三好氏のいうように表裏なのかもしれ 大学生のアパシーというコンセプトは誕生しなかった。 もっとも、アメリカの精神科の一九八〇年の診断基準マニュアルの性格障害の項に、先のペ ージて述べた「回避型性格障害」という新項目が一つ加わっていて、これがスチューデント・ つまり、人に拒絶さ アパシーを呈する人の格にかなり一致するのを見て、少しおどろいた。 れ たり恥をかかされたりすることにたい ~ ん敏感て、したがってあらかじめ温かく受け入れて くれることがわかっている場合てない限り、対人関係を結ぶことを夬しとせず、その結果どう しても深い人間関係は結べず、職業生活においても末梢的役割に甘んじる。そういう生格異常 てある。 これが公式の生格障害の一つとしてあらたに書き加えられたということは ( それはミロンとい う心理学者の研究によってなのだが ) 、アパシー問題も大学生の枠をはるかに越えた一般の問題と して格上げされたとみることもてきる。たぶんそうみてよいのてはなかろうか 大学制度の違い 大学生のアパシーがアメリカてウォルターズの時代以後に主題的に論じられないのは、もち まっしよう 212
いくら食べても満腹感を感じにくいというのも、こういう過食時の特徴てあろう。この過食は、 ごく軽度のものまて入れれば、決して珍しくない それから乱買とてもいうか。必要な品とはいえ、それほどの量を買う必要があるとは思えな そういう買い方てある。 もっと一般的なのは、両親への子供がえり的態度。依存と反抗、愛と憎。ことわっておく必 要があるが、彼女たちは幼少児期以来一度たりとも、そのような無礼な態度て両親に接したこ とのない人てある。しかも三十歳代に入ってはじめて、右のような退行行動のてる人も稀なら ずある。長、 し間、ガマンの子だったから、とみるべきか。とにかく、その人らしからぬ出来事 てある。 男性モデルとの相違点 たしかにうつ病との関連が間題て、合 男子の退却神経症ても、七〇ページても述べたように、 「逃避型抑うつ」という中間項に少々の解説をさいたほどだが、しかし、うつ病とは似て非なの るものとして退却神経症という新類型が必要とされたように、一線を画するものがあった。女女 たとえば、無断欠勤という行動化は簡 子例てはそれがはっきりしない。 それから、男子例ては、 まれ
あるだろうか。おおむね十年くらいの研修期間を、ほとんどの職業が必要としているのてはな かろうか。十年目あたりに、以下に述べるような退却神経症が出やすいことから考えても、そ - フ田んる しっそう いくつかのタイプがある。急に欠勤回数の増えだす人、突然の失踪、いきなりの自殺。今ま はたん けんじっ ての堅実な彼の生活態度から考えにくい破綻。たとえば、多額にすぎるローン、女陸とのトラ プル、盗み、遊興等。 まず平均的な出勤拒否から。 外見的には急に欠勤が増えはじめ、年休を一挙に消化してしまうかの感がある。調べてみる と、昨年度も一昨年度も、休みをとる度合は平均より少し多かった。しかし特別のことはなか った。それが最近一挙に増え出した。休み方は長くて二、三日。診断書も提出されていて、形合 の 式はととのっている。月曜日に休むことが多いということを除けば、とくに特徴は見出せない。 ン この時期、欠勤の理由は風邪とか腹痛など身体の症状てあることが多い。ちょうど、学校をマ 休み出す子供が、最初、頭痛だとか腹痛を理由にするのと似ている。 けびよう ともいうべき登校拒否症て、そサ これを仮病とみるかどうか。すてに小・中学生の退却神経症 しんきしよう の初期にほとんど必ずといってよいほど心気症期のあることは、児童精神科医たちがよく知っ 0
ンパスに出てこないことのもたらす欠陥は小さくないだろう。 ある学生が、少しよくなってきた時、友人たちの助力に感謝してこういったことが、私の印 象にのこっている。 、、、 ' : ものと田 5 ったことは今まてになかった。恥ずかしいが、今まて同 友人かこんなにありカナし 年輩の友人をどうしても競争相手以上に見ることがてきなかった。人がこんなに自分のことを 案じ、献身してくれるのをみて、自分もお返しをしなければ、と思っている、と。 もちろん右のようにいえる人の自己愛はそもそもそんなに障害されたものてなかったという 吉昏して立ち直った大学生もいた。 友人関係の希薄さを修復するという意味もあろうか、系汝 一くいという苦労 かし、本文中ても述べたが、自愛性がつよすぎると、なかなか女性に出会い ( もある。 第五は、前項て述べた「陰性の行動化」による攻撃のこと。彼らは直接の攻撃には出ないが、 誰もが ( 自分さえ ) 予期しなかった退却によって周囲の人々の期待をうらぎり、困らせるという 間接攻撃を行なう。両親や教師や友人は、この間接攻撃に耐えかねて、やがて彼を見はなそう とする。治療家の注意しなければならない一点てある。 202
ともシュナイダーがすてに述べている。 まれ たいていは正常から問題性格の間に もっともアパシーの学生て精神病質レベルの人は稀て、 位置される人てあるから、シュナイダーの概念を転用して自己不確実「状態」というのがよい これは固定した病前性格というより、潜在的な成熟不安が引き金になって開発された状態とみ そう述べている。 た方かトい ここまては私のいう強迫生プラス回避性と軌を一にしている。問題は自己 - 氏・、い , フレよ , フに」、 スプリッティング ーソナリティの分割のニュアンスを「自己不確実状態」 愛生と、そしてそこから出てくるパ という表現てあらわせるかどうかてある。 蛇足ながら私は、性格学に関してだけは時代に沿った新しい研究の方がよいという軽薄 ( ? ) 田 5 想をもっているのて、どちらかというと、一九二〇年代のドイツのシュナイダーよりは一九 八〇年代のアメリカのそれに関心がある。さらにいえば現代の日本に即したローカルな性格傾 オプセッソイド 向を描く努力も決してコッケイてはないと考えている。「類強迫性格」などというネオロギス ムをあえてするのも、そのような考えに立脚している。 旧む理的ダイナミックス 198
症状のまとめ この章ては、前四章に描いた臨床的事実を踏まえ、少しばかり考察を加えてみようと思う。 また、治療法とまてはいかなくとも、何らかの対策を述べないのも、著者としては気がひける。 こうしたらよろしいといえるほど簡単な小手先てすむ間題ては決してないが、それても自分の 考えるところを述べる責任は、新しい神経症類型を口にする以上、免れないと思っている。 まず、症状のまとめから。退却神経症の骨格は、無気力・無関心・無快楽という無印て標語 イてきる。すてに書 いたところと重複するが、箇条書きにしてみる。 しようそう かっとう 無気力・無関心・無快楽を主症状とし、耐えがたい不安・焦燥・抑うつ・葛藤など ( 従 来の神経症には必ずあるとされた ) 主観的苦痛の体験を前景にもたない 。そのせいもあってか、ふ つう自分から積極的に助けを求めない。 無気力は社会生活からの退却、それもその人にとって〃本業〃とてもいうべき中枢部分 からの選択的退却となってあらわれる。サラリーマンなら職場からの、大学生なら専門の学業 188
とくに今日イヤな人に会わねばならぬとか、今の仕事がとくに 心が仕事の方へむかない しゅんじゅん やっかい 課題をリこ逡巡しているのてもない。だから自分て 厄介だといった見実的理由はない。新しい = = 前 ( 、、 0 よ′、、わか・らた 6 い」 頑張って家を出ても、会社 ~ たどりつくまてに大きな坂がいくつもあるようて、気おくれが 先に立つ。駅まて到達しても、つい反対の方向の電車にのってしまう。会社 ~ 電話をかけそび れ、家人への訳も思いつけず、夕方まて公園や図書館などて時間をつぶす。なぜなのか、自 分てもわからない、 それていて、すっと休むわけてはない。何日かすると、出勤してくる。そして仕事は先にも 述べたようにしつかりてきる。このあたりが単なるナマケもののナマケとちがうし、この人の 合 能力が落ちこんだがための不適応現象てないことを示している。 の 出勤した日のスケヌケが、先の若い社員の欠勤多発のところて述べたのと同じようにある。 ン 何日にしろ無断欠勤をしたのてある。出勤してきたら上司や周囲の人に、平身低頭とはいわな「 しやさい いまても、しかるべき謝罪があってよいと思うのに、彼はその点どうみてもスケヌケしていて、 し神経が一本抜けているように田 5 え、周囲の人は心おだやかサ 平気て仕事をやっている。そう、う 十ノー、
いて述べなければならない。 もっとも、うつ病といっても精神病といわねばならぬほど重いう まれ つ病てはない。 今日の日本の企業や役所の三十歳、四十歳、五十歳代の人に稀ならずみられる 軽症のうつ病てある。外見的にはそんなに憂うっそうにみえない紳士の、それにもかかわらず 内面的にはうつ病の症状をしつかりもっている。そういう場合てある。 よく似たところがある。朝わるくて午後から夜にかけて気分が晴れる。全般的な不安・憂う っ・無気力。それらは、程度の差こそあれ、退却神経症にも軽症うつ病にもある。似ているの 学 / 、刀市一三 吉侖を先にいえば、退却神経症は社会適応に挫折してひきさがるという逃避心理が一次 的てあり、うつ病の方は生物としてのエネルギー低下が一次的なのて、根本的・理念的にはち がった状態と考えられる。 たとえば、うつ病の人も自信を失い、仕事への意欲を失い、この世からスーツと消えてなく合 なりたいと思うのだが、それは平生の元気なときの心の張りを支えている生物的エネルギーのの ン 一つのことをクマ 水準が低くなった結果、いつもの彼らしくなく何をするのもおっくうになり、 ョクョと考えつづけ、現実から逃避的になっているのてある。 後て述べるが、このようなうつ病の心理的エネルギーの低下はたいした理由なしにおこるのサ が特徴てある。場合によっては、まったくきっかけなしに自然におこってくる。人によっては
サラリーマン年代は幅が広い。後期青年期にはじまり中年期を経て初老期 ( あるいは向老期 ) にまたがる。まれにはエグゼクティヴなら、老年期においてなおサラリーマンをお続けてある。 しかし大方の人々はその ( 後期 ) 青年期と中年期をサラリーマンとしてお過ごしてあろう。 退却という観点からみても、青年的なそれと中年的なそれが区別てきる。前項の入社後まも なくからおこる欠勤多発は、その年齢からいって、第二章て述べる「大学生の場合」とだいた い同じとみてよい。彼らはまだ試行錯誤のゆるされる年齢の人たちてある。始まったばかりの 職業はまだ血肉となっておらず、その変身願望は実現可能性をもつ。その上、ついさっき述べ たように、まだ頼りになる父母の翼下にいる。 ては、サラリーマンの中年とはどのあたりからか。必ずしも年齢の問題だけてないかもしれ いつのまにか、意識せずに合致してい合 ある種の保守性、常識、世間知といったものに の る歩調。それが中年期への目印か。 ン あの青年期独特の、俗より聖 ~ の、日常性より超俗性 ~ の傾倒が少しずつ緩くなる。何かを「、 所有することが大事になり、したがって失うことが不安になりはじめるのも、中年者の目尻の シワのような目印かもしれない。失う不安の対象は人間よりもモノ、それから社会的役割だろサ うか。つまり何らかの理由て現在保有する社会的役割を失い、いわば無国籍になるのてはない
④広い意味てうつ病 ( 感情病 ) 圏に入るとする説。 、こもよるたろう。退却神 、よ、対象となる事例の年齢やタイプのち力し ( 学説の強調点のち力しー 経症の観点からすると、に③④はよくわかる。③は表裏をなすものとみることがてき、そう すればともに、 ーソナリティのやや病的な自己愛部分が、優勝劣敗に過敏のゆえに敗北、不 成功の予想される場面から先がけて退避するという退却神経症の心的カ動 ( ダイナミックス ) そ のものということになる。というよりも逆かもしれない。後にウォルターズ ( 一九六一年 ) や私 ( 一九七三年 ) が大学生のアパシーをめぐっていろいろと考えたことを、すてに早く子供のケー スについて指摘していた児童学者たちの慧眼の方に敬意を表すべきかもしれない。 こうとうむけい ④をまったく荒唐無稽と田 5 いにくいことについては、前章ても前々章ても述べた。うつ病て はないし J して -,.D 、ノ ことえば午前中の過眠が容易に固定する傾向などは気になるところてある。 の分離不安説はもう少し年少の不登校児のためのものか。それとも近年の境界例論がしきり に強調するように、生後三年未満のころの母子のやや不幸な人間関係が心的外傷として長く残 スプリッティング っていて、ことあれば再活性化する。そういう意味にとれば、第二章て述べた自己分割、空虚 感、快体験の希薄化などとも関連してとらえることがてきるかもしれない けいがん 142