人麻呂 - みる会図書館


検索対象: 日本の怨霊
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1. 日本の怨霊

だぎいしように そちごんのそちだいに ところがその年の十二月に大宰少弐に任ぜられる。少弐とは大宰府の帥・権帥・大弐につぐ官で、 従五位下相当の次官であるが、明らかに左遷人事である。いったいこの八ヶ月の間に何があったの か詳しいことはわからない。『続日本紀』には広嗣の性格の悪さを指摘し、最近、都で親族を誹謗 むち したことで左遷したと告げられている。親族といえば藤原氏であるから天平九年に藤原南家・武智 とよなり 麻呂の子・豊成が参議し こ昇格しているので、彼あたりを誹謗したのであろうか。 いそのかみのおとまろ あるいは広嗣左遷後ではあるが、天平十一年三月に石上乙麻呂が、藤原宇合の未亡人・久米連若 め 売と通じた罪で乙麻呂は土佐国へ、若売は下総国に流罪に処せられたというスキャンダルがあるの で、この二人の密通を告発したものであろうか。当時、身分の高い人に嫁した女性は、夫の死後数 年間は他の男性と交渉を持っことは許されなかったので、実母ではないとはいえ、父宇合の未亡人 たる若売がまだ父の喪も明けぬうちに、乙麻呂と通じたことが広嗣には我慢のならぬ出来事だった のかもしれない。 広嗣の性格が以前から悪かったとあるが、藤原一族には珍しい裏工作や駆け引きをしないでスト レートに善悪、是非を問う人物であったとも考えられる。 もろえ またこの頃、藤原四兄弟の死亡を受けて、政権を握ったのが橘諸兄なので、広嗣のそうした性格 が諸兄には目障りだったものか。 とにかく天平十年十二月に広嗣は大宰少弐に任命され、いっ九州に赴任したのか具体的な期日は 分からないが、天平十一年には着任していたと考えられる。 先ほど紹介した『平家物語』にも少し触れているが、広嗣は大宰府で素晴らしい駿馬「龍馬ーを まろ わか 218

2. 日本の怨霊

く、その処断に従った。 そして臣下が召集され、新たに誰を皇太子にするかという協議がなされた。 ながて 豊成と中務卿藤原永手はどういういきさつで彼を選んだのか理解できないが、道祖王の兄、例の ふんやのちぬ おおとものこまろ 塩焼王を推し、文室智努と大伴古麻呂は舎人親王の子、池田王を推した。それに対し、仲麻呂ひと りが「臣を知る者は君にしかず、子を知る者は父にしかず。ただ天意に従うのみ」と孝謙天皇の判 断に一任した。その発言を受けて、天皇は、 「舎人、新田部両親王家は皇室の長であるので、それらの家系から皇嗣を選ぶべきであるが、道 祖王はあの通り身持ちが悪く、では舎人親王の子からと思うのだが、船王も閨房が修まらず、池田 王は孝行でない。塩焼王・は聖武天皇に無礼を働いた。その点、大炊。まだ年若いが悪評は聞いた ことがないので、この王を立てようと思う」と述べた。 大炊王とは舎人親王の第七皇子で時に二十五歳。 意外な人事であったーーーと表面的には見えるが、実は裏があったのだ。 まより 仲麻呂には真従という長男がいたのだが、それが早死にし、その嫁、粟田諸姉という寡婦が残っ ていたのだが、その諸姉に大炊王を添わせて自分の邸宅・田村第に住まわせていた。つまり大炊王 は仲麻呂の庇護下にある養子のような存在だったのである。だから、仲麻呂が公卿会議の時に特定 の皇子を推薦せず、「天意のままに」と孝謙天皇の判断を仰いだというのも、あらかじめ二人の間 では打ち合わせができていたのだろう。 後に仲麻呂のことを「ただの卿ではなく我が父と思う」とまで大炊王に言わせている。舎人親王 たむらのてい もろあね

3. 日本の怨霊

みよ一つと田う。 大宰府からの檄文と蜂起 、つま力し ふひと 藤原広嗣は不比等の四人の息子の第三子、宇合の長男で、母は蘇我石川麻呂の娘、藤原式家の跡 すくなまろ よしつぐ 取り息子である。生年は不明だが、すぐ下の弟、藤原宿奈麻呂 ( 良継 ) が宝亀八年 ( 七七七 ) に六 れいき 十二歳で没しているので、宿奈麻呂の生年は霊亀二年 ( 七一六 ) になる。母が同じなので、宿奈麻 呂より二つ上とすると、広嗣の生年は和銅七年 ( 七一四 ) あたりが妥当だろう。そうなると、父・ 宇合の二十一歳の時の子供である。 天平九年 ( 七三七 ) 、広嗣は父・宇合の死の一ヶ月後の九月に従五位下に叙せられている。二十 四歳になっていた。 前述したように、この天平九年当時は春から天然痘が猛威をふるい、父・宇合を含めて不比等の怨 四人の息子が相次いで死んでいった時期である。宇合も四十四歳という働き盛りの年齢であった。 もしも、この天然痘が流行らなかったら、もしも、父・宇合がもう少し長生きしていたらーーー歴史 に〈もしも〉は許されないが、こうした急変がなかったならば、広嗣の人生は随分違ったものにな嗣 っていたことは間違いなかろう。 それでも藤原式家の長男としてそれなりの待遇は与えられたようで、翌十年四月、広嗣は式部少 やまとのかみ 輔を兼任しながら大養徳守に任命された。ここまでは順調だった。 わどう

4. 日本の怨霊

注意しておいていいだろう。 仲麻呂はその後の行動を見ても分かる通り、権力志向の強い男である。その男が前年に光明皇后 の推挙があったものか、参議。 こ取り立てられたばかりである。 藤原氏の失地回復もせねばならない。光明皇后にも認めてもらいたい そんな権勢意欲に燃え ているところに、行幸供奉の一行から離れて、わずかな部下に伴われて弱った安積皇子が恭仁京に 帰ってきたのである。そこには大伴家持や市原王などの取り巻きもいない。恭仁京は皆出払ってい て人目を気にすることもない。 それこそ「飛んで火に入る夏の虫」と仲麻呂は思わなかったか。 あるいは「この機会に自分が汚れ役になって、光明皇后の杞憂を払えば皇后に大きな貸しができ るはず」と仲麻呂は計算しなかったか。 この閏正月十三日の恭仁京でいったい何が起きたのかは分からない。脚病で帰って来た十七歳の 安積皇子があっけなく亡くなり、藤原仲麻呂という留守官がそこにいたという事実が残っているだ けで、聖武天皇の唯一の男皇子がこうしていなくなったということである。 その後、仲麻呂は光明皇后の信任を得て、兄豊成を差し置いてとんとん拍子に出世していること も事実である。 ただここで、安積皇子の死と直接関連するかどうかは分からないが、その前にあったもう一つの , り事件も視野に入れておかねばならな」。 によじゅ 一、しお・やき・。。「 ' 積皇子 ヶ月前の天平十四年 ( 七四一 l) 冬十月に正四位下塩焼王、五人の女孺と共

5. 日本の怨霊

かわらでら 吉子・伊予親王親子は大和国川原寺に幽閉されたが、親王を廃された翌日の十一月十二日、この 親子は毒をあおいで自害する。その死を時の人々は哀れんだという。 間題の人物、藤原宗成は流罪になり、大納言雄友も官位を剥奪され伊予国に流罪になった。 以上が『日本紀略』などに伝える事件のあらましである。いったい何がどうなっているのか読め ない事件である。「事件の陰に女あり」とはよく言われることばだが、宗成を動かして事件を操っ たのは藤原薬子や兄の仲成とも言われている。平城帝の治世を牛耳ろうとする彼らにとって、伊予 親王親子は目障りな存在であったからである。 それにしても解せないのは大納一言雄友の行動である。雄友は立場からいえば、伊予親王の叔父に あたり、親王をもり立ててこそ、そのバックボーンとしての役割があったはずである。宗成が伊予 親王に謀反を勧めているならば、彼の裁量でいくらでも宗成をすみやかに排除できたはずである。 それをせずに右大臣内麻呂に謀反の情報を伝えるということは、事を公にすることで、伊予親王の 立場が悪くなることは分かっていたはずである。 なぜ身内に不利になるような行動に出たのか、その結果、伊予親王親子のみならず、自分までも が流罪の憂き目にあっているのだから、雄友の行動が解せないのだ。 それに雄友の報告を受けた、右大臣内麻呂も何らの行動をとらなかったことも解せない。 右大臣内麻呂は北家の人物である。藤原家といってもなにも一枚岩ではなく、南家の雄友、北家 の内麻呂、それに対抗意識を燃やす式家の仲成や薬子。この二人は延暦四年に暗殺された藤原種継 の子である。もし父が横死しなかったなら、桓武治世下では南家、北家をしのいで式家が政権の中 にほんきりやく なかなり 242

6. 日本の怨霊

前に設けられた「お仮屋」と呼ばれるお旅所に遷して祭るという。担当するのは当屋と呼ばれる村 の人たちである。こうして、井上内親王の御霊はこんな小さな集落の人々によって今も守られてい るのである。 その佐名伝を通過し、五條市に入ると、『万葉集』にも「阿太」と歌われた、西阿田町と、道路 を隔てた山田町にも御霊神社がある。二社とも佐名伝と同じような鎮守様のような雰囲気の社であ る。集落も御霊神社も眠るように静かに共生しているのが奥ゆかしく感じられる。 むつくら 吉野川が大きく蛇行する六倉町と対岸の島野町にも吉野川を挟んで、御霊神社がある。島野町の 御霊神社は小さな境内だが、朱塗りの鳥居、周囲の板塀が朱と黒に鮮やかに塗り分けられているの が、いかにも御霊を祀っているという雰囲気が漂う。 えいぎんじ そうした御霊神社の中で、面白いと言っては変だが、藤原氏ゆかりの栄山寺の境内にも御霊神社 むちまろ があることである。五條市小島町にある栄山寺は藤原南家武智麻呂、養老三年 ( 七一九 ) 創建の由伊 女 聖 来をもっ古刹で、武智麻呂の墓もその境内の奥にある。国宝の六角堂の横に朱塗りの鳥居を構え、 まるで藤原氏の横暴を許さぬとばかりに、武智麻呂の墓の裾に御霊神社が鎮座しているのである。 井上内親王にとってもっとも許せぬ相手が藤原氏であったはずだが、今はこうして静かに共存して親 いるのも時代の流れだろう。もっとも藤原氏といっても多様で、井上内親王にとっての直接の政敵上 は南家藤原氏ではなく、式家藤原氏だろうから、こうして共存できているのかもしれない。 あだ

7. 日本の怨霊

っ・・・「・」しところが長屋王の死の年 , 天平九年七 = 一の春、九州から伝わった疫病、天然痘が猛威 をふるい、畿内の農民どころか公卿にまで伝染し、かってないほどの夥しい死者が出る災害が起こ しらぎ った。どうやら朝鮮半島の新羅に派遣されていた使者が持ち帰った疫病らしいが、時の政権を牛耳 ふささき むちまろ っていた藤原不比等の四人の息子、南家長男・武智麻呂、北家次男・房前、式家三男・宇合、京家 四男・麻呂までもが、わずか五ヶ月の間に将棋倒しのように病死していった。 この疫災を長屋王の祟りと見る人もいるが、私はそう見ない。 なぜなら時の朝廷がこの疫災を長屋王の祟りと感じるならば、当然、使者を長屋王の墓に派遣し て慰霊につとめるとか、墳墓の改装、寺院の建立、天皇位の追号など、目に見える形での処置がと られるはずだが、『続日本紀』には表立って何も記されていない。記載されていないから何もなか ったと判断するのは早計ではないかと、反論されるかもしれないが、天下に蔓延した疫病が長屋王 の祟りと認定するならば、当然、朝廷も人心収攬のために目に見える慰霊行動を起こすはずである。 それに長屋王の没後八年目というのは、並発動としては少し時間が経ち過ぎている。他の怨霊 ムググの事例を見ても、怨霊発動は死後三年目が大きな目安でる。日本の霊魂信仰の考え方からすれば、聖 完成するという表現もおかしいが、つまり成仏するには = 一年一 死んでから三年目にや という歳月が必要と考えていたようだ。 天武天皇の葬儀も二年数ヶ月かかっているし、葬った遺骨を取り出して、血縁の者が海水や泡盛上 で丁寧に洗い清める、沖縄の洗骨の風習もやはり死後三年目に行われる。 あるいは古典落語にも『三年目』という話がある。再婚したらきっと化けて出るからと言い残し

8. 日本の怨霊

六十代半ばに達しようとしていた光仁天皇、五十代後半になっていた井上皇后ーー・普通これくら いの年齢ともなれば程々に人生が練れてきて、妥協や諦めなどで角が立つようなことは避けようと するものなのに、よほどこの夫婦の間には埋まらない溝があったものと思われる。 るいじゅうこくし つきもとのおゅ 『類聚国史』に収録されている『日本後紀』延暦二十二年 ( 八〇一一 l) 正月の記事に、槻本老とい う光仁天皇の旧臣だった人物が紹介されているが、それによると、他戸皇太子が「暴虐もっとも甚 だし。とある。それを老が天皇のためにと思って我慢して監視していると、井上皇后と他戸皇太子 は老が天皇と通じているとして怒り、彼を責め苛んだとある。 あるいは同じ『日本後紀』弘仁三年 ( 八一 (l) 十月の藤原内麻呂薨伝に、皇太子時代の他戸親王 が残虐な性格で、名家の人をいじめるのを好み、怪我するところを見たいがために、わざと暴れ馬 に内麻呂を乗せた、というような記事が出ている。 『日本後紀』は正史なので、『水鏡』と違ってそれなりの権威を認めなくてはならないから、こう した井上内親王や他戸親王の性格のきっさはやはりあったのであろうか。やはり二十年に亘る伊勢 斎王の巫女的生活が彼女をしてただならぬ人格形成に至らしめたのか。それとも二十年間の忍従生 活で溜まりに溜まった不満がここに来て一気に爆発したということか。 最近よく言われる熟年離婚ーー妻がずっと結婚生活を我慢して、夫の定年退職を機にそれが爆発 し、夫を捨てるという時代になっているのもひとつの参考になろう。おとなしくじっと我慢すると いうのは、逆にみれば負のエネルギーを恐ろしいまでに溜めるということかもしれない。 最近の事件でも八十四歳の妻が、八十歳の夫を殺したと報道されていた。五十年以上にも亘る結 うちまろ

9. 日本の怨霊

枢にいたはずだ、という焦りや闘争心をこの兄妹が同族他家に向けていたことは当然、考えられよ う。藤原氏内部の確執がこうした悲劇を生んでいったのである。 呂 では、はたして伊予親王に謀反の志はあったのだろうか。もしそうした不穏な動きがあったのな麻 らば、それに同調する者がいるはずで、逮捕者はもっと多く出たことだろう。そうした連動者が見室 文 当たらないところから判断して、おそらく伊予親王は無実だったと思われる。『水鏡』には管弦が 巧みな親王と伝えている。桓武帝に気に入られたのもそうした風流なたしなみがあったからかもし逸 れないが、結局、桓武帝に寵愛されたことで、目立ちすぎたのが命取りになったものだろう。 子 母 一方、平城天皇はこの事件をどう捉えていたのだろう。 王 皇太子時代から早良親王や井上内親王の怨霊に苦しめられてきたのに、即位した翌年にまたして親 伊 も井上内親王親子と同じように幽閉、そして親子の死ーーーこうした処置を何とも思わなかったのだ ろうか。同じことの繰り返し、となると、この二人がまた怨霊となって、我が身を苦しめるという吉 原 藤 ことが自覚できなかったのだろうか。 この事件の二年後の大同四年に平城帝は「長年の風病に苦しみ、身体不安」であることを理由に 神 皇太弟に譲位して奈良に引きこもり、結果、薬子の乱で我が身を滅ばしてしまうのであった。 の 伊予親王親子はやはり怨霊になったようで、平城上皇のみならず、その後を受けて即位した嵯峨蹴 天皇にまで祟りを発動させる。 御 すどう こ、つこん 弘仁元年 ( 八一〇 ) 七月に嵯峨天皇の聖体不予とあり、崇道天皇へ百人、伊予親王へ十人、藤原 吉子へ二十人と、彼らへの追福のために度者 ( 得度した僧 ) を定めている。さらに、川原寺で崇道 どしゃ

10. 日本の怨霊

以上が事件のあらましである。 文室宮田麻呂がいったい誰。 こ対して、何のために謀反を企てようとしたのか、一切不明である。 散位従五位上という微官である宮田麻呂が朝廷に楯を突くとは思われないし、押収された武器も弓 計二十五張、剣十四ロ程度であるから、とても謀反といえるような規模ではない。何か下級官僚同 士のいさかいでもあって宮田麻呂が武器を用意していた程度だったのかもしれない。 文室宮田麻呂の素性については明らかでない。 文室氏はもともと天武天皇の皇子、長皇子の子智努王・大市王兄弟が天平勝宝四年 ( 七五一 l) に 臣籍降下して賜った氏である。宮田麻呂はその一族の者か。 一族の者と思われる文室秋津は文室浄三 ( 智努王 ) の孫で、正四位下、春宮大夫・左近衛中将を 兼ねていたが「承和の変」に連坐して出雲員外守に左遷され、承和十年三月、配所で五十七歳で没 している。酒席では必ず酔い泣きの癖があったとある。宮田麻呂はこの秋津とかかわりのある人物 であろうか。秋津が死んで九ヶ月後に謀反の疑いで逮捕されているので、「承和の変」の残り火が まだくすぶり続けていたものだろうか。 この文室宮田麻呂も橘逸勢と共に貞観五年 ( 八六三 ) の神泉苑での「御霊会」で御霊として祀ら れており、後の奈良や京都の御霊神社にも祭神として祀られているのである。 事件からわずか二十年後に祭神として祀られているのだから、極めて新しい御霊である。 おそらく流罪地の伊豆で没したものだろうが、その死亡年月は不明である。逸勢も流罪地は伊豆 きよみ おおち 2 5 2