またしても彼女が「自分とは何か」「自分らしい仕事とは何か」という自問自答を口にするとこ ろにある。か まりにも当然のように田 5 え、ついうつかり書くのを忘れるところだったが、実 。けになったのが、男子学生たち は昭和四十年代にスチューデント・アパシーに注目するきっカ のこの〃自問自答み 十りよ A フい」 彼らは後期青年期という年代にあり、「自分とは何か」を、つまりアイデンティテ イを探し求めることを心理的課題とする年齢にあったわけだが、ふつうの学生よりずっと強く このことを意識していた。彼らの強迫性格、完全癖がそうさせたのだった。ただ一般の学生の ふち ように声高に訴えず、一人ひそかに迷い、あげくの果て自己決定を放棄して無気力の淵に沈ん てい 今日の〃新人類〃的学生は、一般的に、二十年前の全共闘世代の学生がそうてあったように オ今日このことを真剣に間うのは、むし 声高にこの問いを人に向かっていうことはなくなっこ。 ろ、われわのもとを訪れる神経症の人てあろう。神経症の人は、ある意味ては真理の近く しるのかもれない。 しかし婦の口から、なかてもャング・アダルトといわれる年代から中年にかけての婦人の かっとう 、。最近の心理学書が、ライ 口から、今アイデンティティ葛藤の髑みをきくことが少なくな (
第二もまた、強迫的心生と間接的につながった心理て、自己アイデンティティの混乱てある。 自分がどう生きるべきか。自分にふさわしいのは何か。エリクソンによって紹介された境界例 青年の場合ほど、深刻な内容のアイデンティティ混乱てはなく、かっ、その場合のように自分 しゅんじゅん み、れ、、ごけこ ( 一見些細かっぜいたくな不決断、逡巡、疑 から苦痛として訴えられたりはしない 惑にみえる。 この仕事はどうも自分に合わない。家事がどうして 自分にピッタリの学部か見当たらない。 もイヤだ、といった具合てある。しかし、単なるわがままてはない。あるべき自分が見つから ぬか、あるいは見失ってしまったという当惑がそこにある。あるべき自分などということを考 - んるのよ・ご、こ、、、 ) ーオしオしカ真面目人間のすることて、しかもそれを適当なところて適当なかたちてす ませられぬのが強迫的心理の困ったところてある。 たいたい、自分のペースてゆっくりたしかめながらてきる作業、成果が眼にみえてあらわれ る作業、区切りがはっきりしている作業の方が、あるべき自分を見出しやすい。直観優位の、 終りのはっきりしない、分担のさだかにきめがたい仕事のなかては、彼らはアイデンティティ を失いがちにみえる。 アイデンティティの不確かさは、あまりにもガッチリとしたアイデンティティの持主たちに
ような解釈がほしくなるときがある。そういう説はこれら境界例論者によってはじめてもたら されたといって間」いないと田フ。 境界型パーソナリティ障害 境界例の症状としては、その他いろいろのものが知られているが、右の三つ ( 「空しさ」「楽し みの感じにくさ」「一一重人格様のヌケヌケ」 ) 以外には、退却神経症にあたる目印はない。たとえば アメリカの公式の診断基準には「境界型パーソナリティ障害」の目印として次のようなものが あげられているが、このうち退却神経症にあたると思われるのは、二つくらいしかない ( ④と⑧ ) 。 しようどう い衝動行為。 平素のその人からは予測しにく 絶対の愛から一転して絶対の憎へとシフトする不安定きわまる人間関係。 怒りのコントロ 1 ルの欠如 合 ④アイデンティティの障害。自己イメージの曖昧さ。についてのアイデンティティの不場 生 確かさ。職業選択の困難。人生の目標の見出しにくさ等。 学 大 感情の理由のない急変。短い持続。 一人にされることの怖れ。 ( 6 ) ( 5 ) あいまい
フサイクルとしての中年の危機を説くのも理由のないことてはない。 しかも一般に女陸たちの アイデンティティ探求は男子大学生のそれより少し複雑てある。「女性として」といういま一つ のアイデンティティを確めなければならないからてあろう。その上、中年ともなれば、すぞに 船出して入生の途中まてきた者としての、残り時間についての焦りも加わる。中年とアイデン ティティ葛藤についてはすてにいろいろと書かれているが、退却神経症を話す本書ても、これ を省略するわけにはい、 女性としての課題 少女時代から、しばしば両親の「自分以上の学歴を」という上昇志向気流にのり、幸い、そ うした親や教師の期待に応えるのに十分の資質をもち、非常な努力とともに、あるいはたいし た努力なしに、成績競争に勝利し、きわめて順風満帆に大学入学まての、あるいは中年主婦た 工ガリテリアン カえて少産合 るまての人生行路を歩んてきた婦人。中産階層化し、高学歴化し、平等社会化し、日 になって男児女児の差別のうすれた今の日本には、右のような恵まれた歩みの方は大勢おられの 女 よう。社会の進歩という点からもちろん喜ばしいことに違いない 男子学生が、もつばら男性としての自分にもっともふさわしい ( 世界の中ての ) 場所はどこか あ
第四章ー女性の場合 : ー女性には少ない症例 2 ー高学歴女性のアパシー 3 ー中年女性とアイデンティティの危機 第五章ー無気力・無関心・無快楽の克服 : 1 ー症状のまとめ 2 ー個人の側の条件 囚性格について ⑧む理的ダイナミックス 0 睡眠覚星 酉リズムの乱れやすさ 3 ー社会の側の条件 2 4 ー治療と予防への提言 188
ーソナリティ障害とは 「境界パーソナリティ障害」と並んて、もう一つ「自己愛。ハーソナリティ障害」という新し、 カテゴリーを、一九八〇年に出版されたアメリカの教科書が載せていて、関係者の間てはちょ っとした話題になって今日にいたっている。この二つの新しいカテゴリーの相互関係について は、必ずしも諸家の意見は一致していないが、自己愛パーソナリティ障害は境界パーソナリテ イ障害よりは一段軽いものという見方に、私は与している。 以上、要するに退却神経症も境界パーソナリティ障害も、ともに、「アイデンティティの障害」 アンへドニア スプリッティング 「空虚感」「無快楽」 ( もしくは「快体験の希薄化」 ) そして「自己分割」の四徴候を共有している。 しかし退却神経症は、境界パーソナリティ障害のように、対人関係ての派手な乱れを示さない。 はじめから静かに引き下ってしまうから、対人関係の乱れがみえにく を困らせるにしても、陽性てはなく陰性の行動によってする。 5 自己愛パーソナリティ障害 くみ いのかもしれない。周り 114
時計の八時から十二時のあたりを占めることになる。経過も二年から五年と長い 薬物への反応はかならずしも良くないが、まったく薬物なしにすますことはてきない。 多少とも効果がある。ただし心理療法を不可欠とする。本人もそれを求める。年単位を要する。 学生てあったり、 理解のある夫をもっ主婦てあったりて、年単位の治療をうけるだけの環境を もっことカ多い ④治療期間は長いが、経過は悪くなし 、。治療終了後の社会適応も当初予想したより良い 長い抑うつ・無気力からの立ち直りの時期に入ると さすがに病前に平均以上の能力と適応をもった人だったと思わせる。もちろん、しかし、治療 終了後も徹底操作的復習を要する。 3 ーーー中年女性とアイデンティティの危機 「自分とは何か」の問い ところて、高学歴女性の右のような無気力を単にうつ状態として片づけてしまい ( 、ヒ較的足早に良くなるという印象をもつ。 の 177 女性の場合
を問うとすれば、こうした高学歴女はそれ以前に、あるいはそれと並行して、自分が小さい 時から親してきた男性原理に沿った生き方と、世間が女性的として認知し促している生き方 いま一つの課題をもっていて、これがなかな との、双方の体重のかけ方に気を配るという、 か重たい もちろん、そのことをまるてスイスイと、何の苦もなくやっておられるみごとな婦人が私の 周囲にも何人もおられるから、あまり過大にそのことに注目するのは私ども男性の偏見かもし れない し力し、少し疲れるとこの悩みが前景に出てくる人の少なからずあることを職業柄知 そういう時の不調のパターンはさまざ っている。平素は元気な人て、決して弱い人てはない。 かっとう まだが、こ」て述べるのはもちろんアイデンティティ葛藤が無気力に、そして退却につながる 場合てある 中年期にお一る「乱れ」 この章の、入部てすてに書いたのだが、女性の退却は男性の退却とちがうのかもしれない 若い男女ぞいま一つはっきりしないが、中年の家庭婦人をモデルにすることをゆるされれば、 女性がそこら部分的・選択的に退却したくなる本業部分は家政に代表される現実のように見 180
接近することも躊躇させる。常識のかたまりのような成人、明治の老骨といった人、自信まん いってみれば、自分の 傍へよると、 まんの秀才、偉い先生などにはことのほか近づきにく、 グニャグニヤのアイデンティティがコンクリートのような彼のそれによって壊されてしまいそ うな不安がある。 負けす嫌い・つきあい下手 第三は、内向者の対人過敏という性格特徴から由来する心理て、優勝劣敗への過敏さてある。 敗者たることを好まず、あらかじめ劣敗の予想される場面への関与を差しひかえる。落第させ朝 られるかもしれない試験などは苦手中の苦手てある。叱られないにしても、内心非難の眼を向楽 したくない。会ったとしても率直無 けているてあろう教師や上司や両親にも、同様の心理から会、 によた、れ . ない。 過度のいんぎんさか、その人らしからぬ偽悪てカムフラージュする。 第四は、友人関係の貧困か。一見社交的に見えるが、一般に同年輩者関係は希薄といわざる無 をえない。 学生は、 たとい講義や実習に出席しなくとも、友人に会いにキャンパスに出入りす力 るものてあろう。中学にしても大学にしても、およそ学校というものがもっ発達心理的意味の無 大部分は、同年輩者関係をたしかめ合うことにある。とすれば、退却神経症者がまったくキャ ちゅうちょ
つ」の再活匪化は、田 5 春期が一番多いが、ときにはもう少し上の年齢になってもおこる。 耐えがたい憂うつ 右のアメリカ人もそうだが、大学院学生年齢の女性の方が学部学生の女性より、はるかに退 却的心理の身近にいるように見える。それは、ひょっとすると学部卒業時点て進路を決定てき ず、大学院という逃げ場をえらんだ人がいよいよ自己決定を迫られるからなのか、それとも大 学院へ進めるほどの優秀者てあるがために、それだけ要求水準の高い社会参加を自他ともに求 しゅんじゅん めており、そのための逡巡の渦に入りこむからなのか。い うまてもなく、家庭と職業の両立と いう女性ならてはの悩みを無視てきなくなるのも、この年齢てある。心理学的にいえば、女性 の「アイデンティティ達成」 という発達課題は、男性の場合より少しおくれて二十歳代後半か 、らはド ) ↓ 6 るのにろ、フか。 ともあれ、大学院学生ぞある彼女たちの本業は学間てあり研究だから、その退却のスタイル は外面的には男子学生のそれとまったく同じてある。しかし、内面的にはちがう。憂うっとい う耐えがたい感情を多少とも伴う。ある学生はいう。 「一時期、憂うって、何もかもがイヤて、気力が出ず、死んてしまいたかった。それがある時 172