にすぎないのではない。われわれには、想起という作用が与えられているからである。 想起と予期とはまるで違った能力である。われわれはーーしばしばまちがえることがあろうとー ー現に起こったことを端的に想起できることも確かである。昨日、私が東京にいたことを私は端的 に確かなものとして知っている。今朝起きてから今まで私がなしたことのほとんどを ( 大まかな記 述のもとで ) 端的に知っている。想起の対象は過去の事象そのものだが、予期の対象は未来の事象 ではないのだ。私は過去の体験そのものを想起しているのであって、過去であると考えることを想 起しているのではない。「過去の体験を想起する」ことには、はじめから過去の現実の体験を想起 するという意味が含まれている。このことは「現在の対象を知覚するーことには、はじめから現在 の現実の対象を知覚するという意味が含まれているのと同様である。 しかし、「未来の出来事を予期する ( 予測する ) 」ことには、未来の現実の事柄を予期 ( 予測 ) す るという意味が含まれてはいない。すでに確認したように、私は現在の予期や予測が外れることを齷 知っている。つまり、それらが未来の出来事に正確に的中しないことを知っている。そうした予期的 や予測にもかかわらず、いや予期や予測とは独立に未来の出来事が起こることを知っている。地震経 の想起と地震の予期とは全然異なった作用である。前者の対象は現に起こった地震でなければなら ないたが、後者の対象は現に起こることになっている地震ではない。そうではなく起こるであろ うと考えられている地震である。想起の対象としての昨日の夕日は私が「現に見た」タ日である。
ここで読者諸賢に問題を出す。この場合、昨日まで私が計画していたウィーン旅行はいかなる仕 方で「あった」のか。ウィーン旅行は ( 計画にもかかわらず ) 今朝取りやめになった。では、昨日 までウィーン旅行は未来というかたちでどこかに「あった」のであろうか。昨日まで、宇宙の中に 実現されなかったウィーン旅行の可能態がヒラヒラ舞っていたのだろうか。そう信じている者はな いだろう。 では、考えてもらいたい。私は、昨日「未来のウィーン旅行を思っていた」と言いたい人がいる なら、答えてもらいたい。その未来のウィ 1 ン旅行は私の頭の中にあったのだろうか。だが、私の のうみそ 頭の中には物質的には脳味噌しか入っていない。その脳味噌の中はどこからどこまで現在であり、 昨日のある特定の状態である。その中には、ゝゝ し力なるかたちでも未来は入ることができない。一定 の物質状態が一定の「思考」に対応するとしても、その思考作用もまた現在の作用である。 では、思考の対象は未来なのか。いや、そうではない。昨日私が思っていたウィーン旅行は昨日 の未来ではない。なぜなら対象であるウィーン旅行は ( 昨日から見て未来である ) 今朝現実に取り やめになったのだから。未来の事象とは、未来に実現されると「考えられること」ではなくて、未 来に実現されることである。昨夜から見ても、数時間以後の未来において私のいる場所はウィーン ではなく都内の某病院であるはずである。もし、この単純な規則を認めないと、たいへんおかしな 世界が開かれる。私がウィーン旅行を取りやめるまでは、ウィーン旅行は正真正銘の未来としてあ
来ーだというわけだ。 だが、この未来概念はたちまち自己矛盾を露呈する。「今」私はさまざまな根拠に基づいて明日 起こるだろうことを思い描く。明日の天気、明日の自分の健康状態、明日の仕事のはかどり具合 : だが、少なからぬ予測・予期・予感は外れる。この立場においても、実際に起こったことでは なくて、外れた予知の方を未来の出来事とみなすことはないのだ。原爆投下の直前まで何の予知も なくとも、その直後の「今」こそその時の未来であったと確信しているのである。 とすると、この未来概念は混乱している。あることが実際に起こるまでは予知する対象を未 来と認めながら、ではなくが実際に起こった後は、をその時の未来の事象として認めないの だから。たまたまがと一致した場合だけ、それを未来の事象だとしているだけなのだから。 未来の事象は「知覚する」ことができないのみならず、じつは「考える」こともできないのであ る。いかなるときも、私は明日の出来事そのものを思い描いているわけではない。私はただ明日起 こるであろうことを思い描いているのである。思い描いている ( 指向的 ) 対象は明日に属するので はない。それは、ゝ しささかも明日に向かって「はみ出して」はおらず、徹頭徹尾私の現在の「心の 状態」にすぎないのである。 未来の自由な行為は予知しえない
れる。想起の対象 ( 過去 ) と想起する作用 ( 現在 ) とを繋ぐもの、それが「私」なのである。 では、過去の想起の対象とは何か。それはナマの対象ではなく「私が体験したこと」として私の 状態であり、したがって私は想起することによって私の状態をとらえている。これが自己意識であ り、私が私を意識するという図式の根幹である。 そして、私の状態の中心に私の身体が位置する。過去における私の状態とは私の身体の状態であ り私の身体に対する世界の状態である。今、私が昨年夏にドナウ川べりの泳ぎ場にいたことを想起 するとき、私は私の身体の状態としての心地よさと、私の身体の周りに広がる広大な緑地、そこに 寝ころぶ人々、そのかなたのドナウ川という私の身体に対する世界の状態を想起している。 むな なぜ、私はその身体を「私の」身体としてとらえうるのか、と問うても虚しいだろう。まさしく、 私はそれを端的に直観しうるのだ。今コノ身体を感じつつ見おろして、私はそれを「私の」身体で 論 あると端的に直観しうるのではなく、「過去におけるアノ身体は現在におけるコノ身体と同一の身 時 的 体である」という端的な直観のうちに、「私の」身体という了解は発生するのである。 症 そして、私はこの図式を現在の場面にも ( 誤って ) 適用してしまう。今眼前の対象を知覚する場経 合にも、「私」はすでに同時に対象と作用とを「繋ぐーものとして要請されるのだ。私が「繋ぐ」 ことによってはじめて私は対象を知覚しうる。つまり、現在の知覚作用と現在の知覚対象を「繋 ぐ」もの、そのときに論理的に「伴いうる」ものが自己意識としての「私ーなのである。こうして、
統一的な物理学的世界描写を爆破することは並大抵な仕事ではない。そのためには、より説得的で よりリアルな世界を具体的に描いてみせねばならない。先生は「私の心」を梃子にして、世界の描 き直しという大革命に挑んだのである。 そして、たったひとりである孤島にたどりついた。私から独立の物理学的世界などないのである。 世界とはじつはすべてが「私の」世界なのだ。知覚の対象が「私の」知覚の対象であるのみならず、 こうして、時 記憶の対象も思考の対象も、いや幻想の対象すら「私の」思い以上の存在ではない。 間も、太陽も、三角形も、他人の心も、私の死も、「私の」世界の異なったあり方にすぎない。だ が、もしそうであるとすると、「私の」という限定は意味を失う。世界は突如反転して「私」それ 自身が消滅してしまうのである。 人々はこれを「立ち現われ一元論」と呼ぶ。しかし、先生にとって独特の「論」を立てたつもり はまるでなかったことであろう。世界とはそういうものであり、ただそうした世界を実感をもって じゅうたん めく 語っただけなのだから。どこからでもよい、客観的世界という名の絨毯をヒョッと捲ってみれば、 こんとん すさまじい混沌が開かれているのだ。だが、それを切々と語り出すことができなければ哲学をして いるのではない。 だから、先生はとりわけその語り方に心血を注がれた。先生によると、哲学者は作曲家ではなく かぎ 演奏家なのだ。「自我」とか「時間」という難解な曲をいかに演奏するかが鍵である。だから、何 116
「私」は自己意識としていかなる意識作用にも「伴いうる」とみなされる。それは特定の対象では なく、個々の意識作用に「伴いうる」というはたらきとして登場してくるわけである。 私が私を意識するとは「私」という特定の対象を意識することではなく、過去における特定の私 の状態を想起することなのだが、それを ( 誤って ) 知覚の場面さらには意識作用一般に拡張したも のにすぎない。 この場合、私は知覚においてもナマの対象ではなく私の状態としての知覚対象をと らえているということになる。現在において、首から下に不気味に広がるコノ身体は当然のごとく 「私の」身体とみなされるのだ。しかし、知覚能力・思考能力・空想能力があっても想起能力のな い者にとって、コノ身体はけっして「私の」身体になりえないだろう。そのとき、「私」はけっし て登場しえないのだから。 こうして、私は「私」の起源がばんやりとわかりかけてきた。それは現在と過去とを繋ぐところ に位置する。つまり、「私」とは現在と過去とを「切り離して結びつけやという独特の操作とと もに登場するのだ。私がこの「今」において別の「今」であった時を了解しているとき、それが時 間の了解の起源であるとともに「私ーの了解の起源でもあるのだ。時間とは連続量だが、その連続 量をいったん数々の「今」の分節としてとらえなおし、あらためてそれらの「今」を「つなぐ」と き「私」は登場するというわけである。 おび こうして、死に怯えながらも、「時間と私」という二つの不可思議な概念のうちに、世界の構造
そして第三に、もし私が死んでしまい永遠に「無」であるのなら、私の人生とはいったい何なの か、という重い問いがある。カミュの問いである。私の場合は、これに宇宙論的イメージがびった り重なっていて、いずれ人間も滅亡し、地球も膨張する太陽に呑み込まれ、太陽も爆発し、人類が 営々と築いてきた価値あるものすべてが宇宙空間にチリとなって放出され、それを記憶しているも のが何もなくなるのなら、人間が私がこうして必死に生きていることに何の意味があるのか、とい う問いに連なる。それは何十億年後のことかもしれない。しかし、現在の宇宙論では、たしかにそ れがわれわれの運命なのである。 「私」の起源 しかし、そう考えれば考えるほど、こうして死に恐れおののいている「私ーという存在が不思議 でたまらない。 この身体が私であるわけではなく、私の意識もしばしば途切れる。いや、私は何ご とかを意識するが「私」という特定の意識対象は見いだせない。といって、私は何ごとかを意識す こうした図式はすべて単なる論理的な要 るときすでに同時に「私」を意識しているわけではない。 請にすぎない。そして、この要請はもつばら過去とその想起に由来するのである。 私は過去の事象を想起する。そのとき、想起されたものは過去という時間にあるが、想起する私 は現在ある。ここに過去と現在という異質的なものを「繋ぐ , ものとして「私」が論理的に要請さ
はんらん へきえき しいほどに哲学マガイの言葉が氾濫している。それに辟易するのである。 例えば、「美」について三島はさまざまな語り方をするが、彼が語るのは「美しいもの」っまり 美の対象だけである。これほど美の対象が異なっているのに、われわれはなぜに同じ「美しい」と いう述語を使うのか、つまり「美」の普遍性とは何か、というカントが格闘した問いに彼はっゅほ ども関心を寄せない。 じようぜっ 同じように、「悪」について三島は饒舌に語りつづけるが、じつは彼が語っているのは、「悪いこ と」だけなのだ。われわれはいかなる対象に対しても「 : : : は悪い」というふうに語れる。だから こそ「善人こそ最も悪である」というニーチェの言葉も理解できるのだ。これはたいそう不思議な ことであり、「悪」の記述的意味とは異なった評価的意味として哲学者が議論していることである が、当然三島の眼中にはない。 あたりまえのことだが こうして、 私が詩人や劇作家ではないように、三島は哲学者では よい。とはいえ、誤解されては困る。三島は私にとって飛びきり大切な作家なのだ。非哲学な卓越 。とりわけ、彼が語る「人生への態度」は率 した知性の代表例のような気がするからかもしれない 直でわかりやすい。「私も反抗や反逆の身振りを、いつのまにか装おうとしている自分におどろい たが、私は本質的に反抗的あるいは反逆的人間だとは思われない」 ( 「空白の役割」 ) 。そうなのだ。 三島は最後までサングラスをかけて赤いシャツを着る程度の反逆に執着し、しかもその反逆さえ似 108
しかし、予期の対象としての明日の夕日は「現に見るだろう」タ日ではない。夕日は明日曇天で見 えないかもしれない。私は今夜死んでしまうかもしれない。世界が今日限りで理由なく終わってし まうかもしれない。予期の対象としての明日の夕日とわれわれが呼ぶものは、じつは客観的世界の 出来事ではなく、私の現在の心の状態にすぎないのである。 私が死ぬ前と後 未来が「ない」と言いたいもう一つの ( じつは最大の ) 理由がある。それは、私が自分の「死ー に注目するからである。私にとって「私の未来」とは、私が死ぬ時である。しかも、数十年後に平 均寿命で死ぬという意味ではない。次の瞬間にも死ぬかもしれない時である。そして、それは未来 なのだから、私は今まったくわからない。私は私の「死」を見透すことができない。それに触れる ことができない。しかも、それはまったくの「無」かもしれず、死後も私は何らかの仕方で「あ る」と想定してみても、まったくいかにあるかわからないあり方なのだから、「ない」というのと 変わらないのである。 こうして、未来について先ほど語ったことが、すべて「私の死ーについてあてはまる。未来はい ろいろ予期通りの出来事、予期せぬ出来事が起こるかもしれない。しかし、「私の死」こそいっ起 こっても不思議はない。たとえ世界がしつかり存続していようとも、私が明日死ぬとしたら、私に
過去は保存されているか 過去はどこへ行ったのか。この問いのうちにすでに錯覚が潜んでいる。「どこ」とは場所への問 いであり、われわれが知っているのは空間的な場所だからである。過去という場所がどのようなも のか、じつは誰も知らないのだ。 われわれは、時間を空間的なイメージでとらえる。そのうえで、それに この錯覚の根は深い。 間につける言葉と同じ言葉をつける。こうして、戦後の五五年を、 「長い」「距離」「遠い」等の、空 生命誕生以来の四〇億年を、はるかに歩いてきた長い道のりのようなイメージでとらえてしまうの その一〇秒は長い 一〇秒間周囲を見回してほしい。 だ。だが、時間的長さは空間的長さではない。 であろうか。一分はその六倍長いであろうか。一時間はその三六〇倍長いであろうか。「長いーと いう言葉を使用しても、それがどのような長さなのか、皆目わからないのだ。 タイムトラベルも、過去が保存されているという前提に基づいている。保存されていなければ 「行く」ことができないからである。だが、過去はまったく保存されていないかもしれないじゃな しカ それにもかかわらず、われわれが過去に「行く」夢を断ち切れないのは、多分「想起」という作 用を知っているからである。想起するのは現在である。しかし、その対象は過去なのだ。これは不 180