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検索対象: 異常の構造
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1. 異常の構造

、、わま常識がそっくりそれによって置きかえら 常識」のように常識と相対立する形ではなく ~ れてしまったような形で、つまりふつうならば常識の支配下にあるはずのことがらが、根底か ら非常識によって支配されてしまっているという形で出現してきた場合、私たちはこれを非常 におかしなこととして、ふつうには起こりえない異常なこととして経験することになるだろ 一般に「狂気」とよばれているこの種の精神的異常は、もちろんこれを量的に扱って平均的 正常基準からの逸脱とみなすこともできないし、そうかといって、これをある種の質的な異常 のように、多数者の常態からの偏異としてのみ考えたのでは、なにか本質的な点を見逃すこと になってしまいそうである。もちろん、このような「非常識」な行動は、だれもがふつうにふ るまうようなものではない。だから、それが多数者正常の原則からはずれていることは確かだ ろう。しかし、今見てきたような「狂気」の中には、このような多数、少数の概念を持ち出す までもなく 、いわばいっさいの比較を絶して、そのことがら自体において「異常」というより 味 ほかないような奇妙さがある。心臓を右側に持 0 ている人や色肓の人の異常さとは、どこか決意 異 定的に違っているところがあるのである。 前章において私は、異常は一般に不安をひきおこすものであるけれども、その中でもことに

2. 異常の構造

ということになる。価値規範的な考え方がはいってくればくるほど、それだけ強く「異常すな わち劣等」という見方 . が出てこざるをえない。この見方が、ひいてはいわゆる知恵遅れの人に 対する強い差別意識の源となる。社会が近代的合理主義によって支配される程度に比例して、 この差別意識はだんだん根強いものとなってこざるをえない。 同じ量的異常の中でも身体機能に関する数値、たとえば体温、脈搏数、血圧などの生理学的 数値や、血液成分、尿成分などに関してえられる生化学的数値については、異常はふつうその まま「病的」という意味を帯びてくる。それは、これらの数値についての「正常値」が単純な 統計的平均値ではなく、「健康者」について測定された数値だからである。 この場合、「健康者」というのは、知能指数の算出の基礎になったような「多数の正常者」 というだけの意味ではない。「健康」という概念の中には、ある人が故障なしにふつうに生活 しているような、ふつうの時期の状態という意味が含まれている。つまり簡単にいうと、「健 康」という言葉には常態という意味がある。したがってこの場合には、「異常」すなわち「正 常値」の上限、下限いずれの逸脱も、その人の常態からの逸脱、つまり「不健康」あるいは 「病的」の意味をもってくる。 個人の生存という目的論的見地からみれば、この種の異常にも当然ある価値規範的な意味が

3. 異常の構造

え方である。 その一つの例は「内臓逆位症」と呼ばれている現象である。これは、通常左側に位置するはず の心臓が右側の胸にあるのをはじめ、すべての内臓器官がちょうどふつうの人における位置の 鏡像のように左右逆に配置されているもので、もちろん先天的な奇型の一種である。ただ、こ の内臓逆位は外見的にはまったくわからないのと、本人になんの苦痛も自覚症状もないため つまりこの ふつうは健康診断などの偶然の機会に発見されるまで気づかれることがない。 現象にはなんら病的な意味がないのみならず、日常生活上での支障もまったくない。だいた い、ふつうの人が左側に心臓を持っているということ自体がまったくの偶然なのであって、そ こにはなんらの価値的な意味も含まれていないことである。心臓が右にあるというのも、それ が左にあるのと同じく偶然のいたずらにすぎない。それが「異常」とみなされるのは、ただそ れの出現頻度が低く、通常の位置に内臓を有する人の数に比して少数であるという理山からだ けにすぎない 内臓逆位症のように外から見えない奇型とは違って、身体表面の奇型は多くの場合に日常生 活上の支障をまねき、人の眼にも異形としてうつるために、本人にとっては間接的な精神的苦 痛の原因となる。たいていの奇型はそれ自体としては「病的」な意味をもたないのに、美容整 25 異常の意味

4. 異常の構造

なく、むしろかえって有能であるように見えることがあるのも、そのためである。 しかし、「他覚的症状」としての「常識の欠落」が、もっとも痛々しく、徹底した破壊力を 及ばすのは、やはり患者の内面的生活においてである。それはふつう、妄想とか分裂病性思考 こあらわれている。分裂病者の内面性に触 障害とか呼ばれている現象においてもっとも顕著 ~ れ、その内部をかいまみるとき、私たちがふつうに揺ぎない確実性をそこに見てとっている日 がくぜん 常的合理性の枠組が、いかにもろいものであり信頼のおけないものであるかがわかって、愕然 とすることが多い。私自身の患者の中からその一例を紹介しよう。 症例 患者は二十一歳の女子大生である。四国のいなかの出身で、三年前某大都市の女子大学に人 学している。父親はずっと小学校の教員をしていて、最後は校長をつとめたが、定年退職後は 幼稚園の園長をするかたわら保護司の仕事をしている。まったくゆうずうのきかぬ頑固もの識 だんらん で、くだけた話などはしたことがなく、いわゆる家族団欒の場には縁の遠い人物だという。母 親はやさしい女性的な人だったというが、患者が発病する二年前に病死している。患者には兄諸 と姉とがひとりずつあって、父親の話では幼時より別にかたよったところのないふつうの子供 だったという。もっとも、この父親が娘の日常生活、ことにその内面的な悩みなどについて微

5. 異常の構造

人物も別の人物に変ってしまったり、だれか他の人が変装して現れたのだと考えられたりする こともある。自分の両親は実の両親ではない、といういわゆる「貰い子妄想 -l や、人気俳優や 歌手などを自分の本当の親と思いこむ妄想もかなりよく見られるものである。 このようないわゆる妄想・幻覚症状以外にも、分裂病者はいろいろの奇妙な症状をあらわ す。患者は知的能力の点では格別の障害をうけないのに、いわゆる「分裂病性思考障害」にお ちいると、多くの観点からふつうの人とは違った思考法を示すようになる。それは一見、通常 の論理とはまったく別の論理性によって支配されているようにみえ、すこし進んだ状態になる と、患者の話はまるで理解できないものとなる。ことに特徴的なのは抽象的で難解ないいまわ病 しが多用されることであって、ときにはふつうの国語にはないような新奇な単語が創作された分 り、ある言葉が本来の意味とはまったく無関係な独創的な意味で用いられたりすることもあ精 て る。 と これらの症状を数年間にわたって持続している間に、分裂病者はしだいに独得の、いわゆる 理 の 「人格変化」を示してくるようになる。もっとも不幸な経過をたどる患者は、やがていっさい の対人関係から身をひいて自分ひとりのせまい世界の中に閉じこもり、服装にも身なりにも関犠 心をもたす、浮浪者のような不潔でなりふり構わぬ生活を送るようになる。ふつうの社会生活

6. 異常の構造

然として、自然にやっていけるのでしよう」 ( そんなに根掘り葉掘り考えることはやめてしま えないの ? ) 「あれこれ考えるのをやめるなんてこと、不可能です。先生のおっしやる、いっ も自分を判断してるってこと、それは自動的にそうなるのです。感情がないから、そのうめあ わせをしなければなりません」 ( 弱々しく笑う ) 彼女が「うめあわせ」というのは、彼女に不足 しているものを意識的に考えることで補おうとすることである。 「私はほかの人からみる と元気がないでしよう。でもそれにもう一つ別の故障があって、そのためにふつうの元気のな さがいっそうひどくなっているのです : : : でなければこんなにだめにはなりません。ほかの人 はそれがないので、どうもないようにみえるのです。それのために私は、ちゃんとできないの ア です。だから理屈にたよるよりほかないのです」 別の日に、「今日はふつうの感じがあります。ここへ来たとき、浮きうきしたみたいな、嬉症 の しい気持でした。でもまだときどき感じのなくなることもあります。自分のことをあまり気に ル しないようにつとめているんです。でもまだ興味はでてきません。家の中とかなんかでたいせプ ケ つなことはなにかということが、またわかってきました。でも、ほかの人たちのことやいろい ン ろのものごとをどうやればこなしていけるのか、よくわかりません」 プ その後の経過については二、三のことを述べておくだけにとどめよう。格別の症状の変化は

7. 異常の構造

あれこれと言葉を模索しながら彼女が訴えようとしていた彼女の「障害」あるいは「欠点」 は、一言でいえば、彼女には世間一般の人びとにとってはまったく自明の理である常識がわか らないということだろう。「だれでも、どうふるまうかを知っているはずです。そこにはすべ てきまりがあります。私にはそのきまりがまだはっきりわからないのです。基本が欠けている のです」「私に欠けているのはほんのちょっとしたこと、大切なこと、それがなければ生きて いけないようなこと : : 」「なにかが抜けているんです。でもそれが何かということを言えな いんです。どんな子供にでもわかることなんです。ふつうならあたりまえのこととして身につ けていること、それを私はいうことができません。ただ感じるんです : : : 」 ア これと本質的に同一の「障害」を、私自身の患者は、たとえば次のように表現している。 「どこがおかしいかわからないが、どこかおかしくなる。自分の立場がない感じ。自分で自分症 し。周囲の人たちがふつうに自然にやってグ を支配していない感じ。なにかにつけて判断しこく、 いることの意味がわからない。皆も自分と同じ人間なんだということが実感としてわからな ン ケ い。なにもかも、すこし違っているみたいな感じ」そして患者は、絶えず「どうしたらいいで しよう」という質問で私に助言を求め続けているのである。 私はさきに、常識とは知識ではなく感覚の一種であり、それもいわば実践的な勘のようなも

8. 異常の構造

えない事態である。それは私たちがふつうに理解している「変更」という言葉の意味からは、 はるかに逸脱してしまっている。そのためにこの患者は、この「変更」という言葉をかすかな つぶやきとしてしか、つまり言葉では言い表わしえない異常な事態へのかすかな手がかりとし てしか用いえなかったし、それを私たちにも理解しうるような文章にまとめて語ることができ なかったのであろう。 0 が他の人に「ばけた」といっているのも、ふつうに用いられるよう これも な、外見を変えたり変装したりする意味で「ばけた」のでないことはいうまでもない。 また、 O が完全に 0 ではないところの別の人物に入れ替ったという意味のことを言い表わして いる。ここではもはや、 O は O としての個別的同一性を保有してはいない。だから O は、患者 が人院した後は、同じ病院の男子病棟の中に、一人の男子患者の姿を借りて存在することがで きるのであり、その男子患者が 0 の「変更」であることは、「ビンとわかる」というしかたで 本質直観的に認知されることになるのである。 世界の単一性 常識的日常性の世界の第三の原理は、世界の単一性ということである。ここで世界というの 、、わば宇宙の全体の は、人類の住んでいる世界とか、地球上の地理学的な世界とかではなくし 意味である。つまり、人間の考えうるかぎりでの時間的空間的領域のすべてのことであり、私 115 常識的日常世界の「世界公式」

9. 異常の構造

その人は子供から社会人への過渡期にあたる十代の後半において、さまざまの仕方でこれに悩 むことになるだろう。ここから、精神分裂病とよばれる事態が展開してくる可能性があること は、容易に考えられることなのである。 常識の形成期に作用する有害な事情としては、まず第一に両親その他の家族によって構成さ れているその家庭の日常生活の独得の様相が考えられなくてはならない。それは、この患者の ように、母親の側からの一方的で専制的な生活管理であるかもしれない。分裂病者の母親の中 には、このような過保護・過干渉的な母親、子供の立場でものを考えることができず、すべて を自己の意志ではこばうとする母親が非常に多い。それと同時にまた、この患者の場合には、 病 父親が・ーーおそらくは実質的には最初から・ーー欠如していたということも重大な要囚となりう分 るだろう。男の子には男の子特有の、女の子のそれとは違った意味の常識の形成が必要であ の て る。ふつう男の子は、自分の父親を見習うことによって、男性としての常識を身につけてい し く。ところが私たちの患者の場合には、この男性としての常識の供給者となるべきはずの父親 が最初から欠けていた。このことがこの患者を分裂病者として成長させた、もう一つの重要な の 要因ではなかったかと思われる。 常識というような、あまりにも身近かなものであるためにふつうは十分に距離を置いて考察

10. 異常の構造

質」ならば、十分に考えられることだろう。 分裂病治療の意味 本来ならば、ここで分裂病の「治療」の意味について論じなくてはならないはずである。し かし、私にはそれを具体的に論じる自信がまだない。分裂病がふつうに考えられているような 意味での「病気」でないことは確かである。第二章にも述べておいたように、「病気」の概念 は「健康」の対概念として、「常態からの逸脱」を意味している。ところが分裂病者の場合、彼 の「常態」とはいったいなにをさしていわれることなのだろうか。これまで見てきたように、 分裂病が幼児期の家族関係の中から発生してくるものであり、思春期に至って決定的に表面化 してくるものであるとするならば、分裂病者はまさに分裂病者であること以外に彼の「常態」 をもたないのではあるまいか。ふつうに友だちと遊びまわっていた思春期以前の時代を「常態」 ・も とみなすことも可能ではあるだろう。しかし、子供はけっして大人の常態ではありえない。 しそうならば、初潮をむかえた少女はすべて病的だということになってしまうだろう。 つまり分裂病を「病気」とみなす見方のうちには、暗黙のうちに、さきに述べた「多数者」 と「常態」との読みかえがおこなわれ、「異常」から「病的」への意味変更がおこなわれてい るのである。そこには、異常をなんとかして合理化することによって異常に対する不安をまぬ 177 異常の根源