常識と合理性 私たちは前章で、常識的日常性の世界の基本原理として、個物の個別性、個物の同一性、世 界の単一性の三つをあげ、それらの基本原理が分裂病者において危機に瀕しているありさまを 見た。そして、結局のところこれらの三原理は 1H1 という単純な数式に帰することができる こと、この数式はいわば常識的日常性の「世界公式」とみなすことができることを考えた。 前章でも述べたように、この 1 ⅱ 1 は単に数学や物理学をはじめとする自然科学一般の基本 的公理であるばかりでなく、そもそも私たちがものごとを「合理的」、「理性的」に考えるさい には、つねにそれを出発点としなくてはならないような、不動の基盤をなしている。自然科学 とは本質的にことなった領域で、それとはまったく別の思考法でものを見たり考えたりする哲 8 ー精神分裂病者の論理構造
学者といえども、彼が合理的・理性的に思索しようとするかぎりにおいては、この「世界公 一見いかに常識的日常性を離れているかにみ 式」の枠組から一歩も外へ出ることができない。 1 のかわりに 1 日 0 が公理になって、「である」と「でない」 える抽象的思考においても、 1 = 1 のかわりに 1 1 が公理になって、あるものがそれ自身と とが同じことを意味したり、 1 違ったもののことであったりするような立場をとることは不可能なのである。 したがって、この 1 Ⅱ 1 は常識的日常性の基本的公理であると同時に、合理性の基礎でもあ る。 いいかえれば、私たちが住みついている常識的日常性の世界というのは、徹底的な合理性 によって支配されている世界だということになる。 もっとも、この常識的すなわち合理的という等置には、厳密に考えると間題があるかもしれ というのは、ここで考えているような意味での合理性とは、近世以降の西欧文明社会に の おいて典型的に見られるような合理性のことであり、人類一般をひろく考えてみる場合、別の 時代、別の地域にこのような合理性の通用しない社会を想定することも十分に可能なことだか病 らである。すでにこの合理性の日常生活への浸透度のようなものを考えてみると、西欧文明諸分 国とわが国とではかなりの相違があるように思われる。そのなによりも有力な間接証拠は、私 がすでにたびたび書いたことのある人称代名詞の使用法の相違たろう。たとえば一人称単数を
の脅威であるような例外性と非合理性とに向けられた不安という形をとって現われてくる。た しかに、一個の例外を許容するということはその規則性の秩序全体の存立を危くするだけの意 味をもつ。もちろん、精密な物理学的実験のような場合にも、例外的な結果の生じることはあ るだろう。しかし、この例外がそれ自体、たとえば十分に事情の解明されうる操作上のミスに よるものというような形で、再び規則性と合理性との中につつみ込まれうるような場合には、 そこになんらの不安も生じない。これに反して、感光するはずのない印画紙になにかの形が写 っていたりして、その原因がどうしても解明できないような場合には、そこに大きな不安が起 こる。 要するに、異常で例外的な事態が不安をひきおこすのは、安らかに正常性の地位に君臨して いるはずの規則性と合理性とが、この例外的事態を十分に自己の支配下におさめえないような 場合が生じたときである。つまりその例外が、合理性とは原理的に相容れない、合理化への道 がアプリオリに閉ざされた非合理の姿で現われる場合である。このような原理的・本質的な、 アプリオリな非合理が・ーーっまり、合理化の未完成ではなくて合理化が絶対的に不可能である いやしくも存在するということは、その合理性が完全な意味での合理性で ような非合理が はなく、それ自体合理性に反するような欠陥を含んでいるということを意味する。この致命的
大きな不安の源となるのは精神の異常である、ということを述べておいた。精神の異常すなわ ち狂気が、その他の異常と根本的に違っている点があるとすれば、その相違点とさきに述べた 大きな不安とは、どこかで関係があるのではないだろうか。 異常はすべて規則性からの逸脱であり、合理性からの逸脱であるとはいっても、平均基準、 価値規範、多数者正常の原則などによって判定されうるかぎりでの異常性は、まだしも合理的 に処理しうる種類の非合理ということができる。これらの量的、質的な異常に際しては、合理 性はなおみずからの王国内に特別律法を設けて、逸脱者をもみずからの手で裁く権能を失って いないかのようである。 これに反して狂気という名の異常に至っては、合理性はもはやいかなる形でもこれをみずか らの力によって統制することができなくなっているとはいえないだろうか。そこでは合理性の 最後の拠りどころである常識すらも力を失って、合理性によって征服されつくしたはずの自殊 の非合理があらわにその姿を現している。理性的な判断や比較が加えられる以前に、すでにそ れ自体において直観的なおかしさとして感じとられるこのような異常こそは、自然の非合理性 を圧迫し、その痛恨の声を黙殺しつづけてきた人間の常識的合理性そのもののほころびとし て、われわれ人間にこの上ない不安をひきおこさずにはおかないのであろう。
その際に人間の頭脳のとった巧妙な支配技術は特筆するに値する。人間はまず、自然それ自 身が外見上示している周期性に眼をつけた。太陽はほば一定の周期をもって運行するし、動物 も植物も、そして人間自身も、この周期とかなり一致した関係を保ちながらきまった状態を反 復する。自然をさらに微細に観察しても、やはり同じような周期性と反復性がすみずみまで行 きわたっているように思われる。これらの周期性と反復性を一定の体系の枠の中に拾い集めて 編み出したもの、それが「合理性」といわれる組織にほかならない。自然は、みずからの姿に しゅうい あわせて人間が仕立ててくれたこの囚衣をこばむはずがなかった。自然は人間の巧妙な檻穽に かかったのである。この身にびったりと合う囚衣を着せられて、自然は無邪気に満足し、この 合理性の着衣を誇りにすら思うようになった。自然は人間に対して忠誠を誓い、人間に対して 喜々としてその合理性の姿を示し、ついにー人間も自然もともどもに、自然とは合理性の別名 であるかのような錯覚におちいってしまった。 ところが、自然自身すらとうの昔に忘れ去ってしまったかに見える自然の本性は、実は合理 性とはなんのかかわりもないもの、むしろ非合理そのものなのだった。第一、自然が存在する ということ自体が非合理以外のなにものでもない。自然は、あるいはこの宇宙は、存在する必 要もなしに存在しているにすぎない。太陽の運行は確かに規則的である。しかし、太陽が存在 わな
は日常的ということだろう。そこで「道理」を合理性のもっとも根本的な基礎となっている筋 道、合理性がそこから出てくる根拠、つまり一種の公理のようなものと解すると、『大言海』の いう「常識」とは「世間的日常性の公理についての知識」だといいなおすことができるだろう。 この「知識」のことを、「大言海』は「わきまえて知っていること」と解している。「わきま える」は「別ける」から来た言葉であるから、これでは常識はある種の思慮分別的な知識とい うことになってしまう。しかし、常識に属している知識とは、実はそのような分別知とは別の ものではないだろうか。「常識で考えてみればわかる」などという表現からも知られるよう に、常識は一種の「考え」の基礎になるものではあっても、理詰めの、理論的、推論的な判断 とは別種の、むしろこれに対置されるものである。つまり常識には、理論的分別知以前の、一 種の勘のようなはたらきが属しているのではないだろうか。 共通感覚 常識にあたる英語は、コモン・センスであって、これは「一般の感覚」という意味である。 この言葉は、ラテン語のセンスス・コムーニスの直訳であり、このラテン語は、さらにギリシ ア語のコイネー・アイステーシスの訳語である。そしてこのギリシア語やラテン語は、ともに 「共通の感覚」を意味している。つまりここでは、常識は語源的にも「知識」ではなくて「感
いる合理的常識性の世界の存立を根本から危うくする非合理を具現しているという理由によ 0 て、その理由によってのみ、日常性の世界から排除されなくてはならないのである。そしてこの 排除を正当化する根拠は、「正常者」が暗黙のうちに前提している生〈の意志にほかならない。 生の欲求、存在への意志が「異常者」を「正常者」の世界から排除する。このことは次のよ うにも考えることができる。「正常者」の世界の相互了解性を可能ならしめている常識は、そ れ自体の内部において「非常識」を排除する働きを含んでいる。「常識ー非常識」の対概念は、 「合理ー非合理」の対概念とまったく同様に、みかけ上の反対語である。つまり、ある行為や ある思想を「非常識」とみなして、これを常識に対立せしめる法廷は、それ自体常識の立場に 立っている。「常識ー非常識」の対概念は、それ自体、常識の立場においてみられた対概念で ある。これと同じ意味で考えられる対概念には、そのほかに「自ー他」、「有ー無」、「生ー死」 などがある。これらすべてに共通して、後の項は前の項の立場に立って、前の項の否定として のみ規定されうるものであって、この関係は決して逆転を許さぬものである。私たちは、自を根 「他ならざるもの」として、有を「無ならざるもの」として、生を「死ならざるもの」として性 これらす・ヘてに共通していえることは、前の項が生命的原理の側に 規定することはできない。 あり、後の項はそれの否定の側にあるということである。これらの対概念の間にみられる奇妙
ジ参照 ) 。そして、・もまた「性転換」ないし「両性化」のモティーフを示している。その ときにも述べておいたことであるが、自己の来歴を否認することによって現実の自己の存在を 打ち消して妄想的な自己の再生を試みる患者にあっては、このような性的同一性の混乱はほと んど必須の症状といってよい。 前章であげた常識的日常性の三原理にてらしてみるならば、右にあげた患者の思考内容にお いては個人の個別性の原理と同一性の原理が徹底的に崩壊していることは、くりかえすまでも ない。そしてきわめて興味深いことには、患者はこの二つの原理の不成立を、第三の原理であ る「世界の単一性」を否定することによって、いわば「合理化」しようとしている。「自分が ここでなにかしている、するとある別次元に自分そっくりの人がいる、それが一時的に現われ る。世界が違うんじゃないでしようか。私はどんな次元にでも行ける人間らしい」とか、「今は 地球という星にいるけれども、死ぬと次元が変わって、同じような人間が住んでいる星へ行く のではないかと思いました」とかの言葉が、患者における世界の多重性を示している。ここで もまた私たちは、症例・との類似点を見出す。・は自己の現実の家庭そのままの家族 構成をもっ家庭の「コビー」を設定し、自分をその両方に同時に住まわせたのだった。現代の 理論物理学がその存在を想定している「反宇宙」が、まさに現実の事態として「正宇宙」と重 138
私たちが注目したいのは、この絶対的に一方的な従属性の関係が「合理ー非合理」の対概念 についても認められることである。たしかに形の上では、これは反対語であって、いちおうは 相互交換的・相互規定的と考えられるかもしれない。 しかし、非合理を合理の「反対」と見る ・もしも ) ここで、〈ロ 見かたはそれ自身、まさしく「合理的」な見かた以外のなにものでもない 理と非合理とはなんら反対の概念ではない。 したがってその一方が他方の否定ではない、 うようなそれ自体非合理な考えを持ち出したりするならば、「合理」の概念そのものが根本的 に成立しなくなり、したがってまた、それの反対語としての「非合理」の概念も根底から崩れ ることになる。 つまり非合理が非合理として成立しうるためには、非合理はけっしてそれ自体独立の存在で あってはならないのであって、非合理は合理の否定としてのみ、つまり合理の成立に完全に従 属した存在としてのみ、その成立を許されるのである。逆にこれを合理の側から見るならば、 合理が合理としての存在を確保しようとするためには、それはどうしてもいっさいの非合理か ら独立性を奪って、これをみずからの従属的対概念にまで弱体化しなくてはならないというこ性 合 とになる。だから、「合理ー非合理」という対概念の中に「捕獲」された「非合理」は、真に 合理性を脅かす力を奪われて、合理性に飼い慣らされた仮の非合理であり、いわば合理化され
た非合理である。合理性が合理性にとどまっているか芋り、それは真の非合理を知ることも、 それに触れることもできない。合理性が合理性にとどまろうとするならば、それはみずからの 存立を危くする真の非合理を、あらかじめ用心深く排除しておかなくてはならないのである。 合理が非合理を排除する論理は、実は合理性それ自身の本質に属しているものである。 くりかえしていうと、合理はいかなる形の非合理の存在をも認めないのではない。合理が合 と言いうるためには、合理はすでにみずからの反対概念としての 理であって非合理ではない、 非合理を知っており、その成立を前提としているのでなければならない。つまり合理は、さき にあげた「美ー醜」、「真ー偽」、「善ー悪」などの対語における意味での、みずからの反対語とし 幾何学の範囲内におい ての非合理の存在ならば認めているわけである。たとえばュークリッド ては、直線外の一点を通って、その直線と交わらない直線、すなわち平行線は一つしか存在し ないというのが合理である。もしもある直線に対して、一点を通る平行線が一本以上あったり、 幾何学の範囲内に 平行線が交わったりしたならば、それは非合理である。そしてユーグリッド おいては、この非合理は合理が合理として十分に実現されていないことを意味する。この非合 このよ、フ 理は端的にいって「誤り」である。そこでは真理がまだ真理として現出していない。 な「合理ー非合理」の対概念は、そのまま「正ー誤」の対概念におきかえることができる。