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検索対象: 生きにくい… : 私は哲学病。
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1. 生きにくい… : 私は哲学病。

力者にはふさわしくない。それは、そのときまで何も知らない者 ( 有限能力者 ) の振る舞い方だか らである。つまり、あらかじめ結果を完全に知っており ( 超能力者の立場 ) 、かっそのときまでは 知らない ( 人間の立場 ) 、という二つの要求を同時に満たすような存在者を想定することはできな いのである。 もし、文字通りの超能力者であれば、自分に不利な結果をあらかじめ知っていれば、それを回避 するように行為するはずではないか。すべての「未来、を自分の予知能力をふんだんに利用して、 自分に有利なように、あるいは自分の思い通りに現出させようとするはずではないか。つまり、そ もそもの仮定に反して、未来は決定されていないものとして登場してくるはずではないか。 言い換えれば、未来がすでに完全に決定されており、かっそれを完全にあらかじめ知っていると いう図式は「未来」という言葉の基本的意味 ( 文法 ) に反するのである。しかし、それでも未来が われわれの知とは独立にすでに決定されているかのような感じは執拗につきまとう。その理由は、 しらずしらずにわれわれが未来の出来事を未来完了的に、すなわち明日の出来事を明後日という視 点から昨日の出来事としてとらえているからである。つまり、未来を過去としてとらえているから なのだ。 それが自然に見えるのは、まさに未来の内容は過去を延ばしただけのものだからである。そして、 再度確認すれば、「これまで」の世界状態を「これから」に延ばす理由はどこにもない。 ヒュ 1 ム しつよう

2. 生きにくい… : 私は哲学病。

かんべき 三島由紀夫は、私にとって常に近くかっ遠い存在であった。今もって、その感受性が完璧なほど 理解できるところと、まったく理解できないところに綺麗に二分される。としても、彼がずっと私 にとって「気になる」作家、いや人間であり続けたことに変わりはない。二十代のころは、三島に たんでき 耽溺したと言ってゝ ししたが、三〇歳になるとブツリと読まなくなった。 , 彼の自決は私が二四歳の ときである。 者 学 文 彼の「美ーや「死、や「悪」に関する思想には、若いころもいまでもほとんど共感を覚えない。 者 おんねん 学 私も、こうした観念に対して怨念にも似た関心をもってきたが、三島の感受性との隔たりはあっけ 哲 にとられるほどである。よくよく考えるに、それは彼が哲学に「病む」ことがなかったからではな 3 いか。彼の書くものには、とりわけ深刻な振りをして書くものには、哲学的臭気が完全に欠如して いる。だから、劣っているというのではない。そうではなく、哲学が欠如している分だけ、おぞま 非哲学的な卓越した知性 きれい 107

3. 生きにくい… : 私は哲学病。

年末から世の中はミレニアムとか二〇〇〇年とかで大騒ぎであるが、私には何のことだかわから というより、とてつもない違和感を覚える。とくに二つの点に関して。その一つは、これほ ど時間について語りながら、誰も「時間とは何か」と真剣に問おうとしないこと。そしてもう一つ は、二一世紀とか一〇〇〇年後とか涼しい顔をして語っていること。あと一〇〇〇年したらあなた むな は確実にいなくなるのだ。このすさまじい虚しさから懸命に眼を逸らして、人類の将来や二一世紀 ぎまん の日本についてばかり語るあなたは欺瞞的である。 なぜ、誰も自分が完全に消滅している将来の虚しさについて真剣に語らないのか。何百億年もの 宇宙論的時間の中で、たった数十年の命を与えられているコノ存在の虚しさを、じっくり考えよう としないのか。うすうす気づきながらも、ごまかしたいからなのだ。あまりにも恐ろしいので、ご まかし通して死にたいからなのだ。こうした薄汚い態度は、社会に適応して安全に生きまずまずの 幸福を得るための知恵である。そして、ここに時間に追われる人生という悲喜劇の幕が切って落と ミレニアム騒ぎの虚しさ

4. 生きにくい… : 私は哲学病。

の目が一、三、 、六、二と出ることも、同じ六の一〇〇乗分の一の確率ですから。 しかもいくら確率でそうだといっても、結局、次は何が出るかわからない。「これまで」と「こ れから」が同じであるといった前提でのみ、確率は意味を持ちえるのです。しかし実際は「これか ら」どうなるかわかりません。「これまで」と同じとは限らないのです。 この例からもわかるように、「これまで」という過去と「これからーという未来がまるで連続し ているかのように思っていますが、結局は過去を引き延ばして、未来までを考えているだけなので す。実際の時間は、瞬間、瞬間が断絶しているのです。 では、時間を現在・過去・未来と区別して繋げる必要は、どこにあるのですか 2 中島未来が完全に開かれているとなると、われわれが不安になるからです。つまり時間に連続性 がないと、過去の経験をどれだけ積み重ねても、未来を正当化できないことになります。例えば飛 行機に乗る場合、過去の例から言って絶対安全だということは何の保証にもならない。昨日までい くら生きていても、明日生きていることの保証にはならない。突然事故が起きることがありえるこ とが、常に突きつけられているような状態に陥るのです。待つのが不安なのも同じ理由からで、待 っているあいだはまだ何もない状態です。未来が錯覚だとすると、この先すべてが無の状態になる のです。ですから待っときは、非常に不安定な状態なのです。

5. 生きにくい… : 私は哲学病。

ご協力ください ! 」という甲高い子供のテープ音を放出しながら自治会の広報車が走り回る。この 放送の予定日は仕事部屋の雨戸を締め切りさらに耳栓をして眠っているが、それでもたたき起こさ れるほどの轟音である。そこで、廃品回収は毎月決まっており広報紙にも書いてあるのだから野蛮 な放送はやめるべきだと自治会長に苦情を申し立てたが、これは案の定まったく通じない。自治会 の貴重な財源 ( 月に三万円に満たない ) になっていると言うので、収益が落ちた分だけ ( あるいは 全額 ) 私が支払うからとも提案したがこれも駄目。次に、私が一丁目の世帯すべてに前日電話する なりポストにチラシを入れるなりして伝えるから一丁目だけは来ないでくれと言ったが、これも通 じなかった。 ここまでが合理的討議 ( D デ ku 邑による説得の段階であるが、これに無残に破れた私が完全な し み 「分離的共生」を実現するためには、完全な防音装置の部屋を数百万円かけて造るほかはない。 こうして、わずかに期待できる合理的説得と「分離的共生、こそさしあたり私が「文化騒音」問を 題に関して達した結論である。だが、これでよいはずはない。冷静に考えれば考えるほど、疑問は き 湧きあがり・怒りは渦巻き・はてしない虚しさは残るのである。 生 * 補記ヨーロツ。ハよ、お前もかー やかま 昨年夏一〇年ぶりにヨーロッパを訪れたが、明らかに街全体が喧しくなっていた。ドイツで 159

6. 生きにくい… : 私は哲学病。

にまみれ苦しさを背負って生きると、時間は長く豊かになるのである。これこそ人生の妙味ではな かろ , つか * 最後に付け加えておきたい。たかだか一〇〇年の時間をどうにか「長びかせよう」と必死にな むな ) 0 ゝゝ ることもやはり虚しし し力に豊かな時間を獲得しても死ぬのである。とすると、最終的には私 が無理にでも思い込もうとしたもう一つの「流れ」もう一つの「運動」、そのすべてを虚妄だとき つばり切り捨てることがまだ残されている。血を流して必死な思いで獲得した豊かな時間も、じ つはまるごと完全な錯覚なのである、無なのである。そう全身全霊で実感すること、それこそ究 極的な救いであろう。 2 神経症的時間論

7. 生きにくい… : 私は哲学病。

「私が死ぬ」ということ 私は六歳のころから、心のうちでたえず「死ぬのが怖い ! 」と叫んでいた。何が怖かったのか。 それは、けっして父や母と別れるから怖いという感情ではなかった。幼い私が震えいていたのは、 私が完全に「無」になるということ。それは何なのかわからないながらに、ほんとうに冷や汗が出 るほど布かったのである。そして、それからの人生において、私はしばしば大波が襲うようにこの 恐怖に襲われたが、同時にこれを「解決しよう」という固い決心も自分のうちに芽生えてきた。 しかし、中学生になっても高校生になっても、わずかの解決すら見いだせない。あらゆる教科は 見事なほどこの最大の問題に触れないのである。私は学問的にはオクテだったので、大学に入って はじめて何やら突破口らしきものが見えてきた。それは、「時間」についての自分の錯覚を知った ときからである。 それまで、私が何億年のあいだ「無」であり続けるというイメージに、私はのたうち回るほど苦 「死」を突き抜けて

8. 生きにくい… : 私は哲学病。

気予報は「これまで」のデータを勝手に未来に延ばしているだけである。そして、じつは一〇〇パ 1 セント「これまで」のことを語っているのだが、未来のことを語っている振りをしているだけで ある。 最後に、こういう人がいる。いや、未来のことをたとえ何も知らなくとも、未来が「ない 言えない。知らないが「ある」のだ、と。だが、 , 彼 ( 女 ) はその「ある」という一言葉によって何を 言いたいのだろうか。この場合「ない と「ある」とは区別されない。「ない」と言っても「ある」 と言っても言葉の問題にすぎない。「ある」と言うからにはそのあり方に何らかの具体的意味を与 えねばならない。たが、未来については、ゝゝ し力なる具体的あり方も与えることができないのである。 一つだけ、誰でも完全に知っていることがある。それは、未来は現在ではないということ。現在、 私は未来の出来事を見たり、聞いたり、触ったり、味わったりできないということ。では、現在、 私は未来の出来事を「考える」ことができるだろうか。いや、それも錯覚であることは、これまで 考察した通りである。 過去は「現在の心の状態」ではない 過去もそうではないか、と言われるかもしれない。しかし、そうではない。未来は「ない」が過 去は固有のあり方で「ある」のだ。もうない過去はまだない未来と反対のべクトルをもった「無」

9. 生きにくい… : 私は哲学病。

コンピュータはほとんど使わない。必要をまったく感じない。さまざまな面でコンピュータがわ れわれの生活を便利にしているが、私はコウまで便利でなくていいと思っているので、その「恩 むしず 恵」をほとんど感じない。インターネットやメールは虫酸が走るほど嫌いである。 る 私は 相当ヘンなのであろうがーーー早急に欲しい情報がほとんどなく、自分が有している貴重 め し み な情報を気軽にバラ撒きたいとも思わない 。つまり、私は膨大な不特定多数の他人との「対等な . コミュニケ 1 ションを全然望んでおらず、それは完全に時間の浪費だと思っている。私は、自分のを 興味ある主題を自分が望むときに一方的にメッセージを送りたいのだ ( だから、私は一方的に本を 書く ) 。 生 私が最近心がけていること、それは情報の洪水から自分を守ることである。私のような「人生を 〈半分〉降りた」人間にとって、情報を取り逃がして損をすることは何もない。私は時計も持たず、 天気予報も知らず、テレビもほとんど見ず、新聞もあまり読まず、電話も嫌いな人間である。最後 情報の洪水から身を守る 17 う

10. 生きにくい… : 私は哲学病。

すると、じ ケッチのようなあり方をしていると言いたいのだろうか。とくと反省してみてほしい。 つは「未来がある」と言っても、それによって自分が何を主張したいのかわからないことに気づく であろう。自分が「ある」と信じている未来が「いかにあるか」全然わからないことに気づくであ ろう。 未来について考えることもできない 私は、「いかにあるか」全然わからないものを「ある」と語る暴力を排除したい。そんなものは、 と言ってどこが悪いのだと居直りたいのだ。 私は非常識なことを語っているのではない。じつは常識においても、われわれは未来が完全に いんべい ことを知っている。ただ、言葉づかいが不鮮明なため、よく知っていることが隠蔽されて しまっているだけ。このことをわかってもらうためには、「過去における未来」の話をすればいい くらやみ であろう。昨日、私は「明日ウィーンに旅立とう」と布団に入り、電気を消した。暗闇の中で「明的 日の今ごろはもうウィーンだなあ」と思った。だが、今朝突然の腹痛に見まわれた。どうしても起経 きあがれない。救急車に運ばれて、ウィーンではなく都内の病院に入るハメとなった。ウィーン旅 行の計画はすべてオジャンである。こうした予定変更は恐ろしく不思議なことなのであろうか。い や、何も不思議なことではない。日常茶飯事である。 「ない 「ない ニ一口