常識 - みる会図書館


検索対象: 異常の構造
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1. 異常の構造

ということが、分裂病者をして分裂病者たらしめているのだ、ということもできる。分裂病 % かたよ 者の中には、一見「空間失認」の患者とどこか通じるところのあるような、偏った空間性を体 験する人もいる。たとえばある患者は、自分の右側の空間は親しい保護的な世界の意味を持 ち、左側の空間は敵意と不信に満ちているという体験を持ち、そのために常に頭を右側へ曲げ た姿勢をとり続けている。しかし、この患者のいう「空間」は、ふつうに抽象概念として考え られた空間でも、脳疾患の患者にとって問題になるような行動の座標軸としての空間でもな 。それはむしろ、敵と味方、親しい者と無気味な者、といったきわめて対人状況的な意味あ いを帯びた「生活空間」なのである。 住み慣れた空間の内部における位置や方角の弁別、洋服や着物の着かた、空間の左右対称性 の知識なども、人によっては「常識」だというかもしれない。 しかし、私たちの考察にとって は、これは「常識」とは違った種類の基本的知識である。私はさきに、「常識」とは「世間的 日常性の公理についての実践的感覚」のようなものだと述べておいた。「世間的日常性」とは、 対人関係の場における日常性ということにほかならない。仮想的にではあれ、自己と他人とい う関係項を含まない状況においては、この意味での「常識」はかならずしも必要となってこな い。かなり重大な行動異常を示す分裂病者が、状況しだいによっては通常の人と何の変わりも

2. 異常の構造

常識の語義 私たちはこれまでに、狂気とよばれる異常において、これを正常から区別する窮極的な基準 は、常識の欠落ないしは常識性からの逸脱という点に求められなくてはならないだろうという ことを見てきた。そこで私たちは次に、ここにいわれている常識ないし常識性の本質は何であ るかを、もうすこし立ち入って考えておかなくてはならない。 「大言海』によると、常識とは「世の常に通じたる道理をわきまえて知り居ること。普通の識 見、思想。普通のかんがえ」である。ここで「普通」とはやはり「世の常」の意味であるから (r 大言海し、ここに述べられている「常識」の意味の要点は、最初にあげられている「世の常 に通じたる道理」とは何かということに帰着する。「世」とは世間一般のことであり、「常」と 3 ー常識の意味 39 常識の意味

3. 異常の構造

て知り居ること」、つまり世間的日常性の公理についての分別的知識のようなものではない。 こ関しては、「常識」という言 常識とは、すぐれて実践的な感覚である。純粋に認識的な知識レ 葉は用いられない。信号が赤であるか青であるかの認識についての「常識」などというものは ない。「常識」が問題になるのはむしろ、赤や青の信号を見て立ち止まるか歩き出すかの実践 的行動なのである。 常識とは、人びとの相互了解の場における実践的感覚がある種の規範化をこうむったものと 解することができる。これをいいなおすと、常識とは共通感覚が相互了解的に規範化されたも のだといってもよい。常識といわれるものが可能であるためには、人間が単なる生理学的感覚 を受容するだけではなく、それと同時に実践的な世界とのかかわりという意味をもっ共通感覚 を生産しうるということが必要である。共通感覚において世界の中へと出で立っている人間 は、常識においていわば「人と人との間」に立つ。常識とは、人と人との間を支配している共 通感覚である。 ところで、いまいったように、常識とは相互了解的に規範化された実践的感覚である。これ はさきに「大言海』に拠ってまとめた常識の定義において、「世間的日常性の公理」といわれ たことに相当する。この「規範化」とか「公理」とかいわれるものの具体的内容は、時代によ

4. 異常の構造

な一方通行的関係は、けっして形式論理的に説明のつくことではない。それは私たちが生きて いるということ、私たちの生がそれ自身の存続を求めているということ、このいかんともしが たい生への意志の中に深く根拠づけられている。 だいたい、常識というものがどのようにして形成されるのかを考えてみるならば、それがあ る社会全体の中で人びとがより合目的的に生命を維持しうるため・の、いわば「生活の智恵」と してにほかならないことが容易に理解できる。このような意味での常識。 よ、そもそも生物が複 数で共同体を形成して、この共同体の中で生存の道を求めようとしているところには、くまな く成立するものであろう。常識とは共同的生存の必要上、生存への意志それ自体によって生み 出されてきた理法なのである。だからこそ常識は、生存欲求の基本公式 1 ⅱ 1 をみずからの 「世界公式」として採用したのであろう。そしてこのような常識は、きわめて鋭敏な感覚を身 につけて、共同的な生命的現実をすこしでも脅かすような非常識を、用心ぶかくしかも徹底的 に共同体から排除する監視者の役割を帯びるようになったのであろう。しかもそのさい、常識 にそなわっている鑑識眼は、その非常識がなお常識の支配下にとりこまれた、いわば基本的に は常識的見地からなされた単なる「誤り」としての非常識であるのか、それともそれの存在が 常識の存立を根本的に否定し、独立の支配権を要求するような真の非常識ないし反常識である 158

5. 異常の構造

は日常的ということだろう。そこで「道理」を合理性のもっとも根本的な基礎となっている筋 道、合理性がそこから出てくる根拠、つまり一種の公理のようなものと解すると、『大言海』の いう「常識」とは「世間的日常性の公理についての知識」だといいなおすことができるだろう。 この「知識」のことを、「大言海』は「わきまえて知っていること」と解している。「わきま える」は「別ける」から来た言葉であるから、これでは常識はある種の思慮分別的な知識とい うことになってしまう。しかし、常識に属している知識とは、実はそのような分別知とは別の ものではないだろうか。「常識で考えてみればわかる」などという表現からも知られるよう に、常識は一種の「考え」の基礎になるものではあっても、理詰めの、理論的、推論的な判断 とは別種の、むしろこれに対置されるものである。つまり常識には、理論的分別知以前の、一 種の勘のようなはたらきが属しているのではないだろうか。 共通感覚 常識にあたる英語は、コモン・センスであって、これは「一般の感覚」という意味である。 この言葉は、ラテン語のセンスス・コムーニスの直訳であり、このラテン語は、さらにギリシ ア語のコイネー・アイステーシスの訳語である。そしてこのギリシア語やラテン語は、ともに 「共通の感覚」を意味している。つまりここでは、常識は語源的にも「知識」ではなくて「感

6. 異常の構造

っているわけではない。患者の「妄想」は、いうなればこの二つの世界がたがいにぶつかりあ って、しのぎをけずっているような局面に成立している。患者の「妄想」が私たちに共通な言 葉でいいあらわされて、まだしも伝達可能であるかぎりにおいてーーーそしてこのような伝達可 能性が残っているかぎりにおいてのみ、それは私たちにとって「妄想」として知られうるわけ であるけれどもーーーすべての「妄想」はそのような二つの世界の境界線上に生じるということ ができる。私たちの患者が正確に表現しているように、「妄想」においては世界はつねに二重 構造をもっている。それはいわば、常識の世界と反常識の世界との二重性なのであり、分裂病 者にとってはすでに不可解なものとなっている日常性の世界と、日常的常識の側からは不可解 なものとして現れてくる分裂病の世界との二重性なのである。 さて私たちは、私たち自身がふだん住み慣れている常識的日常性の世界とはちがったこのも う一方の世界、分裂病性の精神異常においてはじめてその秘密があかるみに出てくるようなこ の反常識の世界の構造を、いますこし明確に規定しなければならない。そのためには、さきに 述べたように、私たちは私たち自身の側の常識的日常性の世界の自明性に埋没していてはなら ない。私たちは、そこでは常識的日常性の世界もまた可能ないくつかのありかたの単なる一つ のケースにすぎなくなるような、常識と反常識とをともに包みこむような、より広い論理構造

7. 異常の構造

・目次 1 ー現代と異常・ 異常への関心 / 異常への不安 / 自然の合 理性という虚構 / 合理性の虚構と不安 2 ー異常の意味・ 量的な異常 / 質的な異常 / 精神の異常 / 狂気という異常 / 常識の欠落 3 ー常識の意味・ 常識の語養 / 共通感覚 / 共通感覚から常 識へ / 常識の規範化 4 ー常識の病理としての精神分裂病・ 精神分裂病とは / 症例 9.

8. 異常の構造

義されているが、この患者の述べていることが常識的な考えかたからみて「判断の誤謬」であ ることはいうまでもない。 しかし、このようにいってしまったのでは、者の言葉を手がかりにして、患者の中になに がおこっているのか、息者がどのような事態の中におかれているのかを理解しようとするいっ さいの努力は道をとざされてしまうことになる。私たちの当面の課題は、常識からの逸脱、常 識の欠落としての精神異常の意味を問うことにあるけれども、これはけっして常識の側から異 常を眺めてこれを排斥するという方向性をもったものであってはならない。私たちはむしろ、 現代社会において大々的におこなわれているそのような排除や差別の根源を問う作業の一環と して、常識の立場からひとまず自由になり、常識の側からではなく、むしろ「異常」そのもの の側に立ってその構造を明らかにするという作業を遂行しなくてはならない。そしてこのこと は、ただ、私たちが日常的に自明のこととみなしている常識に対してあらためて批判の眼を向 けることによってのみ可能となるのである。 私たちの患者は、あきらかに私たち「正常者」とは別の世界に住んでいるといってよい。私 たちの住んでいる世界を「表の世界」とすれば、患者の住んでいる世界はいわば「裏の世界」 といえる。しかし正確にいうならば、患者はまだ完全にこの「裏の世界」にはいりこんでしま 105 妄想における常識の解体

9. 異常の構造

5 ープランケンプルグの症例アンネ・ 母親からの話 / アンネ自身の追想 / 入院 時の所見 / 面接記録とその後の経過 6 ー妄想における常識の解体・ 他覚的症状としての常識欠落 / 症例 / 世 界の二重構造 7 ー常識的日常世界の「世界公式」・ 常識の構造 / 個物の個別性 / 個物の同一 性 / 世界の単一性 / 日常世界の世界公式 / 1 “ 1 でない世界 8 ー精神分裂病者の論理構造・ 常識と合理性 / 症例 / 1 0 108 124

10. 異常の構造

からにすぎないのであって、私がその配慮をやめさえすれば、彼女の豪勢な贈りものはそれな りに相手をこの上なく喜ばせるだけの力をもっていた。 この例を考えあわせた場合、さきのビンスヴァンガーの例も、単にもらい手がそれを喜ばな いという理由だけで異常なのではないということがはっきりするだろう。そこには、ものを贈 ったり贈られたりするという特定の対人関係にそなわっていなくてはならないはずの、なにか 決定的なものが欠落しているのである。この決定的ななにかは、躁病患者エルザ・シュトラウ スが礼拝のために演奏中のオルガニストに親しく個人的に話しかけたり、子供たちのスポーツ に飛び入りで参加したりしたときの行為からも同じように欠落しているものではないのだろう 、 0 常識の欠落 私は、この決定的なものをいいあらわそうとする場合、これを常識とよぶ以外には名づけ方 はないのではないかと思う。礼拝儀式には礼拝儀式の常識があり、スポーツをしている子供た ちと通りすがりの中年婦人という状況にはそれなりの常識がある。さらにまた、人にものを贈 るという行為にもそれにふさわしい常識がある。この常識が欠落したとき、そこに生じるのは 「非常識」以外のなにものでもないだろう。しかもこの「非常識」が、ふつうの意味での「非