あったのだ。ミー チャに劣らず、イワンも彼を悩ませる存在だったが、今、 とでは、それが今まで以上だった。 五違う、あなたじゃない , イワンのところへ行く途中、カテリーナ・イワーノヴナの借りている家のわきを通らねばなら あか なかった。窓に灯りがついていた。彼はふいに立ちどまり、人ることに決めた。カテリーナ・イ ンワーノヴナにはもう一週間以上会っていなかった。しかし、今ふと、イワンが来ているかもしれ ちょうちん ワ イない、特にこういう日の前夜だから、という考えが頭にうかんだのだ。ベルを鳴らし、支那提灯 兄なのぐら に仄暗く照らされた階段に人ると、上から人が降りてくるのが見えたが、すれ違うときになって、 一兄であることがわかった。してみると、兄はもうカテリーナ・イワーノヴナのところから出てき 第たのだろう。 「ああ、お前か」イワンは素っ気なく言った。「じゃ、失敬。彼女のところへか ? 」 「ええ」 「やめとけよ。《気が立ってる〉から。お前はいっそう気持をかき乱すだけだよ」 「いいえ、そんなことはありません ! 」突然、さっと開かれた二階のドアから声が叫んだ。「ア レクセイ・フヨードロウイチ、お兄さまのところから ? 」 「ええ、今行ってきたんです」 「あたくしに何か一一一口伝てがございまして ? どうぞお人りになって、アリヨーシャ。それからあ 173 チャに会ったあ
そらくあの話は全部が正確なわけではあるまい、特に将校が〈うやうやしく一礼しただけで〉生 むすめ 娘を手放したという個所は怪しい、と噂し合った。あそこは何かしら〈省略されて〉いると、 人々は仄めかした。「かりに省略がなく、すべてが本当だとすると」もっとも尊敬すべき上流婦 人たちまで、こう言うのだった。「そうなるといっそう腑におちませんわね。たとえ父親を救う ためとはいえ、若い娘がそんな振舞いをするなんて、あまりほめた話じやございませんでしよう どうさつりよく に ? 」それにしても、あれほどの知性をそなえ、病的な洞察力をそなえたカテリーナ・イワーノ ヴナが、こんな噂の生ずることを、前もって予測しなかったのだろうか ? きっと予測してはい 言うまでもなく、話の真相に対するこ 審たのだが、すべてを話そうと決心したのにちがいない , うした汚ならしい勘ぐりが生れたのは後日のことで、最初の瞬間はあらゆる人が心を打たれた。 誤 裁判官たちに関して言うなら、彼らはうやうやしい、ほとんど恥ずかしそうな沈黙を守って、カ 二テリーナ・イワーノヴナの話をききとった。検事はこの話題についてそれ以上、質問一つ発する 第ことさえ遠慮した。フェチュコーウイチは深々と彼女に一礼した。ああ、彼はほとんど凱歌をあ げんばかりだったー 収穫は大きかった。高潔な衝動にかられて最後の五千ループルを気持よく 与える男、同じその男がのちに三千ル 1 プルを奪う目的で、夜中に父親を殺す、ーーこれはかなり つじつま 辻褄の合わぬ話だった。少なくともこれでフェチュコーウイチは、せめて強盗罪だけでも除く ことができたのだ。《事件〉は突然、何か新しい光に包まれた。何かしらミーチャに有利な、同 情的な空気が流れた。一方、その彼は : : : 彼はカテリーナ・イワーノヴナの証一一口中に一、二度、 席から立ちあがりかけ、それからまたべンチに腰をおとして、両手で顔を覆った、という話だっ た。だが、彼女が証言を終えると、彼は両手を彼女の方にさしのべながら、ふいに泣き声で叫ん の がいか
ト・一アア・ファータ ゴット・デア・ゾーン、ゴット・デア・ハイリゲ・ガイスト ! 僕は今こ の町についたので、くるみ四百グ一フムのお礼を言いに伺ったのです。だって、あのころはだれも 僕に四百グラムのくるみなんて決して買ってくれなかったのに、あなただけはくるみを四百グラ ムも買ってくだすったんですからね』そのときわたしは、自分の幸福な青年時代と、長靴もはか ずに裏庭にいたかわいそうな少年のことを思いだしたのです。わたしは胸がつまる思いで、言い ました。『君は感謝の気持の篤い青年だ。だって、あんな幼いころにわたしのあげた四百グラム のくるみを、今までずっとおぼえていてくれるなんて』わたしは青年を抱擁して、祝福しました。 弟そして、わたしは泣きだしました。青年は笑っていましたけれど、やはり泣いていたのです : のなぜなら、ロシア人は泣くべきところで、笑うことが非常に多いからです。でも、この人は泣い ゾていました、わたしにはそれがわかったんです。それが今や、悲しいことだ ! 」 マ 「今だって泣いていますよ、ドイツ人の先生、今も泣いているんです、あなたは神さまのような カ人だ ! 」突然ミーチャが自席から叫んだ。 そうわ 何はともあれ、このちょっとした挿話は傍聴席にある程度の好もしい印象をもたらした。しか チャに有利な最大の効果は、これから話す力テリーナ・イワーノヴナの証言によっても たらされた。それに概して、被告に有利な証人、つまり弁護側の申請した証人の証言がはじまる と、さながら運命がふいに、本気でミーチャにほほえみかけた感がし、何より注目すべきことに、 当の弁護側にとってさえ、それは思いがけぬことだった。しかし、カテリーナ・イワーノヴナよ り先にアリヨーシャが喚問され、アリョ 1 シャは突然、有罪説の一つの重要なポイントに対して 積極的に反証の感さえあるような、一つの事実を思いだしたのである。 316 ア・デシャルジュ
た群れとなって、〈審理〉の最後まで立ちとおしていた。婦人たち、それも特に遠来の婦人の中 には、極端にめかしこんで傍聴席にあらわれた者もいたが、大半の婦人は服装のことさえ忘れて どんよく いた。婦人たちの顔にはヒステリックな、貪欲な、ほとんど病的とさえ言える好奇の色が読みと れた。この法廷に集まった人々全体の特徴の一つは、ぜひとも指摘しておかねばならないが、の ちに多くの観察によって証明されたように、ほとんどすべての婦人、少なくとも圧倒的多数の婦 チャの肩を持ち、無罪を支持したことである。おそらく、その最大の理由は、彼に関 人かミー して、女心の征服者といった観念が作られていたためであろう。ライ。ハル同士の二人の女性がい 審ずれ出廷することは、わかっていた。その一人、つまりカテリーナ・イワーノヴナは、特にみな うわさ の興味をそそった。彼女については異常な噂がひどくいろいろと語られ、犯罪までやってのけた あき 誤 ーチャに寄せる彼女の情熱に関しても、呆れるような一口話がいくつも流れていた。特に話題 ごうまん 二になったのは、彼女の傲慢さや ( 彼女はこの町でほとんどだれの家も訪問したことがなかった 第のだ ) 、《貴族社会における顔の広さ〉だった。彼女は罪人について流刑地に行き、どこか地下の 炭鉱で結婚することを許可してくれるよう、政府に陳情するつもりらしい、という噂もあった。 一方、カテリーナ・イワーノヴナのライ。ハルであるグルーシェニカの出廷も、これに劣らぬほど いんばい の興奮をもって待たれていた。人々は、プライドの高い貴族の令嬢と《高級淫売〉という二人の ライ。ハルの法廷での対決を、苦しいほどの好奇心で待ち受けていた。もっとも、この町の婦人た ちには、カテリーナ・イワーノヴナよりグルーシェニカのほうが有名だった。《フヨードル・カ 一フマーゾフとその息子とを破滅させた女〉を、この町の婦人たちはこれまでにも見たことがある ので、どうしてあんな《ごくありふれた、まるきり不器量でさえあるロシアの町人娘〉に親子そ 285
リーナ・イワーノヴナの提出した手紙は、証拠物件に加えられた。協議の末、法廷は、・このまま 審理を続行し、二つの思いがけぬ証言 ( カテリーナ・イワーノヴナとイワンの ) はどちらも調書 に記載することを決定した。 だが、もうこれ以上、審理の模様を記すのはやめにする。それに、あとの証人たちの証言は、 それぞれ個性的な特徴をそなえていたとはいえ、どれもこれまでの証言のくりかえしゃ裏付けに すぎなかった。しかし、くりかえして言うが、すべては次に記す検事の論告の中で一点にしぼら れてゆくのである。だれもが興奮していた。すべての人が最後の破局によって神経をびりびりさ 弟せ、焼けつくようなもどかしさをおぼえながら、一刻も早く大詰を、検事、弁護人双方の論告と の判決とを待ちわびていた。フェチュコーウイチは明らかにカテリーナ・イワーノヴナの証言でシ ゾョヅクを受けていた。その代り、検事は勝ち誇った様子だった。審理が終了すると、ほぼ一時間 マ近い休廷が宣せられた。やがてついに裁判長が最終弁論の開始をつげた。わが検事ィッポリー カト・キリーロウイチが検事論告をはじめたのが、たしかちょうど夜の八時であった。 六検事論告。性格描写 おかんわっけ ィッポリートは額とこめかみに病的な玲汗をうかべ、全身に悪感と熱気をかわるがわるおぼえ て、神経質な震えに身体をこまかくふるわせながら、検事論告をはじめた。これは当人があとで シェ・ドウープル シェ・ドウー・フル 語ったことである。彼はこの論告を自己の傑作と、生涯の傑作であり、白鳥の歌 ( 窈歌の ) であると見なしていた。たしかに、この九カ月後には彼は悪性の結核でこの世を去「たのだ
れよ、アレクセイ、それ以上言うな。そんなことは考えてもいないんだから」 二人はまた一分ほど沈黙した。 「彼女は今日は夜どおし聖母マリヤにお祈りすることだろうよ。明日の法廷でどう振舞えばいい か、教えてもらうためにな」突然彼はまた憎しみをこめて語気鋭く言った。 「それは : : : カテリーナ・イワーノヴナのこと ? 」 「そうさミー チェニカの救世主になるか、それとも破滅者になるべきか ? そのことをお祈り して、心の闇を照らしてもらおうというわけさ。見てのとおり、当人もまだ心の準備ができてい 弟ないんだ。あれも俺を乳母ととり違えて、子守り唄でもうたわせる気でいるのさ ! 」 の「カテリーナ・イワーノヴナは兄さんを愛しているんですよ」悲痛な思いをこめてアリヨーシャ ゾは言った。 マ 「かもしらんな。ただ、俺は彼女に関心がないのさ ラ 力「あの人は悩んでいるんです。それじゃ兄さんはなぜときおり : : : 気を持たせるようなことを言 うんですか ? 」おずおずと非難をこめてアリヨーシャはつづけた。「兄さんがあの人に望みを持 たせてきたのを、僕は知ってます。こんなことを言って、ごめんなさい」彼は言い添えた。 「俺はここで必要な態度をとることができないんだ。きつばり縁を切って、ずばりと言ってやる ことがさ ! 」イワンが苛立たしげに言った。「あの人殺しに判決が下るまで、待たなけりゃなら はらい ないんだ。もし今俺が手を切れば、彼女は俺への腹癒せに明日の法廷であの無頼漢を破滅させる ことだろう、なぜって彼女はあいつを憎んでいるし、自分が憎んでいることを承知しているから な。すべて嘘ばかりさ、嘘の積み重ねだよ ! ところが今、俺がまだ手を切らずにいるうちは、
ーチャ救出計画 ーチャの公判後、五日目の早朝、まだ九時前に、アリヨーシャはカテリーナ・イワーノヴナ 一を訪ねた。二人のどちらにとっても重大なある用件に関して、最終的に打ち合せをするためだっ ロたが、そのほか、彼女に頼みもあったからだ。彼女はいっそやグルーシェニカを通した、例の部 せんもうしよう ピ屋に坐って、彼と話した。隣の部屋には、譫妄症になったイワンが意識不明で寝ていた。あの日、 工法廷での騒動のあとすぐに、カテリーナは、将来必ず起るにきまっている世間のあらゆる噂や当 人の非難を無視して、イワンを自分の家に移すよう命じたのだった。彼女といっしょに暮してい しんせき た二人の親戚の女のうち、一人は法廷での騒動のあとただちにモスクワへ去り、もう一人はとど まった。だが、かりに二人とも去ったとしても、カテリーナは決意を変えずに、病人の看護に踏 みとどまって、昼も夜も付き添っていたにちがいない。治療にはワルヴィンスキーと、ヘルツェ ンシトウーべがあたっていた。モスクワの博士は予想しうる病気の経過について意見を述べるこ ーシャをはげま とを断わり、モスクワへ帰って行った。残った二人の医者はカテリーナとアリョ しこそしたが、確かな希望をまだ与えられずにいることは、明らかだった。アリヨーシャは日に エピロ がノ
ていました ! 」 彼女はわれを忘れてこう絶叫した。裁判長の方に彼女がさしだしている紙片を廷吏が受けとる くずお と、彼女は椅子に崩折れ、顔を覆って、全身をふるわせ、退廷させられる不安からわずかな呻き 声も抑えようと努めながら、ひきつるように声もなく泣きはじめた。彼女の提出した紙片は、イ ワンが《数学のようにはっきりした〉重要さをもっ文書とよんだ、飲屋〈都〉からミーチャの出 した例の手紙だった。ああ、この手紙の持っ数学のような明白な意味がついに認められてしまっ たのだ。この手紙さえなかったら、ことによるとミーチャは破滅しなかったかもしれないし、少 審なくともあれほど恐ろしい破滅はしなかっただろう ! くりかえしておくが、細部をそのままた どることはむずかしい。わたしには今でもすべてがたいへんな混乱に包まれたまま、思い描かれ 誤 るのである。たしか、裁判長はその場ですぐ、法廷、検事、弁護人、陪審員に、この新しい文書 二を知らせたはずだ。わたしがおぼえているのは、カテリーナ・イワーノヴナが証人として尋問を 第ふたたび受けたことだけだ。気持は落ちつきましたか、と裁判長がもの柔らかに問いかけたのに 対して、カテリーナ・イワーノヴナは勢いこんで叫んだ。 「あたくしなら大丈夫です、結構ですわ ! 十分お答えできますから」どうやら相変らず何らか の理由で話をすっかりきいてもらえないのではないかと、ひどく心配らしく、彼女は言い添えた。 彼女は、これがどういう手紙か、どういう状況でこれを受けとったか、などをさらにくわしく説 明するよう、求められた。 「あたくしが受けとったのは犯行の前日ですけれど、その人はさらにその一日前に飲屋で書いた わけですから、つまり犯行の二日前に書いたんです。よくごらんになってください、勘定書か何 339
の恋人を誘惑するのにその金を当てるという噂まで耳に人ってくる。『親父が金をくれないと、 俺はカテリーナ・イワーノヴナに対して泥棒になっちまう』と被告は考えます。こうして、お守 り袋に人れて肌身につけているその千五百ループルを持っていって、ヴェルホフツェワ嬢の前に 置き、『俺は卑劣漢ではあるけど、泥棒じゃない』と言おうという考えが、生れるのです ( ) した がって、被告がその千五百ループルを虎の子のように大切にして、決してお守り袋を開けもしな ければ、百ループルずつぬきだしたりもしなかったのには、もはや二重の理由ができたのであり ます。どうしてみなさんは、被告に名誉を重んずる感情があることを否定なさるのですか ? と 審んでもない、彼には名誉を重んずる感情があるのです。かりに正しくない、そしてきわめてしば しば間違ったものであるにせよ、その感情はあるのですし、情熱にまでなっているのです。被告 誤 がそれを立証したではありませんか。ところが、事態がこじれてきて、嫉妬の苦しみが極限に達 二すると、またしても以前からの二つの問題が、被告の熱した頭の中でますます苦しくてやりきれ 第ぬほど浮彫りにされてきたのです。『カテリーナ・イワーノヴナに返すんだ。でも、そうしたら グルーシェニカを連れて逃げる金はどこにある ? 』彼がこのひと月の間ずっと、分別をなくして 酒に溺れ、飲屋で荒れていたとすれば、それはおそらく、彼自身も悲しくて、堪えきれなかった せんえいか ためかもしれません。この二つの問題はついには極度に尖鋭化し、彼を絶望に導くほどになった のです。彼は父に三千ループルを頼むため、最後に末の弟を派遣するのですが、返事が待ちきれ ずに、自分からあばれこみ、あげくの果てにみなの見ている前で父親を殴り倒しました。こうな っては、もはやだれからももらえる当てはないし、殴られた父親がくれるはずはありません。そ の日の晩、被告は自分の胸を、まさにお守り袋のかかっている胸の上部をたたいて、弟に、自分 421 しっと
もし今日兄が自分から話してくれたら、僕はあなたに伝える約束をしたと率直に言うつもりです。 そのうえで今日あなたのところに来て、話しますよ。ただ : : : 僕の感じでは : : : この場合、カテ リーナ・イワーノヴナは何の関係もなさそうだな、その秘密とやらは何かほかのことですよ。き っとそうです。およそカテリーナ・イワーノヴナに関することらしくないもの、そんな気がしま すね。じゃ、今はとりあえずこれで ! 」 アリヨーシャは彼女の手を握った。グルーシェニカは相変らず泣いていた。慰めの言葉を彼女 がほとんど信じていないことは、彼にもわかったが、せめて悲しみをぶちまけ、心に思うことを 弟さらけだしただけでも、彼女は気がはれたのだ。こんな状態のまま彼女を置き去りにするのは気 のの毒だったが、彼は先を急ぐ身だった。まだたくさんの用事をかかえていたのである。 フ ゾ マ 二痛む足 ラ カ それらの中でも第一番目の用事は、ホフラコワ夫人の家にあったので、彼はなるべく早くそれ を片づけて、 ーチャのところに遅れぬようにするため、道を急いだ。ホフラコワ夫人はもう三 週間ばかり前から加減がわるかった。なぜか片足が腫れ上がり、床についてこそいなかったが、 それでも昼間は、魅力的な上品なガウン姿で私室の寝椅子に半ば横たわっているのだった。アリ しゃれ ヨーシャはあるときふと、ホフラコワ夫人が病気の身にもかかわらず、かえってお洒落になり、 さまざまなヘア・アクセサリーや、リポンや、カーディガンなどが現われるようになったことに しりぞ 気づいて、ひそかに他意のない徴笑をうかべた。そんな考えを下らぬものとして斥けはしたもの 118