感じ - みる会図書館


検索対象: 異常の構造
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1. 異常の構造

複して出現しているとでもいうべきであろうか。私の別のある患者は、これと同一の事態を 「トボロジー的な場の転移」と表現していた。常識的理性の合理性が完全に破れたところに成 立するこういった事態が日常的な言語で表現されているということを考えた場合、患者たちの こういった言いまわしはけっして従来の教科書のいうような荒唐無稽な支離滅裂というべきも のではなくて、むしろ最大限の驚くべき的確さを示しているというべきだろう。 右の症例の後半に再録した患者と私との対話も、常識的合理性の立場から見ればまったく無 意味でトンチンカンな内容でしかないだろう。これは従来からの教科書にある分裂病性滅裂思 考の見事な実例である。常識的に言うならば、患者は私の質問をまったく「理解」しておら ず、まったく「つじつまのあわぬ」、「まとをはずれた」返答をおこなっている。しかし、 私たちが一歩常識の立場から足を踏み出して、個物がそれ自身の個別性と同一性をもたず、あ構 るものはそれ自身でありながら別のものであり、「である」と「でない」とが同じことであり、 の 世界が単一ではなくて正反両世界の重複であるような、そういった分裂病的世界の立場に身を おいてみることができさえするならば、この間答において間が抜けていてトンチンカンなの分 は、実は患者の返答ではなくて私の質間のほうだということになるたろう。患者の住む世界を精 、いたずらに合理的説明を求めて質問を重ねている私の言葉に対して、患者 理解することなく

2. 異常の構造

学者といえども、彼が合理的・理性的に思索しようとするかぎりにおいては、この「世界公 一見いかに常識的日常性を離れているかにみ 式」の枠組から一歩も外へ出ることができない。 1 のかわりに 1 日 0 が公理になって、「である」と「でない」 える抽象的思考においても、 1 = 1 のかわりに 1 1 が公理になって、あるものがそれ自身と とが同じことを意味したり、 1 違ったもののことであったりするような立場をとることは不可能なのである。 したがって、この 1 Ⅱ 1 は常識的日常性の基本的公理であると同時に、合理性の基礎でもあ る。 いいかえれば、私たちが住みついている常識的日常性の世界というのは、徹底的な合理性 によって支配されている世界だということになる。 もっとも、この常識的すなわち合理的という等置には、厳密に考えると間題があるかもしれ というのは、ここで考えているような意味での合理性とは、近世以降の西欧文明社会に の おいて典型的に見られるような合理性のことであり、人類一般をひろく考えてみる場合、別の 時代、別の地域にこのような合理性の通用しない社会を想定することも十分に可能なことだか病 らである。すでにこの合理性の日常生活への浸透度のようなものを考えてみると、西欧文明諸分 国とわが国とではかなりの相違があるように思われる。そのなによりも有力な間接証拠は、私 がすでにたびたび書いたことのある人称代名詞の使用法の相違たろう。たとえば一人称単数を

3. 異常の構造

ふとした機会に見かけた男性〈の思慕から本格的な妄想症状を呈するに至る道程は、やはり分 裂病発病の筋道としては典型的なものである。実際、分裂病者の大半がこのような恋愛体験を きっかけとして決定的な異常をあらわしてくる、といっても過言ではない。恋愛において自分 を相手のうちに見、相手を自分のうちに見るという自他の相互滲透の体験が、分裂病者のよう に十分に自己を確立していない人にとっていかに大きな危機を招きうるものであるかというこ とが、この事実によく示されている。 さて、この患者の妄想体験において主役を演じているのも、当然のことながら彼女の片想い の相手 O である。ふだんの彼女を知る同級生たちを驚かせるような、彼女としてはま 0 たく過 体 激な決断によって 0 と同じ合唱団に移 0 てはみたものの ( この過激な行動自身がすでに患者におけ る常識の枠組の解体がかなり進んでいたことを示すものかもしれない ) 、彼女は現実には 0 との個人的 交際という願望を実現することはできなかった。ところが彼女の妄想の中では、 0 はたえず彼 女に向って語りかけ、彼女の意志を動かしつづけるだけではなく、彼女は 0 との間に三回の肉 お 体関係すら持ったという。 0 の心はすべて彼女の心の中に手にとるようにキャッチされるだけ 妄 でなく、「私が 0 さんにな 0 て、 0 さんが私にな 0 て」、「一つが二つ、二つが一つ」にな 0 て、 彼女と 0 とは完全に一体となる。私はかって ( 「自覚の精神病理』紀伊国屋新書で ) この種の恋愛妄

4. 異常の構造

会での寮生活にとびこんだことによって自己の自明性を失ったものと考えることができる。か なり以前の症例であるために生活史の聴取が不十分であって、患者の生育歴の細部については ・不明であるが、父親が教育者であること、しかも戦前の教育者にはえてしてありがちの、ごく しやくしじよう きんかよくじよう 自然な人間性や人情味を殺して杓子定規に作りあげられた形式的モラルを金科玉条とする典型 的な教師タイプの人間であることは、彼女の生いたちとけっして無関係ではないだろう。ちな ・中学校の教師、それも みに、私の印象では子供を分裂病者に育て上げてしまう親のうち、 教頭とか校長とかいった高い地位にまで昇進するような、教師として有能視されている人の数 がめだって多いようである。ヨーロッパでは一般に、牧師の子供に問題が起きやすいというこ とがいわれているようであるけれども、形式的なモラルを自分自身で遵守するだけでなく、そ れを身近かな人間にまで押しつけがちな職業として、牧師と教師との間には共通点があると考 えてよいだろう。患者が発病してから「家庭の道徳と 0 さんとの結婚との間に矛盾葛藤が起こ った」とロ走っていることからも、父親から押しつけられていた家庭的モラルが、結局のとこ ろ彼女の自己発展をいかに阻害していたかを物語っている。 寮生活の開始とともにすでに精神的な安定を失いかけていた彼女が ( この時期に彼女が以前に あげた患者たちとよく似た「常識の欠如」についての悩みを洩らしていることは注目しておかねばならぬ ) 、 102

5. 異常の構造

型ないし単純型の精神分裂病以外のなにものでもない。この症例の貴重さは、ほかならぬこの 症状の乏しさを含むこの種の分裂病像の特徴的構造が見事に示されている点にある。 読者はおそらく、常人も遠く及ばない徹底した自己観察と、それなりに筋道の通ったこれら の表現を見て、このアンネという女性が「狂人」であるということに奇異の念を抱くかもしれ ない。そして、ほかでもないこの症例によって代表されているような破瓜型ないし単純型の分 裂病こそが、あらゆる「狂気」の中でも最も一貫した破壊力を患者の人格に対して及ばすもの であるということを、容易に信じようとはしないかもしれない。 しかし、私たちの周囲にいる 多くの「狂人」たちが、まるで話の通じない、何を考えているかわからない、不気味な存在と して正常人の眼にうつるのは、実はこのいわゆる正常人の側で、彼らの内心の声を聞こうとし ないから、あるいはそれだけでなく、彼らを正常の社会から排除して、彼らに発言の場を与え ないから、つまりは正常人が自分たちの「正常性」のみを唯一の「合法的」なありかたと思い こんでいて、彼らと同じ立場に自分を置いてみようとしないからだといわねばならぬ。彼ら狂 人の側に身を置いて彼らに十分な発言の機会を与えてやりさえするならば、あるいは表現能力 に乏しい患者の場合には、私たち正常人の言葉によってではなく、彼ら狂人の言葉によって彼ら の表現を補ってやるような仕方で、彼らの話に耳を傾けるならば、すべての分裂病者はアンネと 89 プランケンプルグの症例アンネ

6. 異常の構造

る。したがって、知能指数が一〇〇の人は、実際の年齢が統計的な精神年齢にひとしいことに なり、その年齢にふさわしい正常な知能の所有者だということになる。実際にはその上下に一 定の幅をもたせて、知能指数が八五から一二〇ぐらいの人を正常知能者とみなすことになって 知能指数の異常を脳重量の例にならって純粋に量的な平均値からの逸脱という意味に解する と、右にあげた正常知能より以下の知能しかもたない人の場合はともかくとして、平均以上の 高い知能の持ち主も異常ということになるのかどうかという問題が生じる。異常という言葉に なんらの価値的な意味を含めずに用いる場合には、それで問題はおきないだろう。しかしふつ うの語感からい、つと、「異常」とい、つ言葉にはすくなくとも「好ましくない」というニュアン スがどうしてもっきまとう。だから、例外的に知能の高い人をも知能発育の遅れている人と同 列に扱って異常と呼ぶことには、どうしてもある種の抵抗が感じられるということになる。 この抵抗感の中には、すでにある種の価値規範的、目的論的なものの見方がはいりこんでい る。つまり、知能は高ければ高いほど価値があり、人間存在の目的にかなっており、したがっ てそれだけ理想的な姿に近づくことになるというのがその考え方である。この立場からは平均 以上の知能をもつ人は優秀な人間であり、これに反して平均以下の知能しかない人は劣等者だ 21 異常の意味

7. 異常の構造

その際に人間の頭脳のとった巧妙な支配技術は特筆するに値する。人間はまず、自然それ自 身が外見上示している周期性に眼をつけた。太陽はほば一定の周期をもって運行するし、動物 も植物も、そして人間自身も、この周期とかなり一致した関係を保ちながらきまった状態を反 復する。自然をさらに微細に観察しても、やはり同じような周期性と反復性がすみずみまで行 きわたっているように思われる。これらの周期性と反復性を一定の体系の枠の中に拾い集めて 編み出したもの、それが「合理性」といわれる組織にほかならない。自然は、みずからの姿に しゅうい あわせて人間が仕立ててくれたこの囚衣をこばむはずがなかった。自然は人間の巧妙な檻穽に かかったのである。この身にびったりと合う囚衣を着せられて、自然は無邪気に満足し、この 合理性の着衣を誇りにすら思うようになった。自然は人間に対して忠誠を誓い、人間に対して 喜々としてその合理性の姿を示し、ついにー人間も自然もともどもに、自然とは合理性の別名 であるかのような錯覚におちいってしまった。 ところが、自然自身すらとうの昔に忘れ去ってしまったかに見える自然の本性は、実は合理 性とはなんのかかわりもないもの、むしろ非合理そのものなのだった。第一、自然が存在する ということ自体が非合理以外のなにものでもない。自然は、あるいはこの宇宙は、存在する必 要もなしに存在しているにすぎない。太陽の運行は確かに規則的である。しかし、太陽が存在 わな

8. 異常の構造

の脅威であるような例外性と非合理性とに向けられた不安という形をとって現われてくる。た しかに、一個の例外を許容するということはその規則性の秩序全体の存立を危くするだけの意 味をもつ。もちろん、精密な物理学的実験のような場合にも、例外的な結果の生じることはあ るだろう。しかし、この例外がそれ自体、たとえば十分に事情の解明されうる操作上のミスに よるものというような形で、再び規則性と合理性との中につつみ込まれうるような場合には、 そこになんらの不安も生じない。これに反して、感光するはずのない印画紙になにかの形が写 っていたりして、その原因がどうしても解明できないような場合には、そこに大きな不安が起 こる。 要するに、異常で例外的な事態が不安をひきおこすのは、安らかに正常性の地位に君臨して いるはずの規則性と合理性とが、この例外的事態を十分に自己の支配下におさめえないような 場合が生じたときである。つまりその例外が、合理性とは原理的に相容れない、合理化への道 がアプリオリに閉ざされた非合理の姿で現われる場合である。このような原理的・本質的な、 アプリオリな非合理が・ーーっまり、合理化の未完成ではなくて合理化が絶対的に不可能である いやしくも存在するということは、その合理性が完全な意味での合理性で ような非合理が はなく、それ自体合理性に反するような欠陥を含んでいるということを意味する。この致命的

9. 異常の構造

たちは自分が「正常人」であるかぎり、つまり 1H1 を自明の公理とみなさざるをえないでい るかぎり、真に分裂病者を理解し、分裂病者の立場に立ってものを考えることができないので ーないか。そして私たちが分裂厂 ・内者を心の底から理解しえたときには、もはやその「治療」な どということは間題にならないのではないだろうか。 アメリカの革新的な精神分析家のトマス・サスは、ふつうの病気がテレビ受像機の故障にた とえられるならば精神病は好ましからざるテレビ番組にたとえられ、ふつうの治療が受像機の 修理に相当するとすれば精神病の精神療法は番組の検閲と修正に相当するといっている。しか し、分裂病という番組を「好ましくない」と判断し、これに「検閲と修正」を加える権威を単 にそのつどの体制的な社会的規範やそのつどの社会の常識的日常性にのみ求めるのでは、この たとえはまったく陳腐なつまらないものになってしまう。規範が変わり、常識が変わっても、そ こにはつねに変らず、規範や常識の側に立つ大多数の「正常者」と、これからはずれた少数の し力なる種類のものであ源 「異常者」との間の緊張関係は残るだろう。この緊張の真の原因は、、、 れ、そのような社会規範と常識が必然的に生み出される源であるところの、個人と社会との生 命的次元における矛盾的統一のうちにある。私たちが分裂病者を「気の毒」と感じてこれを異 「治療」しようとするのも、逆に私たちが「正常性」の虚構を見抜いて「治療」を偽善とみなす

10. 異常の構造

の相互信頼と相互理解の欠如のために十分に発展することのできなかった彼の自己は、たちま ちその弱体さを露呈することになる。「一」は「一」としての単一性を保持することができず、 1 、 , : 、艮本的に問われる =1 の基本公式は根本から危機に瀕する。自己の自己としてのありカオカ本 というこの種の危機的な関門が最初におとずれるのは、ほとんどの人にとっては思春期におけ る異性との交際においてであろう。分裂病の大部分がそのような契機から「発病」すること は、疑うことのできない事実である。 しかし、人はこのような一時的な危機状況から、いわば心因性的に分裂病に「罹患」するので はない。分裂病者に固有の「自己の個別化の不成立」という基礎的事態は、それ以前にすでに 長い生活史的な由来を有している。あるいはむしろ、彼が場違いに繊細な感受能力をもって生 まれてきたという運命が、すでにその時点において彼を分裂病者として規定していたのかもし れないのである。私は、ふつうにいわれている意味での「分裂病性の遺伝」や「分裂病性の素 質」は信じたくない。そこにはつねに、なんらかのネガティヴな評価が、つまり「先天的劣等 性」のような見方が含まれているからである。私はむしろ、分裂病者とはもともとひと一倍す ぐれた共感能力の所有者であり、そのために知的で合理的な操作による偽自己の確立に失敗し て分裂病におちいることになったのだと考えている。そのようなポジティヴな意味での「素