サラリーマン年代は幅が広い。後期青年期にはじまり中年期を経て初老期 ( あるいは向老期 ) にまたがる。まれにはエグゼクティヴなら、老年期においてなおサラリーマンをお続けてある。 しかし大方の人々はその ( 後期 ) 青年期と中年期をサラリーマンとしてお過ごしてあろう。 退却という観点からみても、青年的なそれと中年的なそれが区別てきる。前項の入社後まも なくからおこる欠勤多発は、その年齢からいって、第二章て述べる「大学生の場合」とだいた い同じとみてよい。彼らはまだ試行錯誤のゆるされる年齢の人たちてある。始まったばかりの 職業はまだ血肉となっておらず、その変身願望は実現可能性をもつ。その上、ついさっき述べ たように、まだ頼りになる父母の翼下にいる。 ては、サラリーマンの中年とはどのあたりからか。必ずしも年齢の問題だけてないかもしれ いつのまにか、意識せずに合致してい合 ある種の保守性、常識、世間知といったものに の る歩調。それが中年期への目印か。 ン あの青年期独特の、俗より聖 ~ の、日常性より超俗性 ~ の傾倒が少しずつ緩くなる。何かを「、 所有することが大事になり、したがって失うことが不安になりはじめるのも、中年者の目尻の シワのような目印かもしれない。失う不安の対象は人間よりもモノ、それから社会的役割だろサ うか。つまり何らかの理由て現在保有する社会的役割を失い、いわば無国籍になるのてはない
プライズ 幸か不幸か体験されないまま中年期にずれこむ。ノーベル賞に代表されるような〃プライズ人 日ーーみ の危なさだとアメリカ人はいうが、そんな天上人的に考えなくともわれわれの周囲にも素 人的〃準プライズ人間みはたくさんいる。 世の中には実際よくてきる人がいる。またどういうわけか、てきすぎの半生を送って自分て やくどし びつくりしている人もある。ひょっとすると、そういう場合の自成として厄年というものがあ るのだろうか 現代社会の圧迫 中年期に入ってはじめて失速することについてのいま一つの解釈は、今日の中年期がもつ前 例のない圧迫てある。たとえば、今日の日本企業の中堅サラリーマンのように、 一段と競争性 はたん のはげしい社会の中て生きることを求められる人の破綻てある。青年期にはサラリーマンとし てまだ責任がなかった。いわれたとおりにしておればよかった。それが一人立ちを上長から命合 じられたり、ときにはいきなり何人かの部下をもって動くように求められたとき、かっ同輩間の ての競争という元来少年期的課題を強要されたとき、病理がちょっとばかり顔をのぞかせる。女 日本の現代の巨大な工業社会とその経済を維持しつづける主役が、人は変ってもいつも中年の
フサイクルとしての中年の危機を説くのも理由のないことてはない。 しかも一般に女陸たちの アイデンティティ探求は男子大学生のそれより少し複雑てある。「女性として」といういま一つ のアイデンティティを確めなければならないからてあろう。その上、中年ともなれば、すぞに 船出して入生の途中まてきた者としての、残り時間についての焦りも加わる。中年とアイデン ティティ葛藤についてはすてにいろいろと書かれているが、退却神経症を話す本書ても、これ を省略するわけにはい、 女性としての課題 少女時代から、しばしば両親の「自分以上の学歴を」という上昇志向気流にのり、幸い、そ うした親や教師の期待に応えるのに十分の資質をもち、非常な努力とともに、あるいはたいし た努力なしに、成績競争に勝利し、きわめて順風満帆に大学入学まての、あるいは中年主婦た 工ガリテリアン カえて少産合 るまての人生行路を歩んてきた婦人。中産階層化し、高学歴化し、平等社会化し、日 になって男児女児の差別のうすれた今の日本には、右のような恵まれた歩みの方は大勢おられの 女 よう。社会の進歩という点からもちろん喜ばしいことに違いない 男子学生が、もつばら男性としての自分にもっともふさわしい ( 世界の中ての ) 場所はどこか あ
かという不安は、中年者としての不安てある。失、 したくないもの。何年かの蓄積の上にある職 業上の能力。経済力。家庭。信用等々。 ひご 両親は原則として、入社後まもない時代のように庇護的てはない。経済力は親子て逆転して いるか 0 し、れ・ない そうてなくとも、学歴、職歴はもう親のリーチの外にある。十年目の無気 力に際しては、もう両親が本人になりかわって前面に出てくるということは、例外的にしかお , ) 、らた 6 い この項ては、入社十年目に焦点をしばりたい。 十年ては、人によってまだ中年といわれたく ない万年青年型の方もおられようから、中年期への入口のあたり、といっておこうか 急に増え始める欠勤 十年目というと高卒の人て三十歳直前、大卒て三十歳前半てある。結婚して間もないか、結 婚直前といったところか。企業ても官庁ても、そして事務系ても技術系ても、そろそろ一人立 リこり - んない ちする季節てある。今日、大学を卒業した時点てはほとんど誰も一人前 一時その ことを大学教育の非てあるかのようにいう人がいたか、それは高度産業社会の何たるかをお考 えにならぬ人の言てあろう。一一十二、三歳て一人前にてきる、仕事らしい仕事など一つとして
える。事実、中年のアイデンティティ探求に悩む婦人たちのたいていは、今まてになく家事に みずみず 疲労感をおばえるようになったという。家事以外には瑞々しい関心をもっことがてきる。家事 人間が日常生活をおくるのに不可欠な現実。 とはもちろん炊事、洗瞿に限ったことてはない。 そういう現実から退却するにあたっては、日常匪・地上性を超えたところへ眼を向けることの そういう心理をこの人たちは しってみれば〃青年心理〃が一役果たすかもしれない てきる、 容易には失わない、俗物臭の少ない、年より気持ちの若い中年てある。 そういう気の若さとも関係するのだろうか、無気力というだけにとどまらないて、その延長 線上に陽生の行動化として家出や浮気がおこることも、ときにある。およそそ - フい - フことをお こしそうに思えない生格と環境の中ての意外な行動の乱れてある。こういう意外な行動につい てはアメリカの最近の境界例研究がいろいろと教えてくれた。 精神病と神経症の境界線上という考え方から出た境界例については、第二章一一 短い解説をこころみた。これは元来、思春期という親からの分離独立の時期に一番おこりやす合 い不調だが、同じ病理がもう少し上のヤング・アダルト、さらには中年にもおこることが次第の に明らかになった。先に紹介したアメリカの精神分析医マスターソンは「境界型成人」などと女 いう新語をつくっているほどてある。そこには四十歳代て独身の有能なキャリア・ウーマンと川
反応を引きおこさせる。そういう可能性もありえようという人がある。いずれにしても中年主 婦にその主戦場からの退却可能性の出てくる頃、ということか。 186
を問うとすれば、こうした高学歴女はそれ以前に、あるいはそれと並行して、自分が小さい 時から親してきた男性原理に沿った生き方と、世間が女性的として認知し促している生き方 いま一つの課題をもっていて、これがなかな との、双方の体重のかけ方に気を配るという、 か重たい もちろん、そのことをまるてスイスイと、何の苦もなくやっておられるみごとな婦人が私の 周囲にも何人もおられるから、あまり過大にそのことに注目するのは私ども男性の偏見かもし れない し力し、少し疲れるとこの悩みが前景に出てくる人の少なからずあることを職業柄知 そういう時の不調のパターンはさまざ っている。平素は元気な人て、決して弱い人てはない。 かっとう まだが、こ」て述べるのはもちろんアイデンティティ葛藤が無気力に、そして退却につながる 場合てある 中年期にお一る「乱れ」 この章の、入部てすてに書いたのだが、女性の退却は男性の退却とちがうのかもしれない 若い男女ぞいま一つはっきりしないが、中年の家庭婦人をモデルにすることをゆるされれば、 女性がそこら部分的・選択的に退却したくなる本業部分は家政に代表される現実のように見 180
人たちたとえると、十分あり - フることだろ - フ。 女性の場ロはどうだろう。中年期になってふと立ち止まったとき、女性を襲う空虚感の一部 には、学歴社会てありながら学歴や技能を十分に生かせる場所が社会の中に見出しにくいこと もち一 と関係がありはしないか。まだわれわれの社会はそれだけのフトコロの深さをもたない。 ろん女性首相がわれわれの国に登場する可能性をもつのは相当先のことにちがいない。高学歴 女性て資質が高ければ高いほど、そして中年に入り遅ればせながら世の中へと眼をむけるよう にた 6 れ、はた 6 るほい」、、 欲求不満を心のどこかにもたざるをえない そういう構図があるのてはな かろ、フか。 女三十五歳の危機 具体的な冲年女性論はたくさん書店の棚にある。その中から一つをえらんて、本章をしめく アメリカ女性ジャーナリスト、ゲイル・シーヒイはその著書『パッセージ・人生の危機』 ( 深沢道子号 ) の中て、一一十代て どういう生き方を選択するにしろ、女性は三十五歳のあたりて そうぐう 危機を迎えるといっている。これは彼女がこの年齢て「死と遭遇」したことによるという。 184
言たいが立場上口に出せないといった場合、心の中てその場面を反復体験し、怒りをあら 4 ににしている - フち一に、 たんだん生々しさが消えて いく。こういう場合のクョクョは一つの心の 争化作戦てある。これがうまくいかぬと六 一ページてあげたサラリーマンのように、 上司の叱 言をいつまても同じ強度て心の中て反復する。これは不健康てある。 第二は「心身症」の場合て、四時の方向。つまり身体化の方向へストレスを流す。日常、わ れわれは肩がこり頭痛がし、食欲がおち下痢をしといった、多様な、しかし一過性の症状に慣 れている。これもストレスの身体化だが、心身症も程度はちがうがこの方向と考えてよいだろ う。心身症はレッキとした身体の病気て、その発生に心理的ストレ スの関与の明らかな場合をいう。 もちろん心理的ストレスだけが成因のすべててはなくて、体質だ とか性格だとか物理的環境だとか年齢など、多様な要因が関係して いる。消化器系、循環器系、内分泌系どこにも出現しうるが、中年 のサラリーマンにとってよくいわれるのは、過敏生腸症状、消化器 かいようきようしんしよう 潰瘍、狭心症、心筋梗寒、高血圧、糖尿病、高脂血症等々 : 嗚呼、中年てある。 こうそく
あるサラリー マンの症例 サラリーマン年代はまさに軽症うつ病の好発期にあたる。一言ていって中年、壮年の働きざ かりの人たち。企業や役所の論理と常識の中にスッポリはまって、十年一日のごとき日常を、 とりわけて不平もいわず、むしろ孜孜として働いてきた人たち。そういう社会人、常識人の不 調てある。 ゅうしゅう 。もちろん青年にとって憂愁はっきも 一一十代の人にはまだ典型的うつ病はそれほど多くない のといってよいほど身近かてはあるが、しばしば青年期の憂うつは、クスリを使ってなおすと いう治療法になじまない。二十代の人が憂うつをのりこえるには、少しばかり人間が成長する ということが必要なことが多い。それにくらべると、中年のうつ病は一種のむ理的疲労だから、合 日勿 の 合理的な休息療法と薬物療法、少しばかりの心理療法て回復の可能性をもつ。 ン マ 一つケースを掲げてみよう。 四十歳のサラリーマン。奧さんといっしょに来院。外見的にはまったく非のうちどころのなリ い紳士。精神科の外来に来るのに抵抗感がなかったかときくと、前々からこの苦しみはむの問サ 題てないかと思っていたところ、先日の新聞てみた「うつ病」の記事があまりによく似ている