生存 - みる会図書館


検索対象: 異常の構造
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1. 異常の構造

な一方通行的関係は、けっして形式論理的に説明のつくことではない。それは私たちが生きて いるということ、私たちの生がそれ自身の存続を求めているということ、このいかんともしが たい生への意志の中に深く根拠づけられている。 だいたい、常識というものがどのようにして形成されるのかを考えてみるならば、それがあ る社会全体の中で人びとがより合目的的に生命を維持しうるため・の、いわば「生活の智恵」と してにほかならないことが容易に理解できる。このような意味での常識。 よ、そもそも生物が複 数で共同体を形成して、この共同体の中で生存の道を求めようとしているところには、くまな く成立するものであろう。常識とは共同的生存の必要上、生存への意志それ自体によって生み 出されてきた理法なのである。だからこそ常識は、生存欲求の基本公式 1 ⅱ 1 をみずからの 「世界公式」として採用したのであろう。そしてこのような常識は、きわめて鋭敏な感覚を身 につけて、共同的な生命的現実をすこしでも脅かすような非常識を、用心ぶかくしかも徹底的 に共同体から排除する監視者の役割を帯びるようになったのであろう。しかもそのさい、常識 にそなわっている鑑識眼は、その非常識がなお常識の支配下にとりこまれた、いわば基本的に は常識的見地からなされた単なる「誤り」としての非常識であるのか、それともそれの存在が 常識の存立を根本的に否定し、独立の支配権を要求するような真の非常識ないし反常識である 158

2. 異常の構造

しかし私たちはここで、この論理は私たちの生存への意志の論理ではあっても、生命そのも のの実相をあらわした論理ではないことに注意しておかなくてはならない。私たちは本書の冒 頭で、自然そのものがいかに非合理なものであるかを見ておいた。自然を合理的だとみなすの は、近代合理主義において頂点に達する合理的自然観から生まれた誤った偏見である。生命に ついても、これと同じことがいえる。生命それ自体はかぎりなく非合理のもの、合理と非合理 との ( それ自体合理的にのみ考えうるような ) 区別を根本的に超越したものである。ただ、それが 個々の生物体の生存性として具体的・個別的な姿をとって顕現してきた場合、これを人間の頭 脳が合理性の基礎として捕捉するにすぎない。個別的な生存の事実と生命一般の実相とは、あ きらかにまったくことなった次元の上にある。 さきに私が「生存への欲求」、「生命への意志」といったのは、まったくのところ、この個別 的に顕現した生存性の保持をめざした欲求や意志のことにほかならなかった。他の生物体にお いてもおそらくそうであるように、人間はみずからが「この世に生をうけている」こと、個人源 の として生きていることを、可能なかぎり永続的に保持しようという強い傾向を有している。こ の傾向だけに関してみれば、人間どうしの間でも、自分以外の他人は大なり小なり自己の生存 しかし、このようないっさいの制約をすべて敵 権を制約する敵とみなされなくてはならない。

3. 異常の構造

するのは、このようにして、もしも非合理の存在を認めればみずからの存在が成立しえなくな るからである。その祭に、 合理性が非合理を排除する口実としているのは現実性の概念であ る。非合理は非現実にまでおとしめられることによってのみ、抽象的な存立を許される。とこ ろがこの現実性は、私たちの体験面においては、存在への意志、生の欲求の反映である。生へ の意志のないところに現実性は成立しない。 このような関連からただちに明らかになることは、私たちの日常生活を基本的に規制し、真 にみずからに対立する反対概念としての非合理の存立を許さない合理性とは、それ自体私たち の生への意志によって支えられたものたということである。私たちが常識的・合理的な日常性 の「世界公式」としてとりだした 1 目 1 は、実はその真相においては、私たちの生存欲求それ 1 自体の基本公式にほかならない。 日 1 に矛盾するあらゆる事態は、窮極のところ 1 Ⅱ 0 とい う数式で表わすことができるが、この 1 Ⅱ 0 は私たちにとってはとりもなおさず、生命否定の、 つまり反生命の基本公式となるのである。 ここにおいて私たちは、いわゆる「正常者」の社会がかくも一貫して、時代と文化の相違を 問わず、いたるところで絶えず「異常者」を排除しつづけ、精神病者との共存を拒みつづけて きた歴史的事実の深い根源に到達することになる。「異常者」は、「正常者」によって構成されて 156

4. 異常の構造

のも、すべてこの生命的次元における矛盾的統一に由来するものなのである。 分裂病を「病気」とみなし、これを「治療」しようという発想は、私たちが常識的日常性一 般の立場に立っことによってのみ可能となるような発想である。そして私たちは、みずからの 個体としての生存を肯定し、これを保持しようという意志を有しているかぎり、しよせんは常 識的日常性の立場を捨てることができない。私たちにできるのはたかだかのところ、この常識 的日常性の立場が、生への執着という「原罪」から由来する虚構であって、分裂病という精神 の異常を「治療」しようとする私たちの努力は、私たち「正常者」の側の自分勝手な論理にも とづいているということを、冷静に見きわめておくぐらいのことにすぎないたろう。 180

5. 異常の構造

視して、ひたすら自己自身の生存のみを求めるということは、そのまま逆に自己の生存の否定 に到達せねばならないことは、火を見るよりも明らかなことである。複数の人間が集団を形成 している場合、他人による自己の生存欲求への制約を容認するということこそが、むしろ自己 の生存を保持するための必要条件となる。このようにして、共同体ないし社会といわれるもの は、その構成員のひとりひとりが元来無制約のものであるべきはずの自己の生存欲求を、共同 存在という目的のために部分的に制約することによってのみ成立する。その形式や内容は時代 や文化によってさまざまにことなるとはいえ、およそ人間が共同生活を営むかぎりにおいてそ こに成立しているはずの共通の規範、つまり常識 ~ ま、このようにして一段と高次の意味での生 命への意志によって形成されたものと考えてよい。 社会的存在概念としての「全」と「一」 共同体の中で自己の生存欲求を制約し、他人の生存欲求から来る自己のそれへの制約を是認 するという態度は、自己が他人のひとりひとりについて、自己が有しているのと同一のカ価を 認め、自己がそれであるのと同一の存在を認めるということによってのみ可能となる。つまり 他人のひとりひとりを自己がそれであると同じ一つの単位とみなすこと、逆にいえば自己自身 をも他人のひとりひとりがそれであるのと同じ一つの単位とみなすことによってのみ、共同生 162

6. 異常の構造

患者は、自分の母親 ( サチコ ) は生みの親ではなく育ての親であり、生みの親は女優の e ・ であるという。しかし同時に、サチコはそのまま・Ⅱの変身でもあるから、生みの母であっ てもさしつかえないことになる。サチコと・とは別々の二人の人物であると同時に、一人 の人物でもある。生みの母ではなくて育ての母である、という命題と、生みの母であるととも に育ての母でもある、という命題とが、なんの矛盾もなく両立している。ここでは端的に l= 1 = 2 ということは 1 = 0 ということでもある。この患者が本当 2 であって 1 日 1 ではない。 にいいたいのは、「自分には母親はいない」ということであろう。自分は母なる存在からは生 まれて来なかったということであろう。自分は ( 母親から ) 生まれてきたのではあるけれども ( 1 = ) 、しかし本当は生まれてはこなかった ( = 0 ) ということであろう。 これとまったく同一の論理構造を、私が自覚の精神病理』で紹介した患者・も示して いた。・は、「お父さんお母さんは本当の親ではない」という妄想をもちながら、それと まったく同時的に「でも少しぐらい関係あると思いますけど。生んでくれましたから」という ( 同書一一九ページ ) 。「本当の親」とは、ふつうは「生んでくれた親」のことである。「生みの 親」ではない、という言葉の下から「生んでくれましたから」という言葉が出てくるようなこ 1 135

7. 異常の構造

い」という意思表示を面会のたびに表明している。この母親にとっては、息子が精神病である という事実をそのまま受け人れることは絶対に不可能なことなのである。 このようにして、主として分散の原理に支配された分散型の家族にせよ、主として密着の原 理に支配された密着型の家族にせよ、分裂病者を育てるような家族のすべてに共通して認めら れる特徴は、私たちの社会生活や対人関係を円滑なものとしている相互信頼、相互理解の不可 能ということだといえるだろう。この相互信頼と相互理解こそ、いわゆる常識的日常性によっ て構成された社会生活の基本ルールなのである。これまで述べてきたように、常識的日常性は 元来無制約なものであるはずの生命への意志を制約することによって共同生存を可能にすると いう目的に向けられている。各個人がみずからの自己を「一」として規定するのも、この要請 にしたがってのことにほかならない。各人が自己を自己として経験しているのは、けっして個 個の人間の恣意によることではないとはいえ、宇宙全体からみればなんらの必然性も持たな 便宜上のことにすぎない。 しかし、この要請に従う能力、つまり常識的日常性の世界に安 住する能力は、この相互信頼と相互理解のルールを十分に受け入れることによってのみ身につ けることのできるものである。 個別化の不成立 174

8. 異常の構造

存は成立しうる。自分が「一人」であると同様に他人のそれそれも「一人」であり、他人のそ れそれが「一人」であると同様に自分も「一人」である。ここにはじめて「一」という概念が 出現してくる。「一」という概念は、けっして抽象的な数学的概念ではない。それは、自己の 生存を保持するために他人との共同生存を可能ならしめるという、人間共同体の基礎理念を表 わした社会学的概念なのである。 「一」が他人の共同存在を認めた自己の存在概念であるとするならば、元米の無制約的な生存 への欲求を具現した自己の存在概念は「全」である。「全」の概念は自己自身以外のなにもの したがって「全」は、他との区第 をも知らない。「全」はいっさいの他を認めようとしない。 における自己とはいいえない。それはいわば、他人をまだまったく他人として認知しえず、世 界を現実として客観視しえない生まれたばかりの赤ん坊の状態を表わしている。赤ん坊が徐々 に母親を自己ならざる他人として識別し、自分の行動に対して種々の抵抗を提供する現実を世 界として知覚し、ここからしだいに他のいろいろな人物や事物を認知し、それにともなって自源 の 分自身をも一個の存在として自覚するようになるにつれて、赤ん坊は「全」としての存在から 「一」としての存在に移るようになる。しかしこの「一」は、あくまで「全」に支えられ、「全」異 を基盤としてのみ「一」でありうる。事実また、「一」はみすからを「一」として自覚する場

9. 異常の構造

異常の意味を問いつづけてきた私たちの考察は、結局のところ、私たちそれぞれがそれの構 成員であるところの「正常」の世界、つまり常識的日常性の世界の構造を、それの正当性に関 してあらためて問いなおすという要請へと導かれることになった。私たちが自明のこととし て無反省に受けとっている「正気」の概念は、みずからが拠って立っている常識的合理性を脅 かすいっさいの可能性を、「狂気」の名のもとに排除することによってのみ存続しうるよう な、きわめて閉鎖的で特権的な一つの論理体系を代表するものにすぎないことが明らかとなっ た。しかもこの独善的な論理体系がみずからを「正常」と僭称しうるための唯一の根拠は、私 たち人間が生存を求めているというこの単純な事実の中にしか見い出されえないのである。日 常性の正常さを保証する基本公式は、そのまま私たちの生存への意志の基本公式でもあった。 0 ー異常の根源

10. 異常の構造

↓めとがき 本書の執筆を約束してからすでに二年あまりの期間が経過している。本書に述べたことの大 筋は、私自身すでにかなり以前から感じていたことであったけれども、最近の精神医学の内部 における一連の革新的な主張、ことにそれが学問的思想の形をとった「反精神医学」の動 は、私自身の内部にあったかずかずの疑問を決定的に表面化させることになった。私が執筆に とまどっていたのは、この激動の中にあって私自身の立脚点を見い出すことが大変に困難なこ とであったからである。 私たちが西欧諸国から受け継いできた従来の精神医学がその根底において間違っているとい うこと、このことだけは最初から確かなことのように田いわれた。しかし、これに対する闘争と して出現した反精神医学の主張も、最初受けた印象ほどには単純に納得しにくいものであるこ とも、次第に明らかとなってきた。つまり、反精神医学がその特徴としている常識解体をどこ までも首尾一貫して押し進めれば、それは必然的に社会的存在としての人間の解体というとこ ろまで到達せざるをえず、したがってまた、個人的生存への意志という、生物体に固有の欲求 181 あとがき