る思いをしながら、いと丁重な態度で、勇をふるってプロポーズしかけたことがあった。しかし、 いくつかのひそかな徴候からダルダネーロフが、魅力的ではあるが度はずれに貞淑でやさしいこ の末亡人に、自分はまんざらきらわれていないと夢想する、ある程度の権利さえ持っていたかも しれないというのに、夫人は結婚の承諾を息子への背信と考えて、きつばり断わったのだった。 コーリヤの気違いじみたいたずらは、この厚い氷を打ち破ったような感があり、ダルダネーロフ はこの弁護のお社に、希望を仄めかされた。なるほど、遠まわしなものではあったが、ダルダネ ーロフ自身、純真さと繊細さの塊のようなまれに見る人物だったから、彼の幸福を充たすにはさ 弟しあたりこれだけで十分だった。彼は少年を愛していた。もっとも、少年の機嫌をとるのなぞ卑 の屈なことと見なしたにちがいないし、教室では厳格なロやかましい態度をとっていた。しかし、 ゾコーリヤ自身も常に一定の距離をおいて接していたし、勉強もきちんとして、クラスで二番の成 マ績をとり、ダルダネーロフに対する応対もそっけなかった。世界史にかけてはコーリヤは当のダ ルダネーロフを〈やりこめる〉くらい強いということを、クラスじゅうの者が固く信じていた。 そして事実、一度コーリヤが彼に『トロイを創ったのはだれか ? 』という質問を発したとき、そ れに対してダルダネーロフは、民族のことだの、民族の移動や移住だの、古代だの、神話だのに 関して全般的に答えただけで、トロイを創ったのがだれか、つまりどういう人たちだったかとい う肝心の点には答えることができず、なぜか質間そのものを無益な空疎なものと見なしたほどだ った。しかし少年たちは、トロイを創ったのがだれかをダルダネーロフは知らないのだ、という 確信をそのままいだいてしまった。コーリヤは父の死後に遺された書棚の中にあったスマ一フグド フの本で、トロイの創設者のことを知っていたのである。やがて、ついに、すべての少年たちが 嶽の
「じゃ、だれの知ったことだ ? だれの ? え、だれのだよ ? 」 「そりやね、兄さん、今やトリフォン・ニキーチッチの問題で、あんたには関係ないんだよ」 「トリフォン・ニキーチッチとは、いったいだれのこった ? 」相変らずいきりたってはいたもの の、ばかまるだしのおどろきを見せて、若者はコーリヤを見つめた。コーリヤはしかつめらしく 相手を睨めまわした。 「昇天祭には行ったのかい ? 」突然、念を押すようにきびしくコーリヤがたずねた。 「昇天祭って何だよ ? 何しに ? いや、行かなかったよ」若者はいささか毒気をぬかれた。 弟「サ・ハネーエフを知ってるだろうね ? 」さらに念を押すように、いっそうきびしく、コーリヤは のつづけた。 ゾ「サ・ハネーエフって、だれだよ ? いや、知らんよ」 マ「それじゃ、まるきり相手にならんよ ! 」まるで、サ。ハネーエフさえ知らぬような間抜けとはロ こけん 力をきくのも沽券にかかわるとでもいうように、コーリヤは突然びしりと言いすて、急に右手に向 きを変えるなり、足早に歩きだした。 「待てよ、おい ! サ。ハネーエフってのはだれなんだ ? 」若者はわれに返って、またもや興奮し はじめた。「あいつは何のことを言ったんだい ? 」ふいに彼は物売り女たちをふりかえり、愚か しげに眺めた。 女たちは笑いくずれた。 「おかしな子だね」一人がつぶやいた。 「だれなんだい、そのサ・ハネーエフってのは ? 」若者は右手をふりまわしながら、なおもむきに
トロイの創設者はいったいだれかという関心をいだくようにまでなったが、コーリヤは自分の秘 密を明かさなかったため、物知りという評判はゆるがぬものになった。 鉄道事件のあと、母に対するコーリヤの態度にある種の変化が生じた。息子の手柄話を知った とき、アンナ・フヨードロヴナ ( クラソートキナ未亡人 ) は恐怖のあまり気も狂いそうになった。 彼女は数日間にわたって断続的につづく恐ろしいヒステリーの発作を起したため、もはや本気で 肝をつぶしたコーリヤは、今後あんないたずらは二度としないと、殊勝に誓った。聖像の前にひ ざまずき、クラソートキナ夫人の命ずるまま、亡き父の思い出にかけて誓ったのだが、このとき ちは〈男らしい〉コーリヤ自身も六歳の子供のように、《万感胸に迫って〉わっと泣きだしてしま い、母も息子もこの日は一日じゅう互いに相手の腕に身を投じては、身体をふるわせて泣いてい 少た。翌日コーリヤは以前どおりの《淡な〉顔で目をさましたが、それでも今までより無ロで謙 編虚になり、きまじめな、考え深そうな様子をしていた。もっとも、ひと月半ほどすると、またも 第ゃある悪ふざけをやって捕まりかけ、治安判事にまでその名を知られることになったが、今度の いたずらはもうまったく別の性質の、愚にもっかぬ笑止なものだったし、それに彼自身がいたず らをやったわけではなく、たまたま巻きこまれたにすぎないことがわかった。だが、このことは いずれあとで話そう。母親は心配と苦しみのしどおしだったが、彼女の不安がつのるにつれて、 ダルダネーロフはいっそう希望を増していった。断わっておかねばならないが、コーリヤはダル ダネーロフのそうした心の動きを理解し、読みとって、当然のことながら、彼のそんな《思い〉 けい・ヘっ を軽蔑していた。以前は、ダルダネーロフの狙いが何かわかっているのだと遠まわしに仄めかし て、自分の軽蔑を母に対してぶちまけるデリカシーのなさを示したものだった。ところが、鉄道 ねら
んできます。僕も大を連れてきたんだ」ふいに彼はイリュー シャをふりかえった。「なあ、爺さ ん、ジューチカをおぼえてるかい ? 」突然彼はこんな質問でイリューシャにすごい。ハンチを浴び ィリュ ーシャの顔がゆがんだ。彼は苦痛の色をうかべてコーリヤを見た。戸口に立っていたア リヨーシャは眉をひそめ、ジューチカの話はせぬようにと、ひそかにコーリヤに合図しかけたが、 相手は気づかなかった。あるいは気づこうとしなかったのだ。 「どこにいるの・ ・ジューチカは ? 」張り裂けるような声で、イリューシャがたずねた。 弟「おい、君、君のジューチカなんか、ふん、だー 君のジューチカはどこかへ行っちまったじゃ のないか ! 」 ゾィリュ シャは黙りこんだが、また食い人るようにまじまじとコーリヤを見つめた。アリヨー マシャは、コーリヤの視線をとらえて、必死にまた合図を送ったが、相手も今度も気づかなかった カふりをして、目をそらした。 「どこかへ逃げてって、そのまま行方知れずさ。あんなご馳走をもらったんだもの、行方不明に なるのも当然だよ」コーリヤは無慈悲に言い放ったが、その実、当人もなぜか息をはずませはじ めたかのようだった。「その代り、僕のペレズヴォンがいるさ : : : ス一フプ的な名前だろ : : : 君の ところへ連れてきてやったよ : : : 」 「いらないよ ! 」突然ィリュー シャがロ走った。 「いや、いや、いるとも。ぜひ見てくれよ : : : 気がまぎれるから。わざわざ連れてきたんだもの : あれと同じように、むく毛でさ : : : 奥さん、ここへ大をよんでもかまいませんか ? 」だしぬ ちそう
シャが眉をひそめて、早口に言った。「コーリヤ、黙りなさい ! 」彼はコーリヤに叫んだ。「気に なさる必要はございません、先生ー今度はもういくらか苛立たしげに、彼はくりかえした。 むち 「鞭でたたいてやるといいんだ、鞭で ! ーなぜかもうあまりにもかっとなりすぎて、医者はじだ んだを踏みかねぬ勢いだった。 「でもね、お医者さん、。ヘレズヴォンだって相手によっちゃ噛みつくかもしれませんよ ! 」コー リヤは青ざめ、目を光らせて、ふるえ声で言い放った。「こい、ペレズヴォン ! 」 「コーリヤ、あと一言でも口にしたら、君とは永久に絶交だよ ! 」アリョ ーシャが威圧的に叫ん 弟だ。 の「あのね、お医者さん、このニコライ・クラソートキンに命令できる存在は、全世界に一人きり ゾしかいないんです、それがこの人ですよ」コーリヤはアリヨー シャを指さした。「この人には服 マ従するんです、じゃあね ! 」 カ彼はっとその場を離れ、ドアを開けるなり、足早に部屋に人って行った。。 ヘレズヴォンがその あとについて走った。医者はアリョ ーシャを見つめたまま、呆然としたように、さらに五秒ほど 立ちつくしていたが、やがてふいに唾を吐きすて、「なんてやつだ、まったく、なんてやつだ ! 」 と大声でくりかえしながら、急いで馬車に向った。二等大尉がとんで行って、馬車に乗るのを助 けた。アリヨーシャはコーリヤのあとを追って部屋に人った。相手はもうイリューシャのべッド のわきに立っていた。ィリュ ーシャはその手を握り、父親をよんでいた。しばらくして二等大尉 も戻ってきた。 ここへ来て : : : 僕たち : : : 」イリューシャが極度に興奮してもつれる舌で言いか
めてから、ふいにその目がいっせいにコーリヤにふり向けられた。コーリヤはさげすむような冷 静さで、なおもこの不遜な少年をじろじろと眺めていた。 「つまり、その人たちがどうやって創ったんだい ? 」彼はやっと言葉をかけてやった。「それに、 都市なり国家なりを創るってのは、どういう意味なんだい ? じゃ、なにかい、その人たちがや れんが ってきて、煉瓦でも一つずつ積みあげたっていうのかい ? 」 しんぐ どっと笑い声があがった。わるいことをした少年の顔は、・ハラ色から真紅に変った。少年は黙 りこみ、今にも泣きだしそうだった。コーリヤはさらに一分ほど少年をそのままさらしものにし ちておいた。 「民族の成立というような歴史的事件を語るには、何よりもまず、それが何を意味するかを理解 年 少しなけりやいけないよ」訓戒のために彼はきびしく言った。「もっとも僕は、そんな女子供の作 編り話なんぞ、重要と見なさないけれどね。それに概して僕は世界史なんか、たいして尊重してい 第ないんだよ」ふいに今度はもうみんなに顔を向けて、彼は投げやりに付け加えた。 「世界史を、ですか ? 」突然、なにかぎよっとしたように、二等大尉がたずねた。 「ええ、世界史をです。あれは人類の一連の愚行の研究にすぎませんからね。僕が尊重するのは 数学と、自然科学だけです」コーリヤは気どって言い、ちらとアリヨーシャを見た。この席で彼 の意見だけを恐れていたからだ。しかしアリヨーシャは終始、沈黙し、相変らずきまじめな顔を していた。今アリヨーシャが何か言いさえすれば、それで片がついたのだろうが、アリヨーシャ は黙っていたし、『その沈黙は軽蔑のしるしかもしれなかった』ので、コーリヤはもはやすっか いらだ 四り苛立ってしまった。 ふそん
「でも僕、だれがトロイを創ったのか、知ってるよ」突然、これまでほとんど何も言わなかった、 無ロな、見るからに内気そうな、十一歳くらいの、たいそうかわいい顔をしたカルタショフとい みようじ ・う苗字の少年が、まったく思いもかけずにロ走った。この少年は戸口のすぐわきに坐っていた。 コーリヤはびつくりして、重々しく少年を眺めやった。ほかでもない、『トロイを創ったのはい ったいだれか ? 』という問題は、今やすっかり全クラスの秘密となり、それを解くには、スマラ グドフを読まなければならなかったが、スマ一フグドフの本はコーリヤ以外にだれも持っていなか ったのである。ところが、あるときカルタショフ少年は、コーリヤがわきを向いている間に、急 弟いで彼の本の間にあったスマラグドフを開き、いきなりトロイの創始者のことが書いてある個所 のにぶつかったのだった。これはもうかなり以前のことだったが、自分もトロイの創始者を知って ゾいるとみんなに明かすのが、やはり何か照れくさく、決心がっかなかったし、そのことで何か妙 マな結果になりはせぬか、コーリヤが自分に恥をかかせはしまいかと、心配でもあった。それなの 力に今、なぜかふいに我慢をしきれずに、言ってしまったのだ。それに、ずっと前から言いたくて ならなかったのである。 「じゃ、だれが創ったんだい ? 」コーリヤは見くだすように横柄にその方をふりかえったが、す でに相手の顔から本当に知っていることを読みとって、もちろんすぐさま、あらゆる結果に対し て心構えをした。みんなの気分に不協和音とも名づくべきものが生じた。 「トロイを創ったのは、テウクロスと、ダルダノスと、イーロスと、トロースです」少年はひと 息にはっきり言ってのけ、とたんに真っ赤になった。あまり真っ赤になったので、見るのが気の 毒なほどだった。しかし、少年たちはなおもその子をひたと見つめつづけ、まる一分くらい見つ
「そうやって人ってくるのよ。玄関で肩車し合ってさ。それも、上品な家庭へ肩車したまま人っ てくるんだから。そんなお客ってあるものかしらね ? 「だれだね、いったいだれのことだい、かあちゃん、そうやって人ってきたのは ? 」 「ほら、今日はその子があの子に肩車して人ってきたし、この子はそっちの子に肩車したし だが、コーリヤはもうイリューシャのべッドのわきに立っていた。病人は目に見えて青ざめた。 べッドに半身を起し、食い人るようにまじまじとコーリヤを見つめた。コーリヤは以前の小さい 弟親友にもう二カ月も会っていなかったので、突然すっかりショックを受けて立ちどまった。こん のなに痩せおとろえて黄ばんだ顔や、高熱に燃えてひどく大きくなったような目や、こんな痩せ細 ゾった手を見ようとは、想像もできなかったのだ。ィリューシャが深いせわしい呼吸をしているの マや、唇がすっかり乾ききっているのを、彼は悲しいおどろきの目で見守っていた。一歩すすみで カて、片手をさしのべると、まったく途方にくれたと言ってよい様子でロ走った。 「どうだ、爺さん : : : 具合は ? 」 だが、声がとぎれて、くだけた調子はつづかず、顔がなにかふいにゆがんで、ロもとで何かが ふるえだした。ィリューシャは痛々しい徴笑をうかべていたが、相変らず一言も言えずにいた。 てのひら コーリヤがふいに片手を上げ、何のためにかィリューシャの髪を掌で撫でてやった。 「だいじよぶ、だよ ! 」小さな声で彼はささやいたが、それは相手をはげますというのでもなく、 何のために言ったのか自分でもわからぬというのでもなかった。二人は一分ほどまた黙った。 「何だい、それ、新しい子大かい ? 」だしぬけにおよそ無関心な声で、コーリヤがたずねた。 じい
のいい子でしたね ! 」 「ああ、僕はあの子が大好きだった ! 」コーリヤが叫んだ。 「ああ、子供たち、ああ、愛すべき親友たち、人生を恐れてはいけません ! 何かしら正しい良 いことをすれば、人生は実にすばらしいのです ! 」 「そうです、そうです」感激して少年たちがくりかえした。 「カラマーゾフさん、僕たちはあなたが大好きです ! 」どうやらカルタショフらしい、一人の声 がこらえきれずに叫んだ。 弟「僕たちはあなたが大好きです、あなたが好きです」みんなも相槌を打った。多くの少年の目に の涙が光っていた。 ゾ「カ一フマーゾフ万歳 ! 」コーリヤが感激して高らかに叫んだ。 マ「そして、亡くなった少年に永遠の思い出を ! 」感情をこめて、アリヨーシャがまた言い添えた。 力「永遠の思い出を ! 」ふたたび少年たちが和した。 「カラマーゾフさん ! 」コーリヤが叫んだ。「僕たちはみんな死者の世界から立ちあがり、よみ がえって、またお互いにみんなと、イリューシェチカとも会えるって、宗教は言ってますけど、 あれは本当ですか ? 」 「必ずよみがえりますとも。必ず再会して、それまでのことをみんなお互いに楽しく、嬉しく語 り合うんです」半ば笑いながら、半ば感激に包まれて、アリヨーシャが答えた。 「ああ、そうなったら、どんなにすてきだろう ! 」コーリヤの口からこんな叫びがほとばしった。 「さ、それじゃ話はこれで終りにして、追善供養に行きましよう。ホットケーキを食べるからと
な ! 』 コーリヤは精いつばい一人立ちの人間らしい様子をしようと努めながら、こんなふうに胸を騒 がせていた。何よりも、彼を苦しめていたのは、低い背丈だった。《いけすかない〉顔も、背丈 ほど苦にならなかった。彼の家には、片隅の壁に去年から身長を計った線が鉛筆で記され、それ 以来ふた月ごとに胸をどきっかせながら、どれだけ伸びたかをまた計りに行くのだった。だが、 悲しいことに、背丈の伸びはおそろしく少なく、そのことが時にはそれこそ彼を絶望に追いこむ のだった。顔について言うなら、ちっとも《いけすかない〉顔でなぞなく、むしろ反対に、かな 弟りかわいらしい、色白の、やや青ざめた、そばかすのある顔だった。ト / さいが、生きいきした灰 の色の目はものおじせず、感情に燃えあがることがしばしばあった。頬骨はやや広く、小さな唇は フ ゾさほど厚くはないが、とても赤かった。鼻は小さく、まるきりしやくれていた。『まったくの獅 一しばな マ子鼻じゃないか、まるきり獅子鼻だ ! 』鏡で眺めては、コーリヤはひそかにつぶやき、いつも腹 力を立てて鏡のそばを離れるのだった。『それに、利ロそうな顔かどうか怪しいもんだぞ ? 』とき おりはそれまで疑って、思うこともあった。とはいえ、顔や身長の心配が彼の心をすっかり占め ていた、などと考えてはいけない。むしろ反対に、鏡の前にいる瞬間がどんなに苦々しいもので あろうと、彼はすぐにそんな瞬間を忘れ、永いこと思いだしもせずに、彼が自分の行為を規定し た言葉を借りるなら、『思想と現実生活に自己のすべてを打ちこむ』のだった。 アリヨーシャは間もなく姿をあらわし、コーリヤの方に急ぎ足でやってきた。まだ五、六歩離 れているうちに、コーリヤは、アリヨーシャが何かまったく嬉しそうな顔をしていることを、見 きわめていた。『ほんとに僕と会うのがそんなに嬉しいのかな ? 』コーリヤはおどろいて思った。