◎崇道神社 ( 京都市左京区上高 撮影・大浪渡氏 , 朝 1 第ド 今日まで、千百数十年もの澗一 ..... 毎年一 ..... 人 - 知 . れげ ... 一 .. 人で怨 霊を鎮魂する儀式を欠かさない族のあることを、日本 の文仁と史の誇りと言わずにおられようか。 ここにも千二百年前に無色透明を貫いた春原五百枝の 精神を継承した、昭和や平成の五百枝王がいるのである。 もう二ヶ所、京都の早良親王ゆかりの地を訪ねること にしたい。 一ヶ所目は、洛北、大原三千院や寂光院への通り道に防 ある、上高野の崇道神社である ( 左京区上高野西明寺山 町 ) 。 三千院や寂光院へは多くの観光客が押し寄せるが、そ幻 の途中にある崇道神社はおそらく誰の目にもとまらない だろう。道路からだと、どこにでもある村社、郷社のよの ヾゝ一」工亠 うに見えるが、一歩境内に足を踏み入れると、ここカオ だならぬ場所であることが感じ取れる。境内というより、 参道と呼ぶべきか、社殿に向かう道が両脇を木立に覆わ れて、ずっと奥まで続いている。気楽な観光客の参拝を
ああ、こうやって死んでいくのかーーーそんなすさまじい破壊の音の中ではじめて死を意識した。 これがあの日の早朝のわが家、私の体験であった。 なんとか子供たちを助け、とにかく一階の玄関口に集まった。停電で真っ暗闇である。かろうじ て昨夜のヘッドランプがあったので、携帯ラジオを探し、スイッチを入れると、 と簡略に報じている。 淡路島あたりが震源地で、震度六、死者が一名、淡路島で出ている とにかく外がどうなっているのか、その時点ではまったく分からなかった。ただ、とてつもない 大きな地震が襲ったことは事実であり、淡路島が震源地ということは、私の家の目と鼻の先で発生 したということである。 昨夜、屋上で闇の向こうに見えた淡路島の灯火がまざまざと蘇ってきた。早良親王の怨霊が発動 したのか、とその時、本気でそう思って、背筋が寒くなった。 余震が続く中、夜が少しずつ明けはじめてきた。ゞ、 カ空はいつもの冬の夜明けと違って、異様にの 重い色に閉ざされている。太陽は昇っているはずなのに、空を妖しい色に染めるだけで、明るくな太 らなかった。空は暗紅色や紫色に色分けされ、鈍く澱んでいる。映画などでよく演出される天 王 変地異の空、いや、これこそがまぎれもない天変地異の空の色だった。 親 良 私はその時、神戸でこれくらいひどく揺れたのだから、きっと京都は壊滅的な被害を受けている と思っていた。御霊信仰とか怨霊を研究しているせいでもないが、本気でそう考えてしまったので
んだ火雷神の生まれ変わりといっていいだろう。古傷が癒えた頃、その部位に新たな傷が付くと、 せつかく癒えた古傷が疼き出すーーーそれと同じ現象であろう。 京都の御霊神社については、根本的に不可解なことがある。 〈誰が〉という主語はあえて省くが、怨霊に祟られた長岡京を捨てて、せつかく新たな平安京を 建設したのに、なぜまたこの新都にわざわざ怨霊を迎えるようなことをしたのだろう。 怨霊の威力を逆手にとって、新都の守り神とするーーーとも理解できるのだが、そういう逆転の発の 集 想を抵抗もなく素直に納得して受け容れることができたのだろうか。淡路島のところでも述べたが、 葉 万 怖いもの、見たくないものには近づかないのが人間の心理ではないのか。 それとも、気がかりなものを視野の外に放擲すると、かえって不安になるので手放せず、あえて 自分の目の届くところに置いておくということなのだろうか。最近の事件で、自分が産んだと思わ家 れる子供の遺体数体を段ボ 1 ルに入れて、ずっと一緒に暮らしていた母親のことが報道されていた大 魂 が、それと同じ心理なのだろうか。 の 私は心理学や精神病理学には素人の門外漢なので、そうした心の動きは読み取れない。 へ 王 し十 / し 「怖いもの見たさ」というフレ 1 ズがあれば、「触らぬ神に祟りなし」という諺もある。 親 良 日本人の心はどちらが本音なのだろうか。 早 だがとにかく、延暦四年の藤原種継暗殺事件の罪人たちを許すという、早良親王への謝罪行為と、 出直しを図った新たな都に、因縁深い怨霊をあえて迎えるという行為とは、似て非なるもので、論
拒むように、社殿ははるか奥に隠されるように鎮座している。時折、近郷の人々の奉仕する姿を見 かける程度で、訪れる人影はほとんどない。 参道の果てに石段があり、その奥に小さな社。、ゞひっそりと鎮まっている。他の御霊神社のよう 一 , ネは崇道天皇のである。 に複数の祭神ではなく、この神 どうしてこのような地に早良親王が市 いるのかについては、まず、ここが方位の上からい ここに威力ある怨霊を据えて祀ったものと見てよかろう。 したがって、これから先の大原方面は 令垣を越えた異界、冥界であると古代の人々は認識 していたのではないか。 源平壇ノ浦の合戦を生き延び、都に戻された建礼門院徳子が、なぜ大原寂光院で出家遁世の日々 を送ったかというと、都の鬼門の境界の彼方の大原こそ、生きたままあの世に身を置くにふさわし い地だという思いかあったからだろう。 崇道神社の境内はいっ訪れても森閑として、聞こえるものは、かすかなせせらぎの音と森の奥で 鳴く鳥の声くらいのものである。が、近郷の人々の畏敬の念は深いようで、いつも掃除が行き届い て澱んだ雰囲気はない。 もともとここは古代豪族の小野氏と古いゆかりがある土地で、今は崇道神社境内に合祀されてい ・ - い・も了一 ~ ・【、えみし るが小野妹子や小野毛人を祭神とする小野一族の氏神、小野神社もかって付近にあったという。こ の崇道神社裏手の山腹から小野毛人の墓誌を伴う墓が発見されたのは江戸時代の慶長十八年 ( 一六 204
飛び交い、他の誰にも見えない蝶だが、このふたりにはそれがはっきり見える。そんな場面が浮か び上がってくるのである。 この遺言の最後に、酒人内親王の遺産を相続する三人の養子の親王と、もうひとり、「眷養の僧 仁主」という名の僧が書かれている。「眷養」とは「目をかけ養った」という意味である。酒人内 親王が目をかけ養った僧ー仁主というのが、おそらくふたりを結びつけた直接の仲介者であろうと 推定されるのだが、仁主、あるいは仁聖ともいうようだが、この僧のことは何も伝えられていない 空海のもとに弟子入りした僧だったのだろうか。 空海は後に高野山に入り、真一一一一口宗を広め、偉大な仏教者というより、伝説に包まれた日本最大の 宗教家となった。その彼が早良親王らの怨霊とどうかかわってきたのか、あまりに偉大すぎる空海 の履歴ゆえに語られることは少ない。 空海は承和二年 ( 八三五 ) 三月二十一日、高野山で入滅した。六十二歳であった。 けつかふぎ 高野山奥の院の空海廟には、今も結跏趺坐した空海が眠っている。空海の死後、百五十年余にそ の姿をのぞき見た藤原道長によると、眠っているようであったという。幽明界を夢蝶となって今も 飛び交っているのだろうか 高野山奥の院へお参りに行けば、ひょっとしたら井上内親王の御陵参拝の時のような不思議な蝶 にまた出会えるかもしれない。 けんよう 214
さわら ひろつぐ 井上内親王、早良親王、藤原広嗣と、死後怨霊となった人々をここまで語ってきたが、怨霊とし て祀られる人々はまだ他にもたくさんいる。おそらく数え上げたらきりがないほどであろう。そこ でこの章では御霊神社で祀られる「御霊八社」と呼ばれる神々の中から、藤原吉子・伊予親王母子、 橘逸勢、文室宮田麻呂を取り上げ、あらましを述べてみたい。 天皇に偏愛された母子 きっし かんむ これきみ 伊予親王は桓武天皇の第三皇子である。母は藤原南家の血を引く是公の娘・吉子。藤原是公は延 えんりやく 暦二年 ( 七八三 ) に右大臣に就き、延暦八年に六十三歳で亡くなるまでその要職にあった人物であ る。その娘の吉子も延暦二年に従三位で桓武帝の夫人の地位を与えられている。桓武帝を取り巻く おとむろ 女性は夥しい数にのばるが、その女性群の中にあって、皇后になった藤原乙牟漏に次ぐ第二夫人の へいぜいさ 立場にあった女性である。したがって吉子の子として生まれた伊予親王は乙牟漏の生んだ平城、嵯 御霊八社の神々ーー藤原吉子・伊予親王母子、橘逸勢、文室宮田麻呂 いがみ 237
◎伊予親王墓 撮影・大浪渡氏 ( 京都市伏見区遠山 ) 天皇のために法華経一部を奉写させている。崇道天皇と あるが、おそらくそこで死んだ伊予親王親子への供養の ためだろう。 じゅんな 弘仁十年伊予親王は元の親王の号に復し、淳和天皇の さんぼん 弘仁十四年には伊予親王には元の三品中務卿、藤原吉子 にんみよう じようわ には従三位夫人の位が復され、さらに、仁明天皇の承和 いっぽん 六年 ( 八三九 ) には伊予親王に一品、吉子には従二位が 贈られている。この頃、嵯峨太上天皇はやはり聖体不予 で、この二人の祟りがあったからと記されている。 藤原吉子、伊予親王親子の怨霊は井上内親王、早良親 王に導かれるように、平城、嵯峨、淳和、仁明と続く、 平安朝の歴代天皇に祟っていったようである。 伊予親王の墓は伏見桃山陵の東に小さな石塔がひっそ りと建っているだけで、その人柄を偲ばせるような穏や かな墓である。上桂御霊神社 ( 京都市西京区上桂西居町 ) には伊予親王を祭神として祀り、その近くにある「天皇 の杜古墳」 ( 西京区御陵塚ノ越町 ) は母・吉子の大岡墓で 244
うか。それならばあまりに人間中心のご都合主義で、怨霊や幽霊に対して気の毒である。 怨霊や幽霊、妖怪は人間がたとえ頭や心の中で作り出した単なる幻想・幻覚であるとしても、そ の存在を信じ、それを怖れ、敬ってきた長い歴史があるということは、それらが歴史的に確固とし あかし た存在として認められてきたという証になろう。迷信だとして駆逐された歴史よりも、その存在を 認め、敬ってきた歴史のほうがはるかに深く、長いのならば、その歴史を持つ、日本の文化や民俗、 日本人の精神史を大事にしたいと思う。 いうまでもないが、この書の目的は、怨霊がいるか、いないのかという事実関係を詮索すること にあるのではない。それよりも、そうした怨霊や幽霊がいると信じてきた長い日本の歴史や民俗、 あるいは日本人の集団感覚や心意伝承を紹介することに主眼がある。 神武天皇即位後、皇紀二千六百六十余年になるといわれてきたが、それほどの長さはないにして も、我が国は天皇家を中心にして二千年近い長い歴史を形成してきたことは認めていいだろう。そ たた の天皇家に祟る怨霊が出現するようになって、すでに千三百年近くになるのである。怨霊がいる、 という議論の前に、この千数百年という歴史の重みがその存在を主張 いない、認める、認めない、 するといっていいだろう。天皇家の歴史を語る書があるのならば、その天皇家に祟る怨霊の歴史を 語る書があっても不思議ではない。 こうした思いでこの『日本の怨霊』を執筆してみた。 『日本の怨霊』と題するなら、本来ならばあらゆる日本の怨霊を概論風に網羅して紹介すべきだ まさ すがわらのみちざね さわら が、井上内親王と早良親王にほとんどの紙数を費やしてしまい、怨霊として有名な菅原道真や平将
太子に向けて発動することである。天候不順は井上内親王が龍になったという一言い伝えが作用して いると思われるが、では皇太子に祟るというのはなぜだろう。 次の章で述べる早良親王の怨霊も桓武天皇に向けてというより、皇太子である安殿親王に長年祟 っているので、こうした皇位継承争いに敗れ 1 怨霊になった時はま、太子ターゲ。トにして 発動するものらしい。皇太子という立場や身分は皇位継承順位筆頭者でありながら、どこかでその 立場の不安定さがっきまとうものなのだろう。そういう不安定な立場の隙をついて怨霊が襲いかか ってくるのだろうか。 しかし、英明で狩りを好み、言ってみれば文武両道の壮年の山部王が、一転してノイローゼ症状 に陥るというのは、どのようなきっかけが彼の心に急激な変化をもたらしたのだろうか。 近代的合理観で考えれば死後の霊が祟ったり、怨霊が発動するということはない。ただあるとす れば怨霊は人の心の中で作られ発生するものだろう。それは人を不幸な死に追いやったという、負 い目やうしろめたさなどが種となって怨霊という暗い花を咲かせるのではないか。そうなれば山部伊 王は直接手を下していなくても、自分が井上皇后と他戸皇太子を死に追いやって今の皇太子という聖 身分を得たという、うしろめたさが心に巣くっていたとも考えられる。 下政治を確立していく山部王の履歴から推測する親 これ以後桓一 に、決して軟弱な神の持ち主とも思えない彼が、皇太子時代のこ、@'一・、時明に1いをこのような呪上 縛されたような負の精神状態に追い込まれたのかが興味の尽きないところである。
拝と斎王接近が図られたと見るのは穿ちすぎであろうか。 ここにおいて山部皇太子の心の中では「伊勢の神々は死んだ」のであり、天照大神から連綿と続 いた「万世一系」の系図が断ち切れたのである。 我が身に降りかかる井上内親王の怨霊の正体とは、聖武天皇の第一皇女という天武系に繋がる赤 い血であり、皇祖神に仕える伊勢斎王であったという井上内親王の履歴は、天照大神に信仰的に繋 がる白い血でもある。酒人斎王と通じ、彼女を手中にするという行為は即ち、これら二系統の血を 断ちつつ、伊勢斎王の偶像破壊をも果たし、それで改めて自己の支配下のものとして再構成して取 り込むという行為に他ならなかった。 み↑ー ) ~ たく無縁の蕃神の血である。そういう自覚が山部皇太子にあればこそ、伊勢斎王と通じることが、 井上内親王の怨霊を封じる唯一の手段だと考えたのではないか。 伊勢斎王とは皇祖神の「神の嫁」である。ならば山部皇太子自らが皇祖神として、神として臨め ば「神の嫁」斎王と結ばれることに何の不都合もない こういう論理が山部皇太子に働かなかっ ただろうか さわら 次の「早良親王ーのところで詳しく触れるが、即位後の延暦四 ( 七八五 ) 十一月、桓武天皇は / ィー 長岡京の南郊野において、これまでの天皇家にはなか「た っ緬一い伊勢神宮とは一線を凵したある意味では、皇家の宗教改革、 0 想革命をこそうとしたこ