客観的 - みる会図書館


検索対象: 生きにくい… : 私は哲学病。
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1. 生きにくい… : 私は哲学病。

いることにより、われわれはややもすると川が「流れる」ように時間は「流れる」と思い込んでし まう。上流から水が「来る」ように未来は「来る」と思い込み、下流に水が「行く」ように過去に いかだ 「行く」と思い込んでしまうのだ。そして、みずからの数十年の人生を振り返るとき、筏に乗って 振り返るとはるかに霞んで見える上流の風景のようなものを思い描いてしまうのだ。 時間の「速さ」とは何か 時間が「速く」過ぎるとか「ゆっくりー過ぎるという語り方もまた、こうした錯覚に乗って登場 してくる。 時間の速度を語る人は、主観的 ( 心理的 ) 持続の長さと客観的時間の長さとのズレを語りたいの である。待っている人がなかなか来なくてイライラしているとき、時間は「遅く」流れる。だが、 時計を見ると別に秒針が遅く進行しているわけではなく、周囲の人々が急にスローモーションで歩 きだしたわけではない。客観的世界の速度に変化はない。ただ、一〇分が三〇分にも感じられると的 いうだけのことなのだ。逆に、一〇分くらいと思ったのに、楽しい会話にわれを忘れ時計を見ると経 三〇分経っていた。今度は三〇分が一〇分のように感じられたのである。 以上の例からわかるように、われわれは無謀にも、主観的時間で客観的時間を割って「速度 . を 出してしまう。人を待っているときには 1 / 3 という遅い速度を、そして会話に夢中になっている かす

2. 生きにくい… : 私は哲学病。

しながら、のつべりとした過去の中にあの日の光景だけがフッと鮮明に浮かび上がってくる。その 一年前の光景は昨日のことのように思われるのに、ほんとうは一年前なのだ。一日という主観的時 間で一年という客観的時間を割った速度は、 365 / 1 すなわち 365 という超スピ 1 ドだという わけである。 こうして考察してくると、子供の時間が「ゆっくり」流れるのも理解できる。そもそも子供の客 観的時間は短く、人生はとてつもなく新鮮で、まだ人生の定型化を学んでいないので、主観的時間 と客観的時間のズレはあまり生じない。そのつどの記憶がはっきりしていて、凹凸があまりない。 ささい 言い換えると、彼らにとっては些細な記憶はほとんどなく、何でも彼でも大切な記憶なのである。 このことは、旅行などの体験についても言えよう。二週間の旅行のはじめはたいそう時間が遅く 流れる。しかし、しばらくすると時間は速さを増し、ズンズン速くなって最後の数日は猛スピード になる。その土地に馴染み、様子がわかって、困難が減り、能率的に動けるようになればなるほど、 時間は速く流れるのである。 このすべては厳密には錯覚なのであるが、その錯覚を通じてわれわれは人生の妙味に触れる気が する。 いかに生きるべきかの一つの答えに直面している気がする。苦労なく、工夫なく、苦しみも なく、感動もなく : : 平板に何ごとも能率的に人生を送れば送るほど時間は速く流れるのだ。人生 さら は短くなるのだ。逆に、危険に身を晒し、恐布に戦きながら、明日の生活をも知れない過酷な思い おのの

3. 生きにくい… : 私は哲学病。

ときには 3 という速い速度を宛がってしまう。 時間の速度を語るときは「ちょうどいい速度である」と語ることはないのだが、あえて言えばそ のときの速度は 1 であろう。 以上の時間速度は、われわれの時間了解 ( 錯覚 ) の根源についてのヒントを与えてくれる。つま り、われわれはたえず時間の客観的経過に疑問を感ずる存在者、たえず時間の客観的経過が実感に そぐわないことを確認しつづける存在者なのである。言い換えると、時間とは何かを知っていると は、客観的時間の経過が実感とはズレることを知っていること、それにもかかわらず客観的時間の 経過を承認することなのである。一〇年前のことが去年のことのように思われても、実感を基にス トレ 1 トに「去年のことであった」とは語らず、いかに実感にそぐわなくても客観的時間における 一〇年前を承認して、しかも実感とのズレを表現したいがために「あたかも去年のことのようだ」 とため息をつくのである。 大人の時間感覚と子供の時間感覚 歳をとると、時間はだんだん以上の意味で「速くなる」傾向にある。三〇歳、四〇歳、五〇歳と 過ぎるにつれて、次第に「えつ、もうそんなに経ったのか ! 」という叫び声は頻繁になる。一日の みならず一カ月さらに一年は、まさに「矢のように」過ぎてゆく。ただし、先の例のように、現在

4. 生きにくい… : 私は哲学病。

客観的時間を時間感覚とは別のものとして了解していること、前者と後者とのズレを了解している ことなのである。時間感覚とはほとんど常に客観的経過からズレているもの、「速く感じられる」 ものであり「遅く感じられる」ものであり、 いかなる過去時間でも過ぎ去れば「あっという間のよ うに感じられる」ものである。われわれは、けっして自分の時間感覚を基に「一〇年前のあの出来 事は昨日のことであった」とは言わずに「まるで昨日のことのようだ」と語る。こう語ることによ って、われわれはその時々の時間感覚とは別に ( 感覚に逆らっても ) 、一〇年という尺度としての 客観的時間を認めているのである。 「今」とは何か しかし、以上のすべての考察は哲学的時間論の中心課題ではない。時間について哲学者が最も頭 ム間 を悩ます問いは「今」である。時間を時間表象や時間感覚と区別された「客観的なもの」であるこ雌 時 的 とを承認しても、そこに「今」が書き込まれていなければ、それは時間を記述しているのではない。 症 では「今」はいかに記述できようか。すべての位置が可能的に「今」である。しかし、私は可能的経 な「今」を了解しているのみならず、現実的な「今」をも端的に了解しているのだ。「今この時」 がかけがえのない時であることを了解しているのだ。しかも、この「今」は別の「今」に移行して ・ : と言った瞬間にわれわれはふたたび時間を空間的線上を運動する何かであるという錯覚に

5. 生きにくい… : 私は哲学病。

る」ことはできない。私はその位置を時間的先後関係であると「読み込む」ことができるだけであ る。 ーし力なるこ ことがわかる。そもそも時間自身が流れるとまゝゝ 以上のことから、時間は「流れない とかまったく理解不能である。時間が流れるとすれば、時間が流れるその場は何であろうか。また、 時間は線ではないのだから、さまざまな出来事がその中 ( 上 ) を流れる場でもない。時間を「川 たと の流れに譬えることがよくあるが、これはまったくの錯覚である。時間は川のようなものではない。 川を流れる水のようなものでもない。ただ、さまざまな出来事が次々に継起する関係そのもの、さ まざまな出来事の先後関係という意味にすぎない。 時間と時間感覚 しかも、われわれは時間を個人的感覚を超えた客観的なものであると了解している。時間とは客 観的尺度なのだ。アリストテレスは「時間とは運動の先後における数である」と巧みに表現したが、 時間とは「過ぎ去った感覚」や「待ち望む感覚 . のような時間感覚ではなく客観的な尺度だという ことである。われわれはこのことを十分承知している。苦しいときの時間は「遅く」経過し、楽し いときの時間は「あっという間に」経過する。目覚まし時計とともに飛び起きて、はじめて熟睡の あいだに七時間が経過していることを了解する。つまり、時間を了解しているとは、尺度としての

6. 生きにくい… : 私は哲学病。

明日死んでしまうかもというほど極端でなくとも、時間が断絶しているとなると、予定や計画す ら立てられなくなってしまいます。そこで人間は、あるトリックを使うのです。 とい , つのはフ・ 中島未来を過去化してしまうのです。例えば予定表というのがありますが、あれは未来ではなく て、予定表に書き込むことで未来を過去のかたちにして、すでに決まっているかのようにしている のです。一時間後、一日後と、とりあえず時間を区切り、さしあたってそれだけを見るという行為 です。それ以上先を見ないようにして、先の人生あるいは死といったものを覆い隠しているのです。 そうしてあたかも未来が保証されているかのような安心感を得る。 このように現代社会は、未来・過去・現在の間にあるはずの大きなギャップを埋めるために、過 論 去の世界観だけを広げているのです。例えば天気予報なども未来を言っているのではなくて、過去雌 時 的 のデータを言っているだけです。 症 経 神 つまり先が見えないと社会が成り立たないために、われわれは時間を空間的にとらえ、客観的に 測れるようなものにしているのですねフ 中島そうです。時間が客観的に測れないとなると、明日の約束すら成立しません。時間が繋がっ

7. 生きにくい… : 私は哲学病。

ているというのはフィクションなのですが、それがなければ社会が成立しない、われわれは生きて いけないという強力なフィクションなのです。 それだけ強固だから私たちは普段は、現在・過去・未来が繋がっていると感じているのですねフ 中島ただし、われわれは未来に対する予測は偽物だとも気づいているのです。競馬などがその例 かけ′」と です。過去とは連続性がなく、この先何が起こるかわからないから賭事をするのです。もし確率が 正しければ、確率の通りに賭けていればいい。ほかにも仕事や恋愛で突然の裏切りがあることを知 っています。確率や過去の世界をいくら押し広げても、未来を読めないことを知っているのです。 皆さんにも時間感覚が違うという経験があると思います。例えば、よく夏休みがあっという間に 終わってしまったと耳にします。たいていは時間が遅く過ぎることより、速く流れる話のほうが多 いですね。その速く流れるなかで、唯一遅く流れるのが待っ時間なのです。私などは墜ちるかもし れないとヒャヒャしているので、飛行機が着陸するまでの一〇分をものすごく長く感じます。 人間は、待っという現象において、客観的な時間から離れていく。つまり、一般的な尺度が通じ ないことに気づくのです。本来、時間は客観的・科学的な面だけでなく、個人的・哲学的な面もも っているのです。待っという場面は、「時間を連続したもの、としてきた人間の欺瞞性が露出する 時なのかもしれません。 ぎまん

8. 生きにくい… : 私は哲学病。

るかのように見えるのは、そこに常に同時に私の身体を読み込んでいるからであり、私の身体に対 する光景とみなしているからであり、つまりすでにコノ身体を私の身体へと転換してしまっている つまり、があたかも「私の」 からである。しかし、この転換は過去を通じてでしかなされない。 視点であるかのように見えるのは、私が眼前の光景をも過去との連関で見ているからなのである。 したがって、もし私の過去を切り離してみるならば、は「私」とは何の関係もない存在者であ ることがわかる。それが、けっして生まれたり死んだりする存在者でないこともわかる。だからと いって、は永遠に存在する「魂」であるわけではない。それは、ただ客観的世界を構成する無人 称の作用体として「ある」にすぎない。 こうしたニュ 1 トラルな存在者であるに、私は生きているかぎり固有の「私 , を重ね合わせて 理解しているのである。それは、今ここにその片鱗も残っていないあり方 ( 過去 ) に縛られて世界 を見ているからなのだ。だが、過去とは見ることも聴くことも触れることもできない。それは、た だの観念として、言葉の意味としてあるだけである。それが私をガンジガラメに縛っている。そこ から抜け出すことができれば、私はから「私」を脱ぎ捨てることができるのだ。そして、こうし たもはや私ではないのだから、である私は死ぬこともないのだ。

9. 生きにくい… : 私は哲学病。

「哲学病」と言うとみんな笑うが、じつは恐ろしい病気なのである。「ほんとうのこと」が見えてし かす まう病気なのだから。いや、正確に言い直せば「ほんとうのこと」に至る道が微かに見え、そして その道をたどっても決して終点に行き着かないことが見えてしまう病気なのだから。 私の哲学者観なのだけれど、哲学者と哲学研究者とは住む世界がまるで違う。哲学研究者が安定 した客観的世界に住んでいるのに対して、哲学者とはずいぶんグラグラした世界に生きている生物 である。とりわけ足もとがグラついている。だから、正義とか環境とか戦後責任といったような晴 れがましい世界への「遠出」はできない。今夜、自分が ( つまり世界が ) 崩れてしまわないように しなければならない。明日では手遅れかもしれないのだ。先生と出会ってその全身から私が嗅ぎつ けたのは、こうした「危うさ」であった。ああ、この人はグロテスクな世界に生きているのだなあ、 という実感がした。そういう感想を告白すると、「いや、世界自身がグロテスクなのです」という 者 学 答えが返ってきた。 文 者 先生の哲学的関心は、単純明快なものだったように思う。物理学が世界をこれほど綿密に描きな哲 がら、そこには「私の心」に関するすべてが排除されている。これはどうしたことだろう。「私の とすると、そこに「私の心」が登場してこない 心」は存在しないのか。いや、そんなことはない。 世界こそニセモノではないか。だが、完全な物理学的知識をもっ先生にとって、この美しいまでに 115

10. 生きにくい… : 私は哲学病。

統一的な物理学的世界描写を爆破することは並大抵な仕事ではない。そのためには、より説得的で よりリアルな世界を具体的に描いてみせねばならない。先生は「私の心」を梃子にして、世界の描 き直しという大革命に挑んだのである。 そして、たったひとりである孤島にたどりついた。私から独立の物理学的世界などないのである。 世界とはじつはすべてが「私の」世界なのだ。知覚の対象が「私の」知覚の対象であるのみならず、 こうして、時 記憶の対象も思考の対象も、いや幻想の対象すら「私の」思い以上の存在ではない。 間も、太陽も、三角形も、他人の心も、私の死も、「私の」世界の異なったあり方にすぎない。だ が、もしそうであるとすると、「私の」という限定は意味を失う。世界は突如反転して「私」それ 自身が消滅してしまうのである。 人々はこれを「立ち現われ一元論」と呼ぶ。しかし、先生にとって独特の「論」を立てたつもり はまるでなかったことであろう。世界とはそういうものであり、ただそうした世界を実感をもって じゅうたん めく 語っただけなのだから。どこからでもよい、客観的世界という名の絨毯をヒョッと捲ってみれば、 こんとん すさまじい混沌が開かれているのだ。だが、それを切々と語り出すことができなければ哲学をして いるのではない。 だから、先生はとりわけその語り方に心血を注がれた。先生によると、哲学者は作曲家ではなく かぎ 演奏家なのだ。「自我」とか「時間」という難解な曲をいかに演奏するかが鍵である。だから、何 116