生きるチャンスを得ることはできずに、私はずっとずっと無であり続けて しゅうえん 何十億年後に世界は終焉してしまう ! こうしたイメージが次第に私の中で鮮明になり、それが一 つの疑いえない直観となって私の頭を荒し回り、私は「なんって残酷なんだ ! なんって残酷なん と心のうちで絶叫している。その後しばらくは、放心したようになって、何をする気も起こ らない。 こんなことが、数日に一回くらいの割合で襲ってきた。 街を歩きながら「もう駄目だ ! と私は観念し、涙さえ出てくることもあった。当時、日記に書 いたものから。 ひじり・ 3 なし 聖橋を渡りながら考えた。やつばり駄目だ ! みんな死んでしまう。善い人も悪い人も、美し い人も醜い人も、大天才も鈍才も、大金持ちも乞食も。そして、全部なくなってしまう。この聖 論 橋も、御茶ノ水の駅も、曇った空も、東大構内行きのバスも、地球も、太陽も、色も、臭いも、 けいべっ 音も、肌触りも、感動したことも、軽蔑したことも、後毎したことも、わずかに幸せだと思った的 ことさえも。 しかし、こうした残酷なイメージは時間を空間化する誤りから生ずるというべルクソンの考えを 知って、私は少々ラクになった。たしかに思考に伴う空間と運動の表象が、いつもわれわれを混乱
気づかないようなので、ゴホン、ゴホンとせきでごまかしますと、 「村のはずれの奥さん。暖かくなりましたねえ」 と関係のないことを言いました。お母さまはご心配のあまり、両手をにぎりし めて、 「ですが、先生。ばうやはだれからうっされたのでしよう」 とたずねました。お医者の先生はやっと落ちついて答えました。 「これは不思議な不思議な病気でありまして、ある体質の人は自分で菌をつく りだしておきまして、自分がまっ先にかかってしまうのであります。村のはず れの奥方さまー お医者の先生は上品な言葉を使おうとして、またまちがえてしまいました。 今度は頭のてつべんまで赤くなりました。お母さまはふと、昔お婆さまが〈な ぜなぜ病〉にかかったことを思い出されました。そのころは科学も発達してお りませんでしたから、むやみやたらとこの病気にかかる人がいたのですが、た いていはさびしいところにしばらくほうっておくとたちまち治ってしまいまし た。でもお婆さまの病気はついに治らず、お婆さまは今でもたったひとりで人
お節介放送のある理由 わが国の公共空間 ( 駅や銀行や商店街など ) には「自動改札をご利用ください、取引キーをお押 しください、無理な横断はやめましよう、煙草のポイ捨てはやめましよう」等々、おびただしいお 節介放送が朝から晩まで流れているが、ヨーロッパでは皆無である。この違いはたいへん印象的で あり、長いあいだアアでもないコウでもないと考えてきたが、ここには公共空間に関する互いに逆 向きの考えがあるように思う。 ヨーロッパでは、公共の場は初心者に合わせて造られていない。むしろ、初心者はこれから入る その空間の諸規則をみずから学ぶべきなのだ。だが、わが国では、公共空間ははじめてそこを訪れ る人のためを思って造られている。だから、 パリの地下鉄はあれほど複雑なのに、何の放送も流れ ない。初心者にとっては酷であるが、一度習得してしまえば、たしかに放送は必要なくなる。だが、 この理屈はわが祖国では絶対に通じないのだ。私が「アノ放送もコノ放送も必要ない」と抗議して も、常に「必要な人もいるんです」と言われて敗退する。そこでは、わかっている人はわからない 人に常に屈しなければならないという ( 屁 ) 理屈が支配している。 ここに潜む暴力を無視してはならない思う。初心者は、わからないからといって威張り散らすこ とはない。初心者であればこそ、ひと一倍勤勉になるべきなのだ。また、身体障害者にとっても、 お節介放送が必要であるとは言えない。 ヨーロッパでは彼らのための放送 ( 横断歩道の「トオリヤ 190
の前で破られていても、なんともないようなのである。 一例を挙げよう。あるとき、京王線の若い車掌が「ええーっ、携帯電話は周りの皆さまの迷惑に なりますから、ご遠慮くださいとお決まりの放送をした直後車掌室から出てきた。だが、私の乗 っている車両に限っても、放送中から携帯電話にしがみついている人々が三人いる。どうするのだ ろうか、と私は車掌の行方を目で追っていった。だが、予想通り彼は何も注意しない。私は「車掌 さん ! 」と呼びかけた。「あそこでもそこでも、携帯電話をかけているじゃないですか ! 」「はあ」 「あなた、さっき携帯電話はご遠慮くださいって放送しませんでしたか」「ええ、しましたが」「そ れなら注意すればいいでしよう」「 : : : すみません。気がっきませんで」という具合。彼はほんと うに気がっかなかったのだろう。来る日も来る日も紋切型の注意を繰り返している。それが仕事な のであり、その放送内容と「現実」との回路が完全に遮断されているのだ。定型化した言葉は 「からだ」から離れて力を失い、ただの「響き」になり下がっている。こうした不合理性に、私は はなはだいらだっ。 ちょうふ せたがや 半年前、世田谷区や調布市で駐輪禁止の大キャンペーンを実施していた。「駐輪禁止クリーンキ ャンペーン」と書かれた数十本の黄色い ( 醜い ) 旗を駅前や歩道に立てている。そして : : : その旗 の林立するまん中めがけて、この人もあの人もシャーシャーと自転車を止めるのだ。たまりかねて、 数人に「これだけの旗が見えないのですか」と聞いてみると、やはり「見えませんでした」という 166
ここから出発してみずからの生き方を求めねばならない。そういうことです。 ・ヒルティー『眠られぬ夜のために』 ( 岩波文庫〔上・中・下〕ほか ) これもキリスト教臭いのですが、ごく簡単なコメントを。ここには、校長や学長がのたまうよう な「きれいごと」はいっさい含まれていない。人生が理不尽であることを穴のあくほど見据えたう えでの勇気ある言葉がほとばしっています。ほんとうに苦しいときにパラバラ捲ってみると、コン コンと湧き出る泉の水のように、あなたの喉を潤してくれるでしよう。二、三挙げてみます。「人 は他人から何も得ようと思わないなら、まったく違った目で彼らを見ることができ、およそその場 合にのみ彼らを正しく判断することができる」「人との交わりにおいて、最も有害なのは虚栄心で ある。誰でも最も単純な人ですら、相手の虚栄心を嗅ぎつける正確な本能をもっている」「あなた はいったい何を欲するか。ほんとうに落ちついたときに、あなた自身にそれを尋ね、そして正直に 答えなさい めく 204
( 私だけ ! ) という重い事実こそ直視すべきである。 ここには、公的機関によるパターナリズムとそれを要求する人々という共謀構造がある。多数派 はパタ 1 ナリズムが嫌などころではない、積極的にそれを要求するのだ。渋谷駅のある階段では 「右側をお通りください というテ 1 プ音がたえまなく入るが、これはある人が「お年寄りが危な えびす いので」と提唱したからだそうだ。最近開業した恵比寿ガーデンプレイスへの動く歩道には百回近 くも「まもなく終点です。足もとにご注意ください」という甲高いテープ放送が入るが、これは開 設当時二人が転び渋谷警察署の指導によったのである。これまで四〇〇万人の利用者があると聞く から、じつに二〇〇万分の一の事故を防ぐために設置されていることになる。東京駅構内の京葉線 との連絡通路にある動く歩道ではたえまなく「お急ぎの方のために右側をお空けください」という 放送が入るが、これはディズニ 1 ランドに行くある乗客が電車に遅れそうになったためだそうであ る。現代日本のいたるところにはこの構図が見える。 「急ぎますから通してください、と言えばいいじゃないですか、と私が抗議しても「いえ、その勇 気のない人がほとんどなのです」という答えが返ってくる。たしかに、この国は個人が赤の他人に 語りかけることを厳しく抑圧する社会であり、多数派は他人Ⅱ個人から「とやかく言われること」 を非常に嫌い、 その分だけ「お上ーのパターナリズムをあっさりと受け入れてしまう。エスカレ 1 ターに乗っている前の男に向かって、私が「ベルトにつかまりなさい。黄色い線の内側に乗りなさ しぶや 142
これでお話はおしまいです。おわかりでしよう。みなさんはけっして「〈きのう〉はどこへ行っ て〈あした〉はどこから来るの」などとたずねてはいけません。どうせみんなうそばかり言うにき まっているからです。もし、みなさんがある日急に「〈きのう〉はどこへ行って〈あした〉はどこ から来るのかしら」と思ったら、だれにも言わずにおなかの底にグイと沈めてしまうにかぎります。 そうするとたいていは忘れてしまうものですよ。もし、それでもいつまでもいつまでも気にかかる ようでしたら、みなさんは大好きなお母さまともお別れして、お婆さまのように一生たったひとり でさびしく暮らさなければなりませんよ。そんなことはいやでしよう。 もっとも、「赤ちゃんはどこから生まれるの」と聞くくらいはちっともかまいませんけれどね。 なぜなら、だれだってこのことは絶対まちがえっこないほどよく知っているからです。 この童話を読んでもわからない ( ニプイ ) 人のための解説 話 童 この童話は、哲学にかかわるさまざまな現象を語っています。哲学的問題は、ふとある日ある人学 のところにやってくる。そして、その人の体内に住み着き、思考や感受性を次第にむしばみ、世界 の見方をしだいしだいに変えてゆく。ほかのことが目に入らなくなり、耳に入らなくなり、頭の中 はいつもプンプン同じ問いが旋回している。彼 ( 女 ) は「哲学病」にかかってしまったのです。
ようだ、「あなたはこんなレストランで食事したいと思いますか」と言ってみたが、バス会社の者 を納得させなかった。なぜなら、日本人とて無限のお節介を認めるわけではなく、バス内の放送と レストラン内のこうした架空の放送とのあいだに漠然と「言われたくない」線が引かれるようだか らだ。多数派といえども「転ばないように右足が地面についてから左足を出しましよう ! 今日も 人を殺さないように心がけましよう ! 」という放送を流したら抗議するに決まっている。 つまり、日本人とてやはり無際限に「言われたい」わけではなく、無際限に怠惰を望むわけでは なく、ただ << の要求よりはるかに低いところに「言われたくないー線が引かれる。こうして、防災 無線や電車内の宣伝放送に対する訴えは今のところことごとく「受忍限度論」により負けつづけて る いる。「受忍限度論」はーのような音に鈍感 ( ないし寛容 ) な人を救い、のような音に敏感 め し み ( ないし不寛容 ) な人に決定的に不利にはたらく理論なのである。 を さ 個人主義を原理として立てられるか こうも徹底的に負けつづける < は、自分の行為がある価値に基づいていることを知っている。そ生 れは、すでに見たように「自律」ないし「自己決定」であるが、さらにこれらの根底にあるところ の「個人主義」である。個人主義をこの国の社会は決して本気で認めようとしないから、は孤軍 奮闘せねばならず、しかも勝ち目はないのだ。 149