つぐんで生気がない。まったく買う気がなくなってすぐに出てきたという。また別の学生は喫茶店 に入ったところ、が鳴っていないので隣のテープルの話がまる聞こえであった。互いに何と なく音を低くして喋っていると、会話がはずまなくて困ったという」。 私も、さまざまな機械音について大学や専門学校の学生たちに聞いてみたり、アンケ 1 ト調査し たことがあるが、総じてを望み、煩瑣な放送があった方が便利でよいという回答が多かった。 『ノーサイド』という雑誌で「うるさい ! 」という特集を組んだが、そこには多くのアジア人はう るさいがゆえに新宿や博多の盛り場に魅力を覚えるという記事が載せられている。 けんそうにぎ 多数派が街にある程度以上の喧騒や賑やかさを求めることはわかる。そして、それには音がかな りの部分を占めるのだから、繁華街にある程度以上の音量を要求することも当然であろう。この場 合、 << が「このような騒音状態に漬かっていると、気がっかないうちにストレスがたまる」と言っ ても「思考力が鈍る」と言っても「注意力が散漫になる」と言っても「聴覚が鈍感になる」と言っ ても、「それでもいい」というを説得することはできない。そして、この線に沿っていくと、 っしか自己決定の理論は反転するのだ。皮肉なことに、医学的デ 1 タが確定していないこのレベル の議論であれば、かえってがの自らの健康管理という自己決定権を侵害してしまうのである。 「愚行権」の主張とその侵害 146
である。一方、ーで代表される多数派は、現状の音環境にほとんど不快を感じない。 私は音楽や注意放送で満たされている海・山を含めほとんどの行楽地には行く気がしない。デパ ートもスー ーもお知らせ・呼び出し・注意・音楽の無差別爆撃の場であるから、買い物をするこ ともほとんどなくなった。の流れる喫茶店に入ることもテレビのついているそば屋に入るこ とも苦痛である。とにかく、家を一歩出れば音・音・音の洪水であるから、わが国で身体障害者が 家からほとんど出られないように、必要最低限以上出られないのだ。とすれば、これは何の不愉快 も感じない多数派に比べて不当に生活権が侵害されており、明らかに不平等である。私は過敏かも しれない。しかし、それは変えられるものではなく、体質と言ってよいものである。 ここに「弱者保護」の論理を援用できないかとも思うが、「音」に敏感な者はおおかた欧米生活 ーしも、つ 長期経験者や学者や音楽家であり、その主張には啓蒙や教化という臭気がプンプンしており、弱者 として認定されずむしろ強者の印象を与えてしまう。 井上達夫の「共生論」は示唆的なところが多いが、本論で問題にしているような「音」に関して は有効性に欠ける。その核心は「会話としての正義」である。会話はコミュニケーションとは異な る。コミュニケ 1 ション共同体においては、合理的に討議する能力が前提されており、すべての成 員に討議に参与することが強制的に求められるのだ。こうした「暴力性ーおよび「閉鎖性」をもっ 。し力なるものか。それは、コミュニケーションのような コミュニケーションに対して、会話とよゝゝ 15 2
よく発揮しないことである。横浜のランドマークタワーでは、呼び出しごとに「本日もランドマ 1 クタワーをご利用いただきましてありがとうございます」という放送が、新幹線のあらゆる放送の 前には「今日も新幹線をご利用くださいましてありがとうございます」という放送が入るが、ある 日苦情を言ったところ、こうした挨拶をカットするとたちまち「挨拶くらいできないのか ! 」とい う抗議が入るそうである。 みんな街を歩きながら電車に乗りながら、いやいたるところで懇切丁寧に連絡されたい・注意さ れたい・挨拶されたい・管理されたいのであり、そうされないことが苦痛つまり迷惑なのだ。 << は、 こうしてーに代表される絶対的多数派に「迷惑をかける」フトドキな輩とみなされる。 自己決定権の反転構造 パターナリズムは本来「自己決定権、と対立する概念であるが、この国では生活の相当部分にお いて自己決定を望まない人が多数派であることから、この概念もまた奇妙な反転を示す。が自己 決定をしない人々の群れの中で、聞きたくない煩瑣な注意をたえず聞かねばならない不利益を訴え ても、それはぐるっと転じて < のこの主張自体が、かえってーに代表される多数派の自己決定 権を侵害している構造となる。なぜなら、には、ひっきりなしに注意放送が流れ、機械によって であれいつも挨拶されるこうした社会がたいへん快適であり、やはり紛れもなくこの社会をみずか 144
こおける私の問いである。その場合、あえ て「音」がないことが「よい」と言えるか、これが本論冫 て私は以下において「音」を積極的に望む ( あるいは「音」が気にならない ) 現代日本の多数派の 立場を強調して論じてゆく。この問題の難しさを浮かびあがらせるための戦略でもあるが、それは 抽象的なものではなく私がこれまで約五年にわたって数百人の多数派と議論した成果に基づいてい る。悲観的すぎるという印象をもたれるかもしれないが、この問題は楽観的に見ても何も見えてこ ( 「いじめ」問題と同様 ) 怠惰を求め・責任を回避し・多数派を結成し・他人の苦痛がわかる のが絶望的に困難な ( 日本人に限らず ) 人間という存在者を執拗に探究せねば見えてこないのであ る。 自然音は人工音より「快い」と言えるか 私は決して絶対的無音状態を望んでいるのではない。風や波、せせらぎ、鳥のさえずり、人々の ざわめきという自然音なら何の苦痛も感じないが、テープ音による呼びかけやは身震いする ほど嫌なのだ。カントは『判断力批判』の中で、公園で鳥のさえずりが聞こえたとし、それが人工 的な音だと知ったら鼻白むであろうと当然のごとく語っているが、はたして自然音は快であるが人 工音は不快であるという区分けが説得力をもっか否か、まさにここがポイントである。現代日本に は、自動車の音をはじめ電車の音・踏切の音・工事の音・家電製品の音などさまざまな機械音が流 しつよう 1 ろ 4
タバコは吸わないでください。ベルトから顔や手を出さないでください」と言おうものなら、 私はまともな精神をもった人間とはみなされないであろう。だが、まったく同じ内容をテ 1 プを通 してあるいは駅員からたえまなく言われることには全然抵抗ないのだ。 また、パターナリズムは次のかたちもとる。千葉のそごうデパ 1 トとの交渉ではっきりしたこと であるが「エスカレーターのたえまない注意放送の代わりに、視覚的な表示をしつかりしていれば、 たとえお客がエスカレーターで負傷しても裁判で負けることはないでしよう」と言ったところ、た とえ勝訴してもマスコミは「放送を流していなかった」ことを非難する記事を書くであろうし、そ の後客は激減するだろう。つまり「客商売ですから、裁判で勝ってもお客が来なければ駄目なので る すよ」というわけであった。 め ーに代表される絶対的多数派が、こうしたかたちでパターナリズムを要求し、いったん事故み を が起こるや「怠慢な」管理者側を告発しようと身構えている社会において、電鉄会社やデパートが さ うなず 過敏になるのも頷ける。ここに浮かびあがってくるのは、エスカレータ 1 の放送は効果がないとい くら主張しても、断じてそれを受け入れないという構造である。しかも「やめてどのくらい事故が生 増えるか」という実験は許されないのだから、 いかなる実証的裏づけもなされないまま、こうした 注意放送はいつまでも存続するのだ。 こうして、日本人の多数派にとって「迷惑」であること、それは管理責任者がパタ 1 ナリズムを 14 ろ
まねばならない。それは「他人の要求・趣味・好き嫌い・理念や価値ならびに彼のほかの性質や外 ( 3 ) 的状況まで引き受ける」ことであるが、「しかしそのときには自分自身を他者の立場に置くという 言い方はほとんど意味をなさない というのも、その人自身に属するものがほとんど何も残ってい ないからである」。つまり、普遍化の理論は音に対する快・不快のような感受性に関わる場合、つ まり第三段階の普遍化を考慮しなければならない場合、うまく機能しないのである。 ここでほかの例をもち出してみる。ーに代表される多数派は電車内や駅構内の煩瑣な放送に いらだたないが、携帯電話やウォークマンにはいらだっ。建築家の藤森照信は、携帯電話において はそれを耳にする人が自然に受信者の立場を引き受けてしまうからうるさく感じられるのではない か、という鋭い仮説を出している。たしかに、隣席の二人の会話が自然な声でなされている場合あ まりうるさく感じられないが、それよりはるかに小声でもひとりでブップッしゃべっているのはたみ いへん耳障りである。多数派はこうして携帯電話には苦痛を覚え、それは共感を得、その訴えは認を められる。しかし、は携帯電話に加えてさらに「携帯電話はデッキでお願いします」という注意 放送にも苦痛を覚える。だが、この苦痛は断じて聞き届けられない、という構図が見えてくる。 「他人に迷惑をかけてはならない」という原則の反転構造 普遍化可能性はのーに対する要求を「正しいーとする理論を導くことはできない。では、 1 ろ 9
( 私だけ ! ) という重い事実こそ直視すべきである。 ここには、公的機関によるパターナリズムとそれを要求する人々という共謀構造がある。多数派 はパタ 1 ナリズムが嫌などころではない、積極的にそれを要求するのだ。渋谷駅のある階段では 「右側をお通りください というテ 1 プ音がたえまなく入るが、これはある人が「お年寄りが危な えびす いので」と提唱したからだそうだ。最近開業した恵比寿ガーデンプレイスへの動く歩道には百回近 くも「まもなく終点です。足もとにご注意ください」という甲高いテープ放送が入るが、これは開 設当時二人が転び渋谷警察署の指導によったのである。これまで四〇〇万人の利用者があると聞く から、じつに二〇〇万分の一の事故を防ぐために設置されていることになる。東京駅構内の京葉線 との連絡通路にある動く歩道ではたえまなく「お急ぎの方のために右側をお空けください」という 放送が入るが、これはディズニ 1 ランドに行くある乗客が電車に遅れそうになったためだそうであ る。現代日本のいたるところにはこの構図が見える。 「急ぎますから通してください、と言えばいいじゃないですか、と私が抗議しても「いえ、その勇 気のない人がほとんどなのです」という答えが返ってくる。たしかに、この国は個人が赤の他人に 語りかけることを厳しく抑圧する社会であり、多数派は他人Ⅱ個人から「とやかく言われること」 を非常に嫌い、 その分だけ「お上ーのパターナリズムをあっさりと受け入れてしまう。エスカレ 1 ターに乗っている前の男に向かって、私が「ベルトにつかまりなさい。黄色い線の内側に乗りなさ しぶや 142
家の手先である。この例に限ると、の主張が通じない理由は、この放送があったときの < の不利 益とこの放送がなかったときのの不利益 ( 特急に乗ってしまい本来降りるべき駅よりはるか彼方 の駅に連れて行かれた ) を比べると、の不利益の方が格段に大きいからでもある。一般に情報を 得られなかったための不利益は情報がうるさいという不利益よりはるかに大きく、よってわずかの 怠惰な人の訴えであっても、こちらの方が通ってしまうのである。 同じことが、お寺や博物館などで次々に導入されているテ 1 プによる案内に妥当する。上野寛永 とどろ 寺では境内全体に轟く音で「寛永寺は : : : 」という放送が流れており、二条城二の丸御殿や金沢兼 ごうおん 六園内の成巽閣は幾重にも重なるテ 1 プ音の轟音地帯となっている。その他の名所旧跡でも、団体 客のみならず多くの個人客が「放送はないのか」と要求するのだそうである。パンフレットを読み ながら静かに鑑賞したいという << の訴えは ( 私には当然と思われるのだが ) 、大多数が怠惰を望む この国では「愚行権」ないし「怠惰権」の侵害とみなされてしまうのだ。 さて、私はある日作戦を変え、いかにみんな愚行ないし怠にしがみついているか、それがいか にばかばかしいものかを示そうと「降りるときはブザーボタンをお押しください、お立ちの方は手 すり・吊り革におっかまりください、小銭をご用意ください、危険物を持ち込まないようしてくだ さい」などの注意放送は「箸は割り箸です。両方を左右に引っ張ると二つに割れます。ご飯をこぼ さないでください こばさないでください : ・ : 」という放送がたえまなく入る架空のレストランの 148
安易に相対的な視点が導入されることである。曰く、個人によって「音」の感じ方はさまざまであ る。日く、たしかにヨ 1 ロッパには「音」はほとんどないが、だからヨーロッパを規準にせよとは 言えない等々。 こうして、個人の感受性の相対性と文化相対性とがまことしやかに登場してきて、「音」に苦痛 ( 激痛 ? ) を覚える人々の前に立ちはだかる。そして、同じく安易に科学的な視点が導入される。 アンケート調査によればほとんどの人は「音」に苦痛を感じていない。医学的見地からは「音」に よって難聴にもならなければ、生命の心配もない等々。そして、行き着く先は ( 一部のサウンドス ケープ論者が実行しているように ) 「絶対的多数にとって心地よい音」の研究となる。こうしたす いんべい や、むしろそれを隠蔽してしまうのである。る べての営みは「文化騒音」の問題に迫ることはない。い め とはいえ、これまでこうした「音」の問題の一部は、例えば電車内の案内放送などをめぐってよみ く議論されてきたとも言える。しかし、その場合、「音」の削減を訴える側の論理は往々にしてを 「静寂」を無条件に前提しており、さらにヨーロッパ社会を正常とみなして、そこから異常なわがに 国の現状を断罪するものが多かった。日本人の幼児性、他律性、耳の悪さ、鈍感さ : : : という指摘 は、しかし現状を変えてゆく説得力をもたない。むしろ、こうした高飛車な「ヨーロッパでは的 論法は最近では聞き飽きたという印象とともに人々の顔を背かせるようである。 わな そこで、快・不快論の罠に落ち込まず、また理屈抜きのヨーロッパ正常論にも陥らずに、はたし 1 ろろ
に蛇足ながら、本も多すぎる ! 出版件数は現在の一〇〇〇分の一程度に削減すればよい、と心か ら田 5 う。 176